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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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ドツボから抜け出るために

ドツボから抜け出るために

僕はしょっちゅうタバコの話をしています。タバコを吸わなくても、多くの人はその他のことでは同じようなドツボに嵌って実に不自由に生きているのではないでしょうか

自分がドツボに嵌っていることに気付かなければ、そのドツボから脱出しようとは思いもしないでしょう。

そして、ドツボの中で「結局、人生はこんなもんなのだ」と自分を慰めながら死んでいくことになるのです。

こんなことでよいはずがありません!

そこで、人が陥りがちな、というか、すでに陥っているドツボに気付いてほしいと思って、分かりやすいように僕はタバコを例にとって説明しているのです。

「やめてみたらわかる」と重正先生は言われましたが、何がわかるといわれたのでしょうか?

タバコについての僕の経験では、タバコはどうしてもやめられない、タバコははよいものだという思いや、タバコをやめようと思うときに感じる不安や恐怖は妄想だったことがやめてみたらわかりました。

その体験から得たものは、タバコをやめて不安や恐怖が出て来ても、それを妄想だとして相手にしないことがポイントだということです。

相手にしなければ、不安や恐怖はいつのまにか自然に消えていくものなのです。というのは、不安や恐怖は実体があるものではなく、たんなる妄想にすぎないからです。

2+3は4ではなくて、真実は2+3は5であることがわかったら、素直にその真実を受け取ればよいということは誰にとっても明らかなことです。

ところが、バラバラ観は存在の真実ではなく、真実は不可分一体であり、不可分一体観に沿って生きることこそ、みんな仲良く楽しく生きられる唯一の道であり、それがもっとも当たり前で楽な生き方であることがわかっても、実際にはバラバラ観に沿って生きている人が実に多いのです。

「それなのに、なぜ?」と聞いてみると、「それはそう思うのだけれども、不可分一体観に沿って生きた体験がないので不安だ」と言います。

ここではっきり言いましょう。

2+3=4と思い込んでいたのに、真実は2+3=5ということがわかったら、その真実をすっきり受け止めて、すっきりと生きるだけです。

もしそこに不安感や恐怖感が生じるとすれば、それはノイローゼだからです。

自分がノイローゼだということに気付いていないから、せっかく不可分一体という存在の真実に気付いたにも関わらずバラバラ観に沿った生き方を続け、自分を苦しめ、周りの人を苦しめながら生きているのです。

でも、ノイローゼで作り出した不安や恐怖をノイローゼのアタマで何とかしようとしても、何もできません。

かえって、事態を混乱させて、自らをさらに苦しむことになってしまいます。

ですから、唯一の道は、素直に自分がノイローゼであったことを認めて、仮に不安や恐怖を感じても相手にしないで、不可分一体の真実に沿って生きていくことしかありません。

そうすれば、そのうちに不安や恐怖はひとりでどこかに行ってしまい、すべてが、不可分一体の真実に沿って整っていくのです。





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爽やかに生きよう

爽やかに生きよう

僕は22歳のころに、「この人生を爽やかに生きよう!」と決心しました。

それは、何よりも和田重正先生に出会ったことが大きなきっかけでした。

先生に出会って、それまでの自分の生き方が爽やかどころか、むしろ、真逆だったということにあらためて気付きました。

それ以来今日まで「爽やかに生きよう!」という言葉を折に触れてこころのなかでつぶやきながら生きてきました。

実際は「お前さんの一体どこが爽やかなのだ?」と言われれば返す言葉も見つかりませんし、自分が未熟なのは一番自分自身が自覚しています。

その一方、爽やかに生きようと決心する前よりは随分爽やかに生きているのではないかと思っていることも事実なのです。

いずれにしても、僕の「爽やかに生きよう」という言葉をより具体的に表現すると、「どんな状況のなかでも、あるいは、どんなことが起こっても爽やかに生きよう」ということになります。

