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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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事実の人となる  その5

事実の人となる  その5

この当たり前の事実の世界をあるがままに見れば、それは無限の愛の素晴らしい世界であることがわかります。(もちろん、狂ったアタマが作りあげた狂った思いや事実を除いて・・・)

でも、ほとんどの人はこの事実の世界を“あるがまま”には見ていません。

それは、いろいろな思いや感情、観念、知識などでいろいろな色が付いたり、曇ったりしているこころの眼鏡を通して見ているからです。

それでは、本人は事実の世界そのものを“あるがままに”見ているつもりでも、本当は“あるがままに”見ているとはいえません。

思いは事実ではないのです。

思いはどこまで行っても事実の“影”にすぎません。

たとえば、何かの花を見るとき、「花というものは美しいものだ」という思い(観念)を通して花を見ている方がとても多いように思います。

自分では花をそのまま見ているつもりでも、実際には「花は美しいもの」という自分の“観念“に事実を合わせているだけなのです。

この世界には花も見れない人で満ち溢れているといってよいでしょう。

それは、花だけではありません。アタマの人は、何を見ても、実際には、自分のアタマの中しか見ていないのです。

私たちはアタマの人ではなく、本来の事実の人に戻らなければなりません。

事実を“あるがままに”見るということは、思いその他で色が付いたり曇ったりしているこころの眼鏡をはずして、直接“裸眼で”見ることです。

中には透明で曇りのない眼鏡を手に入れて、それを通して見て、自分は事実を“あるがままに”見ていると思っている人もいますが、それでもダメなのです。

透明で曇りのない眼鏡を通して見ても、事実は“あるがままに”には見えません。

視覚的にはそのまま見えるかもしれませんが、ここで言う”見える“というのは視覚だけではなく感覚全体のことを言っているのです。

視覚はいろいろある感覚の一つにすぎません。透明で曇りがなくても、眼鏡を掛けることによって、匂いや肌に触れる感覚、暖かさ冷たさ、柔らかさや硬さや優しさなどいろいろな生の感覚がさえぎられてしまい、直接感じることができなくなってしまいます。

ですから、存在の真実についてどんなに論理的にすっきりと理解していたとしても、事実そのものの持つ生の感覚を直接感じるのでなければ、事実を“あるがままに”見ているとは言えないのです。

本来の事実の世界はまさに生きている世界です。すべてが生き生きと生き輝いています。

あなた自身がすでに“そのままで“光り輝く存在なのです。

いったんその間違いに気が付けば、本来の事実の世界を事実として“あるがままに”見るということは、誰にでもできる単純なことです。

それが私たちが本来備えている自然のハタラキなのですから・・・。

「思いは事実とは異なる」ことにはっきり気が付けばよいのです。そうすれば、自然に観念は脱落します。

そして、この当たり前の事実の世界こそがこの上なく素晴らしい光輝く世界であることに気付き、その中に生かされている幸せを感じないではいられないでしょう。

(おわり)





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事実の人となる  その4

事実の人となる  その4

その3まで、『よい教育の場を求めて』(柏樹社刊)の中から和田重正先生が存在の真実を自覚されたときのことを先生ご自身が描写された文章の一部をご紹介しました。

僕自身これまでこの文章を何回も読んだはずなのですが、今回読み直してあらためてこころから感動しました。

おこがましいと思われるかもしれませんが、僕自身の体験も先生のそれによく似ているなと思いました。

ここで、先生のご体験についてあえて解説を試みたいと思います。もちろん、これはあくまで僕個人の解釈でしかないことをあらかじめお断りしておきます。

僕はまだ僕自身が存在の真実や真実の生き方を求めて、それが一向に埒が明かない苦しみの真っただ中で、先生のこの文章をはじめて読みました。

そして、先生はとてつもない、通常の感覚では捉えられない大きな深い悟りを得られたのだと感じました。

でも、今この文章を読んで感じることをあえて言えば、「ああ、先生は当たり前のことに“当たり前に“気付かれたのだな」ということです。

「とてつもない、通常の感覚では捉えられない」体験ではないのです。

先生は極限状態の中で思わず桃の花を見たときに、アタマの観念や妄想などで色が付いたり曇った眼鏡がポロッと落ちて、当たり前の事実が裸眼で、ただ、そのまま見えたのです。

