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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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ある目覚めの体験  その2

ある目覚めの体験  その2
   (その1からの続き)
おとなになる

また、小さいときから私は「感謝せよ」とうるさく教えられました。特に食物の不平を言ったり、小遣の少いのに憤慨すると、父は感謝の念のないものは人間ではない、と感謝の大切なことを諄々と説いてくれました。

しかし私はどうしても感謝の念は出て来ません。与えられたものに対して感謝すべきであることも、感謝の念の大切なことも頭では理解できますし、感謝の心から多くのよいものが出て来ることも想像がついていました。だから自分でも、どんなに感謝の念を起したいと希っていたかしれません。時には感謝の言葉と形を真似てみたこともありました。それでも少しも実感が伴わず、まことに不愉快なものでした。

私の父は不肖の子のために随分泣かされたことでしょうが、それでもどうにかしてこの子を救ってやろうと日夜心を砕いていてくれることを私は知っていました。

「母のない子だから母親の分までもと心を配っているのに」という父の言葉は、それが真実であるだけに、私の心に強い自責の念を起させました。

それにも拘らず、私は父に対してどうしても感謝の気持が起りませんでした。われながら不思議な気がしたものです。起そうとしても起らぬ感謝の念を起せ、と要求する父に対して、かえって反抗的になりました。

父はむろん、自分に対して感謝せよ、と言っているのではありません。すべて与えられたものを通して、神さまに感謝しなさいというのですが、私はどうしてもその気になれなかったのです。

ところが三日問も泣いているうちに一切のものに対していくら感謝してもしきれない、詫びても詫びきれない気持になっているのには驚きました。

しかもそれが、神さまに対してでも、仏さまに対してでもないのです。むしろ、自分がこのようないのちの世界に、このようにある、という事実に対するありがたさと、それを知らずに勝手に目茶苦茶なことをしてきたことに対する悔恨の念だというのが事実に近いかもしれません。

それから、今までは愛されたい、理解されたいとそれのみ求めていました。ところが物質を貪るのが間違いであるのと同じく、愛や理解を他に求めることは心を貪ることで、それも、間違いであることを知りました。物でも心でも欲張ることはどんなに愚かしいことであるかをこのときはじめて知りました。

また、それまでは淋しい淋しいと自分の淋しさばかりみつめて、他から愛されることばかり求めていましたが、眼を放ってみれば淋しいのは自分ばかりではない。すべての人は皆同じように淋しいのである。だから人間は誰も彼も自分のように愛と理解に飢えているに違いない。

お互い限りなく淋しい人間同志が、もし少しでも慰め合えたならどんなに幸せだろう。飢え渇く砂漠の旅行者のために自分がもし一滴の水となり得るならば、どんなに幸せなことだろうと思いました。

そう思うと、淋しさは忽ち変じて明るい希望となり喜びとなりました。淋しさの故に、人を愛することができる。なんという有難いことでしょう。

淋しいといえば父も淋しい人である。気の毒な人である。神や仏ではない、弱い欠点だらけの当り前の人にすぎない。それを、自分は神に求むる如くに父に完全を求め、これを責めてきた。

父ばかりではなく、先生やその他一般の大人に対しても同じであった。しかもその求むるところは自分の我儘な欲望の満足である。我欲に屁理屈をつけて正しいものとして強要したのである。

他を責める資格が自分のどこにあるか。己れの愚痴と食欲によって自らを餓鬼畜生道に堕としていたのではないか。

父をはじめすべての人は、皆一個の人間としてそれぞれどうにもならぬ欠点を持ちながら淋しい人生を精いっぱい生きているのだ。それらの人々をどうして心から愛さずにいられようか、と強く強く胸に迫って思いました。

このとき私は、はじめて独立の一個の人間-大人になったのだと思います。

この他、無数のことをこの三日間に思ったのですが後で考えてみると、このときに私の心の向きが真反対に変ったようです。有無、確不確、損得。いろいろの感じ方や考え方が完全に反対になってしまいました。

このことがあったのは昭和九年四月二日でしたが、この日を境にして、私の日常生活もすっかり変りました。

勿論変ったといっても急に神の如くに立派な生活になったというのではありません。ただ方向が逆転したというだけです。――自分のために、自分の力で、すべて自分を中心として生きてきたのが、こんどは自分の力やはからいでなく、すべてこの世界に満ち満ちている愛と知恵に生かされて生きることになってしまいました。

