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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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気分に引き摺られない

気分に引き摺られない

私たちは日々の生活のなかで、何かを気分としては「やるのはイヤだ」、あるいは、「やりたくない」のだけれども、理性的に考えると「やったほうがよい」、あるいは「やらなければならない」というような状況にたびたび直面します。

皆さんのなかには、何かしなければならないときに、なるべくイヤなことは後回しにして、締め切り直前に慌ててやるというような方がいらっしゃるのではないでしょうか。

このようなことを書き始めたら、僕の小学校時代に、夏休みの宿題をやるのが嫌で、やっと夏休みの終わりの前々日に、しかたなく大急ぎで取り掛かるというようなことを毎年懲りずに繰り返していたことを思い出しました。

いま思い出してもまったくバカバカしいことをしていたものだと思います。

でも、30歳くらいのときに、「(物理的に不可能なことは除いて」自分はいつも自由だ。何でもできる」という真実に気が付いてからは、「イヤだ」というような自分の気分に妨げられることもなく、「やったほうがよい」ことは何でもスイスイとできるようになりました。

それまでは、「イヤだ」という気持ちにどうしても負けてしまい、できるだけいつまでも後回しをしていました。

そのときの気持ちを思い出すと、「イヤだ」という気持ちが実際に自分の自由を束縛する実体のような気がしていました。

それが、「イヤだ」ということと、それを「できない」ということは、それぞれまったく次元が異なる別の物、つまり、まったく無関係だということに気が付いたのです。

考えてみれば当たり前のことでした。

「イヤだ」と思っていても、何でもスイスイできるのです。

それまでは、「イヤだ」から「できない」、あるいは、「できても、グズグズとしかできない」と、「イヤだ」ということと「できない」ということが癒着状態になっていました。

それに付随して、もう一つ気づいたことは、「イヤだ」という気分を相手にしないで、実際にやってみると、ほとんどの場合、いつの間にか「イヤだ」という気持ちがどこかに消えてしまって、「それをやっている」という充実感のようなものを感じていたことです。

要するに、イヤな気分をまともに相手にすることによって、その気分が余計に大きく感じられ、アタマがそれに巻き込まれてしまって、本来、自由であるはずなのに、自由を失ってしまったかのように感じるのではないかと思うのです。

人間はもともと自由なのですが、この真実というか要領を会得してからは、より大きなこころの自由を得ることができたように思います。

「イヤだ」という気分だけでなく、アタマの妄想により自ら作りだしたいろいろなマイナス感情についてもまったく同じです。

こころの絶対的な自由を確認して、ケチな根性や気分や感情に引き摺(ず)られないで生きていくように心掛けたいものです





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花も見えなかった

花も見えなかった

先日、庭の芝生に立って何気なく周りの木々や花を見ているときに、ふと、こころの中から一つの言葉が湧き上がってきました。

「花も見えなかった」。

そして、気づいたのです。

それは僕が20代のときに、ある雑誌の編集者に依頼されて書いた文章のタイトルでした。

『花も見えなかった』

その文章の文面はおぼろげにしか覚えていませんが、今でもおおまかな文意は記憶に残っています。

それを思い出したとき、以来数十年の時の経過に伴う自分自身の心的変化が古い映画のダイジェストを見るように蘇ってきました。

そうです。僕は若かった時には花も見えなかったのです。

自分では見ているつもりでも、見ていなかった、というか、見れていなかったのです。

そのことに気が付いて、あのような文章を書いたのでした。

それまでの自分は、たとえば、一つの花を見ているつもりで、実は、自分でその花に自分で作ったラベルを勝手に貼って、それを通してその花を見て、その花そのものを見ている「つもり」になっていました。

このラベルというのは、その花の名前、姿形、大小、色、新鮮さや古さ、好き嫌い、比較、優劣、珍しさ、購入価格、「花は綺麗なものだ」などという観念、科学的な好奇心や興味、他人の評価や評判などであったりします。

要するに、自分の観念や思いで作りだしたラベルです。

そして、花それぞれにラベルを貼って、それでその花そのものを見ているつもりになっていたのです。

そのことに気づいて以来、花をそのままあるがままに見ることができる、あるいは、花がそのままあるがままに見えるようになりました。

花だけではありません。そのほかのことも同じです。

たとえば、どうしても理不尽としか思えないようなことをしたり言ったりする人がいても、ネガティブな感情が湧いてくることはなくなりました。

ただ、「あっそう」と思い、「その状況にどのように対応していくか?」と考えるだけです。

「あるがまま」という言葉があります。

けれども、自分自身の体験から言えば、自分では事実の世界を「あるがまま」に見ているつもりでも、事実の世界を自分の思いを通して見て、ただ「あるがまま」に見ているつもりになっている方がほとんどではないかと思います。

この事実の世界は私たちの思い以前にあるのです。

その事実の世界を思いを通さずに「あるがままに」見えるときに、そこに真実の世界が見えてくるのです。

それは思いを通して見たものとはまったく異なるものです。

道元禅師は自分が中国で学び悟ったことは「眼横鼻直」ということだけだと言われました。

それは、あるがまま、それだけが真実だ、ということでしょう。

けれども、どんなにあるがままの事実を見ているつもりでも、いろいろな観念や思いを通して見ていれば、それは「あるがまま」ではなく、事実の単なる幻影にすぎません。


さて、あなたは花が見えますか?






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みんなで平和を創りましょう 2の続き

2 なぜ「自覚」か・なぜ「平和」か 2の続き

対象を見、音を聞き分けて生きているわれわれが、その見え、聞こえている相は真実ではない、と知るのは容易なことではありません。容易なことではないけれど、存在の真実のすがたはこの見えているのとは別であり、その方が本当なのだと知らなければなりません。そこにわれわれの生活の足場を換えなければ、近いうちに我ひと共に争いによって滅びてしまうのです。我ひと共に生き延びるのにはそれを見極めて、その存在方式に従うより他ないのだ、と叫びたいのです。

この真実の相とは度々(たびたび)繰り返すようですが、自他一体とでも言うか、個々の間に囲(かこ)いがなく境界線(しきり)のない在り方なのです。

これが間違いなく、正しい人間観であるということはアタマで理解できなくとも誰にでも簡単に体認出来るところです。

不可分一体のすがたを現実に映したのが人々が互いに補い合い扶(たす)け合う相(すがた)です。これを実践してみれば扶(たす)けた人も扶けられた人もみんな楽しくなる。楽しい世界では何が起こるでしょうか。奪い合い、攻め合いは起こりません。それが徹底したらそこが極楽であり天国であり、更にいのちの世界なのです。

