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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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悠久の今

悠久の今

ある日の午後、玄関から外に出ると、階段の手すりの上でアッピ(3歳のオスのトラネコ)が眠っていました。

近寄ってそっと撫ぜてやると、アッピは目を覚まし、いつものように体を摺り寄せてきました。

空を見上げると、冬の太陽の下、風もなく、何とも言えず穏やかで暖かな景色が広がっています。

遠くには雄大な山並みが連なっています。

目に見える範囲だけではなく、それを越えて、この宇宙のすべてが連なった不可分一体の世界です。

空間的にすべてが連なっているだけではありません。時間的にも過去―現在―未来のすべてが連なって、「いまここ」に存在しています。

たしかに、「いまここ」には五感で感じられるものや計器で感知できるものしか存在していないように感じるのは事実でしょう。

でも、五感で感じられなくても、計器で感知できなくても、実際に存在しているものが無数にあることはすでに科学的な常識です。

でも、ここで言おうとしていることはそういうことではなく、過去のすべても未来のすべても「いまここ」の(観念ではなく)事実としてすべて現れているということです。

この世界は私たちの五感やアタマを通すと、すべての存在がバラバラにしか認識されません。

ところが、五感や通常のアタマの認識を超えて、存在の真実をこころの眼で直視すると、この世界は空間的にも時間的にも不可分一体の世界だということが明らかになります。

あの日の午後アッピと一緒にいた瞬間には、空や雲、山々、木々、草など、目の前に展開していることだけでなく、この宇宙にその瞬間に起きているすべてのこと、過去に起きたすべてのこと、これから未来に起きるすべてのこと、すべてが凝縮されて存在していたのです。

釈迦は「この世界は無常である」と言っています。つまり、この世界のすべては一瞬一瞬、姿、形、中身は変化しています。

それはその通りですが、でも、それは過去の存在や起こったことが消滅してしまったということではありません。過去はいまここの事実に「織り込まれて」厳然と存在しています。

未来のことについても同じです。実は、いまここの事実の中にすでに「織り込まれて」厳然と存在しています。

生死が事実であることも真実には違いがありません。でも、同時に、釈迦もキリストも、あの人も、あの人も、あの人も、そして、父も母も兄もみんないまここに、僕の中に、アッピの中に、庭の松の木の中に、空の雲の中に生きていることも、勿論、自分が死なないことも厳然たる真実なのです。

僕はその短い時間アッピと一緒にいて無上に幸せでした。何一つ欠けているものがなく、すべてが完結しているからです。

僕は嬉しくて思わずにっこりと微笑みました。そして、同時に全宇宙の存在が微笑んだのを確かな感覚で感じました。

「いのち」は、この世界において、存在の真実を自覚する存在が現れるのを期待しているのだと思います。

なぜなら、それが「いのち」の本性であり、そして、自己の本性であるからです。





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時は流れず

時は流れず  

「時」というものに関して、ほとんどの方は「やって来ては流れ去るもの」、あるいは、「自分やいろいろな存在の外でたゆまず流れているもの」つまり、「去来するもの」というような確固たるイメージを持っているのではないでしょうか。

例えば、変な質問ですが、「昨日はどこにありますか?」と訊かれたら、あなたは何と答えますか?

多くの方は「今という瞬間しかないのだから、昨日は去ってしまってもうどこにもない。強いて言えば、このアタマのなかに記憶としてあるだけだ」というように答えられるのではないでしょうか。

同じように「明日はどこにありますか?」と訊かれたら、やはり「今という瞬間しかない。明日はまだ来てないのだからはどこにもない。強いて言えば、このアタマのなかにあるだけだ」と答えられるでしょう。

たしかに、落ち着いて考えてみれば、「いつも今という一瞬があるだけ」というのはその通りだと言えるでしょう。

ですから、「昨日はすでに去って、明日はまだ来ていない」、つまり、過去も未来も記憶やイメージ、「思い」としてあるだけで、事実としてはない、というわけです。

僕も「そうだ」とは思うのですが、存在の真実から言えば、「時は去来する」というのは「時」というものの単なる一面的表現でしかありません。

つまり、時は去来するように見えるだけなのです。

ということは、過去も未来も厳然として存在しているということです。

「えっ! どこに? 今しかないのに、何を言っているの?」と思われるでしょうね。

そうです。その「今」(ここでは「いまここ」といったほうがいいかもしれませんね)の中に過去のすべても未来のすべても、アタマの中の記憶やイメージとしてではなく、厳然たる事実として存在しているのです。

「でも、そう言われても、過去も未来も見えないし、手で触って感じることもできない」と言われるかもしれませんね。

本当にそうでしょうか? 

