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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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自観法あれこれ その5

自観法あれこれ  その5
(その4からの続き)

いま、僕は今朝の体験を思い出しながら、これを書いています。

朝、かなり早い時間に眼が醒めたのですが、そのまま寝床で仰向けになりながら自観法をやってみようと思いました。

眼はつぶったままでしたが、眠気はほとんどありませんでした。

家の外からウグイスやその他の小鳥の鳴く声が聞こえてきます。それをただ意識しています。

この「意識」というのはどういうことかと言いますと、それは「聴いている」というよりも、「聴こえている」といったほうがより適切な表現でしょう。

というのは、小鳥の声を「聴こう」として「聴いている」わけではないからです。

でも、確かに「聴こえている」わけですから、それを「聴いている」もの、つまり、主体が“自分”ということになります。

それで、「では、主体である“自分”というのは?」と、こちら側の奥に気を向けてみると、その“自分”は感覚としては、静寂で、透明な空間、姿も形もなく、“なにもないもの”としか言いようのないもの、であることがわかります。

その“なにもないもの"がただいろいろな小鳥の鳴く声を聴いています。

そこに、ふと、「あれは何という鳥だろう?」という思いが浮かんできます。

でも、それを相手にしないでいると、気がつくといつの間にか消えてしまっています。

しばらくして、また、「今日は寒そうだな」という思いが浮かんできます。

それを相手にしないでいると、その思いもいつの間にか消えてしまっています。

それは、ちょうど、青空に現れた白い雲のように、時々現れてくる思いは、それをただ見ているだけで、そのまま相手にしないでいると、いつの間にか消えてしまいます。

自観法をやってみれば、思いや感情は雲のようにはかなく、力がなく、実体のないものだということがはっきりと分かります。

思いや感情は、それを相手にし、それを何とかしようともがいたり、それらに巻き込まれてしまうと、とても強固で、どうしようもないものであるように感じられますが、真実は、何の力もなく、浮雲のようにはかないものでしかないのです。

さて、それから、起床して、しばらくして、庭を眺めながら自観法をやってみました。

庭の緑がかった芝生の向こうに、梅や桃などいろんな花が咲いています。

その事実をただ眺めています。そこにはただ事実だけがあります。

眺めている主体である“自分”のほうに気を向けてみます。でも、そこには何もありません。

というか、“なんでもないもの”、があるだけです。それは“いのち”です。

ときどき、浮雲のように、思いが浮かんできます。

それを、相手にしないで、ただ眺めているといつのまにか消えていきます。

思いや感情が “自分”なのではありません。

目の前に、“いのち“の表現として、次々に事実の世界が展開され、それを “いのち”である“自分”がただ眺めています。

(終わり)





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自観法あれこれ その4

自観法あれこれ その4
(その3からの続き)

自観法は特殊なことを、たとえば、わざわざ昔の嫌だったことを思い出して、それを克服しようなどということを目的としてやる行ではありません。

まずは、普通のありふれた日常の中で、ごく普通の状況の中で、浮かんでくるアタマの思いをただ傍観するのです。

その第一の目的は、感情も含めて、思いは自分ではなく、それをただ見ているものこそが自分であることに明瞭に気づくことにあります。

第二の目的は、第一で気づいた本当の自分は、絶対的に透明で、静寂で境い目がなく、無限に広がっている空間であり、どんなことがあっても絶対に傷つくはずのものではなく、不生不滅の“いのち”そのものである、ということに気づくことです。

