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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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“いのち“の世界は悦びの世界

“いのち“の世界は悦びの世界

砂浜に坐って海を見ていると、波が次々に“ただ”現われては、岸に押し寄せ、やがて消えていきます。

空を見ていると、雲が次々に“ただ”現われ、風に流され、やがて、消えて行きます。

次の日の朝、日が昇り、蝶が舞い、鳥が啼き、風が吹き、雨が降りはじめ、やがて日が山の端に沈んでいきます。星が少しずつ現われて、またたき、やがて月が昇ってきます。

玄関脇の手すりにネコが1匹坐って、僕を待っています。ネコを抱えて家の中に入ると、テレビから誰かが話している声が聞こえてきます。

自分の思考や感情などの思いでさえもどこからともなく”ただ“起こっては、どこかへ消えていきます。
 
すべては思いを超えたところで“ただ”起こっては消えていきます。

“ただ”というのは、「私たちの思いを含みながら、しかも、それを超えたところで」という意味です。

人の一生も波や雲や野の花と同じです。どこからともなく“ただ”現われ、“ただ”変化成長し、やがて、どこへともなく“ただ”消えていきます。

でも、本当は、現われるものも、消えていくものもなく、永遠に続く“いのち“の営みがあるだけです。

通常、私たちは、「これは良い、あれは悪い」、「これは好き、あれは嫌い」、「こうでなければならない、ああであってはいけない」、あるいは、「嬉しい、悲しい、楽しい、苦しい」などと、常にアタマによって分別し、思いによって、この世界を理解したつもりになっているのではないでしょうか。

もし、そうであるとすれば、それはこの世界を半分しか分かっていないのです。なぜなら、それらは、この世界の唯一の存在である“いのち“が”ただ“瞬間瞬間に展開する様子を私たちの思いという分別のレンズを通してみた、いわば、「映像」にすぎないからです。

この世界は、いろいろな思いでどのように分別しようとも、本来、たった一つの“いのち“が刻々に”ただ“展開する姿です。

(と言っても、「思いや分別はよくない」ということではありません。「どのように思っても、思わなくても」という意味です。)

いずれにしても、本来、“いのち“の世界には生まれるものもなく、滅びるものもありません。増えるものも減るものもありません。清いものも汚いものもありません。すべてがそのままで何一つ欠けるものはなく完結した存在です。

“いのち“の世界は無分別の大安心の世界であり、この不生不滅の“いのち“こそ自己の本質、自己の正体です。

太古に“ただ”吹いていた風は、今も変らず“ただ”吹いています。

すべては“ただ”起こっています。

すべては“ただ”移ろいでいます。

すべては思いを超えて、そのままで完結しています。

すべてよし。そこに思いを超えた真の悦びがあります。


いのちの世界では
たのしみの中にも
苦しみのなかにも
悦びがある
        (『無一可』和田重正著 くだかけ社 より) 






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憲法の原点に立つ  その3

憲法の原点に立つ  その3

現在、現政権が強引に推し進めている集団的自衛権の行使容認を柱とする安保関連法案に関して、ほとんどの憲法学者や多くの歴代内閣法制局長が「違憲」であるとしています。

一方、憲法学者や内閣法性局長の中には少数ながら「合憲」であるとの立場を取る方々もいます。

その中のお一人西修・駒大名誉教授は次のようにも言っています。

今の憲法9条は解釈が多くなりすぎた。改正する時に来ている。政府は国連加盟時の原点に立ち戻り、解釈を再構成すべきだ。それができないなら9条に関し、誰が読んでも自衛戦力を持つことができる条項に改めるか、自衛戦力さえ持てない非武装条項に改めるか、二者択一の国民投票を実施することを望む。(2015年6月20日 東京新聞)

僕はこれはなかなか貴重な意見だと思います。

憲法は国の最高法規です。ですから、その時々の為政者の解釈によってその主旨がころころ変ってよいはずがありません。

そういう意味において、憲法の条文は明快であるべきで、こじつけなどでいろいろな意味に曲解されないような表現になっていることが望ましいのは当然です。

そこであらためて現行日本国憲法の第9条を読んでみましょう。

〔日本国憲法 第九条〕   
一 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
二 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


この条文のどこが曖昧なのでしょうか? 