「過去も未来もない」という思い込みで、そのように思うのが当然だと決めつけてはいませんか?

今、目の前のテーブルの上にミカンが1個あります。

この1個のミカンはたしかに1個のミカンにすぎませんが、このミカンがここに存在しているという事実にはビッグバン以来の138億年におよぶ過去の宇宙のすべての存在とはたらきが凝縮しています。

同時に、いまこの1個のミカンが全宇宙を支えています。

そして、この1個のミカンの存在が全宇宙の未来を創造していくのです。

これは厳然たる事実です。

過去のすべての存在や出来事は過ぎ去ったのでも消えてしまったのでもありません。

「いまここ」に過去のすべてが織り込まれて事実として存在しています。

未来のすべての存在と出来事もまだ来てないのでも現われていないのでもありません。「いまここ」に未来のすべてが織り込まれて存在しています。

全宇宙、全世界の過去、現在、未来のすべてがいまここに不可分一体のいのちとして現成(げんじょう)しているのです。

ということは、いのちの世界には本当は時間はないということです。




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チビは生まれて3か月の頃免疫系統の大病に罹ってしまいました。

僕はチビを膝の上に乗せて、懸命に愉気を続けました。そのお蔭で、チビはぎりぎりのところで奇跡的に体力を回復することができました。

けれども、両方の眼球が溶けて落ちてしまい、明るさは少しは感じているようでしたが、まったく見えなくなってしまいました。

いずれにしても、チビがやっと回復し始めたことを確信したとき、僕は「チビの一生を一緒に寄り添って生きよう」と決意しました。

それから後、チビの生き様は目が見えないハンディをほとんど感じさせませんでした。

目が見えなくても、家の中ではどこに何があるかは全部把握していました。例えば、何かの台に乗りたいときに、台のすぐ近くまで行ったと思ったら、一々手で触ってその位置を確かめることなく、サッと台の上に飛び乗っていました。

少し大きくなると、エサを食べるのも、トイレに行くのも自分で行くようになりました。

ただ、外に出ると自分のいる位置が分からなくなって、迷子になってしまうので、いつも首輪をして、それにヒモを繋いで散歩させていました。1日平均10回以上は一緒に散歩に出かけました。
(以上のことについては、以前ブログに書いたので以下省略します。)

こうしてチビは5歳半になったのですが、今年の11月になって、急に食欲が落ちて、じっと眠っていることが多くなりました。

そうして、1週間ほど水だけは飲んでいたのですが、その水もとうとう自らは飲まなくなりました。

僕は「これが最期だな」と思い、チビを膝の上に乗せて愉気を続けました。

2時間ほどチビはゆっくり呼吸を続けていました。その時間はとても穏やかな一時でした。

そして、チビは2本の脚を2,3度ゆっくりと動かして、その後動かなくなりました。

とても静かで穏やかな死でした。

見事な一生であり、見事な死でした。

チビは当たり前に生き、実に当たり前に死んでいきました。

そのとき僕のこころにふと道元禅師のある言葉が浮かんできました。

「この生死は、即ち仏の御いのちなり。これを厭い捨てんとすれば、すなわち仏の御いのちを失わんとするなり。これに留まりて生死に著すればこれも仏のいのちを失うなり。仏の有様を留むるなり。厭うことなく、慕うことなき、このときはじめて仏のこころに入る。ただ、生死すなわち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として願うべきもなし。このときはじめて生死を離るる分あり。」(道元禅師著『正法眼蔵』生死の巻より)

なお、涅槃(ねはん)とは、『広辞苑』によれば、「煩悩を断じて絶対的な静寂に達した状態。仏教における理想の境地」となっています。

上の道元禅師の言葉が意味しているのは「生死の現実こそ、真実そのものの実現であり、いのちの実相であり、人間が身勝手な思いに惑わされて、嫌うことでも慕うことでもない」ということでしょう。

いまチビが「そんなこと当たり前でしょ。お父さん」と笑っているような気がします。

チビ、同じ生を一緒に生きて楽しかったよ。

  
チビ







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無分別の分別  その5

無分別の分別  その5

人間に本来備わっている集団的本能と個別的本能は不可分一体の存在の真実に即して働きます。

もちろん、天変地異や不慮の事故などによりその目的が完遂できない場合もありますが、通常の環境においては、可能な限り全体の繁栄と個としての生を全うできるように機能します。

