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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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今こそ恒久平和を目指して  その3

今こそ恒久平和を目指して  その3

「因果の流れ」というのは「原因があって結果が生じる。さらにその結果を新たな原因として新たな結果が生じる。この連鎖が一部の隙間もなく延々と川の流れのように続いていく」という意味です。

人類社会の歴史を「戦争と平和」という観点から見れば、それはまさに「戦争という因果の流れの歴史」であると言えるでしょう。

「平和」は「戦争のない状態」という意味ですが、二通りの「平和」があります。

一つは「戦争と戦争の間の直接武力をもって戦っていない状態」です。

けれども、この状態は、確かに、武力は使わなくても、経済面その他の面では互いに虚々実々の駆け引きや熾烈な争いが行われており、状況の変化次第ではいつ崩れてしまうかもしれません。

ですから、この状態においては、人々はこころの奥ではいつも「この状態がいつ崩れてしまうかもしれない」という恐れを抱きながら生きており、本当にこころから安らぐことはできません。

ですから、この状態は「一時的な仮の平和」でしかなく、決してそれを「真の平和」と呼ぶことはできません。

「真の平和」というのは、状況や条件によって変わることのない「恒久の絶対的な平和」ということであり、何千年以上に渡る人類の歴史において「真の平和」は未だ達成されていません。

そういう意味で、人類の歴史はまさに「戦争の歴史」そのものなのです。

では、私たちはなぜこれまで「真の平和」を達成できなかったのでしょう。

その根本原因は、多くの人々が存在の真実について「すべての存在はバラバラだ」という間違った認識を持っているということです。

さらには、「真の平和」が何であるかを知らずに、結局、何千年もの間ずっと「戦争の因果の流れ」の中で「一時的な仮の平和」を求め続けてきたからです。

これは、「健康のため、お金のため」と言い聞かせながら、吸いたいタバコを懸命にガマンしている「禁煙」によく似ています。

吸いたい気持ちを持って「ガマンの禁煙」をどんなに続けても、その延長上に、「本当にタバコを止める」ということは存在しません。

それと同じように、「戦争の因果の流れ」の中で、どんなに「平和」を求めようとしても、「一時的な仮の平和」を得ることはあっても、その延長上に「真の平和」は存在しないのです。

「真の平和」を達成するためには、これまでの「戦争の因果の流れ」の外にポンと飛び出るしかありません。

それは、日本が率先して、現行日本国憲法の前文の精神を積極的に生かした人類歴史上初の「平和創造国家」に生まれ変わるということです。

具体的には、あらためて、一切の武力を放棄し、自衛のための戦争も含めて一切の戦争を放棄すること、平和的な手段によって環境問題など世界の深刻な諸問題の解決のために国力を挙げて貢献する「国際環境平和国家」を目指すことを国の内外に高らかに宣言することです。

将来、日本、そして、世界が本当に救われる道はおそらく他にはないだろう、と僕は思います。

*詳しくは、拙著 『国の理想と憲法』 七ツ森書館をお読みいただければ幸いです。

(終わり)




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今こそ恒久平和を目指して  その2

今こそ恒久平和を目指して  その2

太平洋戦争で言葉に尽くせないほどの惨事を生身で体験した圧倒的多数の日本の国民は、「二度と戦争をしたくない、戦争に巻き込まれたくない」という強い気持ちに基づいて、もろ手を挙げて現行日本国憲法を歓迎しました。

現行日本国憲法の草案を作るに当たってGHQの強い指導があったとか、前文の文章が翻訳調であるなどということは、この憲法を受け入れるかどうかという問題の前では、あまりにも些細なことであり、まさに問題外でした。

当時の日本の大多数の国民の気持ちは、ただただ「戦争は嫌だ」という気持ちだけで、現行日本国憲法を素直に受け入れたのですが、それだけに、この憲法の人類史的意義を本能的に感じ取っていたのだと思います。

それは、この憲法によって私たち人類は、それまで歩いてきた「戦争の道」から、歴史上はじめて、「恒久平和への道」に一歩踏み出したということです。

そういう意味で、この現行日本国憲法は人類の歴史に燦然(さんぜん)と輝く、まさに、「人類の宝」です。

ところが、現政権とその支持政党は、閣議決定により憲法の解釈を変更するという姑息なやり方で集団的自衛権の行使をできるとし、こじつけとすり替え論によって強引に安保法案を制定しようとするなど、このかけがいのない人類の宝を、まさに、ドブに捨てようとしています。

