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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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真実の世界と幻想の世界  その2

真実の世界と幻想の世界  その2
  (続き)

真実の世界は“いまここ”にありのままに現れています。

このそのままの現実こそ真実の世界です。

そのありのままの現実には、分離や“個”や“自分”はどこにもありません。

“いのち”がただいろいろに現れているだけです。

良いも悪いもありません。

これは「良いとか悪いとか思ってはいけない」と言っているのではありません。

良いとか悪いと思うことも良いことでも悪いことでもありません。

でも、もともと、良い悪いはありません。その事実を言っているにすぎません。

要するに、この世界は良い悪いなどあらゆる思い、悲しい嬉しいなどあらゆる感情、あらゆる観念や概念を超えて、ただ起きているだけです。

ですから、この世界はいろいろにありながらも、そのままで完璧です。(ここに言葉による表現の限界があります。)

その完璧さの中ですべてがただ起きています。

何もしなくてもよいとか、しなくてはいけないなどと言っているのではありません。

でも、本当はとてもシンプルな世界です。

そこには完全なる自由と安らぎと悦びがあります。

この世界に入るのは実に簡単です。なぜなら、もうすでに入っているからです。

ですから、ただ、「ああ、そうなのか」と認めればよいのです。

例えば、禁煙するのはとても難しいと言われます。

でも、それは「タバコがなければ楽しく生きていけない。自分にはタバコは絶対必要だ」と思い込み、吸いたい欲望をガマンしようとするからです。

現在スモーカーである人でも、もともと、昔、タバコを吸ってなかった時にはタバコはまったく必要なかったということを思い出してみれば、タバコを吸うことはまったく必要がないことが容易にわかるはずです。

そうすれば、吸いたい欲求も出てこなくなります。吸いたい気持ちがなければ、タバコを吸わないでいるのに何のガマンも努力も必要もありません。

このように、タバコをやめるには、誰でももともとノンスモーカーだったことに気が付けばよいのです。

それと同様に、もともと“個”も“自分” があると思っていたのは錯覚だったことに気が付けばよいのです。

人間以外の動物は“個”という意識も“自分”という意識もありません。

そして、誰でも赤ちゃんだった時には、“個”という意識も“自分”という意識も持っていなかったのです。成長してから、勝手に“個”や“自分”という意識を持つようになっただけです。

“個”や“自分”というものがないことに気が付くのは、実に、簡単なことです。

でも、切実な問題意識がなければ、アタマの先っぽだけの理解に終わってしまうかもしれません。

それではダメです。

いずれにしても、動物や植物と違って、人間は逆説的な道を歩まなければならないようにできているのかもしれません。

でも、もともとがそうなのですから、気が付くのは、実に、単純なことなのです。

存在の真実は実にシンプルに“いまここ”にあります。

(終わり)


次回からは、このところ集中して書いているブログをより深く理解していただくために、以前アップした『奇妙なガラス板』の1~6を再掲載します。じっくり読んでみてください。





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真実の世界と幻想の世界  その1

真実の世界と幻想の世界  その1

真実の世界は“いのち”の世界です。

“いのち”だけが実在であり、その他には何も実体としては存在しません。

この世界は“いのち”が瞬間瞬間に無数のいろいろな模様を織りなす不可分一体の世界です。

分離したものは一つもないので、“個”はありません。したがって、“自分”もありません。

人間は相対的にしか思考できない大脳(アタマ)を持っているために、五感を通して捉えたこの世界をバラバラに分離した“個”の寄せ集めだと認識します。

つまり、無数の“個”という実体があり、その中の一つとして“自分”という実体があると錯覚してしまうのです。

逆に言えば、「“自分”というものがある」という思い込みを持って真実の世界を見ると、この世界はすべてバラバラな“個”の寄せ集めに見えてしまうのです。

でも、それは幻想の世界にすぎません。

では、どうしたら真実の世界が見えるのでしょうか?

真実の世界は“自分”という意識が消えて、全体に溶け込めば見えてきます。

アタマを持っていない人間以外の植物や動物、そして、アタマがまだほとんど働いていない人間の赤ちゃんは、“自分”という意識を持つことなく不可分一体の世界でそのまま素直に生きています。

実は、人間もアタマでなく、本能のレベルでは“自分”という意識はなく、不可分一体の真実の世界で素直に生きています。

それは人間の体のいろいろな本能的なはたらきを観察してみればすぐにわかる事実です。

そして、体だけでなく、人間は本能、あるいはそれを超えたどこかで真実の世界に気が付いてはいるのですが、人間はアタマでこの世界をバラバラの世界だと捉えています。

ただ、それが幻想であるとは言っても、その幻想ぐるみ人間は真実の世界で生きているのも事実です。。

なぜなら、この不可分一体の真実の世界からはみ出るものは何もないからです。

ただ、なにかスムーズでない感じがするのは事実です。

でも、それも“いのち”の表現の一つです。

人間的に考えれば、“いのち”が何かの意図を持って、そのように表現しているのかもしれません。

では、どうしたら“自分”という意識が消え、全体に溶け込むことができるのでしょうか?