ところが、五感とアタマによって、「この世界のすべてはバラバラに分離した存在であり、自分は他と切り離された存在である」と誤って認識すると、不可分一体の存在の真実に反して、「この世界で何よりも大切なものはこの自分、あるいは、自分)の家族である」という利己的な観念を持つようになります。

そうなると、本来備わっている全体の繁栄を実現するために、つまり、みんながよくなるように機能する集団的本能が意識的、無意識的に抑圧されたり、無視されて働かなくなります。

また、個別的本能は本来集団的本能とお互いに支え補いながら、その個人の持っている才能をフルに生かして、全体のためにも人生を十全に全うさせるために働くようになっています。

ところが、「自分さえよければ」という考えによって集団的本能が抑制されているために、個別的本能も充分機能を発揮することができなくなり、たまたま人生の一部門では成功を収めることも可能な場合もありますが、人生全般については、「自分さえよければ」という目的さえも達成することはできません。

私たちが本当に充実した人生を生き、動物や植物も含めて、みんなが幸福で平和な世界を実現するためには、何よりも不可分一体の真実を知的に、あるいは、体験的にはっきり捉えて、不可分一体の真実に即して個人的に生きると同時に、不可分一体の真実に即した制度や組織によって営まれる社会を実現するために行動することが何よりも大切だと思います。

「不可分一体の真実を捉える」などと言えば、「そんなことはとても難しい」と思われるかもしれませんが、前に書きましたように、それを知的に理解することは、本当は、小学生でも分かるような簡単なことです。

それに、私たちには何よりも、もともと個別的本能とともに、集団的本能が備わっています。これらの本能は私たちにいつも「みんな一つの同じいのちを生きているんだよ」と呼びかけています。

私たちは、アタマの錯覚から生まれた「ケチな根性」に引き摺られずに、こころの内なる声に素直に従って生きればよいのです。

真実に生きるのはこんなにも簡単なことです。

誰にでも容易にできます。

イヌやネコにだってできているのです。人間にできないはずはありません。

難しいと思うから難しく思えるだけです。

また、「周りにそんなことを言う人がいないから」などと周りの人の様子を窺いながら自分の生き方を決めようとしているために、こんな簡単な真実を見失ってしまうのです。

あなたが自分の内なる声にしたがって生きることを決定(けつじょう)するだけのことです。

そうではありませんか?

(終わり)





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無分別の分別  その4

無分別の分別  その4

「ここに自分がいる」という、いわば、「自分」意識は、本来は本能、あるいは、無意識のレベルにあった感覚が発達した大脳(アタマ)によって意識化されたのです。

したがって、そのこと自体に全体の繁栄と個としての生を全うすることを損なうような「間違い」があるわけではありません。

ところが、アタマは単に「自分が存在する」というだけの意識を「この体と心を持った存在が自分であり、この体と心の外にあるものは自分とは分離した別の存在であるという『自他』の意識を生み出します。

同時に、アタマは五感を通して捉えた世界をそれぞれがみんな分離した別々の存在であるという意識、バラバラ観を生み出します。

この自他の意識とバラバラ観が全体の繁栄と、そして、個としての生を十全に生きることを損なう根本原因なのです。

でも、それが問題なのであって、本来の「自分」意識そのものが問題なのではありません。

ここで、少し異なった角度から考えてみましょう。

今目の前の皿の上に、まったく同じ材料で作った団子が2個あるとします。

この2個の団子は同じものでしょうか、それとも、異なるものでしょうか?

私たちのアタマは通常「この2個の団子は異なるもの」と認識します。

でも、よくよく考えて、「もともと同じ材料で作ったものなのだから、同じものだ」とも言えると判断するでしょう。

つまり、答えは「イエス アンド ノー」ということになります。

本質はどちらも同じもので、今の一時的な姿としては、分離したものに見えるというわけです。

では、もう一つ質問します。

その2個の団子(AとB)のそれぞれに、同じタイプの超ミニサイズの高性能のコンピュータを取り付けました。

すると、コンピュータが作動して、Aは「僕はAだ。Bとは分離した別の存在だ」と思うようになり、Bも「私はBだ。Aとは分離した別の存在だ」と意識するようになってしまいました。

さて、この2個の団子は同じものでしょうか、それとも、異なるものでしょうか?