そしてこの変化は実際生活の上では世のため、人のためという意識となって表われることになりました。丁度東行きの汽車から西行きの汽車に乗り換えたようなものです。東行きの汽車に乗っていれば、汽車の中でいくら西に向って歩いても東へ行ってしまいますが、西行きに乗り換えたらその中でどちらに向いて歩いても結局西へ行ってしまうようなものです。

ともかく、その後愚かなことや、欲張ったことを繰り返しては、つまづいてきましたが、でもつまづいても迷い込んでも気がつけば立戻れる根拠地が与えられたことは幸いでした。
(以下省略)

『よい学校』 和田重正著 柏樹社刊 より抜粋

なお、和田重正先生について詳しく知りたい方は、まずHP「和田重正に学ぶ会」を訪ねてみてください。

また、先生の御著書を読んでみたいという方は、「amazon」などのインターネット書店で「和田重正」で検索してみてください。





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ある目覚めの体験  その1

ある目覚めの体験  その1

以下は、僕の恩師和田重正先生が10代のある日突然、「自分とは何か」「自分はどう生きるべきか」という人生の一大命題に直面し、10年間その答えを求めて日々苦悶格闘した結果、ついにその答えを見つけることは不可能だと見極め、絶望のあまり、劇薬を飲んで自殺しようとしたまさにその瞬間に、存在の真実に目覚めた体験を記した貴重な記録です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

四月二日正午のことです。将に服もうとするとき、日頃口をきいたこともない女中が廊下伝いに急ぎ足で私の部屋にやってきて、障子を細く開けて言いました。

「ごらんなさいませ。もうこんなに咲き始めました」

その張りのある明るい声に誘われて、私は何気なく振り向きました。女中の差し出して示す桃の小枝にはポッとまさに開こうとする桃色の蕾がついています。

それを見たときの私の驚きようは、ただ目を見張るばかりでした。そして心中にはこんな叫びが渦巻いて起りました――、「みんな間違いだ。今まで見たり考えたりしたことは悉く夢だったのだ。コレが本当なのだ。真実なのはコレなのだ」

この驚きや叫びと同時に明るい世界に生まれ出たような気がしました。予期しない、あまりに急激な世界の変貌のために、暫しは呆然としましたが、「まてまて、これも瞬間の夢ではないか」と思いましたので、驚いてなおそこに立ちつくしている女中を去らせ、独り正坐して静かに瞑目しました。

――生け垣の外を子どもが歌って通ります。庭の植込みで小鳥が啼いています。時々、遠くを走る省線電車の音が伝わってきます。五秒ぐらいだったか、それとも二、三十分も経ったかわかりません。「よし!」という気がするので、それでも恐る恐る目を開けてみました。後戻りしていません。急に腹の底から大きな笑いが押し上げて来ましたが、辛うじて爆発を抑えました。

久しぶりに障子をあけて庭を眺めました。桜も松も生きています。門の外へも出て見ました。森も小川も雲も大地も、春の麗かな光の中にいのちのよろこびに燃え上がっています。

このとき、私は生まれてはじめて天に向って合掌しました。思慮も分別もなしにただ合掌したのでした。

実にこの世界は生きた世界である。今までの世界は生きていない世界だった。あの世界はバラバラのものの寄り集まりの世界だった。この世界は一の世界である。あの世界の質は極度に粗い。この世界は精妙微妙を極めている。この世界の景色はあの世界の言葉では言い表わすことができない。

これが実物ならばあれは影絵にすぎない。要するにこの世界は光と、もえるいのちの活々とした行き詰りのない世界でありました。しかもそれこそ己れの本来の住居だったのです。

(中略)

光とか知恵とか、ともかく生かす力として働く、あらゆるよきものに満たされた世界にいる自分を見て「愛されている」と思いました。そして更に、この世界の実質が「愛」というものであろうと思いました。

愛の世界においては、自分の小さな力によるもがきやはからいには拘りなく、すべての事物がありのままに、しかし必然性をもって存在し展開しているのだと知りました。

自分はありのままを求めて彼岸に到ろうとして濁流を泳いでいたのでした。そして力尽き果てて濁流の底に巻き込まれたと観念したとき、濁流と思ったのは実は自分を支え生かしてくれるいのちの流れ、光の大河であったことに気づいたのでした。

それと同時に何か大きな意志のようなものを感ぜずにいられませんでした。すべてを生かさずにおかない意力とでもいうようなものでした。その量り知れない大きなカに生かされている自分を見たとき、今まで求めていた人生の意義など、もしそんなものがあるとしても、それはわれわれの理解を遙かに超えたものであることが分りました。