それは分かりません。

「いつ、どのようにして」と言うことはできません。なぜなら、それは起こる時に、ただ起きるからです。

それは坐禅などの瞑想などがきっかけで起こるかもしれません。

何かで、文字通り、絶体絶命の行き詰まりに遭遇した時に起こるかもしれません。

何気なくぼーっとして歩いている時に起こるかもしれません。

台所で皿を洗っている時に起きるかもしれません。

でも、真実の世界はどこかにあるのではありません。

真実の世界は“いまここ”にあります。

“いまここ”が真実の世界です。

それは離れたことなどないのです。

“いのち”の世界では、良し悪しという”思い”を超えて、そのままですべて完璧であり、「すべてよし」です。





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言葉の限界

言葉の限界

僕は存在の真実について述べようとする場合に、いつも言葉の限界を感じてしまいます。

私たちの使う言葉による表現は大脳のはたらき方やその能力の限界に大きく影響、あるいは、制約を受けます。

逆も真なりです。

つまり、私たちの思考の仕方やその能力は私たちの使用する言葉により大きな影響、あるいは、制約を受けているのです。

少し具体的に説明しましょう。

存在の真実は、「この世界には“いのち”だけがある。“いのち”だけが唯一の実在である。この世界は唯一の実在である“いのち”が刻々にいろいろな姿や形、あるいは、見えないはたらきなどとして顕現している世界である」ということです。

“全体“があるだけです。したがって、”部分”というものも“個”というものもありません。

『広辞苑』によれば、“部分”というのは「着目する全体の中を分けて考えた一つ。全体の中の1ヵ所」という意味です。

ところが、存在の真実は“全体“があるだけですから、それを「分ける」ことはできないのです。

つまり、もともと分けられない“全体“をアタマで分けて考えたとしても、それはあくまでアタマの中だけのことであり、事実としては”部分”があるわけではありません。

同じく、『広辞苑』によれば、“個”というのは「ひとつの物、ひとりの人」という意味ですから、全体しかないこの世界には、“個”というのはあくまで観念でしかなく、事実としては存在しないのです。

つまり、”部分”や“個”というのは、もともと、「すべての存在はバラバラである。この世界はバラバラな存在の寄せ集めの世界である」というバラバラ観を前提にした言葉です。

ですから、「この世界は不可分一体の世界である。唯一の実在は“いのち”だけである」という存在の真実をそれらの言葉により正確に描写することはできないのです。

このような例は他にもたくさんあります。

例えば、「海と波」について考えてみましょう。

この場合、真実は”海“があるだけで、”波“はありません。

”海“が刻々に模様を変化させています。その中で、私たちが”波“と考える模様がいくつも次々に現れます。

でも、”波“という他から分離したものが生じたわけではありません。もともと「切り分けられないもの」を私たちがアタマで勝手に観念的に「切り分けて」、”波“と呼んでいるにすぎません。

私たちのアタマは「次々に現れた”波“は再び次々に”海“に戻って行く」と捉えるかもしれません。

でも、本当はひとつの“海“が切れ目のない模様を刻々に変化させているだけです。

このように、この世界のすべてはたった一つの実在である“いのち”が刻々にどこにも切れ目のない一つの模様を変化させているだけなのです。

ところで、人間を含めて、動物は、一見、一つの体を単位として生きているように見えるかもしれません。

けれども、そのように見えているだけで、真実は、そこにあるのは唯一の実在である“いのち”が描いている刻々に変化するどこにも切れ目のない一つの模様だけなのです。





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苦しみの正体  その2

苦しみの正体  その2
(その1からの続き)

いま仮に、脚が痛いとします。

でも、真実は、それを苦しんでいる”自分”はいません。

ただ、痛みがあるだけです。

「自分がいる」という幻想を持っていると、「自分が苦しんでいる」と思います。

そのために、苦しみがあるように思えるのです。それが苦しみの正体です。

すべてはただ起きています。起きていることがあるだけで、そこには“個”も“自分”もありません。

「世の中には何かで苦しんでいる人がたくさんいる。それを助けなければならない」という方がいます。

でも、苦しんでいる人はいません。

では、「何かで苦しんでいると思っている人」がいるのでしょうか?

