プロフィール

昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

最新記事

カテゴリ

最新コメント

月別アーカイブ

最新トラックバック

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

QRコード

QR

ブロとも申請フォーム

今滞在されている皆さんの数

現在の閲覧者数:

これまで訪問された皆さんの数

自分はある? ない?  その1

自分はある? ない?  その1

眼が見えても見えなくても、自分は決して変わらない。体や心、さらには外界の状況はいろいろ変わることはあっても、自分自身は決して変わらない。なぜなら、体や心は着物のようなもので、それらを着ている自分自身ではないからだ。自分は体や心のずっと内側にあって、絶対不変で完璧であり、何があっても傷つくものではない。だから、どんなことがあっても、恐れることも心配することもないのだ。

以上は、僕が26歳のときの気づきを当時の僕の拙い言葉で表現したものです。

僕はその気づきを人生のテーマとして、その後もずっと暖めてきました。

その作業のなかで僕の存在の真実を見る眼はより明らかで大きくなってきました。そして、それにつれて、自分というものについての気づきを表現する言葉も膨らんできたように思います。

自分というものについて、今の僕だったら、「自分はない」あるいは「“自分”というコロッとしたものはない」と表現するでしょう。

ところで、仏教には「諸法無我」という言葉があります。

その意味は「この世界のすべての存在には永遠・不変な本性である我(実体)がない」ということです。ここで「我(実体)」というのは「それ自身によって存在するもの」という意味です。

ということは、「自分はない」ということになります。

ところが、仏教の創始者であるお釈迦さまは「自分はある」と言っているのです。

仏教の原始経典の一つである『サンユッタ・ニカーヤ』には次のように書いてあります。

「色(身体)は常に変わっていく。常に変わっていくものは苦しみである。苦しみであるものは自分ではない。自分でないものは我がものではない。これは我がものではない。これは我がアートマンではない。正しい智慧でもってこの道理をそのままはっきりと観なければならない。」

ここでは身体について書いてありますが、このあと、感覚、構想、意思、認識など心の作用について、同じように説法が繰り返されています。

以上から言えることは、自分というものについて、お釈迦さまは、「自分が身体であれ心を所有すること、そして、身体や心が自分である」ということを否定しているのであって、「自分はない」と自分そのものを否定しているのではない、ということです。

つまり、お釈迦さまは「身体や心は自分ではない」と言われているのです。

このお釈迦さまの言葉は僕が26歳のときに気づいたこととぴったりと符合しています。

ちなみに、「アートマン」というのはヴェーダの宗教で使われる用語です。

ただ、それは知るものと知られるものという二元性を超えているので、アートマン自身は認識の対象とはなりえないとされています。

したがって、アートマンは本来は「・・ではない」としか定義できないのです。

強いて「・・である」と定義するとすれば、「個の中心にあり、認識するもの」というような意味なのですが、本質は宇宙の根源である「ブラフマン」と同一であると言われます。

(つづく)





←クリックで応援よろしくお願いします

人気ブログランキングへ

三人の若者

三人の若者

昔々、三人の仲の良い若者がいました。彼らはいつもあだ名で呼びあっていました。

顔が長くてアゴがとんがった子は「イノ」と呼ばれていました。何となくイノシシに似ていたからです。

丸顔の子は「トン」と呼ばれていました。何となくブタに似ていたからです。

体が小さくて、まじめな感じの子は「エノ」と呼ばれていました。ただただ、エノキ茸が好きという理由からでした。

イノの家はあまり裕福ではありませんでしたが、ユーモアのセンスが優れていたので、将来はそれを活かして世の中で成功したいと考えていました。

トンはとても優秀で将来が約束されていたのですが、アタマが良すぎるためか、「どうしてこの世にはいろいろな苦しみがあるのだろうか? 自分だって病気になり、戦争で死んでしまうかもしれない。このままでよいのだろうか?」と精神的に悩んでいました。

エノは母親との二人の貧乏暮らしで、健気に物売りをしたりして母親を助けていました。それだけに、将来はぜひとも学問をし、真理を極めたいと思っていました。


さて、その後の三人はどうなったのでしょうか?

