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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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心とは何か? その1

心とは何か? その1

僕はたまに人から「心とはなんですか?」という質問を受けます。

そこで、科学的にどうかということは分かりませんが、僕なりに思っていることを書いてみようと思います。

まず、心という器官はありません。ただ、私たちの脳の活動によりその時々に現れて来る精神作用の一部を一般的に”心“と呼んでいるのだと思います。

心というもののはっきりした定義があるわけではありませんが、手元の国語辞典には次のように定義されています。

(体に対し)人間の精神作用。またはそのもとになるもの。
1 知識・感情・意志の総体。
2 思慮・思惑
3 気持。心持ち
4 思いやり。なさけ
5 情緒を解する感性
6 望み。こころざし

僕個人としては、この中で大脳による思考作用(つまり、知識、思慮、思惑)を除いた、感情・意志・気持・思いやり・なさけ・情緒・望み・こころざしなどの精神作用を心と定義したほうが心という言葉にぴったり来るように思います。

脳は大まかに働きとしては次のように分かれます。

1 個体としての体の働きを司る
2 集団を守り繁栄させようとする集団本能を司る
3 個体を守ろうとする個体本能を司る
4 思考や知識などを司る

それぞれ脳の特定の部位の活動によるものです。

もちろんそれぞれの働きは互いに密接に連携しています。

この分類に依れば、僕の定義する心というのは2と3から出てきます。

たとえば、思いやりや真心と呼ばれるものなどは2の働きです。赤ちゃんを見て心が和むのも2の働きです。怒りや恐怖などは3から出てきます。

集団本能は自己の属する種を守り繁栄させようとするだけでなく、(全生物)を守り繁栄させようという働きであり、これは“いのち”と直結した働きです。

瞑想や愉気をしているとき脳幹と宇宙が繋がる、広がる、境目がないような、その脳幹で感じるのは1を通じて2が“いのち”に直結しているからです。

ところが、思考などにより存在の真実を錯覚してバラバラ観を持っと、3の個体を守ろういう個体本能が過敏に働き利己的になります。

「思わずやってしまう」ということは、1のアタマの働き以前に2や3が発動したということです。2であればノンエゴ的に、3であればエゴ的になる傾向があります。

感情や気持ちについても同じように言えます。

繰り返しになりますが、“心”というのは特定の器官そのものではなく、脳の働きにより、その時々に顕れてくる精神作用です。

つまり、心というコロッとしたものがあるわけではありません。

このことに関して、次のような面白い逸話が残っています。

達磨禅師に弟子の慧可が「心が不安です」と訴えたところ、達磨禅師に「では、その不安な心をここに持ってきなさい」と言われて、一生懸命探したのですが、ついにはどこにも見つかりません。

そこで「どこにもありません」と報告すると、達磨禅師は「私はお前を救ったぞ」と言われました。その言葉を聞いた瞬間慧可は大悟したそうです。

実に、奥深い話ですね。

私たちは「心とは何か?」などと余計なことを考えて悩むより、ただ真心丸出しで生きればよいのです。






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ファミリーファースト

ファミリーファースト

最近、テレビや新聞などのマスコミなどで家族愛の大切さがよく説かれます。

これは、太平洋戦争が終わるまで、「家族など二の次、自分のいのちさえも捧げて、お国のために尽くす」ということが国家により喧伝され、その結果、結局は戦争にも敗れて、戦中、戦後ともに大変みじめな生活を強いられたことが、現在の日本で家族愛が強調される背景となっているのでしょう。

それと同時に、戦前の体制や風潮に対する反省(反発?)から戦後、自由主義の名のもとに、個人としての“自分”という存在が何よりも大切という風潮が広まっていきました。

そのこと自体は非常にもっともなことなのですが、その結果、その趣旨が捻じ曲げられて、利己的な生き方が蔓延してきたのが現代の日本社会だと言えるでしょう。

そして、当然、そこからあまりにも自分勝手な生き方をする人々が増えてきたために、家族愛の大切さがあらためて説かれるということになってきたのだと思います。

僕もそれはそれで大変もっともなことだと思いますが、同時に、何かしっくり気持ちになじまないような気がしているのも事実なのです。

それは「家族愛」あるいは「家族が一番大切」というような言葉が何か天下御免の印籠(いんろう)のような「誰でも行うべき美しい行い」というニューアンス(意味合い)で語られる傾向が強いということです。

