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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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宇宙は1個の生命体

宇宙は1個の生命体

「生命とは何か?」ということは生物学者の間でさえはっきりとした定義があるわけではありません。

地球上の生物には、大まかには、自己境界性(細胞膜を境として外界とやり取りをする)、自己維持性(自己の生命を時間的にできるだけ長く維持しようとする)、自己複製性(増殖して数を増やそうとする)、最終的に死ぬ(個体としてはいずれ死んでしまう)などの特徴があるようです。

そのような特徴がないものは「生物ではないもの」、つまり、無生物(非生物)ということになります。

ところが、ウイルスやリケッチアは他種の生きた細胞の存在がなければ何もできないが、もしあれば自己複製して数を増やすことができ、他の生物に侵入します。

ということは、ウイルスやリケッチアは分類上は生物と無生物の境界線上にあることになります。

「何だかややこしいな」と思われるかもしれませんが、要するに、「生物と無生物の間には厳密な境目がない」ということなのです。

しかも、上に述べたことは、あくまで地球上の生物についての特徴であり、この宇宙の他の星に存在するだろうと推測されている無数の非地球型の“生物”は、おそらく、存在する星の環境条件に応じて、それぞれまったく異なった特徴を備えている可能性は大いにあるのではないでしょうか。

「生物」という言葉が既知の生きものを指すことが多いのに対し、「生命体」という言葉は既知の生物だけでなく、未確認の生きものや理論上想定されるような生きものを含んで言う場合があります。

ところで、地球と生物は相互に関係しあって環境を作りあげていますが、地球そのものをある種の「巨大な生命体」と見なす考え方があります。それを「ガイア理論」と言います。

このように、生物学的な狭義の「生物・無生物」という枠を超えて、無数の構成要素が互いに有機的に関わり合い、循環・協調しながら全体を維持し、ある一定の方向に発展しながら変化していく一つのまとまったシステムを、僕は「生命体」と呼びたいと思います。

そのような意味で、まさに、この大宇宙は1個の生命体であり、生きているのです。

この大宇宙においては、それを舞台として、いろいろのもともとバラバラで分離独立した関連性のないもの同士が互いに何らかの作用をお互いに及ぼしながら、集合・離散や生滅を繰り返しているのではありません。