まず、イノは都会に出ました。いろいろな苦労の末、ついにはお笑いの世界に飛び込み、ある有名なプロレスラーに顔が似ているのが幸いして、結構人気のあるタレントになりました。

トンは何が何でも苦しみを解決しようと家出しました。そして、何年間も瞑想、ヨガ、滝行、回峰行などあらゆる苦行を一心不乱にやりましたが、彼の疑問に対する答えを見つけることはできませんでした。

ついに、絶望のあまり何をする気力もなく、何日も大きな木の下にボーッと坐っていました。ところが、何ということでしょうか。ある未明に突然、大きな閃めきを得たのです。

「肉体や心を含めてすべては常に変わっている。変わるものは自分ではない。変わるものはコントロールできない。コントロールできないものに執着するから苦しむのだ」と。

こうして、彼は人生の苦から完全に解放されたのです。そして、彼の話の聞きたいという人々が彼のもとに少しずつ集まってくるようになりました。

その集まりは年を経るごとに大きくなりました。そして、ついには、何と世界3大宗教の一つとなったのです。涅槃に入ったとされる彼自身も、さすがに、これにはびっくりポンではなかったでしょうか。

さて、エノはある日町で行商をしているときに、向学心のあまりに、道端で一人のお坊さんが詠んでいるお経に耳を傾けていました。そして、「まさに住する所なくして、しかもその心を生ずべし」という一句を聞いて、突然大悟したのです。

「本来は何もないのだ。汚れたり傷ついたりするものなんて何もないのだ」と。

まさに彼は天才でした。その後、彼は禅の大師に見出され、師の後を継いで数多くの優秀な禅の指導者を育てました。

後年、三人はあらためて義兄弟の契りを結び、お互いを親しく、また、尊敬の念を込めて、「アントキノ・イノチ」、「アントキノ・ブッタ」、そして、「アントキノ・エノウ」と呼び合うようになりました。


さて、みなさんは3人のなかで誰が一番好きですか?