というのは、この人生は必ずしも自分の思い通りにはならないからです。

「この人生は必ずしも自分の思い通りにはならない」、これは絶対の真実です。

それは思いは事実とはもともと違うからです。

思いの流れと事実の流れは違うと言ってもよいでしょう。

思いを描き、それに基づいて事実に働きかけることはできますが、そうすることによって事実が必ずしも思い通りになる、あるいは、変わるとは言えません。

ですから、物事が自分の思い通りにならなかったといって、暗くなったり、悲しくなったり、腹を立てたりするのは大損なのです。大馬鹿といったほうがよいかもしれません。

多くの人は、アタマのどこかで、「事実は思い通りになるはずだ」と思い込んでいますが、
本当はそれは錯覚であり、妄想です。

また、「ねばならない」という観念に縛られている人も非常に多いようです。

でも、よく検べてください。本来、この世界に「ねばならない」ということはどこにもないのです。

「こうでなければならない」という錯覚、いや、妄想に捉われて、自分を、そして、周りの人々を苦しめる愚かさに一刻も早く気付いてほしいとこころから願わずにはいられません。

これは大変失礼な表現で、傲慢な言葉に聞こえるかもしれませんが、一番愚かなのは僕自身だったと認めざるをえません。

「いや、それが錯覚、あるいは、妄想だということがどうも実感的にはっきりとわからないのだ」という方もいるかもしれませんね。

そういう方にお勧めの方法があります。

それはそれが錯覚、あるいは、妄想だとわからなくても、今この瞬間から「どんな状況でも、どんなことが起こっても爽やかに生きていこう」と決意して生きていくことです。

そうすれば、実際に、どんな状況でも、どんなことが起こっても爽やかに生きていくことができますし、また、「事実は思い通りになる」とか「思い通りに事実はならなければならない」などということが錯覚、あるいは、妄想だったことが自然にわかってくるのです。

やってみればわかります。





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境目が本当に見えるか?

境目が本当に見えるか?

「境目」という言葉を僕の広辞苑で調べると、
1 物と物との接する所。かぎり。
2 物事のわかれる所。わかれめ。きわ。

となっています。

この「物と物」という言葉は「それぞれ異なる二つの物」という意味に解釈するのが妥当でしょう。

いま、テーブルの上にコップが乗っていますが、この場合、表面的な形状や性質を見て、テーブルとコップは異なる二つの物と理解すれば、その二つが接するところが境目ということになります。

ところが、もし、テーブルもコップも表面的な形状や性質は異なっていても、その本質は同じものであるとすれば、本質的には境目はないということになります。

もう少し、深く検べてみましょう。

富士山とそれを取り巻く平野部との間に境目はあるでしょうか?

ありませんね。

では「一つの地球には境目はどこにもありません」と言い切ってよいのでしょうか?

でも、たしかに陸続きの所には境目はどこにもないけれども、例えば、陸と海、あるいは、陸と河の間には境目があるとも言えそうです。

これは何を意味しているのでしょうか?

もう一つ例を挙げて検べてみましょう。

人体の肩と腕の間に境目はあるでしょうか?  

胃と腸の間に境目はあるでしょうか?

心臓と肺の間に境目はあるでしょうか?

はっきりとした境目はありませんね。

では、肉と骨の間には境目はあるでしょうか?

あるように思えるし、ないようにも思えますね。

肉と骨は別々の物という考えがあれば、境目があるように思えるでしょう。

肉と骨は別々の物という考えがなければ、境目はないように思えるでしょう。

事実は、人体においてはそれぞれの構成要素は、それぞれ表面的には形状や性質が異なっていても、もともと同じ一つの受精卵から表面上分化したのです。つまり、本質はみんな同じものなのです。