一つの人体がそうであるように、大宇宙そのものが全体で一つのまとまった生きたシステム、つまり、生命体なのです。

ですから、そこに実体としてあるのは大宇宙という1個の存在だけです。

つまり、“個”というものはなく、“全体”しかないのです。

ところが、大宇宙が何百億年もかけて生み出した人間には、なぜか、“自分”と感じる仕組みが備わっています。

なぜ、そうなのか?そこには宇宙大の大きな意味があるはずなのです。

その意味をアタマを超えて自覚することこそ、“自分”という意識を持ったこの自分が生まれてきた意味なのです。






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絶対世界の中で相対的に生きる  その6

絶対世界の中で相対的に生きる  その6

その5で、「永遠に変わらないみんなが幸福で平和な社会を実現するために社会的意識を持って生きる」ことを私たちが真実に生きるための必須条件の一つとして挙げました。

ところが、これまでの本格的な宗教においては、このことについてはまったくと言ってよいほど言及されていません。

これは人類の存在そのものさえ危惧されるような現代社会においては宗教の大きな落ち度であると思います。

宗教はなぜ私たちが社会的な苦しみや混乱を乗り越えるための方策を私たちに指し示さないのでしょうか。

それは、キリスト教や仏教などの本格的な宗教が成立し、人々の中に広まっていった時代の社会的状況と密接に関係があります。

人類の社会はその長い歴史のなかで、フランス革命が起るころ以前まではずっと厳しい階級制度のもとで一般の民衆は虐げられてきました。

そのために、一般の民衆が強大な権力者に抵抗して社会を変革していくことなどは夢にも考えが及びませんでした。

そのような過酷な生存状況のなかで、切実に「救い」を求めていた虐げられた一般民衆の間に宗教は広まっていきました。

そこで宗教家によって説かれたことは「個人としての救いへの道」でした。なぜなら、仮に宗教家が社会の変革を説いても一般民衆にはたわごととしか思えなかったからです。

そのような社会的状況がずっと続いたことと、宗教の特徴として、教祖の教えをはじめ、昔からの伝統を重視し守る傾向が非常に強いということがあり、近代以降、一般民衆が社会の在り方について堂々と意見を表明し、不完全ではあっても、選挙などを通じて社会を変革していけるようになっても、それらの本格的な宗教は依然として、「個人の救い」ということだけを信者に説き続けています。

もちろん、個人のことだけでなく、「一隅を照らす」とか、「汝の隣人を愛せよ」と説き、周りの人々に対する思いやりや慈善活動や奉仕活動などが推奨されています。

このような思いやりやそれに基づく行動は社会の潤滑油であり、みんなが幸せに生きていくためにとても大切であり、素晴らしい教えだと思います。

でも、ここまで混迷する現代においては、社会を根本的に変革し、みんなが幸福で本当に平和な世界を実現していくためには、隣人愛や善意に基づいた一隅を照らす行動だけではまったく不十分なのです。

それでは、いつまで経っても、人類社会の流れの方向は変わりません。それは人類の歴史が明瞭に証明しています。

このままでは、ますます私たちの社会は行き詰まってしまうでしょう。

現代の私たち一人ひとりに求められているのは、「一人も不幸な人がいない社会」を実現しなければ、自分は決して真の幸福にはなれないのだという真実を直視することです。

そして、真に幸福で平和な世界の実現のために全力で具体的に行動し生きていくことなのです。

それこそが絶対世界の中で相対的に生きる私たちの真実の生き方であり、また、真の生きがいなのです。

(終わり)





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絶対世界の中で相対的に生きる  その5

絶対世界の中で相対的に生きる  その5

「真実の生き方」とはどういうことでしょうか?

要するに、真実の生き方とは存在の真実と世界を成り立たせている存在の法則、真理に沿って生きることです。

五感を備えた私たち人間は本質的に一元絶対の世界でありながら、現実的には、あるいは、見かけ上は、二元相対の世界で生きています。

ですから、私たちはこの世界、そして、自分の本質が一元絶対の“いのち”であることを意識の基盤において、二元相対的に生きることが大切です。

それは「存在の二重性を意識しながら生きる」と言い換えてもよいのですが、もう少し分かりやすく説明してみましょう。

存在の真実を見極めると、私たちが五感を通して捉えている現実の世界は一元絶対の大いなる“いのち”が刻々に顕現した世界であり、それを大脳に通して認識すると、この世界の中ですべての存在がバラバラに分離して存在しているように思われるのだということが分かります。

つまり、すべての存在はバラバラに分離しているように思われるけれども、真実は、すべての存在は不可分一体であり、本質はみんな同じ“いのち”なのです。

ですから、現実の二元相対的な世界にあっても、この不可分一体という存在の真実、言い換えれば、不可分一体観に基づいて生きることこそが真実の生き方ということになります。

したがって、すべての存在は不可分一体、つまり、同じひとつのものですから、所有も優劣も差別も敵味方などの対立するものも、自分さえよければというエゴもありません。

さらに、別の角度から真実の生き方について検べてみましょう。

無生物はただ自然の摂理、あるいは、この世界を成り立たせている法則、つまり、真理に即して刻々に変化しながら全体と調和しながら存在しています。

植物は生物ですが、やはり、真理に即して刻々に変化しながら全体と調和しながら生きています。

人間以外の動物は大脳が発達していないので、ただ、本能に従って生きていますから、やはり、真理に即して刻々に変化しながら全体と調和しながら生きています。

このように、無生物はもちろん、植物も人間以外の動物も大宇宙、大自然と調和しながら存在し生きています。つまり、まさに、そのままで、真実の在り方、生き方をしているということです。