自観法に十分に習熟していくと、何かにつけて、自観法を無意識にやっているようになります。

そうしているうちに、気がついてみると、何かマイナスの感情にとらわれた時に、無意識のうちに自観法をやって、その感情が瞬時に消えるということも起きてきます。

自観法をやってみるとよくわかりますが、意識されているもの(客体)と、それを批判や批評や反省なしにただ意識しているもの(主体)は異なるものです。

つまり、体や思いや感情が自分なのではなく、それを意識している主体こそが”自分”です。

自観法をやっていると、その“自分”は形も姿もなく、どんなことがあっても傷つくことのない不生不滅の”大いなるいのち”であることが、はっきりとわかるようになります。

それは、個としての“自分”などどこを探してもないということです。

この世界にはただ全体としての“いのち”だけがあり、それがいろいろな姿、形として現れています。

大いなる“いのち”がこの体を使って動いたり、この眼を使って見たり、この耳を使って音を聴いたりなど五感を使っていろいろな感覚を得たり、このアタマを使って考えたり、感情を生じさせたりしています。

しかも、この体やアタマや、五感、思考、感情、感覚などもすべて大いなる“いのち”の現れです。というか、大いなる“いのち”そのものです。

それはこの世界のすべてについても同じです。

この世界のすべては大いなる“いのち”の現れであり、大いなる“いのち”の一人芝居がこの世界です。

そして、その大いなる“いのち”こそ“自分”なのです。

つまり、すべては大いなる“いのち”である”自分”のなかで、すべてがただ起きています。


以下、自観法を実習したある方の感想です。

朝、散歩に出て周りを眺めると、春霞の山々や街、空や木々が実に鮮明に映り、風の音・小鳥のさえずりなどすべてが調和し、今までにないような新鮮さが感じられました。

と同時に身の回りや社会の現象などがとてもクリアーに観えてきました。今まで何と自分の色眼鏡で見たり、フィルターをかけて見てきたことかと思いました。感情移入されないというか、感情に振り回されない冷静さでしょうか、とても穏やかな心境でした。

(続く)





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自観法あれこれ その3

自観法あれこれ  その3
(その2からの続き)

痒みだけでなく、痛みなどの感覚についても同じです。事実としては、ただ痛みがあるだけなのに、自分が痛いと思ったり、事実としての痛みに「苦しい」というような余計な思いや感情を重ねるために、痛みが増幅されて感じられるのです。

いずれにしても、この社会で生きていく中にはいろいろな痛みがあります。けれども、自分が苦しいのではなく、また、事実の中には「苦しみ」はありません。

事実としてあるのは「痛い」という感覚だけで、「苦しい」というのは人が「痛い」という事実に、勝手に重ねた思いや感情であり、「苦しい」という事実があるわけではありません。

多くの人がこの簡単な真実を理解しないで、社会的なことや個人的なことで、洗面器に張った10センチの深さの水に自ら顔をつけっぱなしにして、「自分は苦しい、苦しい」ともがき騒いで、自分だけでなく、周りの人にも迷惑や混乱を引き起こしています。

自観法は時や場所や状況を選ばずに、ごく普通の日常生活の中でやることが基本です。

たとえば、「これこそ自観法の格好の材料になると思ってやってみよう」とか、とか、「はっきりとしない感情だと、自観しづらいのではないか?」とか、「怒りのようなはっきりとした感情なら、自観しやすいのだろうか?」というように自観法の材料や状況を選んでやるということが、そもそも、自観法について根本的に誤解しているのです。

基本的には、自観法は何かを集中してやっていて自観法をやると仕事に差し支えるときや、自動車の運転中など危険性があるときなどを除いて、自分の思いを観察できるような状況にあるときにはいつでも(それには、プラスあるいはマイナスの感情が出てきたときなども含まれますが、)材料や状況を選ばずに、機会があればいつでも、さりげなくやることが基本です。

それはアタマに浮かんでくる思いをただ意識しているだけであり、ただ、眺めているだけであり、ただ、そっくりそのまま、批判や批評や反省などをすることなく、受け止めているということです。

どんなときでも、はっきりしないものははっきりしないままに、はっきりしているものははっきりしているままに、もやもやしているものはもやもやのままに、強烈な感情は強烈な感情のままに、そのまま、ただ、眺めているだけです。