通常の感覚では捉えられないような(神秘的な)体験をされたのではなかったのだと思います。

先生はそれまで真実の自己、存在の真実、真実の生き方を懸命に求められていたことは確かです。

けれども、それはすべてアタマのなかでいろいろな思いや感情や思想など組み合わせたり分解しながらああでもない、こうでもないと考えていただけなのです。

簡単に言えば、真実をアタマのなかに求めていたのです。

そうすることによって、存在の真実や真実の生き方に到達できると思われていたのでしょう。

けれども、先生が桃の花を見たあの瞬間に気が付かれたのは「事実しかない」ということです。

思いはどこまで行っても“思い”でしかなく、実在ではない、事実だけが実在であり、それがそのまま真実であるということです。

そこがはっきりして、事実を一切の思いを通さず、そのまま見ると、まさに、事実の世界は生きている世界あり、そして、その本質は“愛”そのものであることに気が付かれたのです。

先生は、それまでアタマの思いを通して見た世界こそが実在の世界と思い込んで、そこに真実の世界を見つけようとされていたのですが、そこに見出したものはどこまで行っても”死んだ世界“でした。

その幸福度マイナス無限の世界から飛び出してこの当たり前の事実の世界をそのままに見たので、この世界が何とも素晴らしい世界に感じられたのだろうと考えられなくもありません。

でも、そんなことを抜きにして、(狂ったアタマが作りあげた狂った思いや事実を除いて) 本来の当たり前の事実の世界こそ、実際に幸福度プラス無限の愛の世界なのです。
(つづく)






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事実の人となる  その3

事実の人となる  その3

それから、今までは愛されたい、理解されたいとそれのみ求めていました。ところが物質を貪るのが間違いであるのと同じく、愛や理解を他に求めることは心を貪ることで、それも、間違いであることを知りました。物でも心でも欲張ることはどんなに愚かしいことであるかをこのときはじめて知りました。

また、それまでは淋しい淋しいと自分の淋しさばかりみつめて、他から愛されることばかり求めていましたが、眼を放ってみれば淋しいのは自分ばかりではない。すべての人は皆同じように淋しいのである。

だから人間は誰も彼も自分のように愛と理解に飢えているに違いない。お互い限りなく淋しい人間同志が、もし少しでも慰め合えたならどんなに幸せだろう。飢え渇く砂漠の旅行者のために自分がもし一滴の水となり得るならば、どんなに幸せなことだろうと思いました。

そう思うと、淋しさは忽ち変じて明るい希望となり喜びとなりました。淋しさの故に、人を愛することができる。なんという有難いことでしょう。

淋しいといえば父も淋しい人である。気の毒な人である。神や仏ではない、弱い欠点だらけの当り前の人にすぎない。それを、自分は神に求むる如くに父に完全を求め、これを責めてきた。

父ばかりではなく、先生やその他一般の大人に対しても同じであった。しかもその求むるところは自分の我儘な欲望の満足である。我欲に厩理屈をつけて正しいものとして強要したのである。

他を責める資格が自分のどこにあるか。己れの愚痴と食欲によって自らを餓鬼畜生道に堕としていたのではないか。

父をはじめすべての人は、皆一個の人間としてそれぞれどうにもならぬ欠点を持ちながら淋しい人生を精いっぱい生きているのだ。それらの人々をどうして心から愛さずにいられようか、と強く強く胸に迫って思いました。

このとき私は、はじめて独立の一個の人間“大人”になったのだと思います。

この他、無数のことをこの三日間に思ったのですが後で考えてみると、このときに私の心の向きが真反対に変ったようです。有無、確不確、損得。いろいろの感じ方や考え方が完全に反対になってしまいました。