僕にはこの条文は、それがすべて厳密な表現かどうかは別にして、その言わんとする意味は明快すぎるほど明快であるとしか思われません。

9条を素直に読めば、その主旨は「日本は自衛のための戦争を含めて、すべての戦争を放棄する。したがって、一切の武力を保持しない。」ということであることは明らかだと思うのです。

自衛権について言えば、9条が「国際法上、日本には自衛権は当然あるが、武力による自衛権は、あえて、放棄する」と言っているのは明らかです。

もし、「自衛のための戦争は辞さない、自衛のための戦力は保持する」ということであれば、こんなに大切な条項を憲法に書かないということは、どう考えてもありえません。その旨をかならず9条に明記したはずです。

少なくとも、当時の日本の国民の圧倒的多数が9条の条文をそのような意味に理解し、「もう二度と戦争する必要も、戦争に巻き込まれることもないのだ」と心からこの9条を歓迎したことは疑いのない事実です。

以上のことから、現行日本国の憲法9条の意味そのものは実に明快であり、決して曖昧なものではないと僕は考えています。

西修名誉教授のご意見は尊重しますが、時々の為政者が自分たちの都合のよいように、本来主旨が明快である9条を強引にすり替えたり、こじつけたりして解釈してきた姿勢にこそ問題の本質があるのだと思います。

私たちは今こそ現行日本国憲法の原点に立ち戻らなければならないのです。





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憲法の原点に立つ  その2

憲法の原点に立つ  その2

現政権は集団的自衛権行使容認の根拠は最高裁判所の「砂川判決」であると主張しています。

しかしながら、そもそも、砂川判決というのは「憲法下において米軍の日本駐留は認められるかどうか」を問うものであり、一審の「伊達判決」では違憲とされたものが、最高裁の判決では合憲とされたもので、「集団的自衛権の行使が合憲かを問うものではなかったのです。

しかも、集団的自衛権という言葉も、それに言及する文言も最高裁の判決文には見つけることはできません。

また、判決文は「国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認している」としながらも、「同条(日本国憲法第9条)2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として」と延べているに留まり、「自衛のための戦力の保持は認められる」とは言っていないのです。

憲法に関する著名な教科書、たとえば、『立憲主義と日本国憲法(第3版)』高橋和之著(有斐閣・2013年 55ページ)には、「これまで自衛隊の合憲性を争う訴訟がいくつか提起されてきたが、最高裁は一貫して判断を回避しており、今までのところこの問題についての最高裁の判例は存在しない」となっています。

同趣旨の記述は、『日本国憲法論』佐藤幸治著(成文堂 2011年)や『憲法(第3版)』樋口陽一著(創文社 2007年)その他の教科書にもあります。

このように、今日自衛隊の存在は既成の事実となってはいますが、そもそも最高裁でも「自衛隊の存在自体が合憲である」と認められているわけではないのです。

さらに、機密指定を解除されたアメリカ側公文書を日本側の研究者やジャーナリストが分析したことにより、2008年から2013年にかけて新たな事実が次々に判明しました。

たとえば、2008年4月29日の共同通信は次のように報じています。

米軍の旧立川基地の拡張計画に絡む「砂川事件」をめぐり、1959年3月に出された「米軍駐留は憲法違反」との東京地裁判決(伊達判決)に衝撃を受けたマッカーサー駐日米大使(当時、以下同)が、同判決の破棄を狙って藤山愛一郎外相に最高裁への「跳躍上告」を促す外交圧力をかけたり、最高裁長官と密談するなど露骨な介入を行っていたことが29日、機密指定を解除された米公文書から分かった。
「米軍駐留違憲判決」を受け、米政府が破棄へ向けた秘密工作を進めていた真相が初めて明らかになった。内政干渉の疑いが色濃く、当時のいびつな日米関係の内実を示している。最高裁はこの後、審理を行い、同年12月16日に1審判決を破棄、差し戻す判決を下した。

このように、最高裁の砂川判決は非常に公正性を欠いたものであり、その審議そのものが憲法違反だと言えましょう。

以上のことから、現政権の「最高裁の砂川判決を集団的自衛権行使容認の根拠とする」という主張はまったくのこじつけでしかないのです。





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憲法の原点に立つ  その1

憲法の原点に立つ  その1

現代の国家において憲法は国の最高法規であり、絶対的な規範です。

現行日本国憲法の基本的な柱は国民主権の原則と武力によらない平和主義と国際協調主義です。

ですから、国内や国際的な情勢の変化に従来の考え方では対応できないと考えるならば、憲法の条文の解釈を変更するのではなく、国民の多数の賛同を得て、憲法を改正する手続きを踏むことが鉄則です。

現自民党政権は昨年の7月に閣議決定によって、従来は「できない」とされてきた集団的自衛権の行使を「できる」と解釈を変更しました。

なぜ、憲法改正をしようとしなかったのか? たぶん、現政権は現状では、国民の多数が憲法改正に反対しているので、憲法の解釈を変更することによって、集団的自衛権を行使できるようにしようということで、これは、はっきり言って、誤魔化しであり、このこと自体が重大な憲法違反だと思います。

現政権の主導する「アベノミクス」という経済政策に期待を寄せている人たちがいることは理解するとしても、上のような誤魔化しの政策を進めている現政権とその支持政党をそのままにしておくとするならば、それこそ、国際的良識の観点からも、私たち日本国民自身の品位が問われるのではないでしょうか?