自覚とはその世界(くに)にある己れの相(すがた)の確認のことです。夢でも妄想でもない。大げさに言えば金剛不壊の己れ自身とぐるりの世界のすがたの確認のことです。

分断孤立の奪い合いの世界を長年意識して来たわれわれにとって、全く別の相を確認することは難中の難事であります。しかし不可能ではないし、それが出来なければわれわれは次の世界へ進むことが出来ません。次の世界とは、生物界の現象として理解するなら、進化の次の段階のことです。

もし幸いにして、この一歩を進み得たならばそこに新たな世界が拓けます。

その新たな世界を保証し、指し示しているのが、日本国憲法なのであります。

だから、この憲法の指し示す世界は、今まで人類が一度も経験したことのない世界なのです。経験したことはないが、理想として、否、空想として描き続けて来た戦争のない世界です。

この理想郷へ草分けとして真先に踏み込むめぐり合わせになったのが、日本国であり日本国民なのです。これも単なる偶然のめぐり合わせではない。世界の他の大国を見回しても、この憲法前文と第9条を実行し得るに足る具体的条件を具えている国はどこにもないのです。

しかも今日の国際社会では、この歴史の大変化をなし遂(と)げ得るのは、私人や私設団体ではダメなのです。国家という特殊団体でなければならないのです。この点の認識が欠けていては実効ある人類福祉活動は行われません。

今日何億という人々が餓えと病に苦しみ、そして何千何万という人々が死んでいる。その救済にすでに多くの個人や団体がはたらいています。文字通り献身的に活動しています。それはたとえようもなく貴いことです。しかしその活動が苦しむ人々全体にどれだけの助けになっているでしょうか。これは要するに個人の善意だからです。

もし日本一国が、その敗戦によって得た憲法の趣旨を完(まっと)うしようと決意したならば国の内外にどんな変化が起こるでしょう。その起こるべき変化に対して内外に起こる抵抗は想像に難くない、真先に内外の産業界からの反発は必至です。その他政治教育の面からの抵抗も小さくはない筈です。しかしその抵抗は却って推進力としてはたらくこともあり得ます。

ともかく史上稀有(けう)の平和実現の機会を得たわれわれは、何を措いてもこの絶好の機会を生かさなければならないと思うのです。そのための前提条件となるのが各々の自覚です。万物の不可分一体、我も他もいのちの流れに生じた渦巻。一つの渦を描く水と隣の渦とはどんな関わりがあるでしょう。渦は水面に現われた紋様に過ぎません。その紋様を描いた水は次の瞬間には隣に別の紋様を描いているかも知れません。その水をもしいのちだと見たらこの紋様とは一体何でしょう。

私は渦巻のなす一つの紋様としてこの自分を感じながら、無限に大きな拡がりを持つ水そのものとも感じ取っています。その二つの自分のうち自分の実際生活の足場が次第に「紋様」から脱却して「水」の方へ移って来ていることを感じています。それに従って事実身辺は明るくなり平和が満ちて来ています。

この個人的経験は、その質あるいは原理においては、直ちに人間の集団―民族や国家―のあり方に適用することが出来ると思うのです。


無聊(ぶりょう)に苦しんでいる人

お金がなくて苦しんでいる人

家庭内外の不和で苦しんでいる人

病気で苦しんでいる人その苦しみの穴を埋めようとして、そこでもがいてもダメです

一転して自覚に眼を向けよう、そして

日本と世界人類の輝かしい平和のすがたを求めよう

そこにすべての解決の道がある



あとがき

平和の背骨には人々の自覚がなければならない。
 
否、すべての良きことの背後には人々の自覚という泉が湧いているはずだ。平和という最大の良きことの元には人々の自覚が渦巻(うずま)いているのは当然だ。

平和とは争いのないことだから、静かだ、音がない、と思ったら間違いだ。

町のお祭りは平和の中の行事だが滅法賑やかなのが普通である。

平和の中の賑わいほどよいものはない。自覚を得て、賑(にぎ)やかなのが一番よい。病人や年寄りはウルサイと思うだろうが、健常人は賑(にぎ)やかなのを好む。お祭りの笛や太鼓をウルサイと思う者もいるかもしれないが、健康な人は心をそれに合わせて楽しくなるだろう。

健康な楽しみ――それは大きな楽しみだ。

昭和62年9月
                                和 田 重 正





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みんなで平和を創りましょう 2

2 なぜ「自覚」か・なぜ「平和」か その1

この本は「自覚と平和」と題しています。なぜ自覚なのでしょう。その自覚が平和とどのようにつながるのでしょう。

大体のところは今までの文章で、わかっていただけたと思いますが、最後にもう一度その関わり合いを明らかにしておきます。

まず自覚とは何を言うのかというと、むろん、この自分とは何者か、という問いに対する答えを内容とするわけですが、その答えには無数の種類があるわけです。例えば、ヒトという生物中の種(しゅ)の一個体だ、というのもあるし、日本人だ、とか何々会社の社長である、どこの教師である等というのもあります。その無数にある答えのどれも間違いだというわけではありません。

だけど今ここで言う自覚というのはそんな中途半端なことではないのです。この自分と思っているものをトコトンまで追究して行くとどんなことになるでしょうか。まことに名状し難いものになります。それを自分の意識のありように従って表現すると無限の時間空間に行き渡るいのちとなります。このいのちの有様を、(いのちが自らのはからいによって造り出した)、五官を通して見ると個物個体の現象となって見えます。つまりわれわれが五官で捉えるこの世の相(すがた)となります。

このように、人間を含めた諸物が夫々(それぞれ)分断孤立しているすがたをそのままに認めて、そこを出発点として分析や比較や統合などを微に入り細を穿(うが)って行っているのが、科学という人間のはたらきだと思います。そうだとすると科学というものは、事物の実体を究明する頼りになるはたらきのように思えます。

ところがよく考えてみると科学の究明するのは事物の存在の実態とは異なる次元のものでどんなに頑張っても実態には接近することはできないのです。その非実在的現象を支配する法則を活用して発展した科学技術をたくみに駆使して展開した科学文明が、その出発点において矛盾を含んでいることは当然です。

