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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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すべて“いのち”  その5

すべて“いのち”  その5

無生物、植物、そして、他の動物たちとは異なって、私たち人間はアタマを持ったために、分離意識を持つようになりました。

そのために、私たち人間は表面の意識はともかく、こころの奥では底なしの欠乏感を感じながら生きています。

私たちの深層心理をよくよく観察してみると、私たちの日々の活動の大部分がその欠乏感を満たそうという動機で行われていることに気がつきます。

でも、結局、何をやっても私たちの欠乏感は決して満たすことはできないのです。

それは、分離意識はただアタマによる錯覚にすぎず、事実ではないからです。

事実は、私たちは大いなる“いのち”から離れたことは一度もありません。

なぜなら、私たちはもともと大いなる“いのち”そのものだからです。

唯一絶対の実在である“いのち”はいろいろな(見かけ上の)存在を創りました。

でも、それらの存在自身は自分が大いなる“いのち”であることを意識することはできません。

また、“いのち”も自分自身が“いのち”であることを見ることができません。

“いのち”はどうもこれではまったく面白みに欠けると思いました。

そこで、“いのち”は、自分が大いなる“いのち”であることを自覚する存在を創ることを思い立ちました。

そのために“いのち”はまずアタマを持った人間を創って分離意識を持たせ、欠乏感や不安感を感じさせるようにしました。

欠乏感や不安感を通して、結果的に、自分自身が大いなる“いのち”であることに気がつくように仕組んだのです。

この大宇宙は大いなる“いのち”が現れた姿ですが、大宇宙の進化の歴史、そして、この地球上の生物の進化、さらに人類の進化の歴史は、まさに、“自分”が大いなる“いのち”そのものであることを自覚する存在を創造しようという“いのち”の壮大なプロジェクトに他なりません。

そういう意味では、大宇宙はまだ進化の途上にあります。

今後、「自分は大いなる“いのち”そのものだ」という気づきがあちらこちらで起こってくるようになるでしょう。

その気づきは進化の過程として起こってくるので、誰かが、たとえば、厳しい修行などを通して自分で努力したから気づけるというものではありません。

修行や努力の結果、気づきが起こったように見えるかもしれませんが、それはたまたまそのように見えただけで、必ずしも修行や努力が必要ということではありません。

もちろん、これは修行してはいけない、とか、努力をしてはいけない、と言っているのではありません。

そもそも、修行や努力をする人はいません。なぜなら、大いなる“いのち”しか実在しないからです。

もともと大いなる“いのち”であるものが大いなる“いのち”を求めようとするのは、波が「海はどこだ?」と探し回っているようなものです。

その気づきが起きるときには起きるのであり、起きなければ起きないだけのことです。

また、修行や努力をしても、しなくても、そこにあるのは大いなる“いのち”であり、すでにすべて完璧なのです。

(終わり)





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すべて“いのち”  その4

すべて“いのち”  その4
(その3からの続き)

この世界のすべては大いなる“いのち”の顕現です。

これまで“自分”と思ってきたものの実体、あるいは、本質は、真実は、大いなる“いのち”そのものですから、そのままですでに完璧です。

そして、この世界のすべてがそのままですでに完璧です。

ここで「すべてがそのままで」というのは、善悪や正誤などの観念を超えて、あるいは、それらを含んだままでそのままで、という意味です。

ですから、私たち人間が限られた能力しかない五感と二元相対的思考しかできないアタマを持ったためにバラバラ観を持って生きているのも“いのち”の現れであり、それで完璧なのです。

また、バラバラ観を持っているせいで、「“自分”には何か決定的に欠けているものがある」という欠乏感が生じ、不安感や孤独感などを感じながら生きているのも、それはそれで完璧です。

さらに、私たち人間がその欠乏感を満たそうとして、日々の生活の中でひたすら、物質的、精神的なもの、あるいは、人的な繋がりなどを求めながら生きているのも、それはそれで完璧です。

