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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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人生の宝庫を開く三つの鍵

人生の宝庫を開く三つの鍵

もう何十年も前になりますが、僕が初めて小田原の「はじめ塾」に和田重正先生を訪ねたとき、教室に次のように書かれた額が掲げられていました。

人生の宝庫を開く
三つの鍵
1 ケチな根性はいけない
2 イヤなことはさけないで
3 ヨイことはする

最初は「人生の宝庫を開く三つの鍵かあ。何だか大げさだなあ」と感じました。

でも、3回ほど繰り返し読んだとき、「あ、そうか。そうしよう」と思ったのです。

決断は一瞬でした。

それまでの僕は人見知りで、人前で自分から話したりすることもなく、いつも人の後についてしかたなく行動するというように、とても内向的で消極的な性格でした。

ところが、僕はこの三つの鍵の額を読んだ瞬間から、意識的に自分の行動のパターンを180度転換したのです。

その時以来、僕はとにかく誰とでも積極的に話し、みんなで何かについて話し合うような場面でも、自発的に司会をして意見をまとめたり、みんなで何かの役割分担をしなければならないようなときにも、自分から大変そうな役をかって出るようになりました。

何百人の聴衆を前に講演をしたこともあります。でも、決して自分に自信があったからではありません。

もしそのとき誰かに「自信はあるのか?」と問われれば、おそらく「自信はない」と答えたでしょう。

でも、「話そう。話せる」と思っていたのです。

「話せる」というのは「話す自信があるから」ではなく、「自信がなくても話せる」ということです。

より正確に言えば、「自信があるなしに関わらず話せる、できる」ということです。

とにかく、あの日以来、誰かと話し合ったり、みんなで何かをするようなときにはいつでも、何も言わずじっとしていたり、グズグズ躊躇したり、言い訳して後ろに引っ込んでいるということをしなくなったのです。

こうして、内面的には依然として内向的な性格だったと思うのですが、少なくとも外面的には180度変わったと思います。

実際はどうだったのかわかりませんが、その当時の僕に初めて会った人は、僕のことをおそらく、とても快活で行動的で爽やかな青年だと思われたかもしれません。

なぜそのように思うかというと、僕自身その時以来の僕の外面的な行動パターンはそれ以前のものとはまったく正反対だと感じていたからです。

より正確に言えば、”三つの鍵“に照らしてみて、僕のそれまでの生き方や行動の仕方が真逆であったことを思い知らされて、僕は「三つの鍵に沿って生きていこう」といつも意識して行動していたからです。

僕は今日まで人生を深めていくうえで、この三つの鍵をもっとも大切な、いわば、こころのツールとして、折に触れてはこころのなかでコロコロと転がし、遊ばせ、暖めながら生きてきました。

このようにして今日まで生きてきて、実は、内気な性格は相変わらずそのままだと思うのですが、「この三つの言葉は、少なくとも僕にとっては、本当に人生の宝庫を開く鍵だったのだなあ」とあらためて感じています。





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存在の不思議  その2

存在の不思議  その2

ちょっと自分の左手を見てください。

通常は、5本の指が見えていますね。

それぞれの指は姿かたちも少しずつ違うように、それぞれ異なった特質とハタラキを持っています。

では、その5本の指はそれぞれ、分離した独立の実体という意味で“個”と言えるでしょうか?

答えはノーですね。

手はもともと一つのものだったものが、進化の過程で、手のひら、そして、それぞれの指というように、姿かたちやハタラキなどが分化してできたものです。

ですから、どんな姿かたちになろうと、手は最初からずっと一つの手であり、手のひら、そして、親指をはじめそれぞれの指は、言わば、その部分として全体である一つの手を構成し、手の働きを全うしています。

