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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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平和を創造する  その3

平和を創造する  その3
(その2からの続き)

僕のブログをずっと読んでいるある方から、『平和を創造する その2』について次のような感想を伺いました。

自分はバラバラ観に立脚した生き方をやめて不可分一体に立脚した生き方をしたほうがよい、あるいは、しなければならないとは思うのですが、不可分一体に立脚した生き方をしたことがないので、そう生きることがどうしてワクワクした気持ちになるのか想像がつかない」というものです。

実は、このような感想なり疑問を抱く方が結構いらっしゃるのです。

そのような疑問に引っかかって真実の生き方に躊躇(躊躇して)踏み切れないのは実に残念です。

そこでいくつかの例をあげて説明しましょう。

まずはタバコの話です。タバコを吸わないのはタバコを吸わない人にとってはごく当たり前のことで、別にワクワクするようなことではありません。

ところが、スモーカーがタバコの正体を検べてみたところ、喫煙にはメリットは一つもなく、とんでもないデメリットばかりだということにはっきりと気付いたとしたら、タバコの正体に気付いてタバコをやめることが嬉しくてしょうがないでしょう。タバコの奴隷状態から解放されることを思って、それこそ思わずワクワクするのではないでしょうか。

また、普通の人にとってはどこにでも自由に行けること、なんでも自由にすることができるということは当たり前のことで、とくにワクワクするようなことではありません。

けれども、何かの事情で長年暗いじめじめした牢獄に閉じ込められて、どこかに自由に行くことができず、また、いろいろと行動が制限されている人にとっては、牢獄を出てどんなところへも自由に行くことができ、なんでも自由にできることはどんなに素晴らしいことでしょう。そして、ついに牢獄から外へ出ることができるということになったら、誰でもそれを考えるだけでもワクワクするのではないでしょうか。

さらに、「健康の有難さは失ってみて初めてわかる」と言われますが、ずっと健康な人にとっては健康であることは当たり前のことで、とくにワクワクすることではありません。

ところが、長い間病気で苦しんでいる人が、信頼できる人から、「こうすればあなたは確実に健康になれます」と言われたら、病気が治って健康になったことを想像して思わずニコニコ、ワクワク、するしょう。

以上の例で分かるように、不可分一体観に立脚した真実の生き方というのは、実は、当たり前の生き方であり、そのこと自体は本当はとくにワクワクするようなことではありません。ただ、いつもこころが満たされ安らいでいるだけです。

ところが、バラバラ観に立脚した生き方は、結局は、自分自身だけでなく身の回りの人をも苦しめ、さらには、社会全体の諸問題の根本原因となっていることにはっきりと気付いたならば、誰でも一刻も早くそこから脱却して、不可分一体の真実に即した生き方に転換したいと思うでしょう。

あなたは、それを想像するだけワクワクして楽しくなってきませんか?

(終わり)





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平和を創造する  その2

平和を創造する  その2
(その1からの続き)

バラバラ観が誤りであり、不可分一体観に立脚した生き方が真実だと分かっても、依然としてバラバラ観に立脚した生き方を続けている人がいます。

それには理由が三つほどあるように思います。

まず、一番目は理解が十分でない場合です。

二番目は、分かったことと実際の生き方が違っていても、おかしいと思わないという鈍さを持った人が結構多いということです。

これは、真実の生き方を求める気持ちが弱すぎるために、分かったことと実際の生き方が遊離してもさほど気にならないためだと思いますが、これは実に残念なことです。

誰にとっても人生はかけがえのないものなのですから、心当たりのある方は大いに自己反省して生き方の方向性をしっかりと定められるようこころからお勧めします。

三番目は、真実の生き方についてそれなりにいろいろと考えて、バラバラ観の誤り、そして、不可分一体観こそが存在の真実であることを一応理解して、バラバラ観に立脚した生き方を改め、不可分一体観に立脚した真実の生き方に転換しようと決断したつもりなのですが、事実としては依然としてバラバラ観に立脚した生き方を続けているという場合です。

つまり、三番目は、自分では東京行きの列車(バラバラ観に立脚した生き方)を降りて新大阪行き(不可分一体観に立脚した真実の生き方)に乗り換えたつもりでも、実際には、依然として東京行きの列車の中で大阪方面に向かって歩いているだけという場合です。

これはアタマ型の人に結構見られるのですが、例によって、禁煙の話を例に説明してみましょう。

タバコには何のメリットもないと分かって、ではやめようと決断したつもりなのですが、せいぜい2,3日しかもたず、その内に吸いたい気持ちに負けて再び吸い始めるということとよく似ています。

実際、タバコに関してはこのような人が実に多いのです。

では、本当に新大阪行きに乗り換えたのか、それとも、乗り換えた“つもり”で、実際には依然として東京行に乗り続けていることをどうしたら見分けることができるのでしょうか? 