そして、極論のように聞こえるかもしれませんが、たとえば、戦争や争いも、それはそれで完璧であり、戦争や争いをなくそうという動きも、それはそれで完璧なのです。

この世界のあらゆるものは唯一絶対の“いのち”の現れです。

“いのち”のハタラキは私たち人間のアタマによる理解(人智)をはるかに超えています。

けれども、人体や自然界や宇宙の星々の運行などの観察すれば、この“いのち”の世界には常に自動的に調和した状態に向かうように調節機能が働いていることが分かります。

時々“乱れ”と思われるような現象が生じますが、それは必然的に生じているのであり、その乱れを自動的に調整する“いのち”自身のハタラキによって、全体がより調和するような仕組みになっています。

戦争や争いなども、人智を超えたところで、必然的に生じているのであり、それを超克しようとするハタラキや動きが現れるのも必然であり、繰り返しそういう過程を経ることによって、より調和した世界が実現されていくのです。

では、私たち人間は何のために欠乏感や不安感や孤独感などを感じるのでしょうか?

実は、私たち人間はこころの深いところで、本当は“自分”が大いなる“いのち”そのものであることを知っています。

にもかかわらず、欠乏感や不安感や孤独感を感じるのは“自分”が大いなる“いのち”から切り離されていると思うからです。

でも、それだけではありません。

実は、欠乏感や不安感や孤独感こそ「“自分”はもともと、大いなる“いのち”そのものであり、大いなる“いのち”から離れたことは一瞬たりともないんだよ。」と繰り返し、繰り返し、知らせてくれているのです。

そして、欠乏感や不安感や孤独感だけでなく、この世界のあらゆるものがあなたに存在の真実を呼びかけています。

(続く)





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自観法をうまくやるには

自観法をうまくやるには

今回のブログは自観法がうまくできている方は読む必要はないとも言えるのですが、参考になることもあると思いますので、そのような方にも読んでいただきたいと思います。

自観法とは、日常生活の中で、1回に1~3分間(慣れてくれば、もっと長い時間)、風景を、ただ、眺めているのと同じように、現れては消えていく思い(思考や感情)を一切の批評や判断等なしに、そのまま、ただ、眺めている、あるいは、見ているという行法です。

自観法の目的は、身体やアタマの思いや感情は自分ではなく、 “大いなるいのち”こそ“本当の自分”であり、“本当の自分”はどんな状況においても絶対に傷つくことなく、死ぬこともない永遠の存在であることに気づくことにあります。

このことが、はっきりすると一切の苦しみから解放されます。

自観法は非常に優れ、また、誰でも容易にできる行法です。

それで僕はいろいろな方に自観法を勧めているのですが、自観法がうまくできないという方がいらっしゃるのです。

そのような方々にどのようにやっているのかと訊いてみると、どうやらほとんどの方がある思い込み、あるいは、先入観に基づいて間違ったやり方をしていることに気づきました。

その先入観というのは、思いが現れてきた時に、「“自分”がそう思っている」と意識しながら、その思いを見ている、ということです。

つまり、思いと“自分という思い”が最初からくっついてしまっているのです。

そのために、「“思い”ほとんどイコール“自分”」という感じで思いを見てしまっているので、思いを離れたところから見ることができなくなってしまっています。

事実は、青空に白い雲が勝手に現れ、しばらく留まり、やがて、どこへともなく消えていくのと同じように、思いはただどこからともなく現れ、しばらく、そこに留まり、やがて、どこへともなく消えていっているだけです。

「“自分“がそのように思っている」とアタマで無意識の内に思い込んで、思いに“自分という思い”をくっつけていたために、思いとそれを離れて見ている“本当の自分”に明確に気がつかなかったのです。

自分が白い雲を創り出しているのではないように、思いも自分が創り出しているのではなく、ただ、勝手にそこに現れては消えていくだけなのです。

青空の白い雲を見ているときには、白い雲とそれを見ている自分との間はあきらかに離れています。

体のある部分の痛みを感じているときも、「体は自分だ」という先入観や思い込みさえなければ、その体の一部分の痛みとそれを見ている自分との間は離れているのは当たり前です。

「自分の感覚」、「自分の思い」という思い込みの間違いに気づき、外界の風景を見るのと同じように、体の感覚や思いが勝手に独りでに現れては、留まり、消えていくのを、ただ、眺めているのが自観法です。

もし、その感覚や思いに対して批評や判断という思いが湧いてきたときには、その新たな思いを、ただ、そのまま眺めていればよいのです。

以上が自観法のポイントです。





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すべて“いのち”  その3

すべて“いのち”  その3
(その2からの続き)