僕は3人とも大好きです。





←クリックで応援よろしくお願いします

人気ブログランキングへ

不思議なガラス板  その6

不思議なガラス板  その6

これも愛 あれも愛

たぶん愛 きっと愛

これは『水中花』という歌謡曲の冒頭です。作詞は五木寛之さんです。さすがですね。

と言っても、僕はこの歌に興味があるのではありません。

不思議なガラス板の左側しか見えなかったときは、

「これはこれ あれはあれ それはそれ」と、ぜんぶバラバラに見えていました。

けれども、ガラス板の右側から見ることを知ってからは、

これも“いのち“  あれも“いのち“

それも“いのち“  みんな“いのち“

と見えるようになりました。

それまで見たり考えたりしたことはすべて間違いだったのです。

部屋のなかで静かに目を閉じて坐っていると、どこからかウグイスの鳴き声が聴こえてきます。

遠くを走る車の音も聴こえます。

玄関から外に出ると、我が家のネコたちが走りよってきます。

庭には色とりどりの花が咲いています。

畑には菜の花がたくさん咲いています。

目を上げると青空を背景に山桜が満開です。

風に舞いながら無数の山桜の花びらが次から次に大地に下りてきます。

森も雲も大地も春ののどかな光のなかに“いのち“の悦びに燃え上がっています。

この世界は五感と大脳の理屈で捉えた死んだ世界ではなく、まさに生きた世界です。

この世界はバラバラ世界ではなく、一つの世界です。

この世界はキメの粗い世界ではなく、実に精妙な世界です。

この世界は何かとすぐに行き詰まってしまう世界ではなく、どこまでも行き詰まりのない世界です。

この世界の本質は愛であり、すべて完璧です。

普通、私たちは自分の小さなアタマであれこれと“はからい”、しょっちゅう“もがき”ながら生きています。

けれども、この愛の世界では、“もがき”や“はからい”があるなしには拘わりなく、すべてのものが一瞬一瞬あるがままに必然性をもって展開しています。

この世界にはすべてを生かそうという大きな愛の力がはたらいています。

この大きな愛の力のなかでは、自分の小さなアタマによる“もがき”や“はからい”など何の意味も持ちえません。

それをもし、「意味がある」と言うとすれば、それは浅はかな自己満足にすぎません。

この大きな愛の力は自分と切り離されたものではありません。

私たちの五感や大脳では捉えることができませんが、この大きな愛の力こそが自己の本質なのです。

すべてを自己の本質であるこの大きな愛の力自体のハタラキに任せて生きることこそ真実の生き方です。

春の穏やかな日には外に出て自然の中に身を置いてみましょう。

そして、花や木や草や空や雲、車、人、建物など、なんでも眼に入るたびに、「“いのち“」と呼びかけてみましょう。

そうすれば、あなたにも簡単に実感できるでしょう。


これも“いのち“  あれも“いのち“

それも“いのち“  みんな“いのち“


左側から見ると、山河大地 日月星辰あり

右側から見ると、一心のみなり 


存在の真実は、必ずしも厳しい修行によってのみ会得できるというものではありません。





←クリックで応援よろしくお願いします

人気ブログランキングへ

不思議なガラス板  その5

不思議なガラス板  その5

般若心経のなかに「色即是空」「空即是色」という言葉があります。

「色」は「現象の世界のあらゆるもの」を意味しており、それが「空」、つまり、「空っぽである」というのです。

「空っぽである」というのは、「本当に何もない」という意味ではなく、「五感と大脳では捉えることができないので、何もないように見える」ということです。

ですから、その本当の意味は「五感と大脳では捉えることのできないもの」ということです。

その「五感と大脳では捉えることのできないもの」を僕は“いのち“と呼び、仏教では「空」、あるいは、「心」と呼んでいます。

「(無限の」エネルギー」、あるいは、「(無限の)気」と呼んでもよいでしょう。

ところで、アインシュタインの相対性理論では、
「エネルギー」=「質量」×「光速度の2乗」となっています。

これは物質の質量の消失はエネルギーの発生であり、エネルギーの発生は物質の質量の消失を意味する」ということです。

簡単に言えば、「エネルギーは物質になり、物質はエネルギーになることができる」ということです。

私たちの五感と大脳による認識能力の限界はともかく、このように現代物理学により確かめられた真理から言っても、「色=空」、「空=色」ということは、もはや当たり前の常識となってもおかしくないのではないでしょうか。

つまり、不思議なガラス板の左側から見たこの現象世界のすべての存在とハタラキはガラス板の右側から見れば、左側から見た姿かたちのままで、同時にすべて同じ一つの“いのち“であると言っても、それは当たり前のことではないでしょうか。

それでも、五感と大脳のハタラキを過信するあまり、「目に見えるものしか存在しない」という固定観念に捉われていれば、存在の真実など絶対に理解することも、体験的に捉えることもできないでしょう。