もしわれわれがたとえ自分の頭で納得できる人生観を描き得たとしても、それはただ自己満足をかち得たにすぎず、真実の自分の人生に何のプラスにもなり得るものではないことを知りました。

私はただただ、この量り知れない大きないのちの流れの中で、大きな意力にはからわれて生きるだけである。

それがすべてである。その他に自らはからって加えるべき何物があるだろうか。生きようとする一切の努力ともがきを停止しても、まだ生きている自分。一切の理解を抛棄してもなお明らかに認め得る活々としたこの世界のすがた。

ともかく、自分を含めたすべてのものが、無限の愛と知恵に護られ導かれていることを知ったとき、今まで押し潰されそうな重圧を感じていた「人生」という重荷が消えてなくなって、自分の体さえ春風に溶け去ってしまったように軽やかに爽やかになっていました。

今までは、自分でどうかしなければよくなれないと思って力んでいたのでした。自分の判断と意志のカで悪い生活をやめようとしていたのです。

それはとても望なきことであると思いながらも、それより他に仕様がないので努力をやめることはできなかったのです。これほど努力しようと心がけてさえこの有様なのだから、ほっておいたらどんなことになるか知れたものではない、などと思っていました。

しかし、この努力は丁度自分が坐っている坐蒲団を自分で持ち上げようとするのと同じで、どんなに頑張っても一寸も上がらず、そのうちに精根尽き果てて倒れてしまうようなものでした。
(続く)




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自覚への3つの道

自覚への3つの道

僕は存在の真実の自覚(悟り)を得るためには3つの道があると思います。

第一の道は、理屈ではなく、存在の真実を体験的に把握する道です。その代表が禅と言えるでしょう。

しかし、禅の道は通常、何年も毎日毎日あるやり方に沿って坐禅をし、たとえば、月に1度か2度坐禅会に参加し、年に数回接心(数日間に渡る泊まり込みの集中坐禅会)に参加するというような厳しい修行をしても、その目的を達成する人は非常に少ないというのが実情で、とても困難な道です。

その他、坐禅の修行をしなくても、何かにとことん行き詰った人が、偶然、存在の真実を体験することもありますが、そのような人はそれこそ稀(まれ)です。

第2の道は、この宇宙の生成発展と、大自然の仕組み、生物の進化、人類の進化、人間が身に付けている観念などを徹底的に検べることによって、不可分一体の存在の真実を知的に深く理解することです。

もちろん、「それはアタマで理解しただけ」と言えば、たしかにそうなのですが、それがこころから納得がいけば、存在の真実を禅のようなやり方で体験的に捉えることと比べても、何ら遜色はないと思います。

このように言えば、坐禅の指導者の方々や坐禅に熱心に取り組んでいらっしゃる方々から厳しい批判を受けるかもしれません。

けれども、僕自身坐禅は大変素晴らしいと思い、毎日坐禅をし、いくらか体験も積んでいるのです。

そのうえで、やり方さえ工夫すれば、徹底的な知的な検証により、いのちの世界の体得に至ることは充分可能だし、実際的には、その方がずっと容易だとあえて言いたいのです。

実際に、僕の主宰する自覚のセミナーで、存在の真実を知的理解を超えて生の体験として捉える方もかなりいます。

第3の道は、日々不可分一体の理に沿って実践生活を送るということです。

もちろん、第1の体験、あるいは、第2の知的理解により不可分一体の存在の真実を把握したうえで、毎日の生活のなかで、それに沿った生き方、つまり、自分のことだけでなく、いつも、自分を含めたみんなのためを思って考えて実践し生きていけば、不可分一体のいのちの世界の真実をより深く実感し、ますます確信が深まっていくでしょう。

けれども、たとえ、不可分一体の存在の真実の把握が十分でない場合でも、これまで思い込んできたバラバラ観をひと先ず脇に置いて、あらためて、不可分一体観こそが存在の真実だとして、真剣にそれに沿って生きてみれば、どちらが存在の真実であるかが容易に分かるでしょう。

バラバラ観で生きるのと不可分一体観で生きるのと、どちらが気持ちよく生きられるか、どちらが楽しいか、どちらがうまくいくか、どちらがみんなと仲良くなれるかなど、日々の生活から、あらためて不可分一体の存在の真実を容易に経験的に感得できるでしょう。