僕自身は集団的自衛権の行使容認には反対の立場ですが、そのことの是非はともかく、ここで僕が言おうとしていることは、今や国の最高規範である憲法そのものの尊厳と憲法の根本である国民主権が根底からないがしろにされているということです。

ここで問題の焦点となっている9条を読んでみましょう。

〔日本国憲法 第九条〕   
一 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

二 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


このように、9条を素直に読めば、その主旨は「日本は自衛のための戦争を含めて、すべての戦争を放棄する。したがって、一切の武力を保持しない」ということであることは明らかです。

たしかに、日本国憲法以前に、国際法では国の(個別的および集団的)自衛権が認められています。

けれども、自衛権というのは、文字通り、「国を自衛する権利」ですが、自衛権イコール武力による自衛権ではありません。なぜなら、自衛権には武力によらない(たとえば、外交努力などによる)自衛権もあるからです。

9条は、「日本は憲法以前に自衛権は当然あるが、武力による自衛権は、あえて、放棄する」と言っているのです。

もし、「自衛のための戦争は辞さない、自衛のための戦力は保持する」ということであれば、その旨をかならず9条に明記したはずです。

今日、自衛隊の存在は既成の事実となっていますが、当時、自衛のための武力を保持するために、正々堂々と憲法改正の是非を国民に信を問うことなしに、「9条は自衛のために武力を保持することは禁じていない」という強引な解釈によって、なしくずし的に自衛隊を創設したということ自体が憲法の尊厳と国民主権の原則を犯す憲法違反であり、現在進行中の問題の根源だったと僕は考えています。

補足: 今回のブログはずっと以前に書いたものですが、事情によってアップするのが遅れていました。今夜のテレビ朝日の「ニュースステーション」の中で、憲法学者に対して行われたアンケート調査において、ほとんどの憲法学者が「安保法制は憲法違反だ」と答えていましたが、今回のブログと重なる部分が多いと、大いに意を強くしたしだいです。





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止煙のススメ

止煙のススメ

前回の『これでタバコは止められる』というブログは僕の長年に及ぶ実践研究の、いわば、結晶です。

僕は長年いろんな禁煙法を何回も何回も試みては、結局は、ことごとく失敗しました。そういう意味では、逆説的ですが、僕は「禁煙のプロ」だと言えましょう。

けれども、ある時、タバコの正体に気づいて、タバコをバカバカしいほど簡単に止めることができました。

その体験をもとに、タバコの止め方をどうしたら分かりやすく、また、A4版用紙1枚に収まる短い文章にまとめるまでにはかなりの工夫と時間を要しました。

スモーカーの方はじっくり読んでいただければ、誰でもタバコの正体に気づき、タバコに対する価値観が一変し、僕がそうだったように、バカバカしくてタバコを吸う気にならないという心境になるでしょう。

その上で、きっぱり「タバコをやめる」と決断をすれば、一瞬でタバコを止めることができるでしょう。

さて、僕は前回のブログのタイトルを、はじめは『止煙のススメ』、あるいは、『止煙の自然法』とできればと考えていました。けれども、「止煙」という言葉自体が日本語にはないので諦めました。

「止煙」(しえん)というのは僕が勝手に作った言葉で、「煙草を止めること」という意味です。

「そんな変な言葉よりも、誰にでも分かる『禁煙』と言えばいいじゃないか」と思われる方も多いでしょう。

でも、僕は「タバコを止めること」、つまり、「止煙」という言葉を「禁煙」とはまったく違う意味で使いたいのです。

「禁煙」という言葉は、例えば、「ここでタバコを吸うのを禁じる」というような意味で使われますが、個人に対して使われるときは、「タバコを吸いたい気持ちを意志の力で自ら禁じる」という意味で使われています。

その意味から言っても、禁煙が苦しく、また、難しいのは当然です。

ところが、「止煙」というのは、タバコの正体を見抜いて、「もはや本音でも吸いたい気持ちがないので、意志の力もガマンもなしに、ただタバコを止める」ということです。

つまり、タバコを吸いたい気持ちがないので、吸いたいのを禁じる必要がないのです。

このように、「禁煙」と「止煙」はまったく異なった概念であり、禁煙の延長上にはどこまで行ってもタバコを止めること、つまり、止煙はありえません。

そういう意味で、スモーカーの方々には、禁煙ではなく、ぜひ止煙を目指していただきたいのです。

いずれにしても、「タバコを止める」ことに関して、日本語に「禁煙」という言葉しかないことが、スモーカー、ノンスモーカーを問わず、これまでの私たちのタバコに対する認識が決定的に間違っていたことの証拠であると僕は思うのです。