答えは前問と同じように、やはり「イエス アンド ノー」ということになります。

本質はどちらも同じもので、今の一時的な姿としては、分離したものに見えるというわけです。

ここではっきりさせなければいけないことは、「真実は自分がどのように思うかということとは関係がない」ということです。

黄色の紙は自分がどう思っても思わなくても黄色です。真実は自分の思いを超えたところに当たり前に存在しています。

自分が分離意識やバラバラ観を持っているかどうかにかかわりなく、この世界は不可分一体のいのちの世界であり、他と分離した自分など存在していないのです。

ただ、人間には「自分」と意識する仕組みがあるだけで、それは本来長い宇宙と生物の進化の結果いのちの一時的な顕れである個としての生を自覚的に全うするためにこそ発現した貴重な機能なのです。

「自分」意識から「真実の自己」の自覚に至る、という意味で、「自分」ほど大切な存在はありません。






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無分別の分別  その3

無分別の分別  その3

動物の生態を観察していると、動物には集団的本能と個体的本能が備わっていることがわかります。

その二つの本能は互いにその目的をよりスムーズに達成するために互いに補い合い、調和しながら精妙に機能するようになっています。

そのために、彼らはどんな状況においても、その本能に従って生きることにより、種、あるいは、全体としての繁栄と個としての生を可能な限り全うすることができるのです。

私たち人間も動物の一種ですから、当然、集団的本能と個体的本能が備わっています。

ところが、本能に従って生きている部分は当然ありますが、それだけでなく、人間は発達した大脳によって「考えて」行動します。

その「考え」の内容が、本能と矛盾することがなければ、つまり、全体の繁栄と個としての生をよりよく生きる目的に合致する「正しい考え」であれば、問題はないのですが、実際は、本能に沿わずに、本能と矛盾することが多いのです。

そのような本能と矛盾する「間違った考え」に従って行動し生きていけば、その結果は全体としても個としても悲惨な結果を生むことになってしまいます。

その「考え」の中で根本的な間違えは、「この世界のすべては分離した存在であり、この大きな世界の中に自分が小さな個として存在し、自分と自分以外の他がある」と捉えるバラバラ観です。そこからすべての個人的、社会的な苦しみと混乱が生じてくるのです。

ということは、全体の繁栄と個として生を全うするという動物の2大生存目的から見ると、発達した大脳によって考える私たち人間は他の動物に比べると非常に不利だということになります。

そういう意味では、「人間は出来損ないのサル」だという動物学者もいますが、確かに、現代の社会のメチャメチャな現状を見ると、僕もそう思いたくなります。

でも、この事実の中にこそ、進化の結果、発達した大脳により、「自分」という意識を持った存在として現生人類が生まれた秘密(わけ)があるのです。

真実はこの世界にはいのちという一つの実在しかありません。つまり、個というものはなく、全体しかないのです。

にもかかわらず、そのなかに、なぜか、「ここに自分がいる」という意識を持った「存在」が、たとえ、それが、一時的な仮の「存在」であったとしても、誕生したということにはとても積極的な意味があるのです。

もし、「なぜ、そう思うのか?」と問われれば、それを誕生させたのはいのちであり、いのちは絶対にミスを犯すことはないのです」と答えるでしょう。

もちろん、バラバラ観を持つようになったことにも重要な意味はあるのです。

といっても、もちろん、そのままでよいということではなく、逆説的ですが、その過ちに「自覚的に気が付く人々」がどんどん増えていくためにこそ必要なのです。

そのためにも、「自分」という意識を持った人間が誕生したことは宇宙の進化、そして、生物の進化の歴史の中でもまさに画期的なことと言えるでしょう。

(つづく)




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無分別の分別  その2

無分別の分別  その2

この世界の唯一の実在はいのちであり、実体があるのはいのちだけです。

つまり、この世界にはいのちしかないのであり、私たちの五感と大脳(アタマ)を通して存在しているように見える一つ一つのものはいのちそのものです。

いのちとは別の何かが実在しているのではありません。

もちろん、それは本質について述べているのであり、ただ、五感とアタマを通して見た時に、それぞれ別々のもの、バラバラのものと見えていても、そのすべてのものの本質(正体)は、実は、みんないのち(・・・)だということです。

例えて言えば、色とりどりの模様が織り込まれている1枚の織物のそれぞれの模様に使われている糸の素材が、実は、すべて同じ純白の生糸だったというようなものです。

実は、この存在の真実をこころから納得するのは、「悟りを開かなければ分からない」というような難しいことではありません。

それは要するに、「この世界がもともと無数の別々の実体の寄せ集めで出来ているのか、それとも、この世界はもともと一つのものからいろいろなものが生まれてきたのか?」ということを考えてみればよいのです。そのどちらか一方が答えなのですから・・・。