人間に幸せをもたらすために――便利安全快適高能率を得ようとして発展して来た科学文明が、実は人間を滅ぼす要素をその出発のときから取り除き難く持っているわけです。そのことに人間が気づいて来たのが今日の有様ではないでしょうか。

科学文明がその開発の主人公たる人間様を滅ぼすという瀬戸際に来たとき、その予想される悲劇を避ける道があるとすれば、科学的人間観を超えて、実在の人間観に足場を求めなければならないと思うのです。それを従来の言葉の用法に従って表現すれば宗教的人間観ということになりますか。

その二つの人間観の相違点の最大なものは「バラバラ観」と「一体観」です。

バラバラ観では、この世のすべての物は所詮有限です。その中に限りのない欲望を抱いた人間という個体が多数住んでいれば、取り合い、奪い合い、攻め合うのは当然です。そこからは闘争的世界観が生まれるより他ありません。この出発点からは、どんなにゴマカしても平和の実物は絶対に出て来ません。

その根本的矛盾に気づかず、科学的人間観を信じながら人類平和を唱えている集団が世界中に沢山(たくさん)あります。むろん日本にもその類の政治団体があり、かなりな勢力を維持しています。その人たちの人類平和を求むる気持には深い共感を覚えるのですが、出発点の誤謬に気づかなければその願いは空想に終わります。

事実、科学的人間観を足場にして平和を求めようとするソ連という国の示す内外の矛盾のすがたをどう理解するでしょう。あれは方法の拙劣さや指導者の人間性の偏(かたよ)りのせいではありません。その出発点にある人間観の誤謬(ごびゆう)から出たものだと思います。

その誤謬(ごびゆう)を犯さず、人間存在の実相を正しく踏まえて、出発から矛盾を含まぬ人間観の下に人類平和を実現し得る可能性を打ち出したのが日本国憲法です。

これは全く人類始まって以来初めての出来事です。従来の平和に対する発想とはあまりにかけ離れているので、多くの人々はこれを空想か夢かと思って見向きもしません。殊に政治家という現実主義者たちは全く見向きもしないで、昔ながらの武力立国とそれを基にした差し当たりの平和を描き狂奔(きょうほん)しています。

近年あまり聞きませんが、「国家百年の計」ということばを昔よく聞きました。平和の問題はせめて百年ぐらい先も勘定に入れて考えてもらいたい。

アメリカの大統領がニコニコして友だちづき合いしてくれるからと言って三年か五年かせいぜい十年間の〝無戦〟のための国防を考えるなど全く甘いも甘い、話になりません。しかしこの人達は現在国政を握っています。われわれ零細な庶民は今直ちにこれに向かって何等かの行動を採ることはできません。

今われわれに与えられ、そしてわれわれが受け容れた日本国憲法の趣旨を実現するために一人でも多くの日本国民が理解を深めてくれるよう黙々として頑張るより他はありません。(その2に続く)





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みんなで平和を創りましょう 1

みんなで平和を創造(つく)りましょう

(和田重正著 「自覚と平和のプログラム」より)

1 日本国憲法の能動的理解を

ある一人の若い女性が何気なく吐いたことばに私は、「なるほど」と思わされたのです。自分の迂闊(うかつ)さに気づかされたのです。「自覚と平和」のパンフレットを数冊読んで「日本国憲法をこれほど能動的に受け取っている人はあまり知らない」と彼女が呟(つぶや)いたのです。

能動的ということばが適切かどうかは分からないが、ともかく言おうとする意味はわかる。なるほど日本国民の大部分が、この憲法の趣旨を能動的でなく受動的に捉え、積極的でなく消極的に理解しているのだな、と知り得たのです。

どうして自分の訴えに対してこれほど反応が微弱なのだろう、と数年来不思議に思っていたのですが、これで謎が解けたような気がしました。〝趣旨には敢(あ)えて反対はしないが「そういう意味もあるか」と受け流されているのだ〟とはじめて気がついたのです。

それが一般的事実ならば自分の小さな声などどこにも通るわけはない、と諦めなければならないのかも知れません。しかし、まだ絶体絶命ではないと思う。世界情勢と国内政治の変遷はわれわれには予想もかない、何時(いつ)どうなるかわからないものです。このいのちの流れに逆らう日本政府の行動がいつ、どんな形で行き詰まるか誰も予測はできない。

しかし具体的には予測出来なくとも、大きないのちの流れに逆らう行動がいずれ行き詰まって新たな視界が開けて来ることは天地の法則です。その法則に従って日本国家も日本の社会も行き詰まって、そして新たな時代の開顕を見るかも知れない。いや、見るに違いないのです。その転換の時の大きな犠牲を日本国民は覚悟しなければなりませんが、それは止むを得ない。自業自得だからです。

しかし日本国憲法の能動性積極性を少しでも多くの人々が、少しでも早く気づいてくれれば、行き詰まったとき、それだけ速やかに立ち直り、日本本来の平和創設の道に進むことが出来るでしょう。われわれはそれに向かってもう一歩、もう一押しの努力を惜しむことは出来ません。

欧米の事情に詳しい人たちからよく聞かされるのですが、あちらの平和、反戦、反核運動の盛んなのに比べて、原爆被爆の経験のある日本人が何故平和運動にもっと熱が入らないのだろう、と欧米人が不審に思っていると。

その話を聞かされる度(たび)に私はいろいろに思うのです。もしかすると日本人は諦めがいいのかも知れない、とか、お上がなんとかしてくれるだろう、というわけでこの期(ご)に及んでジタバタしないのかも知れない。実際何かの修行をしたえらい人達の中には、核爆弾が破裂して日本がフッ飛ぼうと人類が絶滅しようと、泰然自若としていられると大言壮語する生悟(なまざと)りも沢山います。そういう自分1個のことしか気にならない者はこの際論外なのです。

何億年もかかってようやくヒトにまで進化して来たのに、己れの愚かさの故に、いま滅びてしまうことは、何かに従順ではないような気がします。道があるなら、道を求めて貴重ないのちの発展のために最後まで力いっぱい努力しよう、という方がまともではないでしょうか。

まあ、ヨーロッパもそうですが、日本は、ソ連とアメリカが真向から核のぶつけ合いをはじめたら一番先にフッ飛んでしまう境遇にあります。ところが日本はそれに対抗する、欧米諸国の持たない、特殊条件をもっているのです。その絶滅を未然に、しかも確実に防ぐことの出来る条件を具(そな)えているのです。欧米の如何なる国も持たない、無防備立国、絶対平和立国を宣言する日本国憲法を持っているのです。いや、与えられているのです。