思い、考え、感情などもすべて“いのち”の現れです。

ですから、「すべての存在は分離している」、「“自分”は“他“から分離した存在だ」というバラバラ観も、それが正しいか間違っているかは別として、“いのち”の現れです。

「この世界は唯一絶対の“いのち”が現れた不可分一体の世界である」という真実に照らせば、バラバラ観は明らかに間違っています。

にもかかわらず、そのバラバラ観も“いのち”の現れなのです。

つまり、善悪や正誤といった観念を超えて、あるいは、そうだからこそ、“いのち”の世界は絶対であり完璧だということです。

あなたが分離した“自分”と思ってきたものも、真実は、唯一絶対の大いなる“いのち”であり、絶対で完璧なのです。(ここで「大いなる」というのは「大小の観念を超えた」という意味です。)

アタマで考えると混乱してしまうかもしれませんが、真実は実にシンプルです。

要するに、この世界の“すべて”は唯一絶対の“いのち”の現れだということです。

この不可分一体の世界において、植物や動物は不可分一体の真理に沿って素直に不安もなく生きています。

ところが、一元絶対である“いのち”は二元相対的にしか思考できないアタマを持った人間を生み出しました。

そのために、人間は赤ちゃんや幼い子供を除いて、「“自分”は”他“から分離した存在だ」という”分離意識”を持つようになりました。

そして、本来は“自分”は大いなる“いのち”そのものであるにもかかわらず、「“自分”はすべての“他“から分離した、どこまでも小さくて、いつ死んでしまうかもしれないはかない存在だ」と思いながら生きています。

それは、言い換えれば、心にぽっかりと開いた大きな穴のように、「“自分”には決定的な何かが欠けている」という感覚です。

その結果、私たち人間は表面の意識ではどこまで感じているかはともかく、心の奥では、底なしの孤独感や不安感や恐怖感を抱きながら生きています。

私たち人間の活動は、趣味、スポーツ、娯楽、芸術、家族関係、友人関係、学校や仕事関係、その他の社会的関係など、実にいろいろな面において展開されますが、そのすべては、“自分”に決定的に欠けている穴を埋め、満たそうとする“もがき”だと言えるでしょう。

多くの人が物質的なものであれ、精神的なものであれ、あるいは、人間関係であり、いつも「もっと。もっと」と何かを求めながら生きています。

けれども、その穴は何を手に入れても、どんなことによっても決して満たされることはありません。

なぜなら、その穴は「“自分”は”他“から分離した存在だ」という分離意識によって生み出された幻想だからです。

けれども、真実は、“自分”は大いなる“いのち”そのものであり、何ものからも分離していないのですから、もともと“自分”には欠けているものなんかないのです。

私たちは“このままで”すでに完璧なのです!

(続く)





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すべて“いのち”  その2

すべて“いのち”  その2
(その1からの続き)

この世界のすべてが唯一の実体である“いのち”の現れですから、そこには分離した個々の実体はありません。

したがって、“自分”も”他“もありません。

ただ、一つの“いのち”という“全体“があるだけです。

これは理屈の話ではなく、事実がそうだということです。

ほとんどの人が“自分”というものがあり、その外側に“自分”でないもの、つまり、“他“があると感じていますが、それは錯覚です。

とは言いながらも、「自他があるのは当りまえだ」というこの社会のなかでは、そうではないと言うほうが変な目で見られてしまうほど、自他の観念は絶対の真実であると信じ込まれています。

でも、なかには「いや、思い込みではない。静かに体や思いや感情の奥を見つめていると、そこに何かがあるという感覚、あるいは、意識のようなものがある。それが“自分”なのだと思う」という方もいるでしょう。

そうです。たしかに、体や思いや感情の奥に何かがあるという感覚、あるいは、意識のようなものがあります。

けれども、それは他から分離した“自分”を感じているのではないのです。

それこそまさに唯一の実体である大いなる“いのち”を感じているのです。

では、何が“いのち”を感じているのでしょうか?

