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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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何でもスイスイできる

何でもスイスイできる

私たちは本来、物理的に不可能なことは除いて、何でも自由にできるようにできています。

物理的に不可能なことというのは、たとえば、道具や機械など何も使わないで自分の足だけで垂直に100メートル飛び上がるというようなことです。

例のタバコをやめることをテーマにしてさらに踏み込んで考えてみましょう。

従来、一般的には吸いたい気持ちをガマンするという「ガマンの禁煙」が主流でした。

その方法でタバコをやめることができる人もいますが、それは少数であり、その人たちはガマンの禁煙にも関わらずタバコをやめることができたというべきでしょう。

多くの人はガマンの禁煙をしてしばらくはタバコをガマンして吸わないでいるのですが、どうしても吸いたい気持ちが消えずに、その内にガマンできなくなって失敗してしまいます。

それに対して、アレンカーや僕がこれまで提唱してきたのは、タバコの正体、つまり、「タバコには何一つメリットがなくデメリットばかりだ」ということを見抜くことができれば、吸いたい気持ちは自然に出てこなくなくなるので簡単にタバコはやめることができるというものです。

実際、この原理をよく理解できた人はあっけないほど簡単にタバコをやめています。

でも、実は、もっと簡単にタバコをやめることができるのです。

それは、ただやめるということです。

ただやめればよいのです。

やめればやまるのです。

吸いたい気持ちをガマンするのではなく、相手にしないで、ただ、吸わないでいるのです。

方法をもってしてもダメなのです。

ただ吸わないでいるだけで、方法はありません。

吸いたい気持ちをガマンしようとすると、吸いたい気持ちと吸ってはいけないという気持ちの葛藤でますます苦しくなり、よけいに吸いたくなってしまいます。

吸いたい気持ちを何とかしようとして、いろいろ(な方法で)ガマンしてみたり、逸(そ)らそうとするなど、吸いたい気持ちを相手にすればするほど、タバコに執着して吸いたくなってしまいます。

ただ吸わないでいるということは、吸いたい気持ちが出てきてもそのままにして“相手にしないで”ただ吸わないでいるということです。

それは吸いたい気持ちをガマンするということとはまったく違います。

和田重正先生の「人生を開く三つの鍵」の2と3を思い出してください。

イヤなことはさけないで ――― 吸いたい気持ちを相手にしないで
よいことはする     ――― ただ吸わないでいる

タバコを吸いたい気持ちがあってもなくても、タバコがどんなに素晴らしいものでも、どんなにひどい代物であっても、タバコをやめるのは簡単にできます。

でも、ガマンしたり方法をもってやめようとするからダメなのです。

ただやめればよいのです。

やめればやまります。

以上のことが明確に納得できれば、何をするにしても誰でも真の自由を手に入れることができます。

何でもスイスイできるようになります。

ただやればよいのです。

簡単でしょう!




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話は聴く

話は聴く

以前のブログに「よいことはする」ということについて、「よいことは」と「する」の間に、言い訳とか、ぐずぐずするというような余計なものはなにも入れるべきではないと書きました。

つまり、「よいことは」素直に、あるいは、無条件に「する」ということです。

それと同じように、「話は」素直に、あるいは、無条件に、まず「聴く」ことが人と話すときのもっとも大切なことです。

つまり、人と話すときは、まず相手の言いたいことやその根底にある気持ちを批判者の態度ではなく、素直に聴く態度で聴くことです。

そのような態度で聴けば、必ず自分が相手の存在を受け入れていることが相手に伝わります。

これはどんな人と話す場合にでも、例え、相手が子供であっても、人と話すとき取るべき最も大切な態度です。

もし、相手の言うことがよくわからないときには、相手の言いたいことや気持ちを理解しようとする気持ちが相手に伝わるように、例えば、「はい。でも、もう少し説明していただけますか」というように、素直に相手に問いかければよいのです。

相手の言いたいことを充分聴き届けないで、相手を批判したり、あるいは、自分の考えを主張することは相手の人格を否定することになります。

ですから、まずは、充分相手の言いたいことを受け止めたうえで、自分の考えを相手に誤解のように伝えるべきなのです。

また、職場や家庭の中などで、目上の人などに、例えば、「それではダメだ。こうしなさい」などと言われたときに、いつもほとんど反射的になにか言い返したり、言い訳をする人がいます。

自分では正当な理由があって言っているつもりかもしれませんが、これは相手の気持ちを跳ね返して、相手を受け入れていないということです。

ですから、相手も自分が拒絶されたことを敏感に感じ、よほどこころの暖かい人を除いて、ほとんどの人のこころは寒々としたものになり、「嫌なヤツだな」というような感情さえ生まれかねません。