いいえ、真実は、ただ、「何か」と「苦しみ」の感情があるだけ、「苦しんでいると思っている人」という実体はないのです。

すべては”いのち”がそのような形で現れているだけです。

「では、助けなくてもよいのか? 何もしなくてもよいのか?」という思いが出てくるかもしれませんね。

でも、そのような「思い」があるだけで、「そのように思う人(実体)」はいません。

「助けなくてもよい」と言っているのではありません。

「助けよう」という「思い」があって、実際に助ける場合には、助けるという「行為」があるだけで、「助ける人」はいません。

すべては、”いのち”の表現です。

起きていることはすべて”いのち”の自作自演、一人芝居です。

ですから、もともと、そして、どこまでも、すべては完璧です。

その完璧さの中で、感覚や思考や感情などを含めてすべてのことが起きています。

とにかく、この世界には”いのち”があるだけであり、その“一人芝居“がこの世界なのですから、他には登場人物は誰もいません。もちろん、”自分”もいません。

このように言うと、何かむなしさのようなものを感じるかもしれませんが、もし、そうだとすれば、それはまだ「他と分離した自分がここにいる」と思い込んでいるからです。

でも、そのような「思い」も、”いのち”の表現の一つですから、本来、そのように思うことに良い悪いがあるわけではありません。

ただ、何か狭苦しい感じ、あるいは、スムーズでない感じがするのは事実です。

ここまで書いてきたことは、このように思わなければならない、ということではありません。ただ、存在の真実をそのまま描写しているだけです。

けれども、それがはっきり見えたとき、いままで通りの見慣れた当たり前の日常の生活の中で、すべての存在が光り輝いているでしょう。

アタマを持つ人間以外の植物や動物は存在の真実の中でそのまま素直に生きています。

(少数の例外を除いて)人間だけがこの社会の中で育っていく過程で、いつのまにか存在の真実から逸れて、苦しみながら生きているように見えます。

けれども、苦しんでいる”自分”が“いのち”の全体の中に消えてしまったとき、そこに苦しみからの真の解放があるのです。

(終わり)





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苦しみの正体  その1

苦しみの正体  その1

結論から言うと、苦しみの根本原因は「自分がここにいる」という幻想です。

「自分はここにいる」というのは次のような感覚です。

1 自分がここにいて、その外に自分でないものが存在している。

2 自分はこの体の内側にいて、眼の穴から、自分でないもの、あるいは、世界を見ている。(この表現は眼が見えない人には当てはまりませんが・・・。)

3 この世界のすべては分離した個であり、自分はその一つである。


でも、本当に自分というものがあるのでしょうか。あらためて検べてみましょう。

たとえば、呼吸、心臓の鼓動、血液の循環、消化、食欲、神経の伝達など体のすべての機能は誰かがコントロールして起きているのではありません。

それは思考についても同じです。

よく観察してみるとはっきり分かると思いますが、思考はどこからともなく突然現れます。

自分で考えようと思わなくても、突然現れます。

もちろん、「自分でこれについて考えよう」と思って、意識的にいろいろと考え始める場合もありますが、「自分でこれについて考えよう」という考えは当然現れるのです。

また、何かを意識的に考えている最中でも、ふとしたことがきっかけとなったり、あるいは、ならなくても、突然何かの考えが現れます。それは感情や気分についても同じです。

たしかに、意識的に多少は体の生理作用や精神作用をコントロールすることはできるかもしれませんが、それらの機能そのものは自分で意識的に作ったものではありません。

でも、それらの機能は"自分"で作ったものではないけれども、お父さんとお母さんから受け継いたのだ。だから、やはり、自分のものだという方もいるかもしれませんね。

では、そのお父さんとお母さんはどのようにして生まれたのか、そのお父さんとお母さんは?と検べていくと、結局、誰一人、自分の力でこの世に生まれてきた人はいないことがわかります。

仮に「自分はここにいる」と思ったとしても、そのような思いは自分自身が作ったわけではありません。

「結局は、自分は大自然から生まれてきた」のだと考える人もいるでしょう。でも、大自然そのものもそれ自身で生まれてきたわけではありません。それは大宇宙についても同じです。

大宇宙、大自然、植物、動物、微生物、机や椅子、自動車などなど、この世界のすべての存在、そして、はたらきは、結局、それぞれがそれぞれの力で生まれてきたものではありません。