できます!

タバコをやめようと思っても、「やめなければならないのか。仕方がない。なんとか頑張ろう」というような少しでも消極的な気持ちや未練たらしい気持ちが残っているのは、まだ吸いたい気持ちがなくなっていないのであり、本心はやめたくないということであり、事実上やめてはいません。

つまり、アタマの先っぽで中途半端に新大阪行きに乗り換えた“つもり”になっているだけなのです。

でも、タバコをやめようと思っったときに、そうすることが嬉しくてしかたがない、「早くそうしたい! やめたい!」という気持ちでいっぱいになり、こころがワクワクしていれば、それは本当に本音でタバコをやめたということです。

そこまでタバコの正体をはっきりと見極めることがタバコをやめる秘訣です。

この判定基準はタバコをやめることだけでなく、いろいろな人生上の選択や決断をする場合にもっとも重要なポイントです。





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平和を創造する  その1

平和を創造する  その1

今日まで何百年何千年の長い年月、実に多くの方々が平和な世界の実現を願いながら懸命に努力してこられたにもかかわらず、いまだに真の恒久の平和世界は実現されていません。

これは一体なぜなのでしょうか?

僕は意外に簡単なところに重大な見落としがあるためではないかと思うのです。

わかりやすく説明しましょう。

あなたは今、東海道新幹線の名古屋駅にいて、新大阪に行きたいと思って列車を待っています。列車がきたので、先頭車両に乗りました。

ところが、列車が動き出してから、あなたは間違って「東京行」に乗ってしまったことに気づきました。

あなたは新大阪に行きたいからといって、その列車の中を一生懸命最後部に向かって歩きますか?

それでは新大阪に少しも近づけません。それどころか、その懸命な努力まるごとどんどん東京に向かって進んで行くのです。

それと同じように、戦争の生じる土壌をそのままにして、いくら一生懸命戦争反対を叫んでも真の恒久の平和世界を実現することはできません。

真の恒久の平和世界を実現するためには戦争が生じる土壌そのものをなくし、平和が生じる土壌を創っていかなければならないのです。

たしかに、戦争反対の声は戦争に向かって進む動きを一時的には押しとどめる対症療法的効果があるかもしれません。その意味ではもちろん必要です。

けれども、戦争に反対する対立的な動きは、結局は、戦争に向かって進む勢力にとっては、自分たちの勢力を脅かすものとして受け止められ、その対立的な動きに対するより強力な反動的な動きを生み出してしまいます。このようにして、両者の対立はどんどんエスカレートしていくのではないでしょうか。

いずれにしても、たとえ、どんなに平和を願う心から出たものであったとしても、戦争の生じる土壌のなかでただ一生懸命に戦争反対の声を挙げても、そのこと自体が一面対立的な要素を含んでいるので、それだけでは最終的に戦争の生じる土壌をなくしていくことにはつながらないでしょう。

ここで、戦争の生じる土壌というのは個人的、社会的に”常識“となっているバラバラ観に立脚した社会の在り方であり、戦争の生じない土壌、平和が生じる土壌というのは不可分一体観に立脚した社会の在り方です。

私たちは、対症療法的ではあっても、戦争へ向かって進む当面の動きを少しでも押しとどめるべく戦争反対の運動を進めるだけでなく、バラバラ観に立脚した戦争の生じる土壌そのものをなくし、不可分一体観に立脚した平和が生じる土壌を醸成し、真の恒久平和世界を実現するために、根本療法的に非対立の平和運動を本気で強力に進めていかなければならないのです。

けれども、非対立な平和運動であるといっても、ただ、心の中で平和を祈るというような、結局は個人的満足に過ぎないものであれば、戦争の生じる土壌そのものを消滅させ平和が生じる土壌を醸成する力にはなりません。

幸いなことに、真の恒久の平和な世界を創造する鍵はまさにあなたの手の中にあるのです。

詳しくは拙著『国の理想と憲法』を熟読いただければ大変幸いです。

(続く)




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違う? 同じ?