このことがあったのは昭和九年四月二日でしたが、この日を境にして、私の日常生活もすっかり変りました。勿論変ったといっても急に神の如くに立派な生活になったというのではありません。

ただ方向が逆転したというだけです。自分のために、自分の力で、すべて自分を中心として生きてきたのが、こんどは自分の力やはからいでなく、すべてこの世界に満ち満ちている愛と知恵に生かされて生きることになってしまいました。

そしてこの変化は実際生活の上では世のため、人のためという意識となって表われることになりました。丁度東行きの汽車から西行きの汽車に乗り換えたようなものです。東行きの汽車に乗っていれば、汽車の中でいくら西に向って歩いても東へ行ってしまいますが、西行きに乗り換えたらその中でどちらに向いて歩いても結局西へ行ってしまうようなものです。

(後略)
――――――――――





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事実の人となる  その2

事実の人となる  その2

光とか知恵とか、ともかく生かす力として働く、あらゆるよきものに満たされた世界にいる自分を見て「愛されている」と思いました。そして更に、この世界の実質が「愛」というものであろうと思いました。

愛の世界においては、自分の小さな力によるもがきやはからいには拘りなく、すべての事物がありのままに、しかし必然性をもって存在し展開しているのだと知りました。

自分はありのままを求めて彼岸に到ろうとして濁流を泳いでいたのでした。そして力尽き果てて濁流の底に巻き込まれたと観念したとき、濁流と思ったのは実は自分を支え生かしてくれるいのちの流れ、光の大河であったことに気づいたのでした。

それと同時に何か大きな意志のようなものを感ぜずにいられませんでした。すべてを生かさずにおかない意力とでもいうようなものでした。その量り知れない大きなカに生かされている自分を見たとき、今まで求めていた人生の意義など、もしそんなものがあるとしても、それはわれわれの理解を遙かに超えたものであることが分りました。

もしわれわれがたとえ自分の頭で納得できる人生観を描き得たとしても、それはただ自己満足をかち得たにすぎず、真実の自分の人生に何のプラスにもなり得るものではないことを知りました。

私はただただ、この量り知れない大きないのちの流れの中で、大きな意力にはからわれて生きるだけである。それがすべてである。その他に自らはからって加えるべき何物があるだろうか。

生きようとする一切の努力ともがきを停止しても、まだ生きている自分。一切の理解を抛棄してもなお明らかに認め得る活々としたこの世界のすがた。

ともかく、自分を含めたすべてのものが、無限の愛と知恵に護られ導かれていることを知ったとき、今まで押し潰されそうな重圧を感じていた「人生」という重荷が消えてなくなって、自分の体さえ春風に溶け去ってしまったように軽やかに爽やかになっていました。

今までは、自分でどうかしなければよくなれないと思って力んでいたのでした。自分の判断と意志のカで悪い生活をやめようとしていたのです。それはとても望なきことであると思いながらも、それより他に仕様がないので努力をやめることはできなかったのです。

これほど努力しようと心がけてさえこの有様なのだから、ほっておいたらどんなことになるか知れたものではない、などと思っていました。しかし、この努力は丁度自分が坐っている坐蒲団を自分で持ち上げようとするのと同じで、どんなに頑張っても一寸も上がらず、そのうちに精根尽き果てて倒れてしまうようなものでした。

また、小さいときから私は「感謝せよ」とうるさく教えられました。(中略)が、私はどうしてもその気になれなかったのです。

ところが三日問も泣いているうちに一切のものに対していくら感謝してもしきれない、詫びても詫びきれない気持になっているのには驚きました。(中略)

自分がこのようないのちの世界に、このようにある、という事実に対するありがたさと、それを知らずに勝手に目茶苦茶なことをしてきたことに対する悔恨の念だというのが事実に近いかもしれません。
(つづく)




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事実の人となる  その1

事実の人となる  その1

僕の心の師である和田重正先生は、お母さまやお姉さまの死をきっかけに、10代の頃から、「自分とは何か? 真実に生きるとはどういうことか?」ということを求めに求められました。