その場合に、とくに問題となるのが大脳による「思考」です。

大脳は五感に基づいてどこまでも相対二元的にしか思考できないので、「この世界は4次元の世界であり、その中のすべてのものはバラバラである」としか認識できません。

つまり、思考自体が4次元を超えた絶対一元の存在の真実を知的に捉えることさえ大きく妨げているのです。

「存在の真実は思考を通してではなく体験的に捉えるしかない」とこれまでも度々言ってきたのはそういうことです。

思考が停止すれば、自然に存在の真実を体験として捉えることができます。僕の勧める正しい瞑想を実践されている方はそれを実感されていると思います。

もちろん、あるところまでは知性を正しく使って、これまで書いてきたような仕組みを充分理解することが必要です。

でも、それから先は体験する以外にはないのです。

もう一つは、自然の中に在って、花や木や雲などをじっと見ることです。

そうすれば、向こうのほうから、「僕らはみんな同じ一つの“いのち“だよ」と教えてくれるでしょう。


明らかに知りぬ

心とは山河大地なり 日月星辰なり





←クリックで応援よろしくお願いします

人気ブログランキングへ

不思議なガラス板  その4

不思議なガラス板  その4

大脳が思考に使用する言葉は4次元の世界における存在のすがたを相対二元的にしか表現することができません。

その例として、前のブログで「自分」「他」「繋がり」「関係」という言葉をあげましたが、その他に「部分」「全体」という言葉について考えてみましょう。

4次元、相対二元の世界では「部分」と「全体」はある意味では対立する概念です。

ちなみに『広辞苑』によると「部分」とはつぎのようになっています。

1 着目する全体の中を分けて考えた一つ。全体の中の1ヵ所。

2 全体の中に含まれているもの。

けれども、私たちの五感と大脳が捉える世界は9次元、11次元とも言われる存在の真実の断片にすぎず、それで「存在の真実はこうだ」と言えるものでもなく、かえって、真実を誤解することにもなりかねません。

たとえば、目の見えない人が象の鼻だけを触って、「象というものはホースのようなものだ」と判断し主張するならば、それは象の存在の真実とはおよそ食い違ったものになってしまうのと同じです。

存在の真実を体験的に捉えると、実は、「部分は全体であり、全体は部分である」、あるいは、「部分は部分でありながら、同時に全体でもある。全体は全体でありながら、同時に部分でもある」と、矛盾したような表現をせざるをえません。

でも、それが存在の真実です。それが奇妙に思えるのは4次元の世界で使われる「部分」「全体」という言葉自体が表現能力に限界があるからなのです。

いずれにしても、存在の真実は「部分は全体であり、全体は部分である」ということです。

別の表現をすれば、存在の真実は「この世界はホログラム的である」と言えるでしょう。

ホログラフィーとはレーザー光線を使った立体的な映像を作る技術のことです。ホログラフィーを使ってできた立体映像、あるいは、そのフイルムのことを「ホログラム」と言います。

ホログラムは写真のようにフイルムに記録されています。

たとえば、フイルムに一匹のネコをヨコから撮影した姿が映っているとします。

それをネコのお腹の付近でタテに両断して、例えば、フイルムの頭と首と胸の写った左側半分だけを取り出して、それにレーザーを当てます。

そうすると、ネコの頭から尻尾の先までの全身像が再現されます。右側半分に切ったフイルムでも同じことが起きます。

実は、フイルムの中のどの一部分を切り取っても、それだけを取り出してレーザーを当てると全体の像が再現できるのです。

つまり、ホログラムはどの部分もそのまま部分でありながら、同時に、全体の情報がそっくり含まれているのです。

私たちの日常の言葉では存在の真実について適格に表現することは非常に難しいのは事実ですが、このように、物理の世界ではすでに「部分は全体。全体は部分」という現象の一例が実証されています。

そういう意味で、「この世界では部分は全体であり、全体は部分である」と言っても決して荒唐無稽なことではないのです。





←クリックで応援よろしくお願いします

人気ブログランキングへ

不思議なガラス板  その3

不思議なガラス板  その3

五感と大脳を通すと、この世界は空間3次元・時間1次元の4次元の世界だと認識されます。

このように4次元として認識された世界の存在はもともとすべてバラバラで切り離された存在であると大脳は捉えます。

したがって、大脳による思考もそのために使用される言語も4次元世界においてすべてはバラバラであるということを前提として、すべてを二元相対的にしか思考することも、また、表現することもできません。

ところが、現代の進んだ物理学によれば、この世界は11次元の世界であると言われています。

それが存在の真実であるとすれば、これは私たちの通常の感覚や思考では捉えられない世界であり、私たちの通常の言葉では表現不可能であるということを意味しています。

現代物理学の話はともかく、存在の真実は、思考ではなく、深い瞑想状態にある時や、何かのきっかけで通常の思考が停止状態にある時に、一元絶対の世界を体験的に捉えることができるのです。

