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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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和田重正先生と“まみず”

和田重正先生と“まみず”

以下の文章は、かつて僕も大変お世話になった柏樹社という出版社の社長であった中山信作さんが恩師和田重正先生の『まみず新書』版のご著書出版に寄せて書かれた文章です。

和田重正先生と“まみず”

本書の著者、和田重正先生は自然が大好きな方です。そして、自然の生命の息ぶきと心を通わすことのできる数少ない人たちのお一人であります。それだけに、日常のご生活においても、「ありのままの自分を生きる」ということが身について誠に親しみ深い方です。

しかし、「ありのままの自分を生きる」ということは、その言葉のようには簡単なことではないことは、私たちのよく実感するところです。先生が青年時代に、「人間とは何か、いかに生きるべきか」との問いを発して、その問いの重さに七転八倒の苦しみをされたのも、言葉にかえていえば、「ありのままの自分を生きる」ことの厳しさ、むづかしさに苦しまれたのだと言えましょう。それに加えて「死の恐怖」(脅迫観念)に悩まされたのですから、そのお苦しみは想像に余りあることです。

生命をかけて求めたこの願い――ありのままの自分を生きたい――を執拗に妨げる小さな自分の「思い」(観念や感情)の葛藤をどうして切ることができるか、苦悶されること十年、ようやく機も熟し、先生はついに「生命の真清水(ましみず)」を掘りあて、真の解放を味わう喜びに恵まれました。

この時先生は、「自分はよい指導者にめぐり会えなかったため、人一倍の苦しみと回り道をせねばならなかった。これからの生涯を自分と同じ悩みに苦しんでいる若い人たちに捧げよう」と決心され、私塾はじめ塾をもうけ、今日まで三十余年、中学、高校生と起居を共にしながら、教育――人間のための教育一筋の道を歩んでこられました。

 本新書の冠名『まみず』とは、先生を真の解放に導いた「生命の真清水」のことです。
(以下略)


僕は20歳のとき、ある日突然「人間とは何か、いかに生きるべきか」との疑問にぶち当たりましたが、答えが出ずに苦悶の日々が続いていました。

 ある時兄の本箱の隅に和田重正先生の『葦かびの萌えいずるごとく』という本を見つけました。

この本を読んだことがきっかけで、和田先生、そして、中山社長にもお会いすることができたのですが、お二人との出会いが僕の人生の方向性に決定的な影響を与えることになりました。

いま自分の人生を振り返ってみると、いつのまにか僕もお二人と同じような志を持って生きてきたのだということに思い至り、人生の出会いの不思議さとその妙を感じずにはいられません。

「存在の真実は体験によってしか捉えられない」というのが僕の持論ですが、僕の「自覚のセミナー」や「瞑想と講話のセミナー」を受講された方には、和田先生のご著書を読むことは知的な理解を深めるために大変有効だと思います。

 現在、柏樹社はなくなってしまいましたが、その流れを汲む「地湧社」や「くだかけ社」から和田先生のご著書が多数出版されています。





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痛み止めの薬は効かない

痛み止めの薬は効かない

頭が痛いとき、痛み止めの薬を飲むと、たしかに、痛みは解消します。

でも、それで本当に痛み止めの薬が効いたと言えるでしょうか?

“痛み“という症状は、頭の中に「何か異常があるよ。気をつけて!」という警報シグナルであり、また、自然治癒力がその異常な箇所に集中するように注意を引き付ける作用であり、同時に、痛みそのものが自然治癒力の表れであると考えられます。

ということは、もし、頭が痛いとき、痛み止めの薬を飲んで、痛みが消えたときに、「これで頭の異常はなくなった。問題はすべて解決した」と考えるとすれば、それは室内で火事が発生して盛んに燃えているときに、廊下で音が鳴り響いている火災警報器のスイッチを消して、警報機の音が止んだから、室内の火災は鎮火した。問題はすべて解決した」と言っているようなものです。