これでは人と本当に仲良くなることはできません。

人と本当に仲良くなるためには、まず、自分のこころを開いて、まず、相手の言っていることをを受け止めることが大切です。

もちろん、なんでも相手の言いなりになることではありません

相手の言いたいことやその気持ちを充分受け取ったうえで、言いたいことがあれば、自分の言いたいことや気持ちを正しく相手に伝わるように話せばよいのです。

自分では言い返したり、言い訳をして、自分を守っているつもりかもしれませんが、実際には、相手のいうことを聴く態度で聴こうとしないことによって周りから嫌われ、まともに相手にされなくなっていくのです。

ですから、自分を守れていないどころか、自分の価値を自分から貶(おとし)めているのです。また、誰が見ても実にみっともない態度と思うでしょう。

ちょっと説教じみますが、ここまで書いてきたことに心当たりがある人は、すぐになにか言い返したり、言い訳するのは絶対に損なのだということに早く気付いてほしいと思います。





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ヨイことはする

ヨイことはする

人生の宝庫を開く三つの鍵の3番目は「ヨイことはする」です。

これは「ヨイことをする」とは違います。

「は」と「を」の違いですが、その違いはかなり大きいのではないでしょうか?

「ヨイことをする」というと、自分で「ヨイこと」はなにかと考えて、それをやるというような意味になります。

これはこれで、とても大切なことです。

では、「ヨイことはする」とはどういうことでしょうか?

「ヨイことはする」の「ヨイこと」とは、「自分の思いを超えて当然やるべきこと、当然やったほうがよいこと、ヨイということが誰にとっても明らかなこと」というような意味になるのではないでしょうか?

自分が子供だったときのことを思い出してください。

例えば、自分が漫画か何かを読んでいるときに、お母さんが「近所の~~屋さんで~~を買ってきてちょうだい。お母さんは手が離せないの。他に誰もいないのよ」といった場面と似たようなことがあったのではないでしょうか?

このような場面では、「どうすることがヨイことか?」は自分の思いを超えて明らかです。それは当然「お使いに行くこと」ですね。

「ヨイことはする」の「ヨイこと」とはこのように「当然やるべきこと、やったほうがよいこと」というような意味だと言えるでしょう。

そのような理解を前提として、「ヨイことはする」という言葉についてさらに考えてみましょう。

「ヨイことはする」の意味は、色即是空、つまり、「色は即ち空である」と同じように「ヨイことは即ちする」ということです。

それは、「ヨイことは」無条件に「する」ということです。

自分の思いや気分によって、やったり、やらなかったりということではないと言っているのです。

自分の思いや気分などは一切入れないということです。

無条件に、あるいは、ただ「やる」のです。

もちろん、「ヨイこと」が何かということによっては、どのようにやったらよいかとじっくり考えたり、場合によっては、人と相談したり、協力してやならければならないかもしれません。

けれども、それはあくまで「やる」ということが前提にあるのです。

僕が和田重正先生のこの「ヨイことはする」という言葉がスゴイと思うのは、「ヨイことは」と「する」の間に隙間がまったくないということです。

「ヨイことは」「する」のです。そういうものなのです。

アレコレ議論したり、言い訳を言ったりすることではまったくないのです。

算数の世界で、たとえば、2+3=5であるように、太陽は東から昇り、西に沈むように、「ヨイことは」「する」というのは当然のことなのです。

ですから、「ヨイことは」無条件に「する」のです。そういうものだということです。

「ヨイこと」はあらゆるところにあります。

自分の眼で直接見える範囲の「ヨイこと」はもちろんですが、たとえ直接見えなくても、同じように、社会的な「ヨイこと」は「する」のです。

そのためには、書物や新聞やテレビなどを通して、日本や世界の社会の状況を「知る」ことがとても大切です。

みんな一つの世界に生きているのですから、知らないからといって、やらなくてもよいということではないのです。






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イヤなことはさけないで

イヤなことはさけないで

和田重正先生の言われる「人生の宝庫を開く三つの鍵」の二番目の「イヤなことはさけないで」という言葉は元々内向的で消極的な僕にとっては、現実のいろいろな生活の場面で、もっとも頻繁にこころの耳に響いてくる言葉です。

例えば、自分のこころを検べてみると、いろんな場面で、「そうしたほうがよい。そうしなければ」と思いながら、「面倒だ。やるのはやめよう」とか、「いずれ後でやろう」などと、大した理由もなく実行するのをためらう気持や後回しにする気持があることに気が付きます。

よくよく検べてみると、実際にやらなかったり、「後回しにしよう」などと思っても、決して自分のこころが楽しいわけではないのです。どちらかと言えば、何だか「自分はダメだな」などとどこか後ろめたいような気持ちがそこにあります。