また、自観法をやるときには、はっきりと目が覚めていることが必要です。

ですから、夜寝床に入ってやったり、朝、目が覚めて、まだ眠いのにそのまま寝床で自観法をやるというのは望ましくありません。

また、過去にあったことをあれこれ思い出しながら、それをじっと見ていようとすることも、自観法としては望ましくありません。

それから、自観法に習熟するまでは、強いネガティブな感情に囚われているときなどはやらないほうがよいと思います。強いネガティブな感情に巻き込まれてしまい、自観法の効果について自信がなくなったり、疑いが生じる懸念があるからです。

(続く)





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自観法あれこれ その2

自観法あれこれ  その2
(その1からの続き)

自観法をやるときに、自観しているという思いがなくなってしまって、瞑想と同じようになってしまう、とか、眠くなってしまう、というようなことについて、繰り返しになりますが、もう少し説明しましょう。

たとえば、僕が推奨している只管打坐式瞑想法においては、何も求めず、呼吸や体の特定の箇所など何かに集中することなしに、体の感覚や思いなど起きていることを、どうこうしようという意図なしに、ただ、起こるがままにしておきます。

「任せる」ということがポイントですから、時には、眠くなっても、やむをえないと思います。

けれども、自観法では覚めていることが肝要です。うっとりして眠くなるようではダメです。また、自観法をしている時には、自観法をやっていることをはっきり自覚しながらやらなければ、正しいい自観法にはなりません。

そのためには、まず自観法に習熟するまでは、1回の実習を1分から3分間ぐらいを限度にやるとよいでしょう。

長い間、自観法をやっていると、最初の内は、浮かんでくる思いをただ眺めていたのが、いつのまにか、浮かんでくる思いにいろいろな思いを重ねて見てしまっているということが起こるからです。

そういう場合にも、そのようにして新たに出てきた思いをただ眺めていられればよいのですが、これではいけない、とか、何とかしよう、などと思い、最初の思いと後からの思いが格闘したりして混乱状態になってしまいます。これでは、自観法ではなくなってしまいます。

また、普段、瞑想をやっているために、自観法をはじめると、思いそのものが消えてしまったようになって、自観法ができない、なんだか自観法をしたような気がしない、というような方もいます。

これは、そのまま続ければよいのです。つまり、そのような気分をただ眺めていればよいのです。

さらには、次のように言う方もいます。

「体の一部が痒くて掻いているのですが、掻きながら痒いという思いを自観するとその思いが消えて、痒みも感じなくなった気がします。全く何も感じなくなったというより、痒いという感覚にリアリティがなくなったという感じです。」

これは、自観法を実習している方に顕著に起きる大変望ましい現象です。

というのは、多くの人は起きていることに余計な思い、つまり、妄想を重ねて見ていますので、一つ一つのことについて、事実以上に誇張したり、ゆがめたりして感じてしまいがちだからです。

痒いという事実はただ痒いという事実であり、それ以上のなにものものではありません。

ところが、多くの人は痒いという事実に、思いによって、「自分が痒い」、「だから自分がつらい」、「イヤだ」とか、「このまま治らなかったらどうしよう」などというような感情を重ねて見るために、大変なことが起きていると感じてしまうのです。

事実は事実。ただ痒いだけ。それ以上のなにものでもでもありません。自分が痒いのではありません。思いは事実ではありません。

莫妄想(妄想なし)。




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自観法あれこれ その1

自観法あれこれ  その1

自観法というのは、日常生活のなかで、何かに集中しなければならないときや危険な状況にあるときなどを除いて、いつでもよいのですが、毎回1分間から3分間ぐらい、浮かんでくる思考や感情などの思いを、批判したり、批評することなしに、ただ、“もう一人の自分”が見るという“行“です。

この自観法はとても簡単で容易にできる行ですが、禅やヨガ、その他の瞑想など、存在の真実を体得するためのいろいろな優れた行のエッセンスとも言える実に効果的な行です。

自観法をやると、これまで“自分”だと思っていたのが、実は、“自分”ではなかったこと、そして、その思いをただ見ている”もう一人の自分“こそ、”本当の自分”だと分かります。