ここで、“全体“に対して”部分”という言葉を使いましたが、部分は全体を離れては存在できませんし、その反対に、全体は部分なしには存在できません。

しかも、それぞれの部分はもともとそれぞれバラバラに存在していたのではなく、独立した存在ではないことは明らかです。

ですから、全体も部分も同じ一つのもののどこを見るかということによる観点、あるいは、視点の違いによる表現の違いなのであり、全体と部分は分離した別の存在ということではありません。

では、次に、人差し指の爪の近くに超高性能のミニ視覚装置とミニコンピュータを植え付けたとしましょう。

もし、そのミニコンが視覚装置で捉えた周りの指や手のひらなどの映像を認識し、次のように解釈したとします。

周りには何本かの姿かたちや動き方の異なる柱のようなものと平らな地面のようなものが見えている。それらのものはみんなバラバラであり、それぞれ分離したものである。“自分”はここにあり、周りのそれらの“自分ではないもの”を見ている主体である。

さて、この人差し指のミニコンの解釈は存在の真実に合致していると言えるでしょうか?


我が家の横のところに大きな桑の木がありますが、もし、突然変異が起こり、一枚の葉っぱに超高性能の視覚装置とミニコンが備わって、次のように判断・認識したとしたらどうでしょう。

“自分”はある時この広大な天地に生を受けた小さな小さなはかない一枚の桑の葉である。いずれ時が来れば、自分は枯れて地面に堕ちて死んでしまうだろう。

いま自分は桑の木にぶら下がって周りの景色を眺めているのだが、自分は周りのものとは関連はあるとしても、周りのすべての存在とは分離した“個”としての存在である。

この世界においては、互いに関連性がないわけではないが、存在としてはすべては分離しバラバラである。そして、自分はここにあり、自分の周りに自分でないものが存在する。


馬鹿なことを言っていると思われるでしょうが、実は、ほとんどの方が“自分”というものについて、指先や桑の葉のミニコンと同じように思っています。

けれども、「この世界はすべてが分離したバラバラの世界であり、自分は他とは分離した“個”である」と"思う"ことを根拠として、存在の真実がそうであるとは言えないのです。

「そう思ったから事実もそうだ」とは絶対に言えないからです。






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存在の不思議  その1

存在の不思議  その1

僕はまだ若かったある日突然「自分とは何か」、「この世界とは何か」、「自分とこの世界とはどのような関係になっているのか」ということが気になりはじめました。

自分がこの世界でこころから納得のいく人生を送るためには、どうしてもこの命題を解かなければならないと思ったのです。

その日からこの命題に真剣に取り組み、数年間散々苦しんだ末に、幸いにも、その大まかな解答を得ることができたのですが、その後もこの命題をより深く探求し続けてきました。

その探求の中で気づいたことをこのブログに、以前書いたものと重複する部分もありますが、理解しやすいようにいろいろな角度から書いています。

さて、今回は「不可分一体の存在と個」について考えてみましょう。

この世界はバラバラの存在が寄せ集まった世界ではなく、この世界のすべての存在はすべて同じ一つの“いのち”が顕現したものであり、したがって、この世界は不可分一体であるということはこれまで繰り返し述べてきたところです。

つまり、この世界には本質的には個というものは存在せず、存在するものは全体、具体的には、大宇宙だけということです。

要するに、大宇宙が唯一の実体であり、そのなかにあるものは、すべて、見かけ上、個として存在しているように見えるだけで、実体のある個ではないのです。

たとえば、一つの人体は多くの細胞や組織や器官などで構成されています。

それらは確かに存在し、それぞれが互いに関連し合ってはいますが、それぞれが互いに独立性を持ち、バラバラの個として実体を持っているわけではありません。

独立性を持った実体としているのは全体である一つの人体だけです。

もともと、一つの人体は一つの受精卵が細胞分裂を繰り返し、多くの細胞や組織や器官などの構成物質ができたのです。

したがって、人体はバラバラの細胞や組織や器官などの個が寄せ集まってできたものではありません。

ですから、独立した実体として存在しているのは人体という全体だけなのです。

大宇宙についてもまったく同じです。

この大宇宙には多くの星やガスや銀河などがあり、それらは確かに存在し、それぞれが互いに関連し合ってはいますが、それぞれが互いに独立性を持ち、バラバラの個として実体を持っているわけではありません。