違う? 同じ?

家の前に何本かの松の木と桑の木が見えています。

もし、誰かに「松の木と桑の木は同じものですか、それとも、異なるものですか?」と訊かれれば、たいていの人が「もちろん、違うものだよ」と答えるでしょう。

中には「両方とも植物であるから、その点では同じものだ」と答える人もいるかもしれません。

さらに「私とあなたは同じものですか、それとも、異なるものですか?」と訊かれればどうでしょうか?

ほとんどの人は「もちろん、異なるものだよ」と答えるでしょう。

でも、中には次のように答える人もいるでしょう。

もともと二人とも人間(動物、生物)なのだから、その点では同じものと言えるし、つながりもある。それはそうなのだけれども、それぞれ姿かたちや大きさや色や機能などの現象的な特徴はそれぞれ程度の差はあっても異なっている、だから、やはり、それぞれ異なる実体である。

そう言われれば、確かにこの世界のすべてのものをずっとその起源に向かって検べてみれば、みんなある一つの共通の先祖、あるいは、一つの共通の何かに行きつきます。

そういう意味では、みんな同じものであるとも言えるし、同時に、異なったものである。

ほとんどの方が上に述べてきたように考えているのではないでしょうか。

けれども、僕は自分自身の体験的理解から上のような考え方は根本的に間違っていると考えています。

その考え方の根本的な間違いは「この世界のすべてのものにはそれぞれ実体がある」というところにあります。

つまり、上の「~~と~~は同じものか、それとも、異なるものか?」という問いについて考えるときに、すでに「それぞれのものにはそれぞれ独自の実体がある」という考えを自明の理として、それを前提にして進められています。

したがって、その答えが「同じもの」、あるいは、「異なるもの」、あるいは、「つながりはあるが異なるもの」であったとしても、もともと「それぞれがそれぞれ実体である」と考えが前提にある以上は、実質的には、「それぞれは異なったもの、つまり、バラバラな存在である」であると認めていることになります。

でも、この世界には実体としては“いのち”しかありません。

すべてのものは唯一の実体である“いのち”が刻々に描いている綾模様(現象的特徴)であり、それぞれの模様に実体があるわけではありません。

たとえば、“自分”というものは見かけ上実体をもって存在しているように思えるだけで、本当は“自分”という実体は存在しません。

それは“あなた”についても、また、この世界のすべてのものについても同じです。

この世界のすべてのものは、それぞれ、たとえ現象的特徴は異なっていても、その実体は同じ“いのち”であり、“自分”も“あなた”も“他“もありません。

あなたはわたし。わたしはあなたです。

すべてが自分です。

天上天下唯我独尊。

みんな一つです。

「この世界は不可分一体の“いのち”の世界である」というのはそういう意味です。


What a wonderful world !!






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不思議な映画館 その2

不思議な映画館 その2

この不思議な映画館ではタテ、ヨコ、奥行きと立体的に無限に広がった無色透明(かつ、絶対静寂)なスクリーンに立体的に映画が映っています。。

ところが、無限に広がったスクリーンいっぱいに映像が音や感覚などを含めて実にリアルに映っているので、ほとんどの人(映画の登場人物)はそれが事実・現実の世界であると錯覚しています。

ですから、まさか、それが単なる映画であり、その奥にスクリーンがあるなんて思いもしないでしょう。

こんなことを書くと、「昇平という人はなんとも変なことを考えているんだなあ」と思われる方も多いことでしょう。

けれども、この「不思議な映画館」で僕が言おうとしていることは、多くの方の世界観や人生観、簡単に言えば、「この世界はどうなっているのか? そもそも自分とは何か?」ということに対する捉え方や理解が実に曖昧で、いい加減なものではないだろうかということです。

私たち人間は生まれてしばらくの間は「~~ちゃん」などと呼ばれていても、“自分”とか“他“などということをまったく意識せずに生きています。

ところが、2歳前後になったある日、名前を呼ばれて、突然、“自分”というものがあると思うようになります。

つまり、「~~ちゃんというのが“自分”というもので、周りのものは“自分”ではないもの(“他“)」と思うようになるのです。

そして、その後家庭や社会のなかで成長するにつれて、その“思い”はますます堅固になっていき、そのうちに、それは自明のこと、絶対の真実であると思い、それを疑おうともしなくなります。