けれども、そうして10年以上も苦しんだあげく、ついには、その答えを得ることは不可能だという結論に達し、その結論をあらゆる角度から点検し、その誤りがないことを確認し、絶望のあまり自ら生を断とうと決断されました。

以下は、先生のご著書『よい教育の場を求めて』(柏樹社刊)の一部分を大幅に要約したものです。


こうなったとき、人のすることはきまっています。私も例に洩れずハッキリと覚悟をきめました。姉の用い残したグレランという劇薬を多量に服むのです

将に服もうとするとき、日頃口をきいたこともない女中が廊下伝いに急ぎ足で私の部屋にやってきて、障子を細く開けて言いました。「ごらんなさいませ。もうこんなに咲き始めました」

その張りのある明るい声に誘われて、私は何気なく振り向きました。女中の差し出して示す桃の小枝にはポッとまさに開こうとする桃色の蕾がついています。それを見たときの私の驚きようは、ただ目を見張るばかりでした。そして心中にはこんな叫びが渦巻いて起りましたーー、「みんな間違いだ。今まで見たり考えたりしたことは悉く夢だったのだ。コレが本当なのだ。真実なのはコレなのだ」

この驚きや叫びと同時に明るい世界に生まれ出たような気がしました。予期しない、あまりに急激な世界の変貌のために、暫しは呆然としましたが、「まてまて、これも瞬間の夢ではないか」と思いましたので、驚いてなおそこに立ちつくしている女中を去らせ、独り正坐して静かに瞑目しました。

生け垣の外を子どもが歌って通ります。庭の植込みで小鳥が啼いています。時々、遠くを走る省線電車の音が伝わってきます。五秒ぐらいだったか、それとも二、三十分も経ったかわかりません。「よし!」という気がするので、それでも恐る恐る目を開けてみました。後戻りしていません。急に腹の底から大きな笑いが押し上げて来ましたが、辛うじて爆発を抑えました。

久しぶりに障子をあけて庭を眺めました。桜も松も生きています。門の外へも出て見ました。森も小川も雲も大地も、春の麗かな光の中にいのちのよろこびに燃え上がっています。このとき、私は生まれてはじめて天に向って合掌しました。思慮も分別もなしにただ合掌したのでした。

実にこの世界は生きた世界である。今までの世界は生きていない世界だった。あの世界はバラバラのものの寄り集まりの世界だった。この世界は一の世界である。あの世界の質は極度に粗い。この世界は精妙微妙を極めている。この世界の景色はあの世界の言葉では言い表わすことができない。

これが実物ならばあれは影絵にすぎない。要するにこの世界は光と、もえるいのちの活々とした行き詰りのない世界でありました。しかもそれこそ己れの本来の住居だったのです。
(つづく)





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生命の大河

生命の大河

毎年、僕には年の初めのこの時期には何かとこれまでの人生のなかでのいろいろな出来事が思い出されます。

その一つが、眼がひどく痛んで、重度の緑内障ではないかととても不安な気持ちになっていた26歳のときのことです。

時々僕はそのことを思い出しながら、「すべてはそこから始まったな」という気がするのです。

それは、もしあの時期に眼が悪くなっていなければ、その後の僕の人生はまったく別のものになっていたはずだからです。

正確には、ただ別のものになったということではなく、その出来事があったおかげで、その後、いろいろ具合の良いことも悪いこともありましたが、トータルとしては、少なくとも僕にとっては、素晴らしい人生が展開したということです。

また、僕の人生だけでなく、家族をはじめこれまで関わった多くの人の人生にも、トータルとしては、よりよい人生を展開する手助けをすることができたと思います。

そういう意味で、あの時に眼が悪くなっていなければ、僕の人生も家族の人生も、そして、多くの方々の人生もまったく異なったものになっていたことは確かです。

そのことを考えるたびに、僕は不思議な気持ちになってしまいます。

そして、同時に、なぜ、あの時期に眼があのように悪くなったのかと考えると、「そうか、その前にあの人に出会っていなければ、そういうことにはなっていなかったはずだ」などというようなことが過去に遡(さかのぼ)れば遡るほど次々に思い出されてくるのです。