さらには、その、”本当の自分”はというと、無色透明で絶対に静寂な無限に広がった空間、形も姿もない空っぽ、なにものでもないもの、とでも表現するしかないもの、すなわち、僕がいつも言っている“大いなるいのち”であることにはっきりと気づくことができるのです。

自観法の目的は、存在の真実、すなわち、身体やアタマの思いや感情は自分ではなく、 “大いなるいのち”こそ“自分”であり、その“自分”はどんな状況においても絶対に傷つくことなく、死ぬこともない永遠の存在であることに気づくことにあります。

このことが、はっきりすると、どんなことが起こっても、感情に振り回されることもなく、一切の苦しみから解放されます。

そんなことがあるのか?と思われるかもしれませんが、毎日、1回に1分から3分、何回か実習していくと、上に書いたようなことを確実に体験的に捉えることができるでしょう。

ただ、やり方は実に簡単なのですが、それだけに、勘違いや見当違いの思い込みを持ってやると、ちゃんとした成果が出ないこともありますので、これからいくつかの注意点やポイントについて書いていきます。

まず、自観法は特別にあらたまった気持ちでやらないことです。日常生活のごく普通の場面で、さりげなく、無邪気に、起こってくる思いを、ただ眺めていればよいのです。

また、自観法をやっていると眠くなるという人もいますが、自観法では覚めていることが肝要です。うっとりして眠くなるようではダメです。また、自観法をしている時には、自観法をやっているのだということをはっきり自覚しながらやらなければ、自観法にはなりません。

せいぜい、毎回、1分から3分ぐらいやればよいのですから、はっきりと目が覚めていることは難しいことではありません。

自観法をやっていると、瞑想のときと同じように、うっとりして、思いを見ている意識もなくなってしまうという人がいますが、それは1回にやる時間が長すぎるからです。

また、「自観法は瞑想とは違う」ということを、始める前に確認してから実習するとよいでしょう。

といって、気張って自観法をやらないようにしてください。ただ、無邪気に、浮かんでくる思いをただ眺めるだけです。

(続く)





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いまどきの盤珪さん その4

いまどきの盤珪さん  その4
(その3からの続き)

ここまで説明してきたように、ストレスや心配や不安感や恐怖感は、本来、環境に適応しながら個体的生命を全うするために、人間にもともと備わっている、なくてはならない本能としての機能です。

ところが、人間はアタマを持っているために、事実はそれほど深刻でないことを大変な状況であるとか、将来のことについて過度に悲観的な見通しを立てたりといった傾向があります。

そのために、本当はそれほどストレスや心配、不安、恐怖などの感情を抱かなくてもよいような状況においてさえも、それらの感情を強く、いつまでも抱き続けるというようなことが起きてしまいます。

そして、そのために、それが逆にアタマによる状況認識や判断を狂わせます。さらには、そのようにして狂った状況認識や判断によって、本来は、個体的生命を全うするために本能的に正常・健全に働くはずの第一の脳や第二の脳の働きが狂わされて異常になり、それが心身の変調を引き起こしたりします。

これらの現象、あるいは、問題が生じてくる根本の原因は人間というものに対する根本的誤解にあるのです。

大自然を観察してみればすぐにわかることですが、大自然を大自然として成り立たたせている力はたえず全体が調和するように働いています。

そして、何か異常な状況が生じたときにはそれを自動的に調整するように働きます。その力を盤珪さんは「仏心」と呼んでいます。

大自然は仏心のハタラキそのものです。それは大自然の中に生まれた人間についても同じです。

人間の本質は仏心です。ですから、人間の体ももともと自動的に健康を保ち、体に異常が生じた場合にでも、それを自動的に調整し、修復する力が備わっているのです。

その自然健康調整機能によって人間の祖先は、何千万年もの間、種の生命を維持し進化を続け繁栄を勝ち得てきました。

これこそ私たち人間の健康生活の原理であり、この原理に即して、私たちに本来備わっている自然健康調整機能がより活性化するように生き方をすることによって、私たち自身の健康を全うしていこうというのが「野口整体」の考え方です。