そういう意味で、できるだけ多くのスモーカーの方々に前回のブログを読んでいただいて、「タバコを止める最も容易な方法はタバコの正体を知り、止煙することである」ということを理解していただければと思います。







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これでタバコは止められる

これでタバコは止められる    

スモーカーはタバコが安らぎや充実感や集中力などいろいろな大切なものを与えてくれる、タバコはこころの支えだという価値観を持ち、そのために、タバコを失ったらどう生きていけばよいのだろうかという恐怖感を持ち、タバコを止めるためにはつらい苦しみに耐えなければならないと思い込んでいます。実際、吸いたい気持ちを意志の力でガマンする、いわゆる、禁煙は非常に難しいのです。それらはすべてスモーカーがタバコの正体を完全に誤解していることに原因があります。

真実は、タバコを吸った時に、もし、リラックスしたとか、充実感、集中力の高まりのようなものを感じたとすれば、すべてタバコを吸ってしばらくして生じるニコチン切れによるストレスと、それによるタバコに対する渇望感を再びタバコを吸って癒しただけにすぎません。

しかも、しばらくすると新たに吸ったタバコのニコチン切れによって再びストレスと渇望感が生じます。そこで、それを解消しようとしてタバコを吸う。この負の連鎖はきっぱりタバコを止めないかぎり、死ぬまで続きます。それだけでなく、その連鎖の中で感じる安堵感は一時的なものであり、しかも、錯覚にすぎません。つまり、タバコを吸ってもいかなるストレスも解消することはできないのであり、タバコが余計なストレスを引き起こすのです。

タバコを吸うという行為は、水の中で苦しい思いをしながら素潜りを続け、いよいよ苦しくなって、思わず水面に浮かび上がり、一息吸ってホッとしたのも束の間、再び自ら苦しい素潜りに戻るという行為を繰り返しているようなものです。

ということは、もともと、タバコは吸う必要はなかったということであり、タバコを吸わなければ、はじめからずっとリラックスできていたのです。もともと、私たちはタバコがなくても、いろいろなストレスにもそれなりに対処できるし、安らぎや集中力などもタバコに与えてもらわなくても、私たちにはもともとはじめから備わっているのです。

それは何よりもノンスモーカーが証明しています。ノンスモーカーはタバコを無性に吸いたくなってイライラ、ソワソワしたり、アタマがタバコのことでいっぱいで仕事に集中できなかったりしません。

このように、スモーカーの抱いているタバコの価値観はすべて幻想であり、タバコなしには楽しく生きてはいけないという恐れはまったく根拠がないのです。また、タバコを止めるのは難しいというのは、タバコの価値観とタバコを失う恐怖感を持ちながらタバコを止めようとするからなのです。タバコの価値観は幻想に過ぎず、タバコを失う恐怖は根拠がないことに気づいて、きっぱりとタバコを止めた場合には、意志の力でガマンする必要もなく、心の葛藤もないので禁断症状も出ず、止めた瞬間から快適なノンスモーカーライフが始まり、ずっと続いていくのです。

それでは、ここまで書いた文章の一つ一つが心から納得できるまでじっくり繰り返し読んでください。そして、タバコにはメリットは一つもないこと、あるのはデメリットだけで、タバコ吸う必要はまったくないこと、そして、もはやタバコを二度と吸いたいという気持ちがないことをはっきり確認してください。そして最後に、「タバコを止める」ときっぱり決断してください。

あなたはもう二度とタバコを吸わなくてよいことを心から喜んで、「タバコを止める」と決断をしましたね。 

おめでとうございます!  すでにあなたは一生幸せなノンスモーカーです。 




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渓声山色  その4

渓声山色  その4

事実と思いは異なります。

事実を思いで捉えたつもりでも、それは単なる事実の像にすぎません。その像は思いによって歪められていることも多く、像はあくまで像であり、事実そのものとは異なります。


60点と20点

100点満点のテストで60点を取ったとします。でも、60点はマイナス40点ではありません。20点と比べて40点だけ優れているわけでもありません。60点は60点であり、20点は20点で過不足はありません。

アタマで作り出した「減点モノサシ」を事実に当てはめようとするから、60点はマイナス40点のように見えるのです。また、アタマで作り出した「優劣モノサシ」を事実に当てはめようとするから、60点は20点より優れている、20点は60点より劣っていると見えるのです。

でも、もともと「減点モノサシ」も「優劣モノサシ」なんか存在していないのです。60点は60点であり、20点は20点で過不足はなく完璧です。


チビ

我が家のチビは眼が見えません。そのため、自分だけではできないことがいろいろとあります。たとえば、トイレにひとりでいけないので、気配を感じたときは、誰かがトイレまで連れていきます。外に出たがるときもかならず誰かが付き添います。