痛み止めの薬で“痛み“の感覚を感じさせないようにしても、痛みが生じた根本の原因が解消して、問題の根本が解決したわけではありません。

必要なことは痛みの症状ではなく、痛みの生じる根本原因を探り当て、その根本原因を取り除くことです。

これは頭の痛みだけでなく、その他の身体的な症状について言えることです。

薬で痛みを感じさせないようにすれば、身体にもともと備わっている免疫系統を中心とする自然健康維持機能が働かなくなったり乱れてしまいます。これは身体にとって大きな障害となります。

なぜなら、自然健康維持機能は私たち人間が何千万年、何億年という進化の過程で獲得した能力であり、私たちが健康に生きていくためにはもっとも重要な機能だからです。

その他のことでも基本的には同じです。たとえば、一般的にストレスは悪いものと考えられがちですが、これは「今のままではマズイよ。気をつけて!」という警報シグナルであり、私たちがより生存しやすいように進化の過程で獲得した重要な機能です。

ですから、ストレスを感じているときに、お酒や精神安定剤などを飲んで感覚を麻痺させて、ストレスを感じなくさせたとしても、ストレスの根本原因が取り除かれないかぎり、ストレスが解消したわけではないのです。

ですから、お酒や薬が切れてくれば、再びストレスを感じ、再びお酒や薬に頼ることになってしまいます。

このように神経系統や感覚を直接いじることを頻繁に繰り返していれば、いずれ身体の自然健康維持機能が大きくダメージを受けてしまいます。

お酒やタバコや精神安定剤を含めて、対症療法では私たちの病気や身体的な異常を治すことはできません。対症療法に頼れば頼るほど、根本的に解決することが難しくなってしまいます。

それは私たちの身体のことだけでなく、その他の個人的あるいは社会的な諸問題の解決についてもまったく同じです。

混迷する現代において、いまこそ“人間個人の自然“、そして、”人間社会の自然“を見直し、それを絶対的に信頼することが重要であると思います。





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なぜ執着するのか

なぜ執着するのか

人の苦しみの原因は仏教では無明、執着、恨みなどのマイナス感情が原因だと言われているようです。

それらの根本原因は同じ一つの思い込みにありますが、今回は「執着」ということに的をしぼって考えてみたいと思います。

『広辞苑』によれば、執着とは「強く心をひかれ、それに捉われること、深く思い込んで忘れられないこと」となっています。

では、私たちはなぜそのような執着に捉われるのでしょうか?

そもそも執着の本質とは何なのでしょうか?

仏教で「諸行無常」と言われるように、この世界のすべてのものは一瞬一瞬移り変っています。にもかかわらず、「この世界のすべてのものは固定して変わらない実体である」と思い込んでいることが執着の根本原因です。

私たちはしばしば自分の思いを事実だと錯覚してしまう傾向があります。

このようなことから、私たちは自分の思いによって事実を自分の思いどおりにできるはずだと思い込んでしまうことが多いのです。

それは、表現は悪いのですが、自分の思いによって事実を「手込め」、つまり、自分の自由に取り押さえようとしているのです。

そこに決定的な錯覚があります。

なぜならば、もともと自分の思いと事実は次元を異にした別のものだからです。

それは、「自分の思いはここにあり、事実はその外にある」という単純な事実に気がつけば、誰にでも容易にわかることです。

この事実に気がつけば、何事につけても執着することがまったく無意味なことが分かるはずです。

「それでも・・・」と言う気持ちが出てくるとすれば、まだ「思いは事実と同じである。事実は思いどおりになるはずだ」という思い込みに捉われているからです。

もしそうであれば、「事実は思いどおりにならないのが当たり前だ」という「事実」を徹見することです。

それは健全な知性を用いれば誰にでも分かることです。

気がつきさえすれば、当たり前のことです。

この世界のすべてのものは移ろいでいます。

そこに気がつけば、執着に起因するすべての苦しみから脱却することができるのです。

自分の思いに引きずられて何かに執着することは、真実を自分の思いで歪めるだけです。

そういう意味では、私たち人間が大脳(アタマ)を持っているということは、他の動物に比べても実にやっかいなことです。

私たちにできることは起きている事実を、それがどんなものであっても、よけいなマイナス感情に捉われることなく「すっきりと受け止める」だけです。

事実を受け止めるためにマイナス感情を抱く必要がありますか?