野口整体の創始者である野口晴哉先生は「人間にはもともと自ら体を整え健康に生きる機能が備わっている。その力を自覚し、それが十全に発揮するように、他に依存しないで、アタマでなく“天心“で生きることが健康生活の原理である」と言われています。

この天心こそ盤珪さんの言うところの自己の本質である仏心です。

心についてもまったく同じです。

他に依存することなく、アタマで妄想することなく、自己の本質である仏心(天心)で生きることが健康で幸せに生きる唯一の道です。

そのように生きれば、第一の脳も第二の脳だけでなく、さらには第三の脳であるアタマも正常・健全に働いて、その本来の機能を十分に発揮できるので、自ずから周りとも調和して自己を十全に活かした生き方となり、自分のみならずみんなが幸せに生きることができるのです。

(終わり)





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いまどきの盤珪さん その3

いまどきの盤珪さん  その3
(その2からの続き)

もう少し盤珪さんの言う「仏心」について考えてみましょう。

盤珪さんは「親が生み付けたものは仏心一つである」と言っています。

これは、この世界、この大自然を顕現し、そこにはたらいて、すべてに調和をもたらしている力、すなわち、「仏心」こそが自分の本体である、ということです。

ということは、まず、体、そして、普通「心」と呼ばれているものは自分の本体ではない、ということです。

では普通「心」と呼ばれているものは何でしょうか?

それを考える前に、私たち人間の脳について大まかに説明しましょう。

人間の脳はその進化の過程で順番に発生した3つの層から成り立っています。

第一の脳は2億年前のハチュウ類時代にできた、体の働きに関わる「ハチュウ類型脳」です。

第二の脳は1億5000年前の原始ホニュウ類時代に完成した、主に、感情の働きに関わる「原始ホニュウ類型脳」です。

第三の脳は2万年前の現生人類が誕生したときに突然できた脳で、主に、思考に関わる「新ホニュウ類型脳」で、人間にだけ特有の発達した大脳、つまり、僕の言う「アタマ」です。

まず、第一の脳は、人間の本体である、すべてに調和をもたらすように働いている「仏心」に無条件に沿って、つまり、本能的に体のすべての働きを調整します。

第二の脳は、体が周りの環境と調和しながら、うまく働いているときには、楽しい、嬉しい、気持ちが良いなどの快感を発し、「うまく行っているのでこのままの調子でよい」などと知らせてくれます。

うまく働いていないときには、ストレス、心配、不安、恐怖などの不快感を発し、「このままではまずいので、何とかして」などと知らせてくれます。

たとえば、ストレスは「どうもうまく行っていないよ。このままでは体も大変になるよ」などという警告のシグナルです。

恐怖感は、敵が現れたとか、高いところに立っているときとか、足場が不安定なときなど、何か危険な状況にあるので、「あぶない!」と警告を発っしているのです。

不安感は、森の中で道に迷ったときなど、何かこのままでは大変なことになるかもしれないようなときに、「気をつけて!」と知らせてくれています。

ということは、ストレス、心配、不安、恐怖などの不快感も人間が周りの環境と調和しながら自分自身の体を健全に保つために本能として備わっている大切な機能であるということです。

第三の脳も、もちろん、進化の過程で、人間の生存や生き残りをより確かなものにするために必要な機能として発生したものです。

ところが、このアタマは、ある意味では、何でも考えることができ、しかも、たとえ間違ったことを考えたとしても、それを事実だ、あるいは、真実だと思い込む傾向が強いのです。

ですから、第一と第二の脳が、人間の本体である仏心に沿って働いているときにはすべてうまく行くのですが、それらがアタマの思いに沿って働くと私たちの体と感情の働きが混乱してしまいます。

(続く)



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いまどきの盤珪さん その2

いまどきの盤珪さん  その2
(その1からの続き)

盤珪さんが言った「不生の仏心」とは何なのでしょうか?