しかも、人体においてはその構成要素は絶えず互いに離散・集合・交流・循環し続けています。

ですから、本質的には人体のどこにも境目はないのです。

それは地球の陸と海、陸と河についてもまったく同じです。

すべての無生物、生物、そして、人間を含むそれぞれの要素はもともと同じ一つのものから生まれたのであり、本質はみんな同じものです。

しかも、その構成要素は絶えず互いに離散・集合・交流・循環し続けているので、本質的には地球のどこにも境目はないのです。

さらに同じことが全宇宙の各構成要素について言えます。

この大宇宙はもともと一つのものが時を経るなかでいろいろな構成要素に分化したものです。

バラバラのものが寄せ集まってできているのではありません。

しかも、私たち一人一人をも含んでその構成要素は絶えず互いに離散・集合・交流・循環し続けているので、本質的には大宇宙のどこにも境目はないのです。

以上は一応理屈で説明したものですが、事実そのものは誰も否定することができないほど実に単純明快です。

ですから、素直に、物事を、特に、自然の風景や動植物などを見ていれば、この存在の真実は誰にでも容易に感得することができるのです。

難しい修業が必要などと誰が言ったのでしょうか?

莫妄想。それだけです。





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“自分”を付けない

“自分”を付けない

この世界は唯一絶対の実体である“いのち”が現象として現れたものです。

ですから、この世界のあらゆるものは、いわば、“いのち”が刻々に描いている模様であり、それぞれのも個としての実体があるわけではありません。

もう少し詳しく言えば、この世界のあらゆるものは、それぞれ、いわば、“いのち”が刻々に描いている切り分けることのできない模様の一部をアタマで切り分けて取り出したようなものであり、それぞれのものは別々のものではなく、また、それぞれの実体があるわけではありません。

さらに言えば、この刻々に変化しながら切り分けられない模様はそれぞれの部分が常に互いに集合・離散・交流・循環しているので、そもそも固定した意味での部分もないのです。

本来、ただ、一つの全体があるだけで、部分もありません。見かけ上部分があるように見えるものも、一つの全体の刻々に変化する模様にすぎません。

この存在の真実を僕は“不可分一体“と表現しているのです。

人体がまさにその典型的な見本です。

例えば、本来、心臓、肺、胃、腸、骨、血管、血液、細胞などなど、それぞれ、もともと一つの受精卵が細胞分裂して見かけ上分化したものです。それぞれ別々のものが寄り集まって共同作業しているわけではありません。

しかも、それぞれの器官、組織、細胞は常に集合・離散・交流・循環しており、それぞれ一瞬も固定した別々の存在であるということはありません。それらは一つの人体の刻々に描いている模様のようなものです。

人体は小宇宙と呼ばれていますが、大宇宙も全く同じです。大宇宙という一つの全体があるだけで、その中にそれぞれのものは刻々に描かれている模様のようなもので、個としての実体ではなく、また、別々のものでもありません。

ほとんどの人は、例えば立つときに、「自分が立つ」というように、”他“と分離した“個”としての“自分”というレベルを付けて意識しています。

けれども、立つときは“立つ”という事実があるだけです。

立つときは“立つっきり”で、“ただ立つこと“が起きているだけです。

座るときは“座るっきり“で、ただ”座ること“が起きているだけです。

考えるときは”考えるっきり“で、ただ”考えること“が起きているだけです。

他と分離した“個”としての“自分”がないのです。

他と分離した“個”としての“誰々が”がないのです。

すべては一つの実体である“いのち”のハタラキですから、いちいち“自分”とか“誰々“というラベルが付かないのです。

それを僕は「すべてはただ起きている」と表現しています。それは個としての“自分”や”誰々“がないからです。

ただ一つの全体である“いのち”のハタラキがあるだけです。

一台の自動車がこちらに走ってくる場合は、“いのち”が(一台の自動車となって)こちらに走ってくるのです。

木の葉が落ちる場合には“いのち”が(木の葉となって)落ちるのです。

“いのち”は目に見えず、“個”を超越しているので、「“いのち”のハタラキだけがある」ということを僕は「ただ事実だけがある」と表現しています。






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宇宙は一つの“いのち”