要するに、存在の真実は実践してみれば誰にもすぐに分かることです。

そういう意味では、誰にとっても第3の道、不可分一体観に基づく日々の実践生活が何よりも大切だと言えるでしょう。




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妄想しない

妄想しない

以前、禅の本のなかで、莫妄想(マクモウソウ・妄想しないこと)」という言葉に出会い、「まさにその通り」と我が意を得た思いをしました。

通常、私たち人間は発達した大脳(アタマ)を持っているために、何事においても過去の経験や外部から集積した知識などをもとに、自分で作り上げたいろいろな物差し(価値の基準・観念)に当てはめて判断し理解します。

その場合に、「自分で作り上げた物差し」が存在の真実に適合するものであれば、その物差しを当てはめて判断した結果は正しいと言えるでしょう。

けれども、物差しそのものが狂っていたら、当然、判断の結果も狂ってくることになります。

問われるのは、「自分で作り上げた物差し」が果たして正しいかどうか? ということです。

ここで「自分で作りだした物差し」と書きましたが、皆さんの中には「現在自分たちが生きている社会でみんなが使っている物差し」を自分も使っているだけだという方が非常に多いのではないでしょうか。

そうだとすれば、この社会の中でみんなが使っているということを根拠として、「その物差しは正しい」と言えるでしょうか?

言いきれませんね。

みんなが使っているからと言っても、みんなが間違っている可能性があるからです。

実は、よくよく検べてみると、社会の中で使われている物差しには狂っているものがたくさんあります。

それらの物差しは価値の基準として、この社会を支える主柱となっています。

ということは、この社会そのものが狂っているということです。

ですから、逆に言えば、そのような狂った社会のなかで、生まれ、育ち、生きている私たちは、その過程のなかで、狂った物差しを、いつのまにか気が付かないうちに、当然の、正しい物差しとして、身に付けてしまいます。

狂った物差しを当てはめて、いくら存在の真実を理解しようとしても不可能です。

それはまさに妄想です。

また、みんなが本当は狂った物差しを当然の正しいものと錯覚していれば、当然、そこには個人としての悩みや苦しみ、人と人の間の不調和や軋轢、あるいは、過剰な競争、対立、抗争、戦争、環境破壊など、社会的な苦しみや混乱が生じます。

そういう意味で、私たちは自分たちがこれまで当然の、正しいものとして使ってきた物差し自体を、あらためて徹底的に検べ直すことが絶対的に必要だと言えましょう。

けれども、自分で自分の体臭には気づきにくいのと同じように、その物差しがあまりに当たり前になっているので、それを自分で検べ直し、存在の真実に気づくことはまずは不可能だというくらいに難しいのです。

それができる道の一つは坐禅ですが、僕が理解する限り、それは非常に厳しく困難な道だと言わざるをえません。

その他には、僕の知る限りでは、僕の主宰する自覚のセミナーがあります。

これまで自覚のセミナーに参加したの多く方々が、その深浅はともかく、存在の真実に気が付いています。

ぜひ、ブログ「いのちの塾」で自覚のセミナー参加者の感想文を読んでみてください。


莫妄想!




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ストレスはどこから来るのか

ストレスはどこから来るのか

もし「ストレスはどこにあるのか?」と訊かれたら、多くの方が「自分のなかにある」と答えるでしょう。

では、「ストレスはどこからやって来るのか?」と訊かれたらどうでしょう?

ほとんどの方が「外からやって来る」と答えます。

ある人が話してくれた一つの事例について検べてみましょう。

その時、彼は仕事上の重要な要件で、電車に乗って、どうしても約束の時間までにあるところに行かなければなりませんでした。

ところが、出かけようとしていたときに、ある人が家に尋ねてきて、緊急の要件だということで、どうしてもその人の相手をしなければならなくなってしまいました。

そのとき、彼は強いストレスを感じたそうです。

さて、この場合にストレスはどこからやってきたのでしょうか?

「外から」ですか? 

でも、それは彼のなかにストレスが生じるきっかけです。

たしかに、ストレスが自分のなかに生じるきっかけは一般的には自分の外で起こっています。

「一般的」といったのは、たとえば、自分自身の体の具合が悪いときなどに、それが自分のストレスのきっかけになることもあるからです。

いずれにしても、ストレスが自分のなかに生じるきっかけは、少なくとも、自分の思いの外で起こっていると言うことができるでしょう。

けれども、「ストレスのきっかけ」と「ストレスの原因」とはまったく異なる別々のものです。

ところで、一般的にはどのようなことが起こった時にストレスが生じるでしょうか?