その他にもいろいろと手がかかります。でも、チビはそのままで完璧であり、過不足はありません。僕らもチビの世話をするのを面倒だと感じることもなく、ただ、当たり前に世話をしているだけです。


梨とリンゴ

ある秋のことです。すぐ上の兄が訪ねてきました。早速ちょうど家にあったリンゴを出しました。それを一口かじった兄が「この梨はまずいなぁ」と言いました。

実は、それは梨ではなく、外見は梨に似ていましたが、リンゴだったのです。

そこで、僕が「それはリンゴだよ」といったら、兄が言ったのです。「リンゴかぁ! うまいなぁ!」と。

リンゴはリンゴです。梨は梨です。アタマの思いは味覚までも錯覚するようです。


キノコ

以下はセミナーの参加者の一人が話してくれたことです。

「私はずっとキノコが食べれませんでした。細かく切れば、何とか食べられたのですけど。でも、最近、キノコだとは気がつかずに、キノコを食べちゃったんです。そうしたら、ちゃんと食べられたんです。」

キノコはキノコです。そのキノコはアタマの思いとは無関係に、もともと食べられるものだったのです。


個人的あるいは社会的に問題だと感じることは、ただ、そのような状況があるだけです。すっきりとその事実を受け止め、状況を自分の望むように改変したいと思えば、ただ、すっきり対応していくだけです。イライラする必要はどこにもありません。

それでも、その結果、思いどおりにならなかったら、もともと、物事は思いどおりにならないこともあるのだから、その「思いどおりにならなかった」という事実を、ただ、すっきり受け止めるだけです。

何ごとも事実は事実です。思いどおりにならなかったからと言ってイライラしたり、暗くなる必要がありますか? イライラしたり、暗くなったら思いどおりになるのですか? 

もう自分で自分をイジメるのは止めましょう。

妄念・妄想は自分でぶった切るしかありません。

かけがいのない人生です。

すべてを腹ですっきりと受け止め、爽やかに楽しく生きていきましょう。

そこに決定(けつじょう)したときに、こころから「すべてよし」と言えるでしょう。



渓声便ち是れ広長舌

山色清浄身に非ざることなし

夜来八万四千偈

他日如何人に挙似せん

すべてよし


(渓声山色 おわり)





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渓声山色  その3

渓声山色  その3

これまで『渓声山色』に書いてきたことは、自然現象についてはそうなのかもしれないが、人間個人や人間社会のことは別だ、と考える方もまだいらっしゃるかもしれません。でも、それは、自分の思いにこだわっているからなのです。

例えば、「今の日本はどんどん戦争に向かって進んでいる。それはよくない。だから、すべてよしとは思えない」という方がいらっしゃいます。

でも、そのような自分の“思い“さえも“いのち“のはたらきによって生じているのです。このように、すべては“いのち“のはたらきで生じているのであり、その“いのち“のはたらきそのものを「よし」とするということです。

ここまでの説明をもう少しイメージ的にわかるように、皆さんもご存知だと思いますが、うろ覚えですが、昔、中国で書かれた『西遊記』の一幕をご紹介しましょう。

孫悟空は他の二人の仲間とともに三蔵法師にしたがって、インドまで旅をしていました。悟空は怪力無双、動作も機敏で超能力を使うこともでき、この世界で自分に勝てるものはいないと慢心して、お師匠様である三蔵法師にさえもしょちゅう逆らっていました。

そんな悟空を天から見ていたお釈迦様は、その慢心をいさめようと、悟空の前に現われて、悟空を手のひらに乗せて言いました。

「悟空よ。お前はこの世界で自分が一番強い、なんでもできると思っているようだが、お前はこの手のひらから飛び出て、世界の果てまで行くことができるか?」

「そんなことは朝飯前だ」と答えた悟空はどんな飛行機やロケットよりも早い「キント雲」に乗って、時が経つのも忘れて何日も何日も飛びに跳び、駆けに駆けました。そして、ついに大きな柱が5本立っているところにたどり着きました。

悟空は「やったぁ! この柱が世界の果ての標識に違いない。とうとう世界の果てまで来たぞ。やはり、俺は世界最強、最速だ」と叫びました。

そのとき、「悟空、悟空よ。目を大きく開けて、しっかりまわりを見回してごらん」というお釈迦様の声が聞こえました。

悟空は言われたとおりにまわりを見回してみました。そうしたら、なんということでしょう。自分がまだお釈迦様の手の内にいることに気がついたのです。世界の果ての標識だと思った5本の柱はお釈迦様の手の指だったのです。