ところが、発達した大脳を持つ私たちはバラバラ観をはじめ、所有、優劣、差別、対立観など、大自然や大宇宙の中には存在しないにもかかわらず、人間が勝手に作り上げた間違った観念を真理だと信じ込んで生きています。

そのために、私たち人間は昔からずっと個人的、社会的に苦しみと混乱の中で生きているのです。

このような状況のなかで、私たちが真実に生きるためには三つの必須条件があります。

1 不可分一体の存在の真実にはっきり目覚める。

2 数々の間違った観念を払拭する。

3 永遠に変わらないみんなが幸福で平和な社会を実現するために社会的意識を持って生きる。

(つづく)





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絶対の世界の中で相対的に生きる  その4

絶対の世界の中で相対的に生きる  その4

昔から今日に至るまで人類の歴史は「争いの歴史」であったと言っても過言ではありません。

また、長い人類社会において、ごく最近までは多くの人々が厳しい階級制度のために、過酷な生活を強いられてきました。

多くの人々にとっては、過酷な労働、飢餓、貧困、病気、老化など、生きることそのものが苦しみでした。

それは「生きながらえるよりも死んだ方がよほどましだ」と思えるほどの苦しみだったのでしょう。

でも、実際には、「生前の行い次第では、死んでから地獄に行かなければならない」というようなことが信じ込まれていたために、死ぬことは人々には想像を絶するほどの苦しみであり恐怖だったのです。

もちろん、当時社会的に虐げられていた人々にとっては、かりに「こんな社会はいやだ」と思ったとしても、社会を改革するというようなことは思いもよらないことだったのであり、事実上、不可能なことだったのです。

ですから、人々にもっとも関心があったのは「個人としていかに救われるか」ということでした。

そういう時代的、社会的状況のなかで、古来、仏教やキリスト教などに代表される本格的な宗教は「個人としての救い」をメインテーマとしてきました。

本格的な宗教は人々に、“いのち”という代わりに神や仏という名前を用いて、存在の真実を次のように説きました。

「この世で生きていくこと自体は苦しみであるように感じられるかもしれない。けれども。自分の本質は絶対一元、不生不滅の“いのち”なのである。したがって、どんな状況にあっても、自分の本質は傷つくものではなく、自分はすでに救われているのである。したがって、死んでも地獄に落ちることはないのだ。」

あるいは、「この世で生きることは苦しみそのものである。しかし、自分の本質、そして、この世界の本質は絶対一元の“いのち”であるのだから、この世界を創造し司る神様(あるいは、仏様」の御名を称え、すべてをおまかせすれば、たちどころに(あるいは、来世において)必ず救われるのだ。」と説いたのです。

もちろん、本格的な宗教は存在の真実を説いただけでなく、個人としてどのように生きなければいけないかということも人々に説きました。

それが、たとえば、「隣人を愛せよ」とか「殺生をしてはいけない」などの戒律です。

そして、「それらの戒律をきちんと守らなければ、来世では地獄に落ちるぞ」と人々の生き方を戒(いまし)めたのです。

この「戒律を守らなければ地獄に落ちるぞ」という教えは最初は純粋な動機から説かれたのでしょうが、後に宗教が組織として大きくなるにしたがって、組織の権力を強めるための道具として大いに利用されるようにもなりました。

それはともかく、自己の本質が一元絶対の“いのち”であることに気がつくだけではダメなのです。

それを存在の基盤としながら、二元相対的世界において、どう生きていくのか、つまり、真実の生き方とは何かが問われなければならないのです。

(つづく)






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絶対世界の中で相対的に生きる その3

絶対世界の中で相対的に生きる その3

この世界は一元絶対の世界です。一元絶対の世界しか存在しないということはたしかに真実です。

でも、それを私たちの五感を通すと、二元相対の世界として見えるわけですから、私たち人間は一元絶対の世界と二元相対の世界の二重の世界に生きているということも真実なのです。