宇宙は一つの“いのち”

この宇宙(世界)は生きています。つまり、一つの大生命体です。

一つの大生命(僕はそれを“いのち”と呼んでいます)がこの世界を現して、この世界を展開させているのです。

この世界のあらゆるもの、大自然のあらゆる現象、社会におけるあらゆる出来事、感情、感覚、欲望、思考、行い、そして、喜び、苦しみ、悩み、迷いなどもすべて“いのち”の現れです。

“いのち”そのものは不変の唯一絶対の実体です。ですから、その現れであるこの世界も常に変化しながら絶対です。

このように言うと、“いのち”とこの世界という二つのものがあるように聞こえるかもしれませんが、一元絶対の存在の真実を二元相対的にしか表現できない言葉で表現しようとするとそのように聞こえるだけで、実は、“いのち”とこの世界は同じ一つのものであり、いわば、1枚のコインの表と裏のような仕組みになっているのです。。

この変化する世界にはさまざまな生命があるように見え、それらは別々の存在だと思われていますが、それは私たちの五感と大脳を通して見ているからであり、別々の存在と見えるものは、実は、すべて唯一の実体である不変の“いのち”の現れです。

ですから、現れている一つ一つのもの、例えば、今目の前にある机、その上にあるパソコン、そのキーを打っている手、浮かんでくる思い、それがそのまま唯一絶対の“いのち”(の現れ)であり、それらをおいて“いのち”はありません。

ですから、存在の真実は、それはすでに“いまここ”に現成しています。ですから、何も求める必要はないのです。

ここで、“いのち”の現成の有様を「生死」について検べてみましょう。

例えば、桜は咲いたり散ったりすることにより桜としてあります。

“いのち”は生死により自らを現しているのです。


“いのち”そのものはもともと生じたのではなく、初めからあります。生じたものではないので滅することもありません。つまり、“いのち”そのものは不生不滅であり、生死するものではありません。

“いのち”はただ一つのものですが、それはいくつもある中の一つではありません。数を超越して、唯一絶対の実体なのです。

この世界は唯一絶対の不生不滅の“いのち”であり、その顕現としてすべてがあるのです。

つまり、この(現象の)世界は不生不滅の“いのち”が生滅の姿かたちをとってみずからを現しているのです。

ですから、生死こそが私たちが不生不滅の“いのち”である絶対的な証拠であると言えましょう。

別の角度から言えば、唯一絶対の実体である“いのち”は五感と大脳を通してみると二元相対の世界として見えます。

つまり、この現象世界では、すべてのものが、見かけ上、バラバラで別々であるかのように見えます。

けれども、すべてのものが、見かけ上バラバラで別々にみえることこそ、すべてが一元絶対の実体である“いのち”であるという決定的な証拠なのです。





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どこへ行く?

どこへ行く?

和田重正先生が書かれた『もう一つの人間観』という本のなかに『どこへ行く――ピン公の話』という文章があります。これは和田先生の書かれた文章のなかで僕が一番好きな文章です。以下、その要旨を簡単にご紹介しましょう。

どこへともなく向かって泳ぎ続けているイワシの大群のなかで、若者のピン公とその友達のピムが突然「自分たちはこうやって何年も泳ぎつづけているのだが、一体どこに向かっているのだろう?」という疑問を抱きます。

それで二人であれこれといろいろ話し合ったのですが、どうしてももわかりません。気になって仕方がないので、二匹はちょっと風変わりな年寄りのピキ爺さんに尋ねてみることにしました。

 最初はピキ爺さんは「わしは知らん」とぶっきらぼうに答えていましたが、二匹が食い下がってさらに尋ねると、次のように答えてくれました。

 「実はどこにも行かないんだよ。この大群集が日に夜をついで泳ぎに泳いでいるから、どこに行くのだろうと誰でも思うのだが、別にどこにも行きはしないのだよ。めいめい夢中になって何かを考えているのだろうが、何を考えても考えなくても兎に角みんなどんどん泳いでいる。どこへも行きやしない。みんなただ泳いでいるぞ」。


 私たちはこの世界の中であれこれ考え、いろんなことをしたりしながら生きています。

ほとんどの方は、そのように生きることによって,自分、あるいは、自分たちがどこかへ向かっていると思っているのではないでしょうか?