たしかに、「家族のことなどどうでもよい」と、自分勝手に振る舞う個人的利己主義を戒める意味では、家族の大切さを「誰でも行うべき美しい行い」というニューアンスで語ることはできるかもしれませんが、そこで終わってしまってはだめだと思うのです。

最近、どこかの国の新大統領が「〇〇〇〇ファースト」と言っていますが、それに触発されて、フランスやオランダなどでも大統領選や国政選挙の有力候補がEU離脱、「自国ファースト」を唱えはじめました。

これは国際協調などより、何よりも「自国が一番大切」、「自国さえよければいいのだ」という国家エゴイズムの極致的表現だと言えましょう。

国際社会は悲惨な第一次世界大戦、第二次世界大戦への反省から、国際協調への道へと大きく転換しました。

それは東西冷戦の中にあっても、西側諸国では少しづつ確かな歩みとなって行きました。

その一つの現れがヨーロッパ諸国がまず経済統合の深化・拡大に加え、外交・安全保障・司法などで政治統合を進めようというEUです。

しかし、今ではイギリスが離脱したのをはじめとして、その風潮は他のEU諸国にも広がってきました。

このように、国際社会ではこれからしばらくはますます国家エゴイズムが露骨になって行くものと思われます。

僕はそれと同じエゴイスティックなニューアンスを「家族愛」とか「家族が一番大切」という言葉に感じてしまうのです。

この世界はバラバラだと感じているからこそ、「せめて家族だけでも」と、「家族愛」や「家族が一番大切」ということが強調されるのだと思うのです。

そして、怖いことには、それが逆にこの社会をよりバラバラにしていくのです。





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メンタルプリズン  その2

メンタルプリズン  その2
(その1からのつづき)

その1で、いろいろな個人的、社会的苦しみや混乱などの問題を根本的に解決するにはメンタルプリズンから抜け出るしかない。それは実に簡単だ、と書きましたが、そのためにとても重要なことがあります。

それは、まず、自分(たち)がメンタルプリズンの中に囚われているという事実に気がつかなければならないということです。

それに気がつかなければ、そこから抜け出ようとさえ思わないからです。

残念なことに、多くの人たちが自分(たち)がメンタルプリズンの中に囚われているということに気づいていません。

世界、あるいは、自分を望ましくはないと思っていても、それが妄想で作り出された、あるいは、作り出したものであることに気付かず、もともとそういう世界、あるいは、自分なのだと思い込んでいます。

ですから、この世界はバラバラで対立世界だという妄想で作り出したメンタルプリズン、つまり、「戦争が起こる土壌(基本的状況)」そのものをそのままにして、「戦争反対」などとと叫んで頑張っても、戦争を根本的になくすことはできません。

戦争を根本的になくそうとすれば、戦争が起こる土壌そのものが徐々になくなってしまうように、メンタルプリズンから抜け出て、存在の真実に立脚した画期的で現実的な方策が絶対的に必要なのです。

それがネホサの提案です。

ネホサ自体は「戦争は起こるものだ」という妄想で作り出したメンタルプリズン(右側の世界)の中で、例えば、改憲(右側の中のさらに右)に対抗して、護憲運動(右側の中の左)を活発にしていこうとしているのではありません。

それでは、「タバコは必要だ」という妄想で作り出したメンタルプリズン(右側の世界)の中で、例えば、喫煙(右側の中のさらに右)に対抗して、ガマンの禁煙(右側の左)を頑張って続けようということと同様に、いつまでたっても戦争を根本的になくすことはできません。

タバコをやめるためには、「本当はタバコは必要でも、吸いたくもなかった」という真実に気付き、ただ、やめる、つまり、妄想で作ったメンタルプリゾンから左側の世界に抜け出ればよいのです。

それと同様に、ネホサとしては、「本来はこの世界はみんな一つの世界だ。争いはまったく必要ない」という存在の真実に気付いて、戦争を根本的になくし恒久の平和世界を実現するために、右側の世界はそれはそれとしながら、妄想で作ったメンタルプリゾンから左側の世界に抜け出て、日本を自ら率先して世界の困っている人や国を自分のこととして国力を挙げて貢献する国にしていこうというのです。

では、自分(たち)が妄想で作り出したメンタルプリズンの中に囚われていることにどうしたら気がつくことができるのでしょうか。

それには、とにかく自然界を先入観に囚われずに巨視的に観察しながら「本来の世界はどのようにできているのか?」と検べることです。

もう一つは、心を静めて、自分自身の内心(真心)の声、自分が本当に何を求めているのかを聴き取ることです。

集団本能から出てくる真心はすでに存在の真実を知っているからです。

(おわり)