これは、現状では世界のいずれの国も実行不可能な平和の建設を可能にしているのです。戦争防止ではなく、更に一歩進んだ平和の建設を可能にしているのです。

だけど、現在はその事実が多くの人々に正しく受け容れられていない。先に述べたあの若い女性の指摘の通り大部分の日本国民は自分たちの憲法を漠然と文字の羅列(られつ)だと受け取り、その活気みなぎる能動性、積極性を見落としているらしい。

日本国憲法は現大臣や多くの国会議員諸君の理解するような敗戦時の単なる一時的言いのがれではないのです。人類の歴史を大転換させる重要な軸なのです。

あり得ることと思えないが、万一日本の総理大臣が今日眼を見開いて、断固憲法の実施を決意したならば、一時は国の内外に大変動が起こるでしょうが、たちまちのうちに、国際間にも国内にも新たな秩序が生起するでしょう。ともかく、日本国憲法の意味を日本国民の10%でも本気で見直してくれたら、日本も世界もどれだけ変わるか。それを心から願わずにいられないのです。

日本国憲法を見直そう。

憲法は一体何を言おうとしているのだろう。

その文字、でなく、そのこころを深く読みとろう。

現行憲法の個々の条文にはいろいろな問題点があります。しかし今はその一々の問題点を取り上げて論じている時ではありません。この憲法で表明された国家姿勢がどのようなものであるかが問題なのです。それに決着がつき国家の基本姿勢がきまれば一々の条文はそれに沿って整えられるでしょう。それよりもまずこの憲法は何を宣言しているのかを確かめなければならないのです。

○昔ながらの武力立国か。

○独自の丸腰平和立国か。





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平和創造活動 5

調査研究の内容

世界の大国はケンカ支度(じたく)のために莫大なお金と知識と技術と人力を注ぎ込んでいることは周知の通りです。一方、5億もの人々が慢性飢餓状態にあることも周知の事実です。この2つの事実を並べてみて不思議に思わない人があるでしょうか。しかも大国の多くは過去数百年間その餓死線上をさまよっている人々とその祖先の人々を人間とも思わず徹底迫害搾取(さくしゅ)し暴虐(ぼうぎゃく)の限りを尽くして来たのです。

その罪の意識のヘンリンでもあればケンカ支度の一部を割(さ)いて窮民の援助に回しそうなものだと誰しも思うでしょう。ところがそのようなことが行われたという話は聞いたことがありません。これは善良なる一般庶民にとってはむしろ信じ難いほど不思議な事実ではありませんか。

むろんアメリカもソ連もそれぞれに後進国への援助をしていないのではありません。しかしその援助は無条件ではありません。直接間接に何らかの軍事的ないし産業経済的見返りを目当てに行われています。最近日本からの東南アジアヘの援助も直接の軍事目的があるとは言えないでしょうが石油輸送ルートの確保や一種の国際的スタンドプレイというつもりがないとは言えません。過去の侵略に対する償(つぐな)いの意味さえあるかどうか。

困っている隣の人に何か持って行ってあげたいのが人情でしょう。そういう素朴な人情的行動を、国と国との間になると一体何が阻んでいるのでしょう。われわれはまずそこから調べてはばみなければなりません。その妨げとなっているものは援助国、被援助国双方の側にあるのでしょう。それは習慣・制度などの他、道義感あるいは宗教に関する精神的なものの相違であるかも知れません。

その実状調査のためにはこちらから出かけなければならないし、そちら側の国の人々にも来てもらわなければなりません。またアメリカやソ連や西欧諸国などの人々も協力のため馳(は)せ参じてくれるかも知れません。そうなるとこの研究機関所在地附近には世界中の人々が軒を並べて住むことになります。


国内機構の改変

このような他国、他民族への奉仕を最重要国是(こくぜ)として実行しようとすれば、エゴイズムを国是とする従来の国家機構とは全く異なった機構が要求されます。それは現在進行している行政改革などの比ではない大変革になります。政治産業教育に至るまで、その骨組みから変わらなければなりません。ですから、それがどのように行われるべきかをあらかじめ検討しておくことも必要です。

要するに従来行われて来た弊習(へいしゅう)をことごとく改めようというのですから生易しいことではありません。しかし日本国民はこれを成し遂げるだけの能力を具(そな)えていると思います。その準備活動に取りかかったら大変な忙しさになろうかと思いますが、その忙しさこそ(戦争準備の忙しさと違って)日本国民を甦(よみがえ)らせ、若人の眼の輝きを増させることになるでしょう。


戦争の危機を先へ引きずる

国家自身が公式に世界福祉国家を名乗り実行に着手するに至らなくても日本の多くの庶民がこの提案に共鳴し、各々その分に応じた協力をすることになれば(それが実際には、まだ低い段階にあったとしても)世界の平和愛好者たちはこの集団に注目するでしょう。こうして全世界の善良なる庶民が平和国家日本を祝福するようになれば、核爆弾を1万発ずつも構えて恐怖のとりこになっている大国の戦争勢力もおのずから浮き上がって自然衰滅ということになるでしょう。

その方向への動きが目に見える形で始まりさえすれば、なんとか戦争の危機もズルズルと先へ先へと引きずって行くことが出来ると思うのです。


戦争の恐怖がいつ世界から消えるか

しかし大国の戦争勢力の自然衰滅が10年や20年で実現するというわけではありません。今からその方向への動きが具体的に始まったとしても、戦争勢力が無力化し、人類から戦争の懸念(けねん)が全く消滅するのには100年単位で数えるほどの年月を要するでしょう。それは、夢のような話だけれども、あり得ることだと思います。しかもそれはキリストの再来、弥勒(みろく)の下生(げしょう)の予言より数十億年早く実現するでしょう。

でも、そういう遠い未来のことは別として、もしわれわれのこの平和創造活動がはじまり、ある規模(100万人とか200万人?)にまで成長したら、それは核爆弾確保による戦争抑止より遙かに大きな抑止力としてはたらくに違いありません。


間に合うだろうか

このような遠い道を歩んでいては、核爆弾その他の殲滅(せんめつ)兵器を用いる第3次世界大戦勃発(ぼっぱつ)を防ぐのには間に合わないのではないか、という考えも浮かびます。なるほど、間に合うか否かはやってみなければわからないことです。わからないけれども、間に合う、というより、間に合わせることが出来る、という判断をわれわれはもっています。