それらはすべて"いのち"が、見かけ上、そのようなものとして現れているように見えるだけなのです。

でも、すべては"いのち"の表現であり、あるのは、唯一"いのち"だけなのです。

だから、"自分"なんていません。

「自分がここにいる」と思ったとしても、それは単なる思いにすぎません。

それを根拠にして、「"自分"が存在しているのは事実である」とは言えないのです

(続く)





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冬の夕暮れ  その2

冬の夕暮れ  その2

その日の夕暮れに起こっていたすべてのことは「ただ」起こっていました。

「ただ起きている」という意味は、私たちのアタマによる解釈、つまり、例えば、「これはこういう意味がある」とか、「これはこういうことがあって起こっている」とか、「これは本当はこうあるべきだ」といった「アタマによる解釈」とはまったく無関係に起きている、ということです。

ほとんどの方々は「ただ」起こっていることをアタマを通して見ているので、そこに、言わば、「物語り」(ストーリー)を勝手に創り上げ、それを真実であると錯覚してしまいます。

しかも、自分が錯覚していることにまったく気が付かずに、それがストーリーにすぎないことを疑おうともしません。

でも、真実は、すべては「ただ」起こっているだけなのです。「ただ」”いのち”が”いのち”を展開させているだけです。

”いのち”が”いのち”をただ”いのち”しているのが存在の真実です。

ですから、この”いのち”の世界では「すべてよし」なのです。

すべてのものがただ起きています。

苦痛、喜び、悲しみ、楽しさもただ起きています。

でも、それを体験している人は誰もいません。

それは、この”いのち”の世界には大いなる”いのち”があるだけで、“個”というものはないからです。

“自分”なんてないのです。

中には、「自分なんてない」と言われて、戸惑ったり不安な気持ちになる方もいるかもしれませんね。

そうだとすれば、それは「他と分離した自分がある」と思い込んでいるからです。

でも、そのように思い込んでいる人もいないのです。

その思い込みが間違っているとしても、それも”いのち”の一つの表現です。

でも、それでも「自分がいない」と思うと、不安で頼りない心地がするとすれば、とりあえず、「大いなる”いのち”が自分、すべてが自分」とでも思えばよいのではないでしょうか。(笑)

思わず(笑)などと書いたのは、「大いなる”いのち”があるだけで、自分というものはない」というのは、真実、つまり、事実がそうだからなのであり、「こう考えてみれば」とか、「ああ考えてみれば」というようなことではないからです。

事実はただ事実として現れているだけです。

その一つ一つについてどのように思おうとも、その一つ一つはそれぞれそれだけで勝手に現れているのではありません。大いなる”いのち”がその一つ一つとして現れているだけです。

その大いなる”いのち”というのはアタマによる想像の産物ではありません。

どこかにあるものでもありません。探し求めて初めてその存在に気づいたり、出会ったりできるものでもありません。

もし、探し求めるとしても、その探し求めさせているもの、つまり、探し求める主体こそが大いなる”いのち”なのです。

大いなる”いのち”は“いまここ”において、すべての存在や(思いや感情などをも含めた)すべてのはたらきとして現成しています。





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冬の夕暮れ  その1

冬の夕暮れ  その1

それはもう随分前のある冬の夕暮れのことでした。

夕暮れと言っても、日は傾きながらも、まだ最後の日差しをいろいろなものに投げかけていました。

「僕は」駅から家に向かって曲がりくねった田舎道を歩いていました。

その途中には、木や畑や家々や遠くの山々が夕日に照らされ、その上の青い空に白い雲が浮かび、鳥が飛んでいたり、時々自動車が走ってきたり、犬を連れて散歩している人、忙しく何か荷物を運んでいる人、ジョギングをしている人などがいました。。

突然、それらの景色がそのままに、すべてが「一つのもの」に見えてきました。

それは、何が描かれているかよく分からない3Dの絵を見ているうちに、ふと眼の焦点距離が変わって、それまで見えてもいなかったある意味を持った図形が突然はっきりと浮かび上がってくるのに似ていたのかもしれません。

山や雲や家や木や道路端の草など、すべてのものがあるべきところにあり、通りすがりに出会ったすべての人がいるべきところにいます。

でも、ただ「一つのもの」があるだけなのです。つまり、何もなく、誰もいないのです。そして、それを経験している「僕」もいないのです。

普段、「個がある」と思っているのはアタマが勝手に思っているだけです。

真実は、そこにはただ全体だけがあり、実は、"個"というものはありません。

もちろん、"個"というもの、"自分"というものがあたかも実体を持って存在しているように思ってしまうアタマを人間が持っているということには大きな意味があるのですが、ここで言っているのは、真実は、"個"も"自分"も存在しないということなのです。