つまり、私たちの思考では存在の真実を捉えることはできないのであり、存在の真実は言葉によって正確に表現すること不可能であるということです。

そして、存在の真実を表現しようとすると、言葉による表現の限界そのものによって、存在の真実の姿がゆがんでしまうばかりでなく、思考さえもゆがめられて、ますます存在の真実から遠ざかってしまいます。

たとえば、「自分とは何か?」という問いを発する場合に、すでにその問い自身に間違い、あるいは、限界があります。

それは「自分」という言葉はすでに「他」というものを前提にして、「他とは別の」という意味を含んでいるからです。

存在の真実を徹見すると、「他とは別の」ものなど存在しないので、「自分」という言葉自体が存在の真実に反してしまい、「自分とは何か?」という問い自体が意味を成しません。

では、「自分はこの世界のすべてのものとぶっ続きである」という表現はどうでしょうか?

これも「自分」という言葉を使っているかぎり、せいぜい「他とは別の存在である“自分“という存在は何らかの形や意味いおいて、“自分“とは別の存在であるすべてのものと”繋がり“がある」という意味にしか取ることができません。

そもそも、「繋がり」という言葉自体が「複数の別々の存在がある」ということを前提として使われています。ですから、厳密に言えば、「もともと別々のもの間に何かの相関関係がある」という意味にしか解釈できません。

存在の真実においては、「自分」も「他」も「繋がり」も「関係」などというものも最初から存在しません。

たった一つのものが在るだけです。

それは“いのち“です。

この世界にはたった一つの“いのち“というものしか存在しません。

4次元的には、“いのち“がいろいろな綾模様のように見えていますが、この世界自体が一つの“いのち“であり、複数の異なる“いのち“が個として存在しているのではないのです。





←クリックで応援よろしくお願いします

人気ブログランキングへ

不思議なガラス板  その2

不思議なガラス板  その2

不思議なガラス板の左側の景色は五感と大脳によって捉えられたこの世界の姿です。

けれども、五感と大脳はこの世界を空間のタテ・ヨコ・高さの3次元と時間の1次元を合わせた4次元の世界であるとしか認識することができません。

五感はそれらを通して捉えた情報だけを大脳に伝達します。また、大脳は五感による情報に基づいて4次元の世界を認識・判断するようになっています。

つまり、大脳はこの世界の存在を二元相対的にしか思考することができません。

その結果、私たちは五感と大脳のハタラキによって、この世界は4次元の世界であり、この世界をもともとバラバラで別であるものを寄せ合わせた世界であると認識するのです。

それに対して、五感や大脳のハタラキに捉われずに、不思議なガラス板の右側からこの世界を見ると、五感で捉えたすべての存在はそのまま見えていながら、同時に、そのすべてがバラバラのものではなく、同じ一つのものであることが、理屈ではなしに、はっきりと見えます。

その同じ一つのものは何と表現したらよいのでしょうか? 私たちの大脳は二元相対的にしか働かないので、それをうまく表現できる適切な語彙が見つかりません。

それで仕方なく、和田重正先生にならって、僕も“いのち“という言葉を使っているわけです。

多分、仏教で使われている「空」や「心」も同じものだと推察しているのですが、私たち現代人にイメージが湧きやすいように、「(すべての存在の本質、あるいは、根源である無限の)エネルギー」とでも言えばよいのかもしれませんね。

「エネルギー」という言葉の代わりに、「気」という言葉でもいいかもしれません。

いずれにしても、五感や大脳を通してみるとこの世界のすべてのものはバラバラに見えて、いろいろたくさんのものがあるように見えています。

けれども、右側の世界から見えることは、この世界は一つの“いのち“で成り立っているということです。

いくつものものがあるのではありません。

いくつものものが、それぞれ個を保ちながら、すべて「繋がっている」、あるいは、「関連し合っている」ということではないのです。

たとえば、「自分」というものがあって、その自分が、実は、この世界の他のすべてのものと「関連し合っている」というのではありません。

「自分」なんてないのです。

「他」なんてないのです。

「自他がない」というのはそういう意味です。

要するに、“いのち“しかないのです。

にもかかわらず、この世界のなかの姿かたちの異なった人間がそれぞれ、五感と大脳のハタラキによって、「自分」、「他」などと意識しながら生きている事実には深い意味があるのだと思います。