まず、あなたに訴える

そのために、まずあなた一人が、この平和創造活動は何を提唱しているのかを深く理解して下さるのが一番の早道です。

国家・人類の運命といってもわれわれ一人一人とかけ離れた、手の届かぬ問題ではありません。また、それは誰の問題でもありません。あなた自身の問題であります。あなたが日本を新生し、あなたが人類の破滅を回避するのです。観念を放棄して事実を正観しましょう。あなたがやる、そうすれば、あなたの手の届く新文化創造の道であることがわかるでしょう。


この活動には排他性がありません

前にも挙(あ)げたように、いろいろな集団によって平和運動、反戦運動が行われています。それらはそれぞれ平和と戦争について独自の見方を持っており、独自の方法による独自の道を歩みながら共通の平和確保に向かっているので、それらの運動も活動もみな仲間内の行動であると考えております。どこかの人たちのように平和を口にしながら、主義主張が違うからと言って互いに他を非難し合って分裂したのでは何をしようとしているのかその真意を疑いたくなります。

われわれは、方法が違うから、考え方が異なるからと言って他を白眼視するほど狭量ではありません。

(終わり)





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平和創造活動 4

何故国家でなければならないのか

そこでまず、この変革の先鋒(せんぽう)は何故国家によらなければならないのか、という疑問が起こるかも知れませんが、それは現在の人類社会では国家が主権という絶対権力を持つ特殊な法人格として認められているという事実に基づく発想なのです。(この主権の絶対性は実はタテマエであって実際の扱いはタテマエ通りには行われてはいませんし、近い将来このタテマエも大きく崩れるでしょうが、今日の問題を考えるときにはこのタテマエを勘定に入れておくのが有利だと思うのです。)

実際個人ないし私設集団による福祉行為はその行為者がどんなに純真で熱烈で強力であっても、その効果は限られていて、世界平和を積極的に強化する力にはなり難いのが現実です。アメリカの青年たちによる平和部隊、宗教団体や宗教者個人の献身的奉仕、篤志(とくし)家による医療奉仕などいろいろ涙ぐましい活動が行われています。少し前にはシュワイツァー博士、近くはマザーテレサなど心から尊敬すべき人々のはたらきも国家の行為でないために厳しい制約下に置かれ、その行為はその行為だけのはたらきに限られてしまうのが現実のようです。

世界の恒久平和の実現を願っての福祉活動となるためにはいずれかの国が、国家自身がシュワイツァーであり、マザーテレサであり、インド救癩(らい)の宮崎松記博士でなければならないのです。現在の国際社会では国家主権の活動は私人のそれとは異なった重みを認められているからです。純粋な国家的福祉活動が大々的に行われた例は知りませんが、わが国に関わる政府保証の大開発事業は今までにも数々あります。しかし、それが私企業の採算を見積っての事業であれば相手国の国内事情の変化でひとたまりもなく放棄しなければならないことがあり、双方にとって安定性を著しく欠くことになります。イランの石油、鉄道の開発事業、インドネシアのトウモロコシ栽培、アルミ鉱開発事業など無数の苦い体験例があります。それらは要するに私企業という弱みからくる欠陥の結果でしょう。

日本には青年海外協力隊という半国家的奉仕集団があります。これは大いに拡大されなければならない貴重な活動体だと思いますが、今のところ国策全体の中でみれば、片手間仕事の域を脱していないように見受けられます。しかし、この事業の一画としてわれわれの考える平和創造活動が取り上げられたならば最も効果的であると考えられるし、もし、その可能性がないとしてもこの集団の人々の経験は後に述べられるわれわれの計画を進めるためには最も貴重な資料を提供してくれるに違いないと思います。


どこの国が世界福祉の実行を国家経営の主軸として掲げ得るか

それはいろいろな面で莫大な実力を具(そな)え特殊な条件に恵まれた国でなければなりません。現在エゴイズムを国家経営上の公理とする国家群の中にありながら従来の考えでは非常識と思われるであろうこのことをなし得るのは敗戦国、そして非武装をタテマエとし、知能的に優れた勤勉な国民を1億も擁(よう)する経済大国日本より他にありません。それはまた、世界に類のないお人好しの集団であり、地理的、歴史的条件によって特殊な総合文化を開いた文化消化力抜群の人々の集団でもある無類の国家であります。

そればかりでなく、全人類の自由と福祉のために貢献することによって国の独立を保って行こう、という崇高にして雄々しい決意を表明する成文憲法を持った国は人類の歴史始まって以来他に例がありません。

この前代未聞の栄光に満ちた憲法は決してマッカーサー、天皇、吉田茂、幣原喜重郎その他の如何(いか)なる個人によってももたらされたものではありません。その個人の頭脳や行動を通したかもしれませんが、その源が人類進化を支配する大いなるいのちのはからいにあることは疑う余地のないところです。

また再軍備論者の主張する自主憲法なるものは、一体どのくらいえらい人の発想になる〝自主〟なのだろう。それを主張する人々の我執、傲慢はむしろ嘲笑に値するものではありませんか。


実際問題としては

しかし、実際には武力立国へ向かってここまできてしまった今、直(ただ)ちに国家の実践課題として自衛隊を警察予備隊に戻し、福祉立国を正面に掲げることが出来るでしょうか。周囲の状況がそれを許しません。それより、国政を現在担当する実力集団即ち戦争勢力が健在である限りそれは不可能であります。


迂遠(うえん)な道を

そこで大変遠回りではあるが、実践意欲をもって福祉立国を中心国是(こくぜ)として掲げるに至る前にもう一段の予備段階を設けようというのがわれくの考えなのです。

予備段階とは

世界福祉国家の実現を胸に描きながら、その理想を公に掲揚(けいよう)することを念願する人々によって、平和世界建設の下準備をはじめよう、というのです。そしてその準備のために、まず貧困と病魔に苦しむ人の多くいる国の実状について調査研究をしなければなりません。その調査研究の協力者の集合と組織化が出来ればそれがこの運動の第一歩となります。


予備段階の力

調査研究は確かに予備段階ではありますが、この集団活動がある程度に活発になれば、それだけでも人類は戦争の危険からかなり遠ざかることになります。殊(こと)に防衛力の乏(とぼ)しい日本を他国が侵略する危険性はかなり少なくなります。それはこの活動のあり方が人間集団存在の真実のすがたに合致しているからです。