ほとんどの人は二元相対の世界しかないと思い込んで生きています。

ところが、自分とは何か、自分の生きているこの世界とは何かということを追及して行くと、自分、そして、この世界の本質は一元絶対の世界であるということに気がつきます。

でも、「この世界は一元絶対の世界である。自も他もない。すべては空である。」ということが分かったとしても、私たちはそれだけの理解だけで健全に生きることはできません。

もしそれだけで、「すべて解決した。何の問題ない」と思っているとすれば、それこそ、「空」という観念に捉われているのであり、まさに、「空病」に罹っているのです。

生きることの事実を素直見てみれば、たとえば、火は熱く、氷は冷たく、火と氷は同じだというわけにはいかないことは、誰にとっても明らかな真実です。

私たちが、空、あるいは、“いのち”の世界にいる自分に気がついたといっても、私たちが不死身になったわけでもなく、しばらくの間何も食べなければ腹が空いてくるのは当然のことです。

また、感情や感覚を備えた私たちにとっては、たとえば、足を何かにひどくぶつければ「痛い!」と思うのは当たり前であるし、何かで苦しんでいる人を見れば、ある種の感情が湧き上がってくることもとても自然なことなのです。

昔、火あぶりの刑になったお坊さんが「心頭滅却すれば、火もまた涼し」と言って死んでいったという話があります。「スゲーな」と思いはしても、普通の人にとっては、やはり、火は熱いので、なるべく、火あぶりの刑には遭(あ)いたくないと思うのはごく自然な感情ではないでしょうか。

このように、私たちは一元絶対の世界と二元相対の世界の両方を二重に生きているということをはっきりと意識して生きていくことが大切です。

自分というのは一元絶対の世界においては、不生不滅の“いのち”です。

でも、二元相対の世界においては、生滅生死する生物の一個体です。

と言っても、この二種の自分が別々に存在しているわけではありません。行動の上ではこの二つの自分はまったく一つでバラバラになることはありません。

要するに、「自分はこの広大な世界の中に生きるはかない存在にすぎない」と思って死を恐れながら生きていくのも、「自分はいつ死んでもいい。そもそも死ぬ自分なんていないのだから」などと悟りすましているのも、どちらも事実の一面しか見えていないということです。

不生不滅の“いのち”を自覚しながらも、「死ぬより生きるほうが望ましい」と思うのはごく自然なことであり、そう思いながらこの世界を一生懸命に生きていくということこそが生き方の真実なのです。

(つづく)






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絶対世界の中で相対的に生きる その2

絶対世界の中で相対的に生きる その2

この世界、そして、自分というものの本体(本質)である“いのち”というのは、例えて言えば、無色透明の太陽光線のようなものです。

太陽光線は無色透明であるので、私たちの肉眼では見ることができません。ところが、無色透明の太陽光線をプリズムに当てると、七色に分光され、それを私たちは肉眼で見ることができます。

この世界のすべてのものは、本来は、“いのち”であり、私たちの五感によっては“いのち”そのものを捉えることはできませんが、五感というプリズムを通すと、様々な形や姿をしているように見えるのです。

ですから、自分の本体である“いのち”そのものも私たちの五感では捉えることができないのですが、五感というプリズムを通すと、体やそれに付随する感情や感覚、あるいは、心として意識されます。

したがって、無色透明の“いのち”の側に立ってみれば、いろいろなものや体や心をコントロールして生きるということはまったく意味がないということになります。

けれども、それは、私たち人間はどのように生きようとどうでもよいことだということではありません。もし、そうだと言うのであれば、それは実に観念的な間違った生き方であると言わざるをえません。

なぜならば、それは私たちが五感というプリズムを備えているという事実をまったく無視しているからです。

「“いのち”しか存在しない。自分も他もない。個は存在しない。みんな同じ一つの“いのち”だ」ということはたしかに絶対的な真実です。

でも、私たち一人一人がその本質は同じ一つの“いのち”であったとしても、その本質を五感を通して見えるものは互いに姿も形も異なった存在であることも、同時に、絶対的な真実なのです。