悟空ははっと気がつきました。「この世界のすべてはお釈迦様の手の内にあるのだ」と。

その時から、悟空はすっかり慢心が取れて、三蔵法師の忠実で素直な弟子として、三蔵法師に可愛がられ、仲間と仲良く助け合いながら、旅の途中の数々の困難をものともせずに次々と乗り越えて、一同、無事にインドにたどり着くことができました。


お釈迦様を“いのち“と読み替えて、もう一度、このお話を味わっていただきたいと思います。


どうか瞑想の自然法(只管打坐)や自観法を継続的に実践してください。そうすれば、理屈なしに、「すべてよし」という存在の真実を日々実感することができるでしょう。(続く)




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渓声山色  その2

渓声山色  その2

自分、そして、この世界の真実については、前回のブログで説明が尽きており、それ以上なにも言いたいことはありません。

でも、僕が前回書いたことについて、「どうも腹に落ちない」と思われた方もいらっしゃることでしょう。

そこで、これから書くことはあくまで理屈にすぎませんが、少し別の角度から説明してみましょう。

大宇宙や大自然の有り様を観察したり検べると、基本的には、大宇宙や自然はすべてのものが常に変化しながら全体として調和しているということに気がつきます。

「基本的には」と書いたのは、ずっと固定したままで完全に調和しているわけではなく、より完成度の高い調和に向かって、常に進化しているからです。

その進化のはたらきは一貫しており、1点のミスもなく完璧です。

大宇宙や地球や大自然の動きを見ると、例えば、これまでも星が誕生したり、爆発して消滅したり、星雲どうしが衝突したり、小惑星が地球に衝突したり、火山が爆発したり、地震や津波が起こったりしてきました。

こういう出来事は、「調和」という観点から見れば、一種の「乱れと思われるような現象」と言ってもよいのかもしれません。

けれども、そういう「乱れ」が“いのち“のはたらきにより必然的に何度となく起こり、その度に“いのち“のはたらきとしてそれを乗り越える動きが起こって、より完成度の高い調和した、つまり、進化した大宇宙や地球や大自然が形成されてきました。

生物の進化の歴史を見ても、数々の天変地異その他の困難な状況、「乱れ」に直面するごとに、それを乗り越えようとして、生物は現在まで進化を重ねてきました。

また、小宇宙と言われる私たちの身体にも時々「乱れ」が生じますが、身体にはその「乱れ」を自らを整えようとするはたらきがもともと備わっています。

このように、「乱れ」にも、それを乗り越え調整しようとするはたらきにも必然的な意味があるのです。

さらに、別の例で説明してみましょう。

この社会には戦争や対立、飢餓、貧困、差別、地球環境問題など、いろいろな深刻な状況がありますが、これは調和という観点からは「乱れ」と言えるでしょう。

けれども、この場合の「乱れ」も“いのち“のはたらきにより意味があって生じているのです。

そういう「乱れ」があるからこそ、「なんとかしたい」という思いの人たちが現われ、その努力によって、より完成度の高い調和した、より進化した社会が実現していくのです。それは、今日までの人類社会の歴史が事実として証明しています。

個人的な悩みや苦しみ、あるいは、マイナス感情、間違った観念に基づく行いなどについても同じです。そのような「乱れ」があるからこそ、それを無意識にも意識的にも乗り越えようとして、その結果、私たちは精神的にも、生き方としても向上・進歩していくことができるのです。

このように、“いのち“の世界で起きていることには「乱れ」も含めてすべて意味があるのであり、「すべてよし」なのです。(続く)






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渓声山色  その1

渓声山色  その1

昔、宋の国に蘇軾(そしょく)という人がいました。彼はある夜山奥の谷川の水が流れる音を聞いて悟りを開き、その心境を次のような偈(げ・詩)に表しました。

渓声(けいせい)便(すなわ)ち是(これ)広長舌(こうちょうぜつ)
(谷川の音は仏みずからの説法の声であり、)

山色(さんしょく)清浄身(せいじょうしん)に非ざることなし
(山の姿は清浄な仏の身体そのものである。)

夜来(やらい)八万四千偈
(昨夜からずっと聞いている絶えることのない無数の仏の言葉を)

他日如何(いかが)人に挙似(こじ)せん
(後日どのように人に説いたらよいのだろうか)