これは、何よりも過去の戦争によって多大な苦しみを経験した近隣諸国の多くの人々や当時の日本の国民に対する侮辱以外の何物でもありません。

その原因は現政権やその支持政党の方々の多くが現行日本国憲法の人類史的な意義をまったく理解できていないためだと思われます。

これまでの世界各国の憲法は「その時々のいろいろな国際情勢に対応して、自国をどのようにして武力によって守るか?」という観点から、諸外国との関わり方について立案されてきたと言えるでしょう。

それに対して、現行日本国憲法は、諸外国との関係においては、「武力による状況次第で何時崩れてしまうかもしれない一時的な仮の平和ではなく、平和的な手段による日本の恒久平和、ひいては世界の恒久平和をどのように実現するか?」という観点に立って立案されていると言えるのです。

ところで、どうしても「自主憲法」でなければならないとして、憲法改正を主張する方々もいますが、その意見は、結局、旧態依然とした「国家エゴイズム的憲法」に戻そうとしているだけのようです。

もし、憲法改正を望むとしたら、現行日本国憲法の「脱国家エゴイズム的精神」をより積極的に生かしたものにしたいものです。

それは、自衛のための戦争を含めて一切の戦争を放棄し、平和的な手段によって世界の環境、飢餓,貧困などの深刻な諸問題の解決に国力を挙げて貢献することによって、日本と世界の平和を創造する「国際環境平和国家」を国是とすること、すなわち、「脱国家エゴイズム」をあらためてはっきりと明記することです。

今、私たち日本人は「戦争への道に戻るのか、それとも、あらためて恒久平和の道に力強く踏み出すのか」日本と人類の将来を大きく左右する分岐点に立っていることを自覚しなければならないのです。





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今こそ恒久平和を目指して その1

今こそ恒久平和を目指して その1

一昨日東京郊外の住宅地に小型飛行機が墜落し、3人が死亡、5人が重軽傷、9棟が焼けるという惨事が起きたことは、みなさんもテレビや新聞などによってご存じだと思います。

中でも、住宅に引っ越してきたばかりの30代の女性は預かっていた数頭の犬を助けようとしながら、「熱いよ! 助けて!」と叫びながら焼け死んで行かれたそうです。

その時の彼女の気持ちを想像すると居たたまれない気持ちになるのは僕だけではないと思います。

今回の事故の原因は専門家による究明を待つしかないのでしょうが、もちろん、故意によるものではないとしても、何らかの不注意や過失による人災ではないかと思います。

いずれにしても、このようなことは自分の身だけでなく、だれの身にも絶対に起こってほしくないというのは私たちの共通の素朴な気持ちだと思います。

ところで、地震や津波、台風や水害などの天災はともかくとして、故意による人災の中でもっとも悲惨なものは戦争ではないでしょうか。

ある歴史学者によると、人類の歴史が始まって以来今日まで、この地球上では1日として戦争のなかった日はなかったと言われます。

今でもこの地球上のあちこちで、毎日毎日多くの人たちが戦争という故意の人災によって苦しみ悶えながら死んで行っています。

本当に、何とかできないものでしょうか?

70年以上前の太平洋戦争では日本人だけで300万人以上、アジア全域で2000万人の犠牲者が出ました。

その悲惨さはそれを自ら体験し、身近に見聞きした方々以外にはまったく想像することさえもできないほどのものだと思います。

当時のほとんどの日本人が「もう戦争はこりごりだ」と思ったのではないでしょうか。

だからこそ、現行日本国憲法が発布されたとき圧倒的多数の国民は「これで二度と戦争することも、戦争に巻き込まれることもない」と大喜びで、それを受け入れたのでしょう。

現行日本国憲法については、その後「押しつけ憲法だ」という声もありますが、何よりも大切なことは戦争の悲惨さを直接身近に体験した方々の当時の生の気持ちを尊重することだと思います。

日本語には「のど元過ぎれば、熱さを忘れる」ということわざがあります。

これはモンスーン地帯に位置し、地震の巣とも言われる火山列島に何千年と住み、台風や水害、火山の爆発、地震や津波、気候不順などの天災にしょっちゅう見舞われ、家屋の倒壊や火事、飢饉などに苦しんできた私たちの先祖が「苦しみから少しでも目をそらして、気楽に生きるしかない」という気持ちから生まれた一種の「処世術」だと言えるかもしれません。