そして、それは、何とこの世への僕の誕生をも遡って、とうとう両親の出会いまで遡り、両親がその人生で出会ったであろう多くの人々との出会い、その方々の人生の一コマ一コマへと、すべてが繋がっていきます。

そういうことずっと遡って、また、それが横に広がっていく様子を想像していくと、結論としては、この大宇宙のこれまでのすべてのできごとが互いに影響し合い、絡み合って、いまここに無数の現象として現れているということがわかってきて圧倒される思いがするのです。

でも、圧倒される思いがするのは相対的にしか思考することしかできないアタマで考えているからであり、また、同時に、すべてはバラバラであるという感覚で考えているからなのです。

つまり、アタマでは、この世界のある”部分”だけを切り取って、その他に切り取った”部分”との兼ね合いについてしか考えられないので、何だか不思議な気がしてしまうのです。

でも、本当は単純明快なことなのです。

それは、この世界のすべてのものはバラバラなものではなく、また、それらが互いに密接に関係しあっているというのでもなく、要するに、すべては一つなのです。

“個”も”部分”も見かけ上あるように見えるのだけれども、真実は一つの“いのち”があるだけです。

その一つの“いのち”(生命)があちこちに刻々渦のような模様を描きながら、遥かなる太古から大河のように悠然と流れています。

その永遠不滅の生命の大河こそ本当の自分なのです。





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何も心配することはない  その3

何も心配することはない  その3

その1では存在の真実というところに、その2では進化というところに焦点を当てて、「何も心配することはない」ということを説明しました。

その3では、実際的な面に焦点を当てて説明しましょう。

「心配だ」という感覚は不快なものですが、本来は、ある状況において、「何かまずいことが起こっているようだ。何か先行きがはっきりしない」ということを自分に知らせてくれる警報装置であり、私たちが生存を全うするために、なくてはならない大切な機能です。

ですから、「心配だ」という感覚がなくなるということは、警報装置が働いていないということになり、それこそ大変なことになってしまいます。

ですから、「心配だ」という感覚が起こったら、“安心して”心配すべきなのです。

それは、つまり、「心配だ」という警報を素直に受け取るということです。

心配警報装置は「何かまずいことが起こっているようだ。何か先行きがはっきりしない」ということを自分に知らせるのが役目ですから、それを素直に受け取れば、それで「心配だ」という警報は鳴りやむのです。

後は、冷静に精一杯必要な対策を考え、それを実行すればよいのです。

後は、それ以上のことはできないわけですから、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉の通りに、その結果が思い通りになってもならなくても、すっきりとその事実を受け止めるだけです。

また、「心配だ」という警報を素直に受け取って対策を考えても、それ以上何もすることができないという結論に達したら、何もせずに、ただ、その結果がどうなろうとも、事実を事実としてすっきりと受け止めるだけです。

心配し続けても事実を変えることができるわけではないのですから!!!

それどころか、心配し続ければ、もしかして状況を好転できる機会が出てきたとしても、それを見逃してしまう可能性があります。また、状況を一層悪い方向に導いていく可能性も強いのです。

要するに、最初に「心配だ」という警報に気付いたら、それを素直にすっきりと受け止め、冷静に必要な対策を考えて実行するか、あるいは、何をしても状況が変わらないと判断すれば、その事実をすっきりと受け止め、どんな結果になろうとも、事実を事実としてすっきりと受け止めていくだけです。

ですから、「心配だ」という警報を正面からすっきり受け取った時点ですでに警報装置は鳴りやんでいるのです。

心配し続けても、状況が悪くなることはあっても、よくなるわけではありません。

「人間だから心配するのは当然だ」などというような、世間の狂った常識?に感情的に浸っていないで、ここで、「心配しても何にもならない」ということを徹底的に腹の底の底に叩き込むことです。

「心配しても何にもならない」ということは子供にも分かる単純な真実ですが、、その真実を真実として生きている人のなんと少ないことでしょうか!!!