盤珪さんは幼いときに寺子屋で、儒教の『大学』という書物のなかで「大学の道は明徳を明らかにするにあり」という一節に出会います。

その意味は「真実に生きるためには『明徳』を明らかにしなければならない」ということなのでしょうが、盤珪さんには「明徳」がどんなものか分かりません。

お師匠さんに訊いても、どうもはっきりしたことを言ってもらえません。禅のお坊さんに訊けば分かるだろうと言われたのがきっかけで、ついには禅寺に入って一心不乱に坐禅の修行をします。

それでも、分からないので、ついにはこれはと思う禅の老師を訪ねて各地を巡ります。けれども、どうにも、らちがあきません。そうしているうちに、結核に罹ってしまい、とうとう故郷に帰って、3畳くらいの小さな小屋に閉じこもって、死を覚悟しながら、毎日毎日、一日中横になることもなく、坐禅の修行に取り組みます。

けれども、いつまでたっても「明徳とは何か?」の答えは出ません。「ついに、これまでか」という思いがこみ上げてきたのですが、それでも、坐り続けるしかありません。病勢はますます進み、もはや食欲もなくなってしまい、何も食べられなくなって何日も経ってしまいました。

そうしたある朝、突然、胸が重く、苦しくなって、息が詰まりそうになってしまいました。

いよいよどうしようもなくなって「もうダメだ」と思った瞬間、胸から何かが上がってきて、それが喉を通り、口から「ぐわっ」と大きな黒っぽい血の塊が飛び出てきたのです。

その瞬間、ずっと重苦しかった胸がすーっとしてきました。それと同時に、体が軽やかになって、驚いたことに急にお腹が空いてきたのです。

そこで、お粥を作ってもらって食べると、体の中から力がどんどん湧いてきました。

何年ぶりにか、ついに小屋の外に出てみる気になりました。足腰が弱っていたので、ゆっくり歩きながら広い庭のなかを歩きながら周りを見ると、すべてが新鮮な感じがしてとてもいい気持ちです。

そうこうしているうちに、何とも言えずよい匂いに気がつきました。目を上げると、その先に白い梅の花が咲いていました。梅の花はまわりのすべてと調和して、ただそこに咲いていました。

その瞬間、「これだ! これでよいのだ!」という言葉が彼の口から洩れました。

「この大自然の世界においては、すべては、もともと、調和し、整うようになっているのだ。それは大自然の一部である人間についても同じなのだ。」

盤珪さんはこの体験を通して、このときはじめて、この世界が不可分一体の世界であること、そして、そこに働いている不生不滅の力(不生の仏心)の存在にはっきりと気づきました。

それ以降、盤珪さんは「人間が苦しみから脱却するためには、アタマの錯覚によるバラバラ観に基づく"自分さえよければよい"というケチな根性ではなくて、自分の本質である不可分一体の真理に即した不生の仏心で生きればよいのだ」ということを人々に伝え続けたのです。

(続く)





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いまどきの盤珪さん  その1

いまどきの盤珪さん  その1

盤珪さんは江戸時代に不生禅を説いた禅師です。

以下、『盤珪禅師語録』(岩波書店)などを参考にして、彼の言葉の一部を現代文的に意訳して紹介しましょう。

自分自身を顧みると、親が、私の出生のときに、嬉しい、悲しい、悪い、辛いという思いを生み付けたのではまったくありません。これらは出生の後、知恵がついたのです。

どんな人でも親が生み付けたのは、仏心一つです。他のものはひとつも生み付けはしません。仏心は不生にして、霊明なものであり、不生で一切のことが整うのです。

不生で整うという不生の証拠は、皆さんがこちらを向いて、私がこのように言うことを聴いているうちに、後ろの方で鳴いているスズメの声を、それを聴こうと思っていないのにもかかわらず、カラスの声とも間違わず、鐘の音を太鼓の音とも聞き違わず、大人の声を子供の声とも聞き違わず、皆それぞれの声をひとつも聞き違わずに、聞きそこないで、明らかに聞き分けているということが、不生で聞いているということであり、不生が霊明である証拠なのです。