けれども、天災は「まあ仕方がない」と言えなくもありませんが、戦争その他の人災については、このことわざは害にはなっても、まったく益することはありません。

私たちは今こそひとり一人の生命の大切さを実感的に確認し、本気で恒久平和への道を切り開いて行かなければならないのではないでしょうか。





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マイナス感情の正体  その2

マイナス感情の正体  その2

たとえば、痛みを感じた場合、その痛みの原因がはっきり分かっている場合には、不安になったり心配になったりしません。

ところが、その痛みの原因が分からなければ、不安になったり心配になってきます。

また、痛みがなかなか治まらず、先の見通しが立たないような時には不安や心配になるでしょう。恐怖感も出てくるかもしれません。

以上のような現象は痛みだけについてではありません。私たちは何かまずいことが起こっているときに、その原因がはっきり分からない時や、将来のことがよく見通せないような場合には、不安感や恐怖感を抱いたり、心配になったりします。

けれども、これらの感情は私たち人間がより安全に生きていくために、何千、何万回と進化を重ねて獲得してきた大切な、「なくてはならない」機能なのです。

僕はこれまでのブログで何回も「すべてよし」と言ってきました。でも、「ストレスや恐怖、不安、心配など、何も感じずに生きていくべきだ」という意味ではありません。

それは、前述のように、ストレスや恐怖、不安、心配などは人間が生きていく上でなくてはならないものだからです。ですから、それらの感情も含めて「すべてよし」なのです。

私たちは大脳が発達したために、想像力や知性によって問題の原因を明らかにしたり、将来のことについても的確に見通すことができることも多々あります。

けれども、想像力や間違った思い込みなどによって、たとえば、「本当は、心配すべきことでも何でもないもの」を「心配だ! 心配だ!」と思って、大騒ぎしたり、真実をゆがめて問題をより歪め、自分自身だけでなく周りの人々まで混乱したり苦しませることも多々あります。

そういう意味で、間違った観念や思い込みに気づくこと、そのうえで知性を正しく使って生きていくことがとても大切なのです。

ですから、たとえば、不安の警報シグナルは、そのままスッと受け止め、「よしきた!」と腹を据えて問題に対処することが大切です。火事で家が燃え始めているのに、いつまでも、「どうしよう。どうしよう」とウロウロ、グズグズして不安がっているようでは、火は消えません。

こんなことでは、とても「すべてよし」とは言えません。

警報システムが鳴った瞬間、事態を把握し、「よしきた」と腹を吸えた瞬間に不安感は消えてなくなります。

必要なことは、「これは注意すべき事態である」という認識だけがアタマに入ればいいのです。あとは事態にただ的確に対処するだけです。

それが僕の言っている「すべてよし」という意味です。

別の角度から言えば、“自分“というのは単なる個としての存在ではありません。自己の本質は、どちらに転んでも天地一杯の“いのち“です。

この存在の真実に気がつき、そこにどっしりと坐って生きてゆけば、何が起ころうと、無条件で「すべてよし。この世界は大安心の世界だ」ということが理屈なしに分かるでしょう。

瞑想の自然法を毎日実践すれば、必ずこの真実を体得できるでしょう。





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マイナス感情の正体  その1

マイナス感情の正体  その1

一般的に、ストレス「望ましくないもの」と、マイナスのイメージで捉える方が多いようですが、果たして、本当にそうなのでしょうか?

生物にとってもっとも重要な目的は「如何にして種として繁栄し、危急存亡に際して生き延びるか」ということです。

その目的をより確かに達成できるように、私たち人間は何千万年、何億年という長い年月をかけて、進化を続け今日に至っています。

ということは、私たち人間に備わっているそれぞれの機能はいずれも私たち人間の繁栄と生き残りにとって「なくてはならないもの」つまり、「望ましいもの」だと言えるのではないでしょうか。

そのような観点から、ストレスとは何かと検べてみると、ストレスは一種の不快な感覚ではありますが、「何かがうまくいっていない」というようなことを、理屈ではなく、体感を通して知らせてくれている、つまり、警報システムのようなもので、私たち人間にはなくてはならないものだということがわかります。

だとすれば、ストレスを感じるときに、その不快感を酒や何か他のもので一時的に紛らわすのではなく、本当にその不快感を解消するためには、ストレスの根本原因を取り除く以外にはないことがわかります。

いずれにしても、ストレスは、本来は、「望ましくないもの」ではなく、「望ましいもの」なのです。

では、恐れや不安や心配などはどうでしょうか? これらも、一般的に、「望ましくないもの」と考えられているのではないでしょうか。

けれども、これらの感情もやはり、その実体は「危険だよ。何かがおかしいよ。気をつけたほうがいいよ」などと知らせてくれる警報システムであり、私たちになくてはならない大切な本能的な機能なのです。

もし、あなたが夜真っ暗な山の中を歩いているときに、突然、藪の中で「ガサッ、ガサッ!」と大きな音がしたにも関わらず、あなたは何も感じなかったらどうでしょうか?