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メンタルプリズン  その1

メンタルプリズン  その1

メンタルプリズン(mental prison)というのは「心の牢獄」あるいは「心で作り出した牢獄」という意味です。

「牢獄が実際には存在しないのに、あたかも存在しているように感じて、その中に自分が入っていると思い込んでいること」あるいは「真実(本来)の事実についての間違った思い込み(妄想)に基づいた考えや行動、生き方、社会」という意味です。

メンタルプリズンにはいろいろな種類がありますが、ここでは多くの人々に共通しとくに重要だと思われることを取り上げることにします。

まずは、タバコです。タバコは本来はまったく吸う必要がないものです。

その証拠に、どんなスモーカーでもタバコを吸い始めるまでは、「タバコは必要だ、吸いたくてたまらない」などとはまったく感じていません。

にもかかわらず、タバコを吸い始めてしばらくすると、「タバコが必要だ、吸いたくてたまらない、吸わないとイライラする」などと思うようになります。これはまさに“妄想”です。

スモーカーは典型的なメンタルプリズンの中で生きているのです。

麻薬患者もタバコと同じようなメンタルプリズンの中で生きています。

また、不可分一体の非対立の世界が存在の真実ですが、「この世界はみんなバラバラで対立世界である」というバラバラ観はまさに妄想であり、私たちの生きているこの社会はまさに妄想によって作り出されたメンタルプリズンなのです。

さらに、この世界には、本来、どこにも「所有」も「優劣」も「差別」もありません。それが存在の真実です。

ところが、人間は妄想によって「所有」があると思い込み、「優劣」があると思い込み、「差別」があると思い込んで、「所有観念」、「優劣観念」、「差別観念」をという間違った思い込みを作り出し、それらの妄想に基づいて作り出されたこの社会はまさにメンタルプリズンなのです。

ここで、話を分かりやすくするために、これからは、存在の真実に基づいた考え方、行動、生き方、社会を「真実の世界」あるいは「左側の世界」、妄想に基づいた考え方、行動、生き方、社会を「メンタルプリズン」あるいは「右側の世界」と呼ぶことにします。

この世界は現実としては、まさにメンタルプリズンであり、個人的、そして、社会的な苦しみや混乱はまさにこれらの妄想によって作り出されたものです。

でも、メンタルプリズンの中でそれらを解決しようとどんなに頑張っても、根本的には解決することは絶対に不可能です。

それらの問題を根本的に解決するためには、メンタルプリズンから外(真実の世界)へ脱出する以外にはありません。

それは実に簡単です!! 当たり前の世界に戻るだけですから。

タバコを根本的にやめるためには、ガマンの禁煙ではなく、本来、タバコは必要なものではないという当たり前の真実に気付いて、「ただ、タバコをやめればよい」ということとまったく同じです。

それが自覚のセミナーであり、ネホサです。

(つづく)





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当たり前に生きる

当たり前に生きる

僕は子供のころ、アフリカの奥地で原住民の医療に尽力したシュバイツァー博士の伝記を読んでこころから感動しました。

いまでも、人のために尽くした人たちのことを本や新聞などで知るたびに、世の中には本当に立派な人がいるものだとこころを打たれます。

理屈ではないことははっきりしています。こころの奥の方で何かがそのような話に自動的に、あるいは、自然に共鳴しているのだと思います。

多分、私たちは、本来、すべての存在とぶっ続きのこの不可分一体の世界において、その真実を理屈抜きに直感的に感得する本能的機能を生まれながらに備えているのだと思います。

それを僕は「集団的本能」と呼んでいます。

このように、僕はそんな話を聞くたびに「立派だなあ」と感動するのですが、よくよく考えてみると、本当はごく当たり前のことなのです。

おそらく、そのような“立派な”ことをされた方々も、自分自身では「自分は立派なことをやっている」などとは思ってはいらっしゃらないのではないでしょうか?

「立派ですね」などと人に言われたら、「当然のことをしただけです」とお答えになる方が大多数ではないでしょうか。

人はそれを聞いて「ますます立派な人だなあ!」と感じてしまいます。面白いものですね。

実は、あなた自身も同じではないでしょうか?