今日限り、心配におさらばしましょう。

バカバカしいから・・・。(自戒の念を込めて)






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何も心配することはない  その2

何も心配することはない  その2

その1で「この世界ではすべてが起きるべくして “完璧に”起きています」と書きましたが、もう少し詳しく説明してみましょう。

私たちのこの現象の世界を巨視的に観察し考察すると、この世界はその始まりから現在の姿に至るまで、その時々においてデタラメにただ変化しているのではなく、ずっと一定の方向に変化してきていることが分かります。

つまり、この世界は、いわば、一つの大生命として進化し続けているのです。

その進化の過程で、この地球においては進化の頂点として現生人類が誕生しました。

しかし、これが進化の最終点ではありません。進化はどこまでも続くのです。

では、私たち現生人類はどこに向かって進化していくのでしょうか?

これまでの進化の過程、現生人類の生態を巨視的かつ精密に観察したところから、推測できることは、次の段階では不可分一体の存在の真実を自覚した新人類に進化していくのだと思われます。

いずれにしても、この世界はより良いある一つの方向に向かって進化しているのです。

その進化の過程では私たち人間の眼から見れば、自然災害や戦争や飢餓その他の社会問題、さらに、病気や人間関係、家族関係など個人的な深刻な問題など、私たち人間がまともに進化しているとは思えないというような現象が数多く現れていることは事実です。

けれども、そのような自然災害や社会問題、個人的問題のすべてが私たち現生人類が次の進化の段階に向かう過程で必然的に起こっているのです。

つまり、私たち一人ひとりの善い悪い、好き嫌い、喜怒哀楽、あるいは、心配、不安などの思いや感情をはるかに超えた次元で、すべてが起きるべくして起きています。

そして、同時に、それらの苦しみや問題を何とか乗り越え解決していこうという思いや心配や不安などの感情のすべても、私たち現生人類が次の進化の段階に向かう過程で必然的に起こっています。

このように、この世界では、私たちのいろいろな思いや感情をはるかに超えた次元で、すべてが“必然的に”、つまり、“完璧に”起きているのです。

“完璧に“と言っても、それらの苦しみや問題をありがたく思って何もしなくてもよいと言っているわけではありません。

よく「病気になって初めて健康の有難さが分かる」と言われますが、それと同じように、自然災害も含めて、個人的、社会的な苦しみや問題があってはじめて、私たちは本気でそれらを乗り越えようとし、同時に存在の真実と真の幸福を求める気持ちが湧いてくるのです。

そういう意味で、事実としては、それらも進化にとって重要な要素となっているのです。


いずれにしても、すべてが完璧なのですから、何も心配することはないのです。

心配してもよいのです。大安心して心配していればよいのですから・・・。

個人的には、大安心のなかで進化の方向に素直に沿って思考し、行動していくことこそが、真の幸福であること言えるでしょう。

また、そのような人が増えていくことによって、より進化が促進され、全体の真の幸福が実現されていくのです。






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何も心配することはない  その1

何も心配することはない  その1

「何も心配することはないのだ」と言われて、「そうか」とこころから思える人は本当に幸せな人です。

このように書いてみて、そう言えば、和田重正先生もご著書『葦かびの萌え出ずるごとく』の中で、同じことを書いていらしたことを思い出しました。

そうなのです。この世界、この人生においては、何一つ心配することはないのです。

世の中にはとんでもないとしか思えないようなことがいろいろと起きているのに、なぜそんなことが言えるのか?と思われる方も多いことと思います。

実際、なぜそう言い切れるのかを言葉で直接的に説明するのは容易なことではありません。

でも、できるだけ説明してみようと思います。

何も心配することはないというのは、この世界、そして、自己の本質である唯一絶対の実体である “いのち”自体は何が起きようとも、どんな状況のなかにあっても、絶対に傷ついたり、消滅したりするものではないからです。