山登りで、高い崖の端のところを歩かなければならないような場合に、何も感じなかったらどうでしょうか?

以上のように、とっさに危険を察知して、恐怖感が本能的に発動するというような場合は、それは「望ましいもの」と言えるでしょう。

誤解されやすいのは、「このままではあぶない!」とはっきりとした根拠や知的な見通しもなしに、意味なく想像を膨らまして、恐怖感や不安感に襲われたり、心配になっている場合です。

けれども、このような場合、「状況についてはっきりとした根拠や知的な見通しもなしに、意味なく想像を膨らます」ことが「望ましくない」のであって、恐怖感や不安感や心配などが「望ましくない」のではありません。これらの感情自体は正常に働いているのです。

このように検べていくと、恐れや不安や心配なども自分自身だけでなく、みんなが安全に、よりよく生きていくために、私たち人間に備わっている「なくてはならない大切な本能(機能)だということがわかります。(続く)





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ロークラ

ロークラ

最近、「ロークラ」という飲み物が流行っているのを知っていますか?

ロークラは味はとてもまずいので、いろいろなものとまぜて飲みます。

依存性が強く、毎日飲まずにはいられないという人もたくさんいます。

毒性も強く、常習的に飲むと、免疫システムや内臓の機能などが大きく損なわれます。

飲むとしばらくすると神経系統が麻痺し、集中力や自信や勇気がなくなり、ストレスを感じるようになります。

平均的常用者は生涯に数百万円以上ロークラに費やします。

ところで、ロークラを飲んでも何の快感を得ることもリラックスすることもできません。

ロークラは何も与えてくれないどころか、大切なこころや健康を奪うのです。


以上がロークラの特徴です。あなたも試してみたいですか?

もちろん、答えは「ノー」ですよね。

あなたは「そんなものを試してみたい人なんかいるはずがない」と思うでしょう。

ところが、世の中にはロークラの常用者が結構多いのです。

「どうしてロークラを飲むんですか?」と訊いてみると、次のような答えが返ってきます。

「ロークラを飲むとストレスが解消し、リラックスできるからだよ。」

「気分が楽しくなる。」

「ハイになれる。」

「元気になる。」

「ロークラは美味しい。」などなど。


それが本当なら、あなたもロークラを飲んでみたいと思うかもしれませんね。

でも、それは全部錯覚であり幻想なのです。

では、ロークラを飲んでいる人たちは、なぜそれらが錯覚であり幻想であることに気がつかないのでしょうか?

はっきり言えば、騙されているからです。

では、誰に騙されているのでしょうか?

直接的には、ロークラに騙されているわけですが、実は、この社会に生きているほとんどすべての人によって騙されているのです。

「えっ? そんな、自分には他人を騙すなんて身に覚えがないよ」とみなさんが言われるでしょう。

でも、「自分にはそんな気がなくても、結果的に他人を騙したことになる」という事例は、この社会にはたくさんあるのです。

たとえば、30年以上前までは、「男はタバコを吸うものだ。タバコを吸わない男なんて普通じゃない」などということが常識だったのです。

みんなそう思い込んでいたのです。もちろん、他人を騙そうなんて気は一つもありませんでした。

でも、みんながそう思っているから、若い人たちが「タバコを吸うのは当然で、当たり前のことだ」と思って、タバコを吸い始めたのです。

そして、その人たちの影響で、また他の人たちがタバコを吸い始める、という悪循環がずっと続いていたのです。

タバコのことはともかく、もうあなたもロークラ(lohocla)が、お酒(alcohol)のことだと気づいているのではないでしょうか。

「でも、お酒もほどほどならいいんじゃないの?」と言われる方も多いでしょう。

でも、それは20階建てのビルの屋上から飛び降りて、「まだ10階だから大丈夫だ」と言っているようなものです。

もう一度、最初に書いたロークラの特徴をよく読み直してください。


タバコやお酒はさておき、幸福な人生を生きようとすれば、何事も「それは常識だ」と決めつけないで、常に「本当はどうか?」と検べる態度ほど大切なことはありません。




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二つの恐れ  その2

二つの恐れ  その2

スモーカーは次のように考えています。

「今日タバコを吸っても、自分が死ぬことは100パーセントないだろう。いや、「絶対にない」と断言してもよい。もし、このままでは体が弱って死ぬかもしれないというような状況になれば、オレは必ず大事にいたる前にタバコを止めるよ。