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平和創造活動 3

何故平和が絶叫され熱禱(ねっとう)されても、それだけでは平和は確保されないのか

各国の戦争勢力を構成する人員の実数はその国の国民総数に比すれば極めて僅少(きんしょう)です。恐らく0.1パーセント以下ではないでしょうか。日本の実際の状況では真に戦争勢力に含まれるのは精々10万にも満たないのかも知れません。それは総人口の0.01パーセント以下ということです。その実数はこのように僅(わず)かですが、その人々は国家社会における実力者ばかりです。経済力を把握し、武力をも支配している実力集団です。

この集団は財力と権力を最大価値と見る人々によって構成されていて、戦争の危険を冒しておかも財力と権力の増大を図ります。この集団には、一般庶民の願望も祈りの心も殆(ほとん)ど作用しません。そのことは内外の過去の歴史が明らかにしているところです。


この戦争勢力を無力化することは出来るだろうか

われわれ庶民が再軍備反対をどんなに唱えても、また軍事予算を削って福祉と教育にまわせばよい、などと叫んでも戦争勢力に油を注ぐことになるだけで、その勢力の猛威を鎮圧することにはなりません。真向から挑戦すれば庶民の心情などは、ひとひねりにひねりつぶされてしまうのがオチです。

そういう効果のないことを焦ってするより、マドロッコシイけれど別次元での工作によって戦争勢力の生気を枯らす方策があればその方が現実的のような気もします。つまり戦争勢力の栄養源となっているわれわれ庶民が、栄養を供給しないことにすればよいと考えられます。ところがこの名案も残念ながら実行不可能であります。


実力者の支配下に生きている庶民

現に大部分の庶民は戦争勢力の支配下で収入を得て生活しているのだから、それを離れたら食えなくなる、という現実があります。それをどう解決するか、というのが問題です。われわれは、食わずに理想に殉(じゅん)ずることは出来ません。そうだとすれば、差し当たり、理想と現実の矛盾に苦しみながら現職に止まるより仕様がありません。現職にありながら理想に向かっての努力を可能な範囲で続けて行くより他ないのだと思います。


理想の下に生きる

そのように実際には不本意ながら戦争勢力培養の栄養を供給することになっていても、もし人々が大きな理想につながって生きていると自覚したとき、その人は苦難や不本意の中にあっても、どんなに生き甲斐を覚えるか知れないと思います。今日多くの庶民は大きな理想につながることなく、仕方なしに目前の小さな欲望の満足を追ってその日その日を送っているのが実状ではありませんか。僅(わず)かの立身出世や金銭的利益を追い、マイホームの中に楽しみと安心を求めて生涯を終わるのが大部分の庶民の生き態ではありませんか。もしその願うところのものざまを思い通りに手に入れたとしても内心の空しさはどうすることも出来ないでしょう。

それに反して、50億の人々と共通の願いと理想を抱き、その実現のために献身しているのだとの自覚を得たならば、どんな苦難の中にあっても人々は大きな安らぎと生き甲斐を覚えるに違いありません。そして人々のその生き甲斐の自覚の集積が平和創造の具体的方法を生ずることになります。

われわれの企てる平和創造の道は単刀直入ではなくむしろ甚(はなは)だ遠回りの現実妥協の道に違いありませんが、この道を一歩でも半歩でも平和確保に向かって着実に歩みさえすれば、この世界とわれわれ自身の崩壊は辛うじて免れることになるに違いないと確信するのです。


平和と福祉

そこでわれわれは平和と福祉という二つのことを絡(から)めてわれわれの願望とし、理想として大衆の前に掲げることは出来ないだろうか、と発想するのです。

どんな形で?

国是――国家の基本的姿勢の定め――として世界人類全般の福祉増進に国力を投ずることによって平和確保を実現しよう、という方針を定める。

この方針を実行するためには、国家のあらゆる活動に大きな変革が加えられなければなりません。これが実現するということは右翼、左翼の企てる△△維新や赤色革命などのような中途半端な変革ではなく、人類が未(いま)だかつて経験したことのない根本的な徹底変革を意味します。


そのような変革が実際に可能なのだろうか

勿論可能です。
人類始まって以来、今日に至って初めてこの変革の可能な時代が到来しつつあるのです。(詳細は別稿『母の時代』地湧社刊に譲るとして)ともかく、科学文明と生存競争必然観・その発生源である孤立分断的人間観――これら一連のことによって人類は今日厳しく生存の危機に立たされています。核兵器、食品公害はじめ各種公害など肉体破滅の惧(おそ)ればかりでなく、同時に青少年の精神の急激な荒廃劣悪矮小(わいしょう)化、生命の連帯感の喪失を指摘しなければなりません。

しかしこの物心両面の行き詰まりは一面、人々の生活に新たな局面の転回を促すことにもなっています。この苦難な道を通って数千年来不可能と考えられて来た大衆の生活革命が可能になって来たと考えられます。


この大変革の実現には条件がある

この未曽有(みぞう)の大変革は特殊な条件を具えた特殊な国家社会においてでなければ起こり得ない。その大変革はまずエゴイズムを国家経営の基本的公理とする国においては、不可能です。その公理を棄(す)てた国だけがこの大変革実現の可能性をもっています。その先駆的役割を担(にな)う国家を中核として世界の全国家群は急激に変貌するでしょう。




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平和創造活動 2

そのすり換えがどうして可能だったのか

先に庶民の無知をよいことにして、と言いましたが、その一つとして、民主的議会制についての国民一般の理解の不足が指摘されなければなりません。

本来議会制度には大きな欠陥があります。その最大のものは前にも挙(あ)げたように、擬制によって真実を曲げ易いということです。政府が何を企(くわだ)てようが、国民は自ら選んだ政党によって造られた内閣のすることだから今更(いまさら)文句の言いようがない、とあきらめることになりますが、この論理にはどこか消化しきれないものを誰でも感ずるでしょう。それは擬制と真実がゴッチャにされているからです。

国政を政治家諸君に委(まか)せたと言っても、国民が主権者としてこれを監視する責任は免れたのではありません。税金をどれだけ取られるか、ぐらいの問題ならば大したことではありませんが、生命も財産も一挙にフイにするかどうかという問題についてばかりでなく、国民の生き甲斐(生存意識)に関する根本問題についてまで委(まか)せっ放しにするわけにはゆきませんし、彼等の言いなりにならなければならない道理はどこにもありません。