私がどんなことを言うのだろうかと、耳を傾けて一心に聴こうとしている人はいても、後ろの方でする声や音を聴こうとしている人は一人もいません。にもかかわらず、思いもしない時に、ひょい、ひょいとそれぞれの声や音が通じ分かれて、聞き違うこともなく聞こえることこそ、不生の仏心で聞いているということなのです。

このように、一切のことが不生で整うのです。これが不生の証拠です。その不生にして霊明な仏心こそが真実であることを明らかに知り、そのまま不生の仏心でいる人は、今日より未来永劫ずっと活きた仏であり、真実の生き方をしていくことができるのです。

不生であるのが一切のもと、不生であるのが一切のはじめです。

ところで、不生にしていれば、もはや不滅と言う必要もありません。生じないものは滅することはないので、私は不生不滅とは言わずに、ただ不生と言っています。

どんな人でも親の生み付けたものは不生の仏心一つであるにもかかわらず、自分の身びいきのせいで、何ごとも自分の思いどおりにしたくて、顔を真っ赤にして、争い、腹を立て、相手の言い分が聴こえず、相手のせいで腹が立つのだと、相手の言うことにこだわり、かけがえのないたった一つの仏心を、つい闘争的で執着深い修羅の心に替えて、何にもならないことを、くよくよと思い、たとえ、思い通りになったにもかかわらず、役にも立たないことを、理非の区別のつかない愚かさのために、思い諦めないでいます。

一切の迷いもこのようなもので、自分の身びいきのために、仏心を修羅に替え、自分で勝手に迷うのです。私たちにもともと備わっていた仏心が、憎いと思えば、修羅に替わり、人の物が欲しいと思えば、強欲な餓鬼に替わるのです。

仏心、すなわち、本心には一切の迷いはありません。ただ、仏心でいて迷わなければ、他に悟りも求めず、ただ仏心で坐し、ただ仏心で立ち、ただ仏心で寝て、ただ仏心で起き、ただ仏心で生活しているだけです。

(続く)





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ニック・ブイチチのこと

ニック・ブイチチのこと

ニック・ブイチチは1982年オーストラリア生まれの青年です。

彼はオーストラリアでもトップクラスの大学を卒業し、世界中を回って、講演会やセミナーを通じて、こころの持ち方や人生の意味について、数百万人以上の人々に貴重な示唆と感銘を与え続けています。また、趣味はゴルフ、水泳、音楽鑑賞などだそうです。

彼は生まれつき両手両足がありません。(医学的には先天性四肢欠損症と言われます。)

彼の著書『それでも僕の人生は希望でいっぱい』 渡邉美樹監修 三笠書房 は「生きたバイブル」というべき本当に素晴らしい本です。ぜひ購入して繰り返しお読みになることをこころからお勧めします。
また、日本語字幕付きの彼の動画も以下のYouTubeで見られます。

https://www.youtube.com.watch



今回のブログでは、彼の著書からいくつか彼の言葉を紹介します。


「私が幸せなのは、“自分には欠けているものがあるけれど、ニック・ブイチチという人間としては何一つ足りないものはない“と気づいたからです」
このように考えると、世界が違って見え始めます。私は私として、できることをすればいい。そして、こう思うようになったのです。
自分の人生に限界はない、と。
このすばらしい発見をあなたにも知ってもらいたいと願って、この本を書きました。(同書P23)


私は世間的には障害者ということになります。でも、手足がないことで、「本当の障害」を取り除くことができました。
本当の障害とは、何だと思いますか?
それは、自分の人生に自分で限界を設定してしまうことです。あるいは「これがお前の限界だ」という他人からの言葉を鵜呑みにしてしまうことです。
私もあなたも、生き方を自分で「選ぶ」ことができます。
うまくいかなかったことや自分にないものを嘆いて暮らすこともできます。ひねくれるのも、カッカして生きるのも自由です。
その逆に、困難にぶつかったり、ひどい人に出会ったときにそこから学び、自らの力で幸せを勝ち取っていくこともできるのです。
あなたは美しくかけがえのない命です。本来の目的に沿った生き方ができるように生まれています。(同書P24)