この詩は略して「渓声広長舌 山色清浄身」といいならわされてきました。

僕はこの詩が大好きです。

山に住んでいる僕は森の小道を散歩するたびに、この詩とまったく同じことを感じ、「そうだ、そうだ」とこころの中で頷いている自分に気がつくのです。

もっとも、僕は仏教徒ではないので、仏という言葉を“いのち“と置き換えて、この詩を理解しています。

目に入る木々の姿、枝が風にそよぐ姿、木々の間から見える空と雲、そこに差し込んでくる日の光、鳥の声などが、ただ起こっています。

「ただ」というのは、すべてが自分の良いとか悪いというような思いを超えた次元で起こっているということです。

「思いを超えた次元」というのは、それらはこの世界の根源である“いのち“そのものの絶対的な現われだということです。

今朝も夜明けに目を覚ましたのですが、外から雨の音が聞こえ、時折、風の音も聞こえます。そこに鳥の鳴き声も聞こえてきます。そのすべてが“いのち“の絶対的な現われです。

僕はそれらの音をただ聞いていたのですが、ときどきいろいろな思いや感情などが脈絡もなく浮かんでは消えていきます。それらの思いも“いのち“の現われです。

つまり、この世界のすべてが“いのち“が展開する思い以前の絶対的な事実であり、だからこそ、自分の「よい悪い」というような思いや感情などを含めて「すべてよし」なのです。

パウロは回心の瞬間、思わず「もはやわれ生きるにあらず。キリストわれの内にて生きるなり」と叫びました。

蘇軾が谷川の水の流れる音を聞いて、自分、そして、この世界の真実の姿に気づいたときの心境もパウロのそれとまったく同じだったのだと僕は思います。

「自分が生きているのではなく、“いのち“がこの自分の内で生きていたのだ。この世界は“いのち“の世界だったのだ」ということに気づけば、自分の思いや感情なども含めて、“いのち“が展開するこの世界のすべてを、自分の思いや感情を越えて全面的に肯定する以外にはありません。

その時、思わず自分のアタマの思いを投げ出して、「すべてよし」という言葉が出てくるのです。

それは「仕方がない」ということでは決してありません。もし、そういう気持ちがあるとすれば、それはまだまだ自分のちっぽけなアタマで、この広大な世界の真実を掴み取れるはずだと錯覚しているからなのです。(続く)





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自覚のセミナー感想文  I さん

自覚のセミナー感想文  I さん

先日は大変お世話になりました。ありがとうございます。

セミナーは濃密でありながらどこかゆるやかで、五日間が長いようで短いような、普段の時間の感覚とは異なる場所にいるようでした。

最終日の朝目覚めた瞬間、心に浮かんだのは「あぁ、人生は楽しいなぁ。」という思いでした。何の曇りもないシンプルなその一言が私のからだに染み渡り、心地よい一日の始まりとなりました。

私は十代の頃から「生きるとは?人生ってなんだろう?」などと考えていました。容易に答えは出ないものの、悩んだりクヨクヨした時にこの大きな問いに身を委ねることは逃げ道であり、救いでした。

又、沢山の本を読み多くのことを知っていれば、日々の不安を乗り越えられる気がして、心がざわざわ波立った時ほど多くの言葉を求めました。そうすれば何かがわかる気がしていたのです。勿論読書は素晴らしいものですが、私の場合大部分は頭でわかった気になっていて、腹には入っていなかったんですね。自宅に戻り本棚を眺めたら、そんな自分の心模様がそっくり表れた本たちが並んでいました。

幼い頃は生きることの不思議にただワクワクしていたのに、何時からかコンプレックスな過剰な自意識が絡み合って、「生きるとは?」という問はなんだか重いものになっていました。

年齢を重ねる毎にいろいろなことを許せるようになり、受け止められるようになってきてはいましたが、整体をはじめ、今回のセミナーを受ける中で、心にずっとあった不安感や思い込みが浮かびあがってきて、自分は本当の奥を見れていなかったのだとわかりました。
だから本や、外側に答えを求め続けても決して満足することがなかったんです。

昇平先生の問いかけは短くシンプルなものでしたが、終始私の中はフル回転で、初日、二日目は頭痛が続きました。時に苦しく、すぐにはスッキリできないこともありましたが、同時にずっとこんな時間を持ちたかったのだと感じました。一つのことをぐっと深める作業は、とても充実していました。

五日間で気付いたことは、自分の悩みが、全て内へと向かっていたということです。クヨクヨした思いを点検すると“自分を守りたい”、“どこか特別な存在でありたい”と、どこまで行っても自分自分自分... これでは行き詰まるのも当然です。自分をかえりみて恥ずかしくなりました。

しかし自分にそんな部分があったと認め、凝り固まったものが外れると視界が一気に広がり、明るくなりました。物事をみる時や人と接する時、心をどんどん開いて行けばいいんだ!とわかった瞬間は、涙が出る程嬉しかったです。絡まった糸がほどけたような、余計なものを脱ぎ捨てたような、軽やかな私がそこにいました。今迄の全てにありがとうと思え、自分のからだがなくなり広がっていくような、初めての感覚に満たされました。素晴らしいセミナーでした。