真実は、ただ一つの"いのち"としてすべてが当たり前に起きています。

でも、この何の変哲のない当たり前の景色、いつもと変わりない日常こそが、実は、奇跡そのものなのです。

そこに通りかかった人たちもそれぞれ、楽しい、あるいは、苦しいなどいろいろな思いや感情を抱きながらその場にいたのでしょう。

にもかかわらず、そこに唯一本当に存在したのは「みんな同じ"いのち"を共有している」という真実だけです。

「自分が存在している」とか「自分が存在していない」などということさえも、もはやどうでもよいことでした。

なぜなら、どのように思ったとしても、思った途端、それは単なる「思い」になってしまうからです。

私たちは存在の真実を直視するだけでよいのです。

そうしているうちに、突然、うまく表現できないのですが、親しさというか、愛おしさとともに、なつかしさとでもいうような感情がこみ上げてきました。

それは遠く離れた「故郷の家」に何十年もたってやっと帰ったような気持ちでした。

でも、それは錯覚でした。

真実は、私たちは私たちの「故郷の家」から離れたことは一度もなかったのです。

この世界のすべては、アタマの思いも含めて、ただ起きています。

ただ、全体、つまり、"いのち"があるだけです。

このように書いていても、「僕」など存在していないのです。





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初夢の悟り

初夢の悟り

あなたはいま同僚と一緒に宇宙ロケットから地球を眺めています。

その時、同僚が富士山のてっぺんのところを指さして、「これは何だ?」と訊きました。

あなたは何と答えますか? 山? 富士山? 

山や富士山というのは、アタマで地球のあるでっぱったところを勝手に“切り取って”そのように呼んでいるだけです。

でも、真実は、他から切り離された「富士山」というものが存在しているのではありません。

「富士山」と呼ばれているところは地球全体に繋がっています。

この地球にはどこにも、境目や切れ目はありません。

つまり、真実は、そこにあるのは「地球」という全体だけなのです。

次に、同僚が日本海のところを指さして、「これは何だ?」と訊きました。

あなたは何と答えますか? 日本海? 

日本海は世界中の海と境目なく繋がっています。もともと「日本海」という他から切り離された海が存在しているわけではありません。

では、正解は「海」でしょうか?

「海」も、アタマで水がたくさんあるところを勝手に切り取って、そのように呼んでいるだけです。

海は、水があろうとなかろうと、地球全体に境目なく繋がっています。

つまり、真実は、そこにあるのは「地球」という全体があるだけです。


宇宙ロケットが地球からかなり離れたとき、同僚が地球を指さしてあなたに訊きました。

「あれは何だ?」

あなたは何と答えますか? 「地球」?

地球は、太陽や月や火星や土星などの他の天体や星間物質と切り離されて、それだけで存在しているのでしょうか?

地球はこの宇宙のすべてと繋がっています。

この大宇宙にはどこにも、境目や切れ目はありません。

真実は、この世界には「大宇宙」という全体があるだけです。


宇宙ロケットは無事に地球に着陸しました。

その時、同僚があなたを指さして訊きました。

「これは何だ?」

あなたは何と答えますか? 人間? それとも、自分?

あなたが「自分」と呼んでいるものは先祖や両親を通して生まれてきます。

それをずっとたどっていくと、すべての人間、すべての動物や植物、そして、大自然、さらに、地球全体、宇宙全体に繋がっています。

そのどこにも境目や切れ目はありません。

真実は、「大宇宙」という全体があるだけです。

他から切り離された「自分」なんてないのです。

「自分」というのはアタマが勝手に作りだした妄想にすぎません。



例えば、手の5本の指の爪のところに、小さな視覚装置とコンピュータが埋め込まれているとします。

中指の視覚装置が他の4本の指の先の方を捉えて、コンピュータにデータが流れます。

コンピュータはデータを解析して、「みんなバラバラだ。ワイは他の4本の指とは分離した独立の存在だ。」と認識します。

中指のコンピュータには、真実は、5本の指が全部繋がっており、それがどこにも境目もなく体全体に繋がっているということが分かっていないのです。

この世界には、眼に見える見えない、姿、形にかかわらず、バラバラな個や「自分」というものはなく、ただ、全体である“いのち”があるだけなのです。

天地一杯の"いのち"。

それが本当の自分です。






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