でも、真実は、私たちはどこにも行かないのです。ただ生きているのです。

例えて言えば、私たちが生きている現象の世界はスクリーン(いのち・本質)に投影された映画(現象)のようなものであり、この現象の世界のいろいろな存在は映画の中に出てくるいろいろな物や植物や動物や人間たちであると言えましょう。

そして、個としての意識を持った人間はそれぞれ登場人物の一人であり、自分が「主役」だと思っています。

映画の中ではそれぞれの登場人物があれこれ考えたり、いろいろなことをします。そして、そうすることによって、自分がどこかに行ってしまうと思っています。

けれども、真実の自分はスクリーンそのものなのですから、何を考えようと、考えまいと、何をしようと、しまいと、だれもどこにも行きません。

夜寝ていて、どこかに行く夢を見たとしても、夢から醒めてみれば、実際にはどこにも行っていないのと同じようなものです。

ピン公たちはピキ爺さんの言葉を聴いて、自分の本質が不生不滅の“いのち”(スクリーン)であることに目覚めたのです。

たしかに、現象の世界だけを見ていると、自分(あるいは、自分たち)がどこかに向かって行っているように感じることは事実です。

それが悪いと言っているわけではありません。でも、真実は自分はどこにも行きません。

また、死んでもどこにも行きません。というか、真実の自分は死なないのです。

私たちはただ生きています。だれもどこにも行かないし死なないのです。





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すべてOK

すべてOK

8か月ほど前に手の指先の皮膚が荒れて湿疹ができ、ささくれたりするようになりました。

ネットで調べると、皮膚科の病院に行っても、大概、ステロイド軟膏と保湿用薬用クリームを塗りなさいと言われるだけで、それらを塗っても一時的に症状が軽くなっても、塗らなくなると、また症状がぶり返して、いつまでも治らないことが多いとのことでした。

それで、とりあえず、日に何回か市販の自然系保湿クリームを塗っていました。でも、症状はかゆみと痛みを伴ってますますひどくなっていきました。

そのうちに、気が付くと、両手の指の指紋が全部消えてしまっていたのです。

僕は生まれてからずっと、指紋があるのは当たり前ではあっても、「指紋が何の役に立つのか?」などとも考えたこともありませんでした。

ところが、このような状況になって初めて指紋のハタラキとその重要性が身をもって分かったのです。

とにかく、指がひどく乾燥しているので、iPADのタッチパネルを指先で触っても何の変化もなく、物を摘まもうとしてもツルッと滑り落ちてしまうことがたびたびです。

そうしている内に、突然気が付いたのです。

「今は乾燥が必要なのだ。それに逆らって保湿するから、必要上よけいに乾燥するのだ。乾燥しても、そのまま何もせず放っておけば、時期が来ればもはや乾燥する必要がなくなって、自然に皮膚が潤って、元の状態に回復する違いない。

体のすべての部分は表面的に悪化したように見えるときも含めて、その時点時点で、一生懸命に最善を尽くして完璧に働いているのだ。だから、そもそも体の働きには何の問題もなかったのだ。

いつまでたっても以前の普通の状態に戻らなかったのは保湿クリームが本来体に備わっている皮膚を再生する自然の働きの”流れ“を妨げているからに違いない。とにかく症状を出し切ってしまえばよいのだ」と。