「いずれタバコを止めるべきだ」ということはオレ自身充分に分かっている。でも、もし今日タバコを止めたら、その瞬間から惨めな思いをしなければならない。ストレスを解消することもできない。仕事にも集中することができなくなってしまい、鬱々と暗い日々を過ごさなければならなくなってしまう。そんなことは絶対に嫌だ。いつかきっと止めるよ。でも、今日明日というのは嫌なんだ。」

ここで、スモーカーが見落としている決定的なことがあります。

それは、「スモーカーがタバコを止める恐れにはまったく根拠がない」ということです。そのためには、タバコの正体に気がつきさえすればよいのです。

タバコを止める恐れがなければ、「タバコを止めたい」という気持ちだけがあるだけですから、タバコを止めるのは実に簡単です。ただ、止めればいいのです。

さらに、「タバコを止める恐れは、タバコを吸うことによって引き起こされている」ということです。それはノンスモーカーが証明しています。ノンスモーカーにはそんな恐れはありません。

スモーカーも、「タバコがそれらの恐れを引き起こしている」ことを知り、「タバコを吸う必要はまったくない」ことをはっきりと確認して、タバコをもう二度と吸わなくてよいことを心から喜んで、きっぱりと止めれば、その恐れも簡単に取り除くことができるのです。

スモーカーは「そのうちに、いずれ止めるつもりだ」と人にも自分自身にも言い訳をしながら、「でも、今日タバコを吸ってもとくに問題が起きるわけではない。だから、今日も吸おう」という日々を重ねていきます。

その結果が悲惨な結果になる可能性は充分にあることはノンスモーカーには実に明らかです。

いや、スモーカー自身、心の奥でそれを感じてはいるのです。その不安があるからこそ、ストレスがたまり、よけいにタバコが吸いたくなるのです。

このように、目を自ら閉じて事実から目を逸らそうという心理的傾向が、タバコだけでなく、その他の個人的な問題や、例えば、原発の再稼動、TPP参加、集団的自衛権の行使、環境問題など社会的な問題を考えるときに、「本当は何が問題なのか?」という問題意識を歪ませ、問題の根本的解決を非常に困難なものにしているのです。

自分自身だけでなく、自分の家族、自分の子どもや孫、子孫のためにも、また、本当にみんなが幸福で、本当に平和な世界を築いていくためにも、こんな愚かで怠惰な生き方を続けて言いはずがありません。

目の前のことだけに目がくらまないように、正しく知性を使って将来までしっかりと見据えて生きることこそが、すべての問題の根本的解決のポイントなのです。






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二つの恐れ  その1

二つの恐れ  その1

今回はタバコを例に、いろいろな問題の解決を難しくしている”恐れ”について考えてみたいと思います。

スモーカーはタバコを吸い続けるうちに、次のように思うようになります。

タバコは健康に悪い。生命までも奪いかねない。お金の出費もバカにならない。いやな臭いで汚らしい。周りの人にも嫌われる。タバコに自分の人生をコントロールされている、などなど。

このように、ノンスモーカーには、そして皮肉なことに、スモーカー自身にとっても、タバコを止めたい理由の方がタバコを止めたくない理由に比べて圧倒的に強力であるように思えます。

ところが、スモーカーがいざ禁煙を試みても、ほとんどの場合、禁煙がとても難しいことを思い知らされます。一時的に成功したと思っても、また、喫煙に戻ってしまう方が多いのです。

それはアタマで考えた「タバコをやめたくない」理由のためというよりも、むしろ、スモーカーの心の中の奥深くにある「タバコを止めることに対する恐れ」に原因があるのです。

事実、スモーカーは心の奥で次のような恐れを感じています。

タバコは人生の支えだ。タバコを失ったら、どうやって生きていけばよいのだろうか。どうすれば、ストレスを解消できるだろうか。タバコを止めたとしても、いつまでもタバコを吸いたいという気持ちに苦しまなければならないのではないか、などなど。(真実は、それは錯覚以外の何物でもないのですが・・・。)
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つまり、このように、スモーカーは、タバコを吸い続ければ、自分自身の大切な健康を冒されかねないなど、タバコを吸うデメリットはメリットをはるかに凌駕することを知りながら、タバコを止める恐れに負けてタバコを吸い続けるのです。

これは、とくにノンスモーカーにとっては、理性的に考えれば考えるほど、奇妙だと思えるのではないでしょうか?