それは“いのち”です。“いのち”が“いのち”を感じているのです。

“自分”が“いのち”を感じているのではありません。

理屈で考えると分かりにくいのですが、要するに、分離した“自分”というものはなく、ただ、大いなる“いのち”だけがあるのです。

分離した“自分”があり、”他“があり、“個”があるというのは錯覚であり間違っています。

でも、この世界のすべてのことは大いなる“いのち”の現れですから、そういう錯覚や間違いも“いのち”の、表現の一つなのです。

その錯覚や間違いに気づく人もいます。

それも“いのち”の表現の一つです。

唯一の実体である“いのち”の表現として現れた人間はアタマを持っているために、いつの間にか「自分は他から分離した存在である」と思い込み、そのために、顕在意識で感じているかどうかは別として、少なくとも心の奥底では大きな不安感や恐怖感や孤独感などを感じながら生きています。

でも、それも“いのち”の現れであり、私たちの「善い・悪い」、あるいは、「正しい・間違い」などという観念を超えて、あるいは、それらを含んで、すべて完璧であり絶対なのです。

「そんなこと理屈に合わないではないか」と思われるかもしれませんが、これが存在の真実です。

二元相対的にしか考えることのできないアタマでは一元絶対の存在の真実を理解することは不可能なのです。

また、そこには言葉による表現の限界もあります。

いずれにしても、この世界は一つの“いのち”の顕現ですから、どんなことがあっても、常に完璧で絶対です。

この真実に目覚めたときにこそ、そこには真の安らぎと自由があるのです。

(続く)





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すべて“いのち”  その1

すべて“いのち”  その1

ある朝早く目が覚めたので、いつものように洗面所に行こうと、寝室のドアを「カチャッ」と開けました。

その「カチャッ」という音がはじめて聞いた音のように聞こえました。

一瞬「あれっ」と思ったのですが、すぐに寝室のドアを閉めました。

「カチャッ!」

再びその音がはじめて聞いた音のように聞こえました。

「あれっ?」

洗面所入った後、中からドアをそっと閉めました。

「バタン!」

「あれっ?」

その音もまるではじめて聞いたような感じがするのです。

そのとき家の外から「ホーホケキョッ!」という元気な声が聞こえてきました。

「オッ!」と思いましたが、そのまま顔を洗い始めました。

顔を洗っているのが何だか新鮮に感じられます。

でも、不思議なことに、顔を洗っている“自分”がいないのです。

ただ、顔を洗っているだけです。

次に、タオルで顔を拭きました。

それがとても新鮮に感じられました。

でも、タオルで顔を拭いている“自分”がいないのです。

ただ、タオルで顔を拭いているだけです。

次に、歯を磨いたのですが、やはり歯を磨いている“自分”がいません。

ただ、歯を磨いているだけです。

そのあと洗面所を出て、書斎に行きました。

ただ、歩いているだけです。でも、歩いている“自分”はいません。

机に向かって坐ります。

でも、坐っている“自分”はいません。ただ、坐っているだけです。

机が目の前にあります。

窓があります。

庭があります。

そこに木や花があります。

上の方を見ると、青い空に白い雲が浮かんでいます。

「ホーホケキョッ!」

「バタン!」

「ザーッ」と風が吹いています。

すべてがただ起こっています。

すべては姿も形もなく、見えも聴こえもしない“なんでもないもの”が目に見えたり、耳に聞こえたり、肌に感じられたりするようなさまざまな現象として現れているだけです。

その“なんでもないもの”を僕は“いのち”と呼んでいます。

ほとんどの方が“自分”があると思っていますが、それはアタマで「この体の内側に“自分”というものがある」と錯覚しているだけです。

本当は“自分”なんていう実体はないのです。

とにかく、この世界とそのなかのすべての現象(つまり、存在とはたらき)は唯一の実体である“いのち”現れです。

この世界の唯一の実体は“いのち”であり、“個”も“自分”も”他“もありません。

“いのち”が朝となり、目を覚まし、起き、ドアとなり、そのドアを開け、「カチャッ」という音を立て、顔を洗い、タオルとなり、顔を拭き、「バタン!」という音を立て、書斎となり、“机となり、坐り、窓となり、木となり、花となり、「ホーホケキョッ!」となり、青空となり、雲となり、そして、風となって吹いているのです。

このように書いているのも“いのち”です。

どこを探しても、“自分”なんていません。

すべての観念が脱落したときに、この単純な真実が事実として分かるでしょう。

でも、誰が「分かった!」というのでしょうか?





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