そのとき以来、保湿クリームを塗るのをきっぱりやめました。

そうしたら、見かけ上改善に向かっているような症状と見かけ上悪化しているような症状を何度も何度も繰り返しながら、全体としては明らかに回復に向かって進みはじめたのです。

その働きは実に微妙、かつ、精巧で、驚嘆する日々が続いています。

最近では、ちょっと目にはほとんど何も問題がないかのように見えるほど回復してきました。

そして、何と! 今日気が付いたのですが、小指の指紋がふたたび再生され始めていたのです。

後は時間の問題で、ただただ体の自然にすべてを任せていくだけです。

「体はどんな状況でも最善のやり方で全力を尽くして完璧に働いている。だから、何もしないことが究極の治療法だ」とあらためて気付いて以来、その日その日の症状の変化に一喜一憂することなく、どんな症状が出ている時でも、そのすべてを喜んで受け入れ、経過を楽しんで見守ることができるようになりました。

おかげさまで、この体験を通して、あらためてこの世界の本質を再確認し生きることの原点に戻ることができました。。

ただただ自然にすべてを任せてどこまでも安心して生きて行けばよいのです。

What a wonderful world !






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考えているのは誰か?

考えているのは誰か?

脳波を調べると、何かの考えが浮かんでいるときには脳のある部位が活動していると言われます。

でも、「だから考えているのは自分だ」と即断しないでください。

ここでは、体や脳が自分だという考えを一応横に置いて検べてみましょう。というのは、体や脳は単なる道具にすぎないからです。

では、それらを働かせている主体(実体)は何でしょうか?

ほとんどの人は「それは自分だ」と思っています。

確かにそのように見える(思える)かもしれませんが、さらに「本当にそうですか?」と問われたらどうでしょうか?

それでもほとんどの方は「一体何を言っているのですか? そんなの当たり前じゃないですか」と答えるでしょう。

ここで、一人きりで静かになれる時間をたっぷり取って、あらためて「次のことについて、本当はどうか?」と真剣に検べてみてください。

1 いまこの瞬間にアタマに浮かんでいる考えはあなたが自分で考えたのですか?

2 あなたは1分後にアタマに浮かぶ考えをいま知ることができますか?

3 いまあなたは自分で何かをしようと思った(少なくとも、そのように見える)とします。でも、その考えは1分後も変わらないと言い切れますか?

4 もし1分後に新しい考えに変わったとしたら、その新しい考えは自分で考えたからですか、それとも、勝手に浮かんできたのですか?

5 「自分で考えた」とあなたは思ったかもしれませんが、そう思うことをあなたは自分で選びましたか?

6 もし、自分で選んだと思ったなら、「それを選ぼう」という考えはどこから来たのですか?

7 それを選ぼうという考えを採ったとしたら、「それを選ぼうという」考えを自分で考えて採ったのですか? それとも、「それを選ぼうという考えを採ろう」という考えはどこから来たのですか? (ここのところは質問の意味を正確に捉えてよく検べてください)

8 いま「あらためて自分でよく考えてみよう」と思ったとしたとき、その思いは自分で考えたのですか?それとも、ふとそのように思ったのですか?

9 「考えてみよう」と思って、考えたいろいろなことは自分で考えたのですか、それともそれぞれその時々にふと浮かんできたのですか?

以上のことをご自分で静かに何回も何回も検べてみると、結局は、すべての思いは自分で考えたのではなく、どこからともなくふと浮かんできたのだということが分かります。

結局、自分は何一つ考えていないのです。

ですから、自分は何一つ選んでいないし、何一つ決めていないし、何一つコントロールしていないのです。

というか、自分では何一つ考えられないし、選べないし、決められないし、コントロールできないのです。

というか、そもそも“自分”という実体そのものが存在しないのです。

すべては“いのち”のハタラキです。

ですから、“いのち”の世界では、すべてが善悪を超えて、ただ起きるべく起きているのであり、すべてが完璧なのです。





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