その上で、もし、状況を自分の望むものに変えたければ、それこそ私たちの知性を健全に使って、ただすっきりと状況に関わっていくだけではないでしょうか?

それでもし、結果が自分の思いどおりにならないとしても、もともと思いと事実は違うのですから、その事実をすっきりと受け入れるだけではないでしょうか?

どこまでも、前進無固定で、風のように爽やかに生きていきたいものです。





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幸福観念

幸福観念

「幸福」あるいは「幸せ」という意味は、『広辞苑』によれば、「心が満ちたりていること、また、その状態」となっています。

私たちは意識的、そして、こころの深いところで無意識的に“本当の幸福”を求めて生きています。

この場合の“本当”という意味は、「条件や状況が変っても絶対に変らない、恒久的な」という意味です。

ところが、多くの方が「幸福とは“幸福感”、あるいは、幸福な気分“のことである」と思っているようです。

もし、そうであるとすれば、私たちは絶対に“本当の幸福”を得ることはできないということになってしまいます。

なぜなら、“幸福感”とは、たとえば、仕事がうまく行ったとか、望みどおりの結婚相手が見つかった、など「自分の望んでいたことが叶(かな)えられた時に感じる満ち足りた気持ち」ということです。

ということは、“幸福感”とは、条件や状況によって変る一時的な、“幸福”だというただのはかない気分にすぎず、それでは、“本当の幸福”とは言えないからです。

別の角度から言えば、「自分の望んでいることが叶えられれば、幸福になれる」というのは、自分が勝手に作り出した観念に過ぎず、存在の真実ではありません。

そして、この幸福に対する観念、“幸福観念”は自分が勝手に作り出した“幸福モノサシ”を基準にして測られます。

たとえば、金銭的に豊かになれば幸福度が上がる」というモノサシ(観念)を持っている人はそのモノサシで自分や他の人の幸福度を測っています。

“幸福モノサシ”はそれこそ人それぞれで、いろいろな種類があります。金銭、健康、社会的地位、足の太さ、目の大きさ、家系、学校の成績、学歴、仕事のやりがい、業績、家族円満、夫婦仲、子ども、家の大きさ、配偶者の職業、自分の職業、などなど。

もちろん、いくつかの要素を組み合わせたモノサシを一人ひとりが勝手に作っているのですが、それに振り回されながら、どうしたらもっと幸せになれるのだろうかとキョロキョロしながら、あるいは、この目標さえ達成できればなどと思いながら生きています。

それでは、かりに自分なりの目標が達成できたとしても、それはいつかは失われるのがこの世の常であり、しかも、それを失ったら不幸になるという思いが根底にあるわけですから、本当に心の底から満ち足りた気分になることさえもできないでしょう。仮に、「自分は心かの底から満足している」と自分では思っていても、それは自己満足にすぎません。

いずれにしても、幸福とは観念ではありません。

幸福とはモノサシで測れるようなものではありません。

では、“本当の幸福”とは何でしょうか?

それは“いまここ”そのものです。

“本当の幸福”はすでに“いまここ”に存在しています。

“いまここ”の“すべてよし”の無条件の事実こそ“本当の幸福”です。

自分自身がそのままで“本当の幸福”なのです。

何も求める必要はないのです。

自分に何か欠けているものがありますか?





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マーくん

マーくん

僕は3歳になるオス猫で、五つ子の一匹です。

生まれて2か月ぐらい経ったときに、お父さんが僕たちに名前を付けてくれました。

僕の名前は「グレイス(Grace)」です。「優雅・気品」という意味だそうです。

少し大きくなって、お父さんに「どうして僕にグレイスという名前を付けたの?」と尋ねたら、お父さんは「君は生まれたときから何となく気品があったからだよ」と言ってくれました。