この存在の真実が理屈ではなく、体験的に理解できている方であれば、僕が「何も心配することはない」と言っても、何のためらいもなく「そうだ」と頷(うなづ)かれることでしょう。

今度はこの世界や自己の本質というところから少し角度を変えて説明してみましょう。

この世界の本質である“いのち”はこの世界に刻々といろいろな現象として顕現しています。

そこに顕れて来るものは、私たち一人ひとりの善い悪い、好き嫌い、喜怒哀楽、あるいは、心配、不安などの思いや感情をはるかに超えた次元で、自分の思いや感覚や行動なども含めて、すべてが起きるべくして“ただ”起きています。

言い換えれば、私たちのいろいろな思いや感情をはるかに超えた次元で、すべてが“完璧に”起きています。

この“完璧に”というところで、引っかかる方もいらっしゃるのではないでしょうか?

たとえば、戦争や飢餓など世界には個人的にも社会的にもいろいろな問題で苦しんでいる人がたくさんいるではないか。それを”完璧に“とはとても言えないという訳です。

ここに、言葉の限界があります。ここではただ次のようにだけ言って起きましょう。

僕が言っているのは、すべてが刻々に変化しているこの世界を動的に捉えて言っているのであり、「とても“完璧に“とは言えないというような思いや感情をもすべて含んで、すべてが完璧に起きている」ということであり、「そのような思いや感情」を否定しているのではありません。

すべてが“完璧に“起きているというのは、別の言葉で言えば、「すべてよし」ということです。

でも、「すべてよし」なのだから、「何もしなくてよい、そのままでよい」と言っているのではありません。

それは問題だ、大変だ、なんとかしなくては、では、こうしたほうがよいのではないか、などという思いも自然に起きて来て、そのような思いに基づいて、何らかの行動をする、あるいは、しない、などということも自然に起きてきます。

それらのすべてを含んですべてが“ただ“起きています。それを”完璧に“という言葉で表しているのです。







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永遠(とわ)の祈り

永遠(とわ)の祈り

僕は毎年1月の1日から7日までを自分にとっては”聖なる週間“としてとても大切な日々と感じながら過ごしています。

僕は毎年クリスマスイブぐらいから仕事の量を減らしてこの”聖なる週間“に向けて、少しずつ心の準備を進めていきます。

そして、年が明け、”聖なる週間“が始まると、折にふれて、絶対の静寂に身と心を投げ入れて、この世界の生きとし生けるものの永遠(とわ)の幸福と平和を心から祈ります。

でも、このように祈っている時の僕を見ても、普段の様子と全く変わらないので、まさか絶対の静寂の中で祈っているなどとは誰も思わないでしょう。

“絶対の静寂”と言っても、すべての音を消してとか、音が聞こえてこないところに行ってということではないのです。

どんなにいろいろな音がしていようと、そこには同時に絶対的に静寂な世界が存在しているので、そこに身も心も投げ入れてしまうだけのことです。

これは僕の勧める“川の瞑想”に熟達した方であれば、簡単にわかる事実であり、本当は決して特別なことではありません。

いずれにしても、この”聖なる週間“において、僕は折に触れて何度も、この世界の生きとし生けるものの永遠の幸福と平和を心から祈ります。

それが僕の1年の始まりです。

“祈り”と言えば、僕は神社やお寺に行っても、自分のためや自分の家族のために祈ったことは一度もありません。

自分のことや自分の家族のことは、ただ自分が精一杯努力するだけだと思っているのです。

まして、自分や家族の幸せだけを神仏に願うなどということは、あまりにも身勝手なふるまいであり、天に唾をするようなものだと思うのです。

僕は神社やお寺でも、父なる大宇宙、母なる大自然に対して、こうして生かされている恵みに対してただ感謝の言葉を捧げるだけです。

そして、感謝の言葉と同時に、父なる大宇宙、母なる大自然に対して、自分がこれからも精一杯この世界の生きとし生けるものの永遠(とわ)の幸福と平和の実現のために精一杯努力していくことを誓うのです。