たとえ本質は同じ“いのち”であったとしても、ミソと○ソを一緒にする人はいないでしょう。ミソと○ソは本質は同じであっても、私たちに見える現象としては異なるものだからです。

ですから、五感というプリズムを備えた私たちにとっては、いろいろなものや体や心は現実として明らかに存在しているように意識されるのは極めて自然なことなのです。

つまり、一元絶対の“いのち”の世界を五感を通して捉えると、この世界に無数の有形無形の異なった“もの”が二元相対的に存在しているように意識されることも真実なのです。

私たち人間はこの二重の世界の両方に生きています。この二重性を生きているという事実こそ存在の真実であるということができるでしょう。

ですから、私たちにとってはこの二重の世界をハッキリ意識的に捉えて生きていくことが何よりも大切です。

すなわち、無色透明(一元絶対・不可分一体)の“いのち”の世界を絶対的基盤として、“いのち”の流れに沿って、五感というプリズムを通して捉えられる(二元相対的な)体や感情や感覚、あるいは、心をコントロールしながら、いろいろな“もの”にはたらきかけ生きていくことこそ真実の生き方なのです。

(つづく)






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絶対世界の中で相対的に生きる  その1

絶対世界の中で相対的に生きる  その1

ほとんどの人は自分やこの世界というものについて次のように思っているようです。

この世界はその中にバラバラな個が寄せ集まって存在している二元相対的世界である。

自分というのは個としてこの体と心、あるいは、頭脳でできている。あるいは、それらの奥にあって、それらを使って生きている主体である。

自分というのはこの世界という舞台に、ある時に登場し、しばらくの間生きて活動し、やがて時が来ればこの世界という舞台から消えて死んでしまう無数の生物の一つである。

ところが、「本当の自分、本当の世界とは何か?」ということを徹底的に追及していくと、次のような存在の真実に気づくことができます。

この世界は一元絶対の世界であり、実体として存在するものは唯一“いのち”だけである。

したがって、この世界に個として存在しているように見えるものはすべて不可分一体であり、ただ、全体だけが存在する。

自分というコロッとした個は実体としては存在しない。

強いて言えば、自分というのは唯一の実体である“いのち”そのものである。

あるいは、“いのち”の現れであるこの宇宙そのものである。

この存在の真実を、仏教の般若心経では「色即是空(色はそのまま空である)。空即是色(空はそのまま色である)。」と表現しています。

つまり、「この現象界に存在しているあらゆるものの本質はそのまま空である。本質である空が現象界のあらゆるものとして顕現している」ということです。

この“空“が僕の言う“いのち”であることはお分かりだと思います。

さて、僕はこれまでブログのなかで「この世界は二元相対のバラバラな個が集まった世界ではなく、一元絶対の不可分一体の世界である。また、自分というコロッとしたものはなく、ただ、“いのち”、あるいは、全体だけがある」ということを繰り返し述べてきました。

それは「二元相対、バラバラ観こそが私たちの個人的また社会的苦しみと混乱の根本原因であり、一元絶対、不可分一体という存在の真実に気づき、それに基づいて生きることこそがすべての苦しみと混乱を解決し、私たちが個人的にも社会的にも真に幸福で平和に生きる唯一の道である」ことをみなさんに理解していただきたいと願っているからです。

けれども、存在の真実を十分には理解してないことから起こることですが、気をつけなければいけないことがあるのです。

それは「すべては空である。個というものはない。ただ全体だけがある。すべてよし」と思い、それで良い気分になって、「これで、すべて解決。問題なし」と考えてしまうとすれば、とんでもない間違いに陥ってしまうからです。

それは実に明瞭です。

仮に「すべては空である。自分はない。だから問題ない」と思っても、猛スピードで走ってくる車の前に平気で飛び出す人はいないでしょう。

私たちは観念的に空の世界で生きるのではなく、空の世界を意識の基盤に据えながら、現実的に色の世界で生きていかなければならないのです。

(つづく)






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