人生がどんなに困難に思えても、必ず希望はあります。絶望的だと思っても、絶対にそこから這い上がれます。
私は確信を持ってそう断言できます。なぜなら、私自身の人生がそうだったからです。
すべての出来事は、よりよい状態に至るためのステップです。
(同書P25)


わたしは「ふつう」の人間としてでなく、「自分」として生きればよかったのです。(同書P41)


人生の目的は手に入れることではなく、生きることそのものです。(同書P58)


過去は変えられない。でも、未来は変えられる。(同書P101)


大切なのは「受け取る以上のもの」を、自ら進んで与えていくことです。(P106)


あなたたちは今のままで十分素敵です。(同書P110)


*****

以上、字数の制限により、ニックの言葉を少しだけ紹介しました。
同書を読めば、みなさんもニックにしっかりと出会うことができるでしょう。





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自分はある? ない?  その2

自分はある? ない?  その2
  その1からの続き

26歳のときに気づいた「身体や心は自分自身ではない。自分は永遠に不変であり、絶対に傷ついたりするものではない」ということに対しては、当時誰かに確かめなくても、僕には絶対的な確信がありました。

この確信は今日に至るまでどんな状況にあっても微塵も揺るぐことはありませんでした。

そのお蔭で、今日まで、文字通り、何物も恐れることなく楽しく生きてきました。

実は、僕の26歳のときの気づきが仏教の原始経典に書かれたお釈迦様のお言葉とまったく同じだということに気づいたのは、つい最近のことです。

けれども、当時は、「自分は身体や心ではなく、目に見える形や動きではない」ということには気づいていたのですが、「その“自分”の正体は何なのか」ということがはっきりしていたわけではありませんでした。

そのときはまだ「“自分”はある」という観念に縛られていたからです。

ところが、或る時、その観念がストッと落ちてしまい、「そもそも、“自分”というコロッとしたものはなかったのだ」ということにはっきりと気づくことができました。

別の角度から言えば、それまで、すでに“自分”というものについて、体験的に存在の事実をはっきりと捉えていたにもかかわらず、それを表現しようとするときに、“ある”とか“ない”という二元相対的にしか表現できない言葉の制約によって、捉えた事実を的確に表現できないでいたのです。

結局、「自分はない」ということがはっきりしたわけですが、それは、この世界のすべてについても同じです。

この世界のそれぞれの存在には固有の実体はありません。

その事実をお釈迦様より後の仏教では「諸法無我」と言っています。

ただ、多少紛らわしいのは、お釈迦様が原始経典のなかで言われたのは「諸法非我」、つまり、「すべての存在は自分自身ではない」ということだったのですが、それがいつの間にか「諸法無我」というまったく異なった概念によって置き換えられてしまったということです。

いずれにしても、私たちは「…が“ある”」という表現形式に慣れてしまっているので、何かがあるように見えながら、「固有の実体はない」とか「中身が空っぽ」という表現自体が何となく奇妙な感じがして、受け入れがたく感じてしまうのです。

けれども、私たちは、それが五感と大脳、そして、使っている言葉の限界なのだ、ということを理解し、言葉や感覚を超えて、捉えた存在の真実を直感的に捉えることが肝要なのだと思います。

それは、この世界の唯一の存在は“いのち”であり、五感と大脳を通して個々に存在しているように見えるものは、“いのち”の描く瞬間瞬間に移り変わっていく不可分一体の模様であり、個々の存在(のように見えているもの)に固有の実体はない、ということです。

“自分”について言えば、(個としての)自分はありません。

“いのち”が自分です。


さて、自分はある? ない?

(終わり)





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