大まかに言えば、「自分にとって望ましくないことが起こったとき」と言えるでしょう。

けれども、誰にとって望ましくないある一つの同じことが複数の人に同時に起こっても、ある人はストレスを感じていても、別の人は感じていないというような場面は往々にして見られるのではないでしょうか。

ということは、ストレスの原因はどこにあるのでしょうか?

ストレスの原因はストレスを感じた人のなかにあるのです。

あなたがストレスを感じたのであれば、ストレスの原因はあなたの外にあるのではなく、あなた自身のなかにあるということです。

つまり、あなたの外に起こった出来事に対するあなた自身の反応の仕方によって、ストレスが生じたり、生じなかったりするのです。

では、どのような反応の仕方をするとストレスが生じたり、生じなくなるのでしょうか?

それは、「物事は必ずしも自分の望み通りにはならないものだ」という当たり前の真実を腹の底から見極めて納得しているかどうかによります。

「物事は必ずこうなるはずだ、こうなるべし」と、思いと事実が癒着したアタマの状態では、物事が思い通りにならないときには、いつも葛藤が生じ、ストレスや怒りや悲しみや落胆や気鬱や不安を感じてしまうでしょう。

要は、どんなことでも、事実を腹ですっきりと受け止め、必要であれば、速やかに対応策を講じるだけではないでしょうか。

かけがえのない人生です。いつもすっきり爽やかに生きましょう。






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マニアックな人々

マニアックな人々

世の中には趣味、芸術、スポーツ、学術研究、ビジネスなど、いろいろな分野においてマニアックな人々がいます。

マニアックと言えるほど熱心に取り組まなければ、それぞれの分野で実績をあげることはできないのは確かだと思います。

僕自身は性格的にマニアックな人間ではないので、それらの方々のやり方や態度、そして、実績などを直接、あるいは、新聞やテレビなどで見聞するたびに、「すごいなあ」と感心してしまいます。

マニアックな方々というのは、その好奇心や探究心の強さ、集中力、持続力、たゆまず工夫や研究する力など、並外れた優れた資質と能力の持ち主だと思います。

でも、一面残念に思うことがないわけではありません。

何が残念なのかということを敢えて言えば、この世界に生きるすべての人々の本当の幸福と真の恒久の平和な世界を実現するためにその素晴らしい能力と情熱をつぎ込んでいらっしゃる方があまりにも少ないということです。

世界中の人々の真の幸福と恒久平和世界をどのようにすれば実現できるかという研究や実践に、マニアック的素質と能力を備えた方々が本気で取り組んでいただければ、この世界のもろもろの苦しみや混乱を乗り越え、新しい人類の未来が開ける時代は案外短期間にやってくるのではないかと思うのです。

これは生きていく中での優先順位の問題です。

つまり、「私たち一人ひとりにとって何がもっとも大切なことか?」ということです。

太平洋戦争の終結以来今日まで、それまでの反省もあり、「人に迷惑を掛けなければ何をしてもよいのだ」という考え方が、いわば「常識」として、日本中に広まってしまいました。

それは「個人の自由を大切にする」という考えであり、その点ではよい面もたくさんあります。

けれども、同時に、「他人はどうでも、自分さえ、自分の家族さえ、自分の属するグループさえ、自分の属する国さえよければいいのだ」という風潮を作りだしてしまいました。

「それがどうした? 自分の好きなことをやっているのだから、他人に文句を言われる筋合いはない」という方も多いでしょう。

でも、結局のところ、それはエゴ・利己主義以外の何物でもありません。

それだけでなく、それでは自分だけでなく、自分の家族、自分の子孫さえ本当に幸福に生きることは絶対にできません。

これはよく考えてみれば誰にもわかる単純な真理です。

「本当に大切なものは何か?」、「それをやることが自分や家族、子孫を含めたすべての人々の真の幸福、真の世界平和の実現に本当に繋がっているのか?」ということ常に真剣に考えて生きる方々がもっともっと増えてほしいと念願せずにいられません。

そういう意味で、もちろん、マニアックな方々はみんなということではないのですが、ただ自分の好きなことだけをマニアック的にやって、それなりの実績をあげている方を見ても、「すごいな」とは思っても、「尊敬の念」は湧いてはこないのです。

自分のマニアックな性向を何に振り向け、その資質をどのように生かしていくのか? 

余計なことと言われるかもしれませんが、それを考えることがまず大切ではないかと思います。





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