普段の生活に戻り、物事の受け止めかたが変わったと実感しています。以前より確実にどっしりと落ち着き、向き合うことができています。一方で、ここからが大事なんだと、セミナー終了から日がたつ毎に気を引き締めています。以前の自分が頭につらついてしまうからです。私は整体をはじめてまだ日が浅いですが、今後続けていく中でセミナーでの経験を忘れず、深めていけるよう努力します。

“腹の人”となって強く優しく周りを支えたいですし、もっと自分にもできることがあるとわかったので、実現していきたいです。
誰かの役にたつという気持ちを出発点にした時、不思議と以前よりずっと、これからが楽しみになりました。

セミナー外の時間も、沢山の気付きがありました。
受講した方々とのひとときはとても楽しく、何度笑ったかわかりません。一緒に過ごせたこと、本当に嬉しく思います。そしてお世話役として終日見守っていてくれた方、直接お会いしませんでしたが様々なかたちでセミナーを支えてくださった皆様、ありがとうございました。皆様の心遣いが細部に感じられ、感動いたしました。

そして昇平先生、奈央先生、恵理佳先生、素晴らしい機会をありがとうございました。
これから楽しく元気に、精進してまいります。
よろしくお願いいたします。





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自覚のセミナー感想文  Hさん

自覚のセミナー感想文  Hさん

自覚のセミナーで、自分の内面を深く静かに見つめる事が出来たおかげで、今までどうしても手放せなかった感情を自然に手放せた事がとても衝撃的でした。

これまで内面に目を向けると劣等感や自己嫌悪を感じてしまい、心を閉ざしてしまう事が多かったのですが、自覚のセミナーを受け、 色眼鏡で物事を見ていた事に気付き、それを外してしっかりと見つめ直しす事が出来ました。すると、不思議と自己嫌悪感や劣等感などは全くなく、心がすっきりとして、自然と満ち足りた気持ちが内側から沸き上がってきました。

そこで、今まで自分を縛って苦しめて来たものは、自分の物事に対する見方だったと気付く事が出来ました。
さらに、今まで傲慢に生きて来た事を素直に反省し、周りの人や物に感謝の気持ちを持てるようになりました。
すると自然に涙が溢れてきて、今まで味わった事のないくらい心がすっきりしました。

自覚のセミナーから帰宅し、幼い頃から反発していた母に心から謝罪し、感謝の気持ちを伝えました。すると、母も涙を流しながら謝罪と感謝の言葉を掛けてくれ、とても喜んでくれました。

母とは長い間確執があり、カウンセリングなどで関係改善しようと試みましたが、どこか違和感があり、関係も一時的には良くなるものの時間がたつと元に戻ってしまっていました。なので、もうこのまま修復する事は不可能だろうと諦めていたので、本当に夢のようです。

自覚のセミナーを受けて、頭で感謝や謝罪の気持ちを持たなくてはと思う事と心から納得した事は全く別なのだと思いました。心から納得していると、母に対して怒りや憎しみの気持ち自体が起こらないのです。気持ちが満たされ、自然と素直になれます。さらに、母との関係だけでなく、家族全体が明るくなりました。

怒りや憎しみの感情を手放した事が私のみならず、こんなにも周りの人を変えるおおきな力を持っているのだと実感し、改めて自覚のセミナーは本当に凄いなと思いました。

そして、もうひとつ大切な気付きがありました。それは、より深く自分の内面を見つめて行くと、人やものや物事をバラバラに見ていて、しかしそれは事実ではないと言う事です。先生のおっしゃる通りみんなひとつのいのちだと感じられると、全てが愛おしい気持ちになりました。

バラバラ感が世界中のいろいろな問題を引き起こしていると気付き、みんなが不可分一体だと感じながら生きていけば、確実に平和な世界になると納得出来ました。なので、一人でも多くの人に自覚のセミナーを体験してもらい、平和な世界にしていきたいと思いました。まずは、身近な人に自覚のセミナーを勧めたいと思います。さらに、この事を広く伝えていき、未来に繋げていきたいです。

今までこんなにも深く自分の内面を見つめる事はありませんでした。むしろ、日常生活のいろいろな事に気を取られて、流されて生きていました。しかし、自覚のセミナーで昇平先生が根気強く・個人個人に合ったアプローチをして下さったおかげで、思い込みの壁を乗り越える事が出来たと思います。本当にありがとうございました。

また、恵理佳先生・奈央先生にもいつも温かく見守って下さり、心より感謝致します。さらに、自覚のセミナーを陰で支えてくれた多くの方々や一緒に参加した皆さん、休みをカバーしてくれた職場の方々、そして家族など、全てに感謝の気持ちでいっぱいです。

本当にありがとうございました。






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