この“自他”の観念は、言い換えれば、この世界のすべてはそれぞれいくらかのつながりがあることもあるが、本来、すべてはバラバラの実体であるという考えです。 それを僕は”バラバラ観“と呼んでいます。

このバラバラ観は個人的、あるいは、社会的に分裂を引き起こし、混乱や対立など様々な苦しみを生み出します。

私たち人間のほとんどがバラバラ観を抱くようになるのには何か大きな意味があるのかもしれませんが、だからと言って、それをそのままにしておいてよいということではありません。

実際、バラバラ観によって引き起こされる様々な苦しみを何とか解決しようとしても、結局は、とことん行き詰ってしまいます。

ところが、そのような行き詰まりの中でもがいているうちに、ついには、突然、バラバラ観が脱落して不可分一体観の存在の真実に目覚めるという体験をした方がこれまでの人間の歴史のなかで、少なからずいらっしゃいます。

いったん不可分一体の存在の真実にはっきりと目覚めれば、これまでずーっと抱いてきた世界観や人生観、そして、それらの観念によって作り上げてきた個人的生活や社会の在り方が結局は、映画のなかの出来事のように、実体のない夢のようにはかないものであったことに気が付くことができます。

この目覚めこそ、真人生の出発点であり、同時に、真の平和と幸福な世界を築き上げる第一歩となるのです。






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不思議な映画館  その1

不思議な映画館 その1

私たちは映画館やテレビで映画を見ている時、時には映画の内容に引き込まれて、映画でのシーンがあたかも現実に事実として起こっているかのように錯覚することがあります。

そのように錯覚するからこそ、映画を見て感動したり、面白く思ったり、嬉しくなったり、悲しくなったり、怖くなったりするのでしょう。

でも、私たちはそのように錯覚しながらも、どこかで自分は映画を見ているのであり、これは現実ではないということに気付いています。

とにかく、映画が終われば、あるいは、途中で見るのをやめれば、映画は消えてただスクリーンだけが残ります。

ですから、自分は映画を見ていたのであり、それが現実ではなかったことに気が付かない人はいないでしょう。

では、もし次のようなスクリーンと映画があったらどうでしょうか?

そのスクリーンは完全に静寂透明であり、形は長方形ではなく、3次元の立体で、前にも後ろにも、右横にも左横にも、上にも下にも無限に広がっています。

そして、その立体スクリーン一杯に立体的に映画が映っています。

しかも、自分も映画の登場人物の一人として、演技をしているのを忘れるほど完全に役にはまり込んでいます。

また、この映画のなかでは視覚や臭覚、味覚、触覚などの体の感覚も実にリアルに体感できるようになっています。

さらに、この映画は誰も知らないずーっと昔から続いています。

その映画の中で、ある時自分は生まれて、しだいに成長していまの姿として演技しています。

周りの登場人物の様子から判断すると、いずれ自分も年を取り死んでしまうのでしょう。

でも、その後もこの映画はずーっと続いていくのです。

さて、このようなスクリーンと映画があったとしたら、あなたは、それが全部映画であり、自分が映画の中の一登場人物だとは夢にも思わないでしょう。

私たちが通常映画を映画だと認識するのは、まず、映画が映っているスクリーンの大きさに限定があり、その周りには映画ではなく生の現実と感じている世界が広がっているからです。

そして、何よりも、自分は映画を見ている人(観客)であり、映画のなかの登場人物ではないからです。

ところがこの不思議な映画館で上映されている映画にはそのようなものは何もありませんから、そこに登場している人たちはみんなそれぞれの役にはまり込んで、演技をしているという意識もなく演技し続けています。

ここまで読んでちょっと不気味な感じがしてきたかもしれませんね。

多くの人は普段この世界に起きていることをすべて事実だと思い、自分はこの世界にある時に生まれ、成長し、今の姿となり、これからも年を取って、やがて死んでこの世界から消えていく存在だと思って生きています。

けれども、真実の自己はそんなはかない存在ではありません。

コインは表と裏があって一つのものであるように、真実の世界は表の映画(常に移り変わっていく現象世界)と裏のスクリーン(不生不滅の本質である“いのち”)とで一つのものです。

そして、その真実の世界全体こそが真実の自己なのです。









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