「どうしてそうなるのか?」とさらに検べていくと、それは自分の気分に流されているからだとわかってきました。

では、なぜ、気分に流されのか?とさらに検べていくと、それは自分が自分の気分をもっとも大切なもの、言い換えれば、尊重すべきものだと思っていたからです。

そこに、決定的な間違いがあったのです。

このような場合の「気分」というものは、事実を無視した自分の身勝手さとかわがまま、言い換えれば、「ケチな根性」から出てくるのです。

そういう気分は大切なものでも尊重すべきものでもなかったのです。それどころか、自分をダメにし、周りにも迷惑をかけるものでしかなかったのです。

ですから、そういう気分が出てきても相手にする価値もないのです。

ぐずぐずした気分や後回しにしようなどというケチな気分は「エイッ」と切ってしまって、事実・状況に即して、やるべきことをさっとやればよいのです。
それが「ヨイことはする」ということに繋がっていきます。

和田先生は「思いを切る」と言われていますが、僕の言う「気分を切る」いうことと同じです。

なかには、自分は感情に流されやすいので、「思い(気分)を切る」なんてとても難しいのではと思う方もいるかもしれませんね。

でも、実際は簡単なことです。

学校に通っていたころのことを思い出してください。

朝学校に行く時間が迫っているのに、目は一応覚めているに、まだ眠かったり、寒かったりして、起きるのがなにか億劫(おっくう)で布団の中でぐずぐずしていた経験があるのではないでしょうか?

アタマのなかでは「起きなくっちゃ」という気持ちと「もう少し布団の中にいたい」という気持ちが相争っています。

ほとんどの場合、しばらくその争いは続くのですが、ある瞬間に「思いが切れて」というか「エイッと思いを切って」起き上がったのではないでしょうか?

誰でも、これ以外にも、結構いろいろな場面で簡単に思いを切るという体験をされていると思います。

だから、決して難しいことではありません。

「イヤなことはさけないで」とこころのなかで再確認し、「エイッ」と思い切ってやればよいのです。

やってみれば実に簡単なことです。






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ケチな根性はいけない

ケチな根性はいけない

和田重正先生の「人生を開く三つの鍵」の第一に掲げられているのがこの「ケチな根性はいけない」です。

「ケチな根性はいけない」と言われれば、ほとんどの方がそれほど深く考えなくても直感的に「それはそうだ」と思われるのではないでしょうか。

でも、普通はそう言われたときに「それはそうだ」と思うだけで、それ以上考えることもなく、その後は気にも留めないで日常の生活を続けていくという方がほとんどではないかと思うのです。

でも、この言葉が「人生を開く三つの鍵」の第一に掲げられていると聞けば、この言葉にはきっと何か深い意味があるのではないかと思われるかもしれませんね。

僕もそう思うのです。僕はこの言葉にはじめて出会ったときに、まず直感的に「そうだ」と思い、とにかく生活のあらゆる場面で実行して行こうと決断しました。

それ以来、いつもこの言葉を“よりよく生きるためのこころのツール”として使ってきました。

その過程のなかで、この言葉の持つ深い意味が体験を通してだんだんわかってきたように思います。

そして、その理解が深まるにつれて、僕の人生も少しずつ深まってきたように思うのです。

そういう意味でも、皆さんにもぜひこの言葉を人生を生きる上での指針の一つとしてこころの中で携帯されることをお勧めしたいと思います。

ところで、もちろん、誰にでも直感的になんとなくわかりますが、そもそも「ケチ」とはどんな意味なのでしょうか?

手元の辞書によると、「ケチ」にはいろいろな意味がありますが、日常的に多く使われるのは、そのなかの「金品を必要以上に惜しむこと。しみったれなこと。また、その人。吝嗇(りんしょく)」という意味だといえるでしょう。

でも、和田先生が言われる「ケチな根性」にはもっと深い、そして、広い意味があるように思いませんか?

「ケチ」の語源を調べられた山窩(サンカ)作家の三角寛によれば、「ケチ」は「ケジメ」と同じ語源だということです。

「ケジメ」というのは辞書には「区別。わかち。わけめ」と出ています。

ということは、「ケチな根性」というのは、物事をすべて区別し分ける考え方、言い換えれば、バラバラ観から出てくるエゴイステイック(利己的な)、「自分さえよければ」という感情や考え方の元になる根性だということがわかってきます。

でも、こんなことは本当は辞書や文献で調べるまでもなく、静かに自分の内心の声を聴いてみれば、誰にでも感得できることではないでしょうか。

本当は、私たちは誰でも「ケチな根性はいけない」ということを本能的には知っているのです。

それは、つまり、誰でもバラバラ観は誤りだ、存在の真実ではない、ということを本能的には知っているということです。

問題は、私たちはついつい目先のことに惑わされて、自分の内心の声を無視して行動してしまうことです。

そういうなかで、この「ケチな根性はいけない」という言葉が自分の本心に立ち帰らせてくれるのです。







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