と言っても極端な偏向思想集団の考えるように短気を起こして暴力を振るって制度を破壊してでもわが主張を通そうというのではありません。それでは愚の上に更に愚を重ねることになります。さらそうしなくてもわれわれにはまだ憲法に保証された自由権の活用によって平和を防衛する道が残されています。


日本国民の選択

くどくなりますがもう一度確認しておきます。

「平和への努力」か「戦争準備への努力」か。――もっと正確に言えば[平和的手段による平和への努力]をするか、「戦力のバランスによる戦争抑止(よくし)を狙って軍備の拡充をはかる」か。そのいずれをとるか、という自らの生死、存亡に関わる問題について「前者をとろう」とわれわれ日本国民は憲法の前文とその第9条によって言明したのです。そのわれわれ自身の選択したことを現実化するための具体的努力をわれわれはして来なかったのです。それは政治家の問題であってわれわれ庶民の関わり得るところではないと思っていたからです。

しかし気づいてみるとそれは間違いであったし、世界平和の確立に直進する道がわれわれの手にまだ残されていることがわかります。事態がここまであらぬ方へ押し進められて来た今日になってはその修正は極めて困難に違いありません。しかしまだ可能性がなくなったわけではありません。その具体策についての一つの提案をしようというのです。


平和とは何でしょう

まず平和とは何であるかをきめておかなければなりません。
ここでは――「人間同士の奪い合い、殺し合いのない状態のこと」としておきます。

どうしたら平和を持続させられるか

ただ「戦争しない」という消極的態度では長期の平和は保てません。それだけでは、どこかの国から易々と武力侵略を受けるか、利を以って釣られて貪欲(どんよく)な国の属国にされるでしょう。わが国の最有力野党の掲げて来た「非武装中立の宣言」が与党から嘲笑すら受け得ない影のうすいものになっているのはそれが極めて観念的、非現実的であるからです。

平和はそんな甘い態度で長く保てるものではありません。戦争は、国と国と、民族と民族との扶(たす)け合い、補い合いが実行されることによって積極的に防止されます。これはすべての人がいのちにおいて不可分一体であるという人間存在の真実についての理解から出て来る当然の結論です。(詳しくは拙著『もう一つの人間観』地湧社刊参照)


その積極状態が実現されるのにはどうしたらよいか

話が少し遠回りになりますが――完全に定着した平和を得るためには全世界の人々の人間観が正しく変革されなければなりませんが、今すぐにその状態を得るのには釈迦やキリストが100人ずつ束になって出て来ても足りないでしょう。そうだとすると、今われわれ凡人の成し得ることは不完全ながらも、なんとか壊滅的な戦争が起こらないように誠意をつくして工夫するより他ありません。

では、平和確保のために庶民によって現在どんなことが提唱され又は行われているだろうか

例えば――

०世界連邦を実現することによって永久平和を確保しようとする運動
०国連を強化することによって平和を
०社会主義者共産主義者による平和の絶叫
०宗教者による熱禱(ねつとう)
०パグウォッシュ会議、京都会議のような科学者を中心とする人々による核戦争防止の努力も平和運動の一種と見なすことが出来るでしょう。

その他大小様々な集団により、様々な形で平和運動が展開されていると思います。それらはいずれも平和思想の普及徹底に大いに役立っていることは事実であり評価すべきだと思います。殊に核兵器の撤廃を唱える世界的規模の組織造りを提唱する物理学者たちの運動は平和確保のことための突破口としての意義を高く評価しなければなりません。

実際そのような強烈に平和を希求(ききゅう)する思想的基盤がなければ、われわれの企てるこの平和創造の工事も、その土台を欠くことになって一場の夢物語に終わります。

しかし例えば、世界連邦運動をとってみても、世界連邦が実現すればその人たちの言う通り戦争はなくなるでしょうが、世界連邦を実現させる具体的手段が欠けているように思います。つまりこの道には平和の高台に通ずる梯子(はしご)が欠けているのではないかと思われるのです。それを承知してか否かはわかりませんが結果としては、名士参加の善人集団で、自己満足に役立つ社交団体というところに止まるのではないでしょうか。

知識人あるいは国際人の企(くわだ)てる多くの運動も、この世界連邦の人々と共通の、現実認識の誤謬(ごびゆう)があるのではないかと思います。

殆(ほとん)どすべての平和運動はこのいずれかの誤りに固執しています。

また平和を叫び、祈ることは平和の重要さを人々の心に訴え、己(おのれ)の心に確かめるのに有効であるに違いありませんが、叫びや祈りだけでは平和は絶対に確保されません。暴力というものの本質を理解すれば、それは明らかです。叫びや祈りから一歩出て何らかの具体的行動に移らなければ単なる精神運動に止まってしまいます。





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平和創造活動 1

平和創造活動 解説と活動の骨子 

(和田重正著 「自覚と平和のプログラム」より)
   

日本国憲法の人類史上の意味

恒久平和に対する人々の真心からの願いを言葉とし、文字に表した日本国憲法があの時――1946年11月3日――敗戦後のあの時に国会で採択可決されたのでした。われわれは万感胸に迫る熱い涙の中で「よしっやろう」と決意しました。

憲法は国の内外に向かっての基本的政治姿勢の宣言であり誓約なのですが、このようなエゴイズムを超えた立国の根本方針を堂々と成文法の形で言明した国が歴史上一つでもあったでしょうか。

これは単にマッカーサーや連合国などという個人や個人の集合体によって与えられるほど軽い低俗なものではなく、人類進化の途上におけるいのちの大きなはからいによって表現されたものです。それを神の意志と言ってもよい、仏の智恵の催しだと言ってもよいでしょう。ともかく、これだけ思い切った憲法を持った国は他に例を見ません。

この人類史上はじめてみる、真に人間味あふれる大憲法をわれわれ日本国民は採択したのです。しかしその光輝ある未曽有の大憲法をわれわれ日本国民が真面目に実行しようと努力したでしょうか。誰の目にも「否」でしょう。