それで1歳ぐらいまでは、ずっと僕は「グレイス」と呼ばれていました。

ところが、実は、僕は1歳ぐらいになって、たぶん男性ホルモンが旺盛なのだと思うのですが、家の外だけでなく中でもマーキングをするようになってしまいました。

我が家では、ネコサグループの家族は家の中で食事やトイレを済まし、居間でくつろいだり、好きな時に外に出たり、家の中に入ってくることができます。

ところが、僕は夜は家の中のネコ部屋で兄弟たちや仲間たちと寝るのですが、朝起きたらすぐに家の外に出され、食事やトイレも外で済まし、やっと夜になって家の中に入れてもらえるのです。しかも、すぐにネコ部屋に直行させられるのです。

僕はお父さんにも家の人たちにも嫌われているのだと思うようになりました。

家の外で、お父さんが他の仲間を棒やヒモなどでじゃらして遊ばしているときも、僕は嫌われているんだからと思いながら、その横を素通りして、みんながいないところに行って一人で過ごすことが多くなりました。

そうしているうちに、気が付くと僕は「マーク・グレイス(Mark Grace)」という何となく立派そうな名前で呼ばれるようになっていました。

僕はバンビお母さんに「どうして僕の名前が変わったの?」と尋ねたら、バンビお母さんはちょっと困った感じで笑うのですが、答えてはくれませんでした。

それから、10か月ぐらい経った時に、僕が庭のベンチに一人寝ているときに、ふと目を覚ますと、お父さんが僕の頤(あご)を撫ぜてくれていたのです。

その時、最初はドキッとしたのですが、気持ちがとてもいいので、身を任せてそのままじっとしていました。

そして、その時、僕ははっきり分かったのです。

「お父さんは僕のことをずっと可愛がっていてくれてたんだ。僕は誰にも嫌われてなんかいなかったんだ!」

それから、僕はお父さんが家の外に出てくると、すぐに寄っていくようになりました。お父さんは他の仲間と同じように僕を可愛がってくれます。

お父さんの書斎は2階にあるのですが、毎日僕は他の子は知らない秘密の登り口をよじ登って、2階のベランダからお父さんの書斎のところに行きます。

毎回、お父さんはすぐに気が付いて「おお、来たか」と言って部屋の中に入れて、可愛がってくれます。

もちろん、僕はお父さんの書斎ではマーキングなんかしません。

お父さんがいないときには、僕はいつも書斎の前でくつろいで寝ています。

最近、なぜか「マーくん」と呼ばれることが多くなったのですが、結構気に入っています。





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今こそ恒久平和を目指して  その4

今こそ恒久平和を目指して  その4

今日、日本をはじめ、世界の諸問題の深刻さはますます大きくなっており、このまま流れの方向性が変わらなければ、私たち人類は歴史上未曾有の危機に直面する可能性が大きいと思われます。

この日本と世界の危機を回避し根本的に乗り越え、世界の恒久平和を実現するために、僕は一つの提案をしています。

それは、「世界に恒久平和への道筋をつけるために、日本は武力によって国を守り、自国のことだけに専念するのではなく、まず日本が諸外国に先駆けて率先して、平和的な手段によって、世界の環境その他の深刻な諸問題の解決のために、国力を挙げて貢献する国際環境平和国家として、世界になくてはならない国になろう」ということです。

けれども、この提案を実現するための活動については、いくつかのポイントがあります。

その一つは、新たな根本政策に替えるといっても、「今すぐ政治の場で、それを実行しようとするのではない」ということです。

たとえば、この提案は「今ある軍備をすぐに廃止して、非武装中立を宣言しよう」などと言っているのではない、ということです。

それこそ、戦後の冷戦時代以来の因果の流れにより必然が必然を生んで、その結果今日の状況があるのですから、他の状況をそのままにして、突然軍備だけを廃止するということ自体に根本的な無理があるからです。

この提案は、まず、日本が将来的に軍備を必要としない状況を国の内外に創り出そう、そして、そのために、日本という国の目指すべき新しい基本方針として、国際環境平和国家を"目指すこと"を宣言しようというのです。