たとえば、家族のなかにある困った問題が起こったとします。

多くの方は自分も家族のメンバーの一人として、自分のことだけでなく、家族のことを自分のこととして受け取り、自分のできることがあれば、精一杯解決に向けて努力するのではないでしょうか。

そのようなことやっても、多くの人は自分では決して”立派なこと“をやっているなどと思ってやってはいないでしょう。

なぜなら、「家族だから当然のこと」だからです。

では、なぜ、家族では当然のことなのでしょうか?

それは、家族は不可分一体だからです。

そのなかでは、他の家族のメンバーや全体の問題は自分自身の問題だからです。

ですから、家族だけでなく、本能的に人のことを自分と同じ仲間のように感じている人は、困っている人のために一生懸命に尽くすことは「当然のこと」なのです。

ただ、本来は当たり前のことであっても、バラバラ観に立脚したこの社会においては、そのような行為は“立派なこと”、“崇高なこと”と私たちは感じてしまうのです。

このように、本来、この世界は不可分一体、つまり、みんな一つの家族なのですから、他人などいるはずもなく、人のことのために尽くすのは、ごくごく当たり前のことなのです。

ネホサでは「自分の国の福祉と同じように世界の福祉に国力を尽くして貢献するという理想を日本に掲げよう」と提案しています。

でも、それはバラバラ観の社会では「理想」と見えるかもしれませんが、本当は「当たり前のこと」なのです。

そうではあっても、日本がそのような国になって行くと考えただけでも、何かとても誇らしい気持ちになるのも事実です。

本当の当たり前の世界は決して無味乾燥なものではなく、とても情緒豊かな世界なのです。





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幽霊の正体見たり  その2

幽霊の正体見たり  その2
(その1からのつづき)

人間社会の苦しみや混乱などの問題も基本的な構図は、幽霊問題、そして、タバコ問題と同じです。

「人間社会の苦しみや混乱はこの世界はバラバラの対立世界であるというアタマの妄想(錯覚)が作りだしたものであり、本来、この世界は不可分一体の非対立の世界である」という存在の真実に気づけば、アタマの妄想は瞬時に、そして、永久に消え去り、そこに人間社会の苦しみや混乱を根本的に解決する道が開けてきます。

その一つが和田重正先生の「国に理想を掲げよう」(通称ネホサ、Neo Homo Sapiens)という提案です。

ほとんど同じ趣旨で小林多津衛先生が「日本を赤十字国家へ」という提案をされています。

僕が知る限り、不可分一体の存在の真実に立脚して、人間社会の行き詰まりを解決し、永久の平和世界を実現しようという根本的、かつ、具体的提案はこの二案以外にはありません。

この世界は真実は不可分一体の非対立の世界です。ところが、この世界をアタマを通して見ると、(妄想であり錯覚なのですが、)“見かけ上”すべてがバラバラであるかのように見えます。

そして、すべてはバラバラという妄想を存在の真実(本来の事実)と信じ込んでいることから、「この世界で一番大切なものは、自分であり、自分の家族であり、自分の国である」というエゴイズム(利己主義)が出てきます。

それが人間の個人的、社会的苦しみや混乱の根本原因です。

このエゴイズムという基盤(土壌)の上で何をやっても問題を根本的に解決することは不可能です。

なぜなら、エゴイズムという基盤(土壌)そのものはどこまで行っても変わらないからです。

不可分一体の存在の真実に立脚して、エゴイズムという基盤(土壌)そのものをまったく別の角度から解消していこうというのがネホサの提案です。

さて、幽霊問題でもタバコ問題でも、そして、社会問題でも、「存在の真実(本来の事実)そのものとアタマによる妄想・錯覚による“思い”」の違いが本当に分かったときには、「なるほど! そうだったのか! これまでトンデモナイ思い違いをしていたんだなあ!」という深い感動を伴います。そして、その後、その確信が揺らぐことは微塵もありません。

ところが、一応分かったように思っても、いま一つはっきりした感じがしないという方々もいます。

それは、まだ何かの思い込みに引っかかって、真実そのものがはっきりとは見えないような気がしているのです。

その思いの代表的なものは、存在の真実は“いまここ”にはっきり見えているのにもかかわらず、「存在の真実というのはこんな単純なことではないはずだ」という思い込みの眼鏡のせいで、無意識のうちに見えている存在の真実を疑っているということです。

そういう方は、繰り返し、これまでのブログを読み返してください。

眼鏡をはずして見れば、真実は、「本当にこんなに単純でいいの?」と言いたくなるほど、単純明快なものです。

ですから、そのうちに必ず「アハーッ!」という体感とともにはっきりと分かるでしょう。

(終わり)





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