武力立国――憲法否定への誘惑

戦後歴代のわが国の内閣は、アメリカの軍閥財閥の、おどしと誘いに乗ってその意に従い自国の憲法を横目で見、「戦力なき軍隊」など3歳の童子をも失笑させるような詭弁(きべん)を弄(ろう)して国民の耳目をゴマカしながら武力立国への努力を秘密裡に続けて来ました。そして最近に至っては遂に、対ソ戦略上アメリカとの軍事同盟を公言するほどに図太くなりました。

そればかりでなく、その政治勢力下にある文部省をして、教科書検定制度の強化に伴い、憲法前文の平和立国宣言に関する最重要部分の削除さえ企てていると公表させるに至っています。これは正に憲法の〝外濠(そとぼり)を埋める〟作業にとりかかったことを意味します。

閣僚や国会議員諸君の中には国会の内外で憲法の平和立国思想を非現実的であると言わんばかりに愚弄(ぐろう)する言辞(げんじ)を吐き、国民の目を憲法第9条の魅力から引き離そうと企んでいる者が少ぐなくありません。しかしもっと恐るべきことは、彼等の意図する国民の憲法離れは案外に広く効を奏しているのが事実のように見受けられることです。

実際に国会の内外で論じられる改憲論や軍備拡充論を聞いていると、「これは押しつけられた憲法だ」とか「安保ただ乗りは虫がよすぎる」というアメリカ世論を受けて「独立国は自らの手で国を護らなければならない」などともっともらしい意見や主張が出されるので、それをボンヤリ聞いている一般国民は「そう言えばそうだなあ」と思ってしまいます。そして現憲法の骨髄である「もう戦争は絶対にしません」というわれわれの決意の現実性に疑問を抱かせることになります。


あの敗戦の教訓を無駄にしてよいだろうか

しかしその手に乗ったら、300余万人と言われる人命と全産業施設の犠牲と引き換えに与えられた戦争否定の教訓を、むざむざと無駄にしてしまうのです。戦争犠牲に関して言うならば、靖国神社を国家が祀るかどうか、大臣たちが参拝するかどうか、などは末の末の問題です。それより戦争を必要だとする迷妄(めいもう)から人類が脱却するか否かの方が根本的な重大問題なのです。その点について言えば野党の諸君の問題意識も与党の諸君と同じレベルに低迷していると言わねばなりません。
それはさておき……。


問題のすり換え

彼等は故意にか無意識でか、問題の所在を巧(たく)みにすり換えているのです――。「捨身の決意で、平和的手段によって世界の平和と繁栄に貢献する努力をしよう。それには具体的にどのような方策をとるべきか」これが敗戦日本の与えられ且(か)つ自ら選び取った課題であったはずです。

それを朝鮮戦争以後アメリカの戦争勢力(即ち軍部並びに産業界経済界の勢力)に迎合するわが国の実力者集団は国民の無知をよいことにして、論議の課題をすり換えてしまったのです。そして訪米した首相をして、大統領との会見に際して、日本が西側の一員として対ソ戦列に加わることを言明し、日米の軍事同盟を確認するところまで大胆にならせました。

改憲論者は「独立国は自らの軍備によって国の独立を守るべきだ」とか「これは押しつけられた憲法だ」などと論議の焦点を勝手なところへ持って来て国民の目をゴマカしてきたのです。議論を「独立国は……」から始めてはズルイのです。それでは日本を元のエゴイズム国家の列に後戻りさせ、それを既定の事実とした上での議論になってしまいます。現憲法制定前のエゴイズム国家ならば「独立国は……」から始まってもよいが、日本国憲法は、そのエゴイズム国家の公理を捨てているのです。

また彼等は「押しつけ憲法」を廃して自主憲法を持たなければ独立国の面目が立たない、などと称して憲法前文と第9条の廃止を企てているのですが、これほど危険な暴言が文化国家で聞かれるとは驚くべきことです。

憲法制定の時の事情を理由に憲法の改廃が行われるものなら、成文の憲法があっても無きに等しい、専制政治を認めることになります。これほどの暴言に対して、一般庶民はいざ知らず憲法学者さえこれを的確に指摘する者がいない、とはまことに不思議な文化国家だと呆れさせあきられます。われわれ庶民はここでもう一度眼を開いて、平和を念願する自分の本心を取り戻し、確認し直さなければなりません。





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平和創造活動について

平和創造活動について

皆様に私たちの平和創造活動をより深く理解していただくために、次回から10回ほどに分けて、その提唱者である和田重正先生が昭和56年(1981年)に『自覚と平和のプログラム』シリーズ10巻として発行されました中から、『平和創造活動 解説と活動の骨子』と『みんなで平和を創造(つく)りましょう』を掲載します。

ただ、これらの文章をお読みいただくうえで、この文章が書かれた当時はまだ世界が米ソを互いに頭として、日本を含め諸国が西側、東側と両陣営に分かれ、人類を数十回も繰り返し皆殺しできるほどの核兵器を擁して対峙し、まさに人類がまかり間違えれば、絶滅するかもしれないという危機的状況の下にあったことを念頭においてお読みいただければと思います。

その後東西の冷戦体制が終わり、今日、人類の絶滅の可能性については、さすがに緊迫度はかなり少なくなったのではないかと思われます

けれども、地球規模の環境破壊や原発事故の可能性、世界のあちこちで勃発している戦争やテロなどを考えるときに、冷戦の終結で人類社会の歴史の流れが変わったわけではなく、このままでは人類社会はいずれ絶滅、あるいは、未曾有の大惨事に遭遇する可能性があるのではないかと思うのです。

そういう意味で、今日和田重正先生が提唱された平和創造活動が以前に増して重要になってきたと感じています。


なお、ここに述べた和田先生の文章は『自覚と平和――国家エゴイズムを超えて』和田重正著 くだかけ社 1987年発行 にも納められています。

この『自覚と平和』は現在では絶版となっていますが、

ウエブサイト「和田重正に学ぶ会」  wadashigemasa.com  に

PDFファイルとしてアップされていますので、興味のある方はぜひ全編を通してをお読みいただければと思います。

他にも、和田重正先生が書かれた名著『葦かびの萌えいずるごとく』や写真やビデオなど貴重な資料、そして、年4回発行の「和田重正に学ぶ会の機関誌『ここに帰る』がPDFファイルでアップされていますので、ご堪能いただけるものと思います。

なお、ウエブサイト「和田重正に学ぶ会」はこのブログのリンク先の一つですので、画面左の「リンク」の中の「和田重正に学ぶ会」をクリックしても訪問することができます。





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