この事実の意味を本当に理解したときに、はじめて私たちは「自分とは何か?」「自分は何のために生まれてきたのか?」「自分はどう生きればよいのか?」ということをはっきりと自覚することができるでしょう。





←クリックで応援よろしくお願いします

人気ブログランキングへ

不思議なガラス板 

不思議なガラス板  
  『もう一つの人間観』和田重正著 地湧社 より抜粋

特殊なガラス板が立っている。

その右側からは左側の様子が最大も漏らさず透けて見えるが、左側からは右側の様子は全く見えない。従って、左側にいる人はガラスの向こう側には何もないと思っている。
ところが、実は右側には「意味」の詰まった“いのち“が充満しているのだ。この“いのち“の中からは左側の風景が手に取るようにわかる。

 物の存在の本質と真相は、左側にあってどんなに精密に観察してみても捉え得るところではない。所詮分断孤立を更に再分化するだけで、どこまで行っても不可分一体そのものの証明にはならない。

 しかし、細分化の極に至ったときに、そこから存在の究極的な実相を推測することはあり得る。

 近年、科学者であると同時に宗教者である人々が科学と宗教の融合点を指摘し、宗教諸説の科学的合理性を立証しようと試みることがあるが、左側に立っての推測は右側に身を置いて得る実感とはまるで異なるものであることを無視しては誤りに堕ちる。

 しかし、左側の風景は右側の内容と無関係でないことはもちろんである。

人は、右側の世界に充満している“意味”を五感という特殊ガラスを透して、左側の時間空間の枠に具象化して投影したものを大脳が捉えて、「これは我」「あれは彼」と認めているのである。そして、その風景にのみ関心が集中しているわけだ。

もしこの理を納得したならば、誰でも直ちに右側の大調和の世界を体験し、すべてのこだわりを脱して自由を得るにちがいない。その自由の中でこそ、何億年かけてわれわれが単細胞時代以来の進化の途上で蓄積してきた無量の智慧が、われわれの現実の生活に発動するのである。

五感と大脳という特殊ガラス板を作った造化の妙。

このガラス板成立の進化論的意義を解明する人があるだろうか。―――そこから文明論が展開するのだが。

(中略)

この不思議なガラス板はどのようにして成立したか。それはやや複雑な仕組みだが――
要するにヒトという生物が進化の過程の中で次の段階に進むのには、この五感と大脳を頼りに欲望の無限の拡大を計らなければならなかったのだろう。

しかしその行先は行き詰まりであり、自滅であることに気づき、“いのち”の実相に自ら気づく、という面倒な過程を通り、そうして次の段階、つまり自覚ある生物という種を生ずることになる。

 この過程を経験するために、ヒトは科学というものを手がけ、それを体系化し、更にそれを実用に供するために科学技術を発達させ、今日のような科学文明を展開したわけである。

 こう考えてくると、途中順調に発達してきた科学はその出発点において何らかの矛盾を含んでいたに違いない、と想像される。そこで気がつくのは、科学は何を目指して発達して来たのかということである。

(中略)

 物質による五感の満足ということが現実にあり得るかどうか、もしあり得るとしても、その満足でヒトが本当の幸福を得られるものであろうか、この点で大きな見落としがある。

――この見落としにヒトが気付いたとき、自分も、他物と思っていたすべての存在も全部、不思議なガラス板の右側の存在であることに気づく、つまり自覚した生物になるというわけである。

(以下略)

(昇平追記:冒頭に書きましたように、以上の文章は恩師和田重正先生がお書きになられた『もう一つの人間観』地湧社刊からの抜粋です。御書はまさに人類の未来を照らす“現代のバイブル”であり、万人必読の書であると思います。)





←クリックで応援よろしくお願いします

人気ブログランキングへ

| ホーム |


 ホーム