独立性を持った実体としているのは全体である大宇宙だけです。

もともと、この大宇宙はビッグバンによってできた素粒子からいろいろな原子や分子ができ、それらが、さらに、いくつもの過程を経て、現在の星やガスや銀河、さらには、そこに生きる生物などとなったのです。

つまり、大宇宙は星やガスや銀河、あるいは、生物などのバラバラ個が寄せ集まってできたものではありません。

ですから、独立した実体として存在しているのは大宇宙という一つの全体だけなのです。

なるほど、私たち人間はこの世界において “自分”と感じる仕組みを持って生きていますが、本質的には、“自分”という個は存在しないのです。

(つづく)





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不可分一体と個としての自分

不可分一体と個としての自分

Lさんからのメール(要約):

前回のセミナーで先生が話してくださったことはいつか体感できる日がくると、自分の宿題にしていたことでした。

全てひとつのいのちであることはわかりました。でも、私という感覚や感情もある。私というコロっとしたものはないけど、私が今いることも事実。死はないけど、肉体的には死ぬ。わかるけど、わからない。今一つハッキリしませんでした。

今回のセミナーで、福岡正信先生の『わら一本の革命』が誕生したことに昇平先生が深く関わっていたこと、奈央先生がフランスの自家発電の新聞記事を読んでお手紙を出して交流が始まったこと。そして、今回、その娘さんが整体セミナーに参加していること、そのパートナーが『わら一本の革命』のフランス語版を読んで感銘を受けた事。

その話しを聞いて、個という自分はないけど、個が発信、おもわずやらずにはいられずに行動したことで世界の人、ひとつのいのちと関わって繋がっていくのだと思いました。

みんなひとつのいのちだから大安心と思って、何もしなくていいのではなく、ひとつのいのちを体感するからこそ、実生活のなかで、今ある自分から思わずやらずにはいられずに発動・行動し、周りの人や社会に関わり、平和創造していくこと。

それが私達がひとつのいのちであると同時に、それぞれに感覚や感情や肉体を持ちながらかけがえのない個として存在する意味ではないかと感じました。

私は今、自分が発信して、人と関わり繋がっていくことが楽しいです。この楽しさが本当で、その楽しさが世界中に広がっていけばいいのではないかと思いました。

今回の選挙で活動してくなか、思った以上に横のつながりができました。これがこの先もっと力強い平和創造につながるものになるように活動していきます。


昇平の返事:

一元絶対世界の中で、なぜ自分と感じる仕組みがあるのか?

僕も宇宙、生物、人類の進化の様子から、大まかに「こういうことではないのだろうか」と推測はしていますが、推測は可能かもしれませんが、本当のところは誰にも分からないのです。ただ、事実としてそうなっているだけです。

自分が全体であるのか個であるのかというなことに時間を費すよりも、真心を尽くして、みんなが幸福で平和な世界の実現に向かって全力で生きることが真実の生きかたであると言えるでしょう。

真心というものは江戸時代に生きた盤珪禅師が説かれた「不生の仏心」と同じです。

盤珪禅師は「不生の仏心でいれば、すべてが整う」と言われています。

それは不生の仏心、つまり、真心は一元絶対のいのちに直結している本能から出てくるからです。

結論としては、ややこしいことは考えずに、ただ素直に真心を尽くしてみんなのために生きればよいのです。

大安心のなかで、真心丸出しで、いのちの法則(真理)に沿って生きていくことこそ全体そして個という観念を超えた天地一杯の真実の生きかたであり、真の幸福なのです。


Lさんの返事:

お返事、ありがとうございました。

本当のところは誰にもわからないのですね。なるほど!

安心して、真心を尽くしてみんなの為に生きます!

単純なんですね~

ありがとうございました。





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