もう一つは、環境や教育など社会の諸問題を一つひとつ解決することによって、新しい国に変革しようというのでもない、ということです。

なぜなら、国家エゴイズムという従来の国の根本政策をそのままにしておいて、諸問題を根本的に解決することは不可能だからです。

個々人の動きや組織・団体の活動をより確かで力強いものにして、社会の諸問題を解決するためには、そのバックボーンとして、まず、国家の根本姿勢をエゴイズム国家から脱エゴイズム国家へと転換しなければならないのです。
         
日本が国家エゴイズムを棄て、まったく新たな原理に基づく国際環境平和国家が実現するまでには、実際問題として、かなりの期間と大いなる努力が必要とされるでしょう。政治・経済・教育、その他あらゆる分野の制度や仕組みを、新しい国家目標に沿ったものに編成し直すことが必須だからです。

さらに、もう一つのポイントは、日本が国の制度や仕組みを完全に編成し直してから、世界の状況に変化が起きるのではないということです。

すでに日本に「日本は武力に頼らずに、平和的な手段によって世界に貢献する環境平和国家を目指そう」という機運がある程度盛り上がってきた段階で、世界の状況は恒久平和に向けて変化し始めるでしょう。

なぜなら、この世界は本来不可分一体の世界なので、あなたが変われば日本が変わり、日本が変われば世界が変わるのは当然のことだからです。





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人間はか弱い動物か?

人間はか弱い動物か?

現代の社会では、妊娠した女性は出産前と後に、何回も病院に行って検査をしてもらいますが、妊娠や出産がまるで病気のように扱われています。

生まれてきた赤ちゃんも、いろいろな検査を受け、薬を飲ませられたり、必要な(?)処置を施してもらいます。

私たちは生まれたときから、育っていく過程で、いろいろな予防注射を打ってもらわなければならないとされています。

また、風邪や下痢などをはじめとして、身体の具合が悪いときには、すぐに薬を飲んだり、病院に行って処置してもらいます。

このように、現代社会では、私たち人間は薬や医学的な助けがなければ生きてはいけない“か弱くて傷つきやすい存在”だと考えられています。

これは洗脳以外の何ものでもありません。

私たち人間が薬を飲むようになったり、医者に見てもらうようになったのは、人類の歴史的にどんなに長く見積もっても、せいぜいここ数千年の間のことではないでしょうか。

それ以前、私たちの先祖は他の動物たちと同じように、いっさい薬や医者に頼ることなく、この世界で何百万年、何千万年と生き残ると同時に繁栄してきました。

生物にとって、もっとも大切なことは種の繁栄と生き残りです。その目的にそってすべての生命活動が行われ、どんなに困難な状況においてもその目的をより容易に達成できるように、生物は数十億年の間たえず進化を重ねてきました。

ですから、現在この地球上に生きている生物は、現代の発達した科学技術では及びもつかないような素晴らしい性能を備えているのです。

人間の出産は、物々しい近代的な装置や設備に囲まれ、何人もの医者や看護師が手助けする中で、母親自身も“大騒ぎ“のうちに行われます。

それに比べると、野生の動物が出産する場合には、彼女たちは薬も医者も、介護する仲間もなしに、全部自分で楽々と出産し、後始末もさっさと自分で済ませます。我が家のネコたちのお産を観察していても同じです。

ところが、家畜として飼われている牛や馬の出産では、いずれの場合も野性の動物の出産に比べるとかなり大変だそうです。

これはどうしたことでしょうか? おそらく、飼われている牛や馬自体が品種改良や抗生物質などの薬のダメージや、不自然に狭いところで飼われ、運動不足になっているために、身体の自然健康維持能力が大きく低下しているためではないかと思われます。

私たち人間は、本来、野生の動物と同じように、決してか弱い“柔な”存在ではありません。

ところが、薬や医者に頼れば頼るほど、食生活をはじめとした不自然な生活をすればするほど、それだけ私たちの身体にもともと備わっている“自然性”、すなわち、免疫その他の自然健康維持能力が不活発になります。

健康の問題だけではありません。

現代社会において、私たちは個人的にも社会的にも深刻な諸問題によって行き詰まりの危機に直面しています。

私たちはいまこそ「文明の方向性」を根本的に問い直さなければならないのではないでしょうか?






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