例えば、人体は1個の受精卵が次々に細胞分裂して、いろいろな組織や器官に分化してできたものです。

もともと、人体のすべての細胞や組織や器官はそれぞれの姿、形、働きなどは異なっていても、みんな一つのものなのです。

しかも、すべてがそれぞれを補い、支えあい、循環し、調和して1個の人体として生きています。

単独、バラバラの細胞、肺、胃、腸、心臓、血管、血液などが存在しているのではありません。

同様に、宇宙の始まりとその進化、生物や人類の誕生と進化の様子、自分と親、子供、先祖や子孫との存在としての繋がりの仕組みなどを考えても、容易に「この世界は不可分一体のいのちの世界である」という結論にたどり着くことができるでしょう。

つまり、これもいのち、あれもいのち、みんないのちなのです。いのちしかないのです。

では、「自分」というものはないのでしょうか?

ありません。

「自分」であれ、なんであれ、そのような実体、あるいは、実在はありません。

実体、あるいは、実在というのは、「他の存在に依らず、存在の基盤を単独で独自に備えているもの」というような意味です。

(ただ、誤解のないようにしたいのは、この世界の色とりどりのいろんな模様の一つ一つは実体はなくても、それぞれ宇宙大の「意味」があるということです。)

さてここで、とても面白いことに、他の動物に比べて大きく発達したアタマを持つ人間には、なぜか、「ここに自分がいる」と意識する仕組みがあるということです。

けれども、それは通常、「この不可分一体の世界を自分と自分でないものに分け、すべての存在はバラバラである」という錯覚した認識に繋がっていきます。

まさにこの事実にこそ、私たち人間のすべての苦しみの根源があるのです。

(続く)





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無分別の分別  その1

無分別の分別  その1

「分別」という言葉は、普通は、例えば、「彼は分別がある」とか「彼女は分別がない」というように、「理性で物事の善悪・道理を区別してわきまえること」という意味で使われます。

けれども、本来は「物事の存在やハタラキなどを別々のものと認識する」というような意味で使われているようです。

以前、禅に関する本のなかで「無分別の分別」という言葉に出会ったことがあります。

何か訳の分かったようでわからないような表現ですが、この言葉ほど存在の真実を分かりやすく表現した言葉はないと思います。

ここで、あらためて存在の真実について考えてみたいのですが、考えやすい材料として、例えば、水と氷と水蒸気について考えてみましょう。

水は液体、氷は液体、水蒸気は気体ですね。

さらに、水と氷は目に見えるけれども、水蒸気は目に見えません。

そして、水は普通は柔らかく、氷は固い。

このように、水と氷と水蒸気は姿や形や性質が異なっています。

では、水と氷と水蒸気は異なったものでしょうか?

答えは「イエス アンド ノ―」です。

なぜなら、水と氷と水蒸気の化学式はいずれもH2O(エイチ ツー オー)でまったく同じものであり、それが温度と圧力という条件によって、水、氷、水蒸気というように姿や形や性質が異なったものに変わっただけです。

つまり、本質(実相)はH2Oでみな同じであり、条件により水、氷、水蒸気というように一時的な仮の姿(仮相)として表れているわけです。

上の例はとても単純な説明で分かりやすいのですが、実はこの世界のすべての存在やハタラキについても同じことが言えるのです。ただ、その仕組みがいくらか複雑なだけです。

現代の最先端の物理学によれば、物質の根源をとことん探求していくと、どうやら「エネルギーをもった波動の組み合わせ」(表現は正確ではありませんが・・・)のようなものに行きついてしまうようです。

ということは、この世界のすべての存在とハタラキの本質(実相)はみな同じであり、条件によりいろいろな一時的な仮の姿(仮相)として表れているということです。

つまり、この世界のすべては「無分別の分別」なのです。

僕なりの表現であえて言えば、この世界のすべての存在とハタラキの本質(実相)は唯一絶対の「いのち」であり、それが条件によりいろいろな一時的な仮の姿(仮相)として表れているということです。

本当は、一時的な仮の姿(仮相)でしかないものを、五感や大脳によって、これこそ存在の真実である、つまり、バラバラ観を信じて疑おうともしないほとんどの人間にとっては、ついに、それが間違いだったことに気が付いた時には、まさに天地がひっくり返るような気持ちがするでしょう。

けれども、「ミソと○○」はその本質は同じ「いのち」ではあっても、現実的には一緒にするわけにはいきません。

そこに「分別」が必要なのです。

でも、「分別(バラバラ観)の分別」ではなく、「無分別(不可分一体観)の分別」でなければならないのです。





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