それは、スモーカーのタバコを止めたい理由が、“今の現実の恐れ”ではなく、“未来の可能性としての恐れ“を根拠としているからです。

具体的に説明すれば、たとえば、タバコを吸い続けると、将来健康を損ねるかもしれない。これは“未来の可能性としての恐れ“です。

一方、今すぐにタバコを止めれば、人生の支えを失ってしまう。これは“今の現実の恐れ”です。

「将来もしかしたらそうなるかもしれない」という恐れと「今現実にそうなってしまう」という恐れのどちらが怖いとスモーカーは感じるのでしょうか? 

それは“今の現実の恐れ”です。

そのために、ほとんどのスモーカーは"今の現実の恐れ" が眼前に大きく迫ってくるように錯覚して、逆に、将来起こりうる大きな災難が小さなもののように見えてしまい、それに対する根本的な対策をどこまでも後回しにしてしまっています。

タバコの問題だけではなく、個人的そして社会的諸問題の解決が難しいのは、一つにはここに原因があるのです。





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無分別の分別

無分別の分別

この世界は一つの“いのち“が顕現した世界です。ですから、本来は、それを分ける、つまり、分別することはできないのです。

たしかに、この世界には姿形の異なったものが無数に存在しています。けれども、それらの一つひとつはそれぞれ一時的な仮の姿形にすぎなく、すべてのものが互いに離散・集合しながら循環しているのです。

その中で、例えば、“ただ”波が海から現われては海に消えていきます。“ただ”種から芽が出て、それが成長し、花が咲き、種が地に落ち、やがて枯れて、分解し、全世界に拡散していきます。

人間も同じです。赤ちゃんとしてこの世に現われ、成長し、子を成し、やがて老いて、この世界から消えて行きます。その子どもも孫も子孫もすべて同じです。すべてが“ただ”この世界に現われては消えていきます。

そこには、たった一つの“いのち“の営みがあるだけです。自分のいのち、子どものいのち、孫のいのち、そして、他人のいのちという別々のいのちがあるのではありません。

この世界には本質的に分かれているものは存在しません。この“いのち“の世界は無分別の世界なのです。

ということは、大小も、生死も、個と全体も、自他も、善悪も、所有も、差別も、優劣も、好き嫌いなど、一切の観念がなく、ただ一つの“いのち“があるだけなのです。

そして、その“いのち“という言葉も仮の言葉にすぎません。事実、“いのち“の実体を表す言葉も観念も、そして、名前さえも一切存在しないのです。

“いのち“というのは「空」とも、「心」とも、場合によっては、「神」とも言うことはできるかもしれませんが、どのように呼んでみても、本来、その呼び方には何か意味があるわけではありません。

以上が、大まかに言って、この世界の実体ですが、無分別の世界において、私たちは、現実的には、分別を用いながら生きて行かざるをえないことも存在の真実です。例えはよくないかもしれませんが、「ミソと何とか」を一緒にすることは望ましくないのです。

動物や植物は“ただ”本能にしたがって生きていけば、お互いにそれなりに生を全うすることができます。けれども、私たちは発達した大脳(アタマ)を持っているという特質があるわけですから、本来、無分別の世界において、本能に沿いながら、同時に「分別を正しく働かせながら」生きていくことが絶対的に必要です。

というのは、人間はアタマを持っているために、多くの人が不可分一体の存在の真実を見失って、バラバラ観に立って、優劣、差別、所有など間違った観念を真理、つまり、正しい分別だと思い込み、そのために今日まで、個人的に苦しんだり、周りの人と対立したり、社会的にも戦争や環境破壊などの問題を引き起こしてきたからです。

そういう意味で、無分別の存在の真実を体得すると同時に、自分の観念を根底から検べ直し、間違った観念をそぎ落として、正しく分別を働かせること、すなわち、「無分別の分別」が大切なのです。






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