僕は普段でも折に触れて、何気ないところで祈りを捧げています。

それを僕は“永遠の祈り”と密かに呼んできました。

ところが、先月12月のある日テレビで旅番組を見ていたら、シルクロードのオアシス敦煌の郊外にある莫高窟(ばっこうくつ)という仏教遺跡の中の第328窟が紹介されました。

そこに映し出されたのは、ひっそりとした洞窟の中でお釈迦さまと菩薩、そして、お弟子の方々がひたすら祈っていらっしゃるお姿でした。

それは、まさに、“永遠の祈り”そのものでした。

今から1400年ほど前に掘られ、長年ほとんど誰にも知られることがなかった洞窟の絶対の静寂の中で、このお方たちは私たちのためにひたすら祈ってくださっていたのだと思いました。

そして、あらためて、この世界には私たちを常に導き守っている力が厳然として働いていることを強く実感じました。

その力に促されて、僕も永遠の祈りを捧げるのです。





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自己の本質は真心

自己の本質は真心

太陽、月、星々などの天体、そして、山々、丘、平野、海、河、湖など、各種の草、花、樹木などの植物や様々な動物を含む大自然は一体何によって成り立っているのでしょうか?

そう思ってそれらをじっと見つめていれば、それらが決してバラバラなものの寄せ集めではなく、この大宇宙は、無生物、生物という言葉を大きく超えた、言わば、大きな一つの生命体であることは誰の眼にも明らかなことではないでしょうか。

その唯一絶対の大生命体の各構成要素は、常に、分離・集合・離散・交換を繰替えし、循環し続けています。

そこに見て取れるのは、一言で言えば、“大調和”です。

その大調和のなかにあって、各構成要素が刻々に姿を変えながら、それぞれの存在価値を宇宙大に発揮して輝いています。

すべてのものがそれぞれ所を得て生ききっているのです。

それは、大自然の空や雲、花や木や庭の一隅を歩いている一匹のアリなどを見てみれば、一目瞭然です。

でも、机の上の1本のボールペンについても同じことが言えるのです。

それを成り立たせている“力”こそ僕の言う“いのち”です。

“いのち”は不生不滅であり、この世界を現し、この世界のそれぞれの存在に常にハタラキ続けています。
その“いのち”が私たち一人ひとりにハタライテいる姿が“真心“です。

400年ほど前の江戸時代に生きた盤珪禅師は、僕の言う“いのち”を”不生”と呼び、さらに、”真心“を”仏心”と呼んだのだと僕は理解しています。

盤珪禅師は次のように言っています。

親が子に産み付けたのは不生の仏心一つである。

だから、寝ても覚めても何をするときでも、不生の仏心でいなさい。

決して仏心を修羅の心に替えないようにしなさい。

つまり、「自己の本質は真心である」ということです。

だから、自分を生きるためには、ただ、真心で生きるだけです。

なぜなら、妄想は本当の自分から出てくるのではなく、実体もなく勝手に幽霊みたいに現れてくるのですから、相手にする必要はないのです。

真心はすでにあなたの中にあります。

なぜなら、真心こそあなたの本質(本体・実体)だからです。

一人の赤ちゃん、庭の花一輪、木の一枚の葉っぱ、ネコ一匹、犬一匹が如実に証明しているように、素直に真心全開、真心全開で生ききることこそ“真の幸福な人生”なのです。

「自分が?」「自分なんかきっとダメだ」という思いがあれば、それこそ妄想なのです。

これまでそのように思っていたとすれば、それこそ「その思いには実体があると錯覚していたために、ノイローゼに罹っていたからです。

ノイローゼはもう辞めませんか?

大自然の花や木や動物と同じに、あなたの本質は“いのち”なのですから、この瞬間から何があったとしても、“いのち”のハタラキである真心丸出しで生きていこうと明快に決定(けつじょう)すればよいのです。

やってみれば誰にでも簡単にできます。

ここで「本当にそうだ、やっていこう」と決定した人は、その瞬間、素晴らしい人生を手に入れることができるのです。





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