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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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世界平和は簡単に実現できる

世界平和は簡単に実現できる

私たち人類は何千年と戦争や争いを繰り返してきました。そして、現在この瞬間においても世界の各地で悲惨な戦争や争いが起きています。

このような事実をよく知っている方であれば、なおさら「平和の実現ほど難しいものはない」と思われるでしょう。でも、僕は「世界平和は簡単に実現できる」と確信しているのです。

これまでも多くの心ある方々が「どうすれば、この世界から戦争や争いをなくし、平和を実現できるか」ということをテーマにして、いろいろな意見を述べられています。

けれども、そのほとんどの意見は「戦争や争いはそのままにしておくと生じてくるものなのだ」という観念に立脚して、「戦争や争いが生じてくる可能性をどうやって抑え込むか?」というところに焦点が置かれているように思います。

戦争や争いのない平和な世界を実現するためにまず第一に、戦争や争いの生じる根本原因を明らかにし、その根本原因を取り除く以外にはないのです。

では、なぜ、戦争や争いが生じるのでしょうか?

それは、私たち人間(のほとんど)が「人間はもちろん、すべてのものはバラバラである」というバラバラ観を持っているからです。

では、なぜ、私たち人間(のほとんど)はバラバラ観を持っているのでしょうか?

それは、私たち人間が他の動物と異なり、二元相対的にしか思考できない大脳(アタマ)を持っているからです。

そのために、物事を表面的、あるいは、一面的に捉える傾向があり、「すべての存在はみんなバラバラである」と錯覚してしまう傾向が非常に強いのです。

たしかに、人間はみんなバラバラの存在で、それが集まって生きているのだったら、人より多く取った方が得で、取られた方が損だという気になるのは当たり前です。

それは、個人と個人の間でも、国と国の間でも同じです。

学校でも、「お互いに助け合わなければいけません」と言いながら、実際には、親も先生も学歴社会だからテストで競争して勝たなきゃダメだとやっています。

社会に出ても、企業間でも同じ会社の中でさえも、まさに競争社会です。

そして、国と国はまさに食うか食われるかの闘争関係にあります。

でも、存在の真実は不可分一体です。人間はもちろん、動物も、植物のみんな仲間であり、自分の分身、兄弟です。

この真実に気付けば、争ったり喧嘩するという考えや気持ちは絶対に出てこないのです。

この不可分一体の存在の真実に気付く人が増えれば増えるほど平和な世界の実現に急激に近づいていきます。

幸いに、それは決して難しいことではありません。

なぜなら、それがこの世界の本来のありのままの姿ですから、難しいはずがないのです。

「この世界はみんな一つだ」という気持ちで、この世界を見、そして、やってみれば誰でもすぐに分かります。

みんながこの不可分一体の存在の真実に気付けばよいのです。

世界平和は本当に簡単に実現できるのです。


(珍しくCMです。僕の主宰する「自覚のセミナー」では参加者のほとんど全員がわずか数時間で存在の真実にはっきりと気付いています。)





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死して生きる

死して生きる

今回ここに書こうとしていることは、あくまで僕の個人的な心境ですが、何かの参考になることもあるかもしれないという思いで書きます。

僕はまだ若かったある時に、意識的にすべてを捨てました。「手放した」と言ってもよいでしょう。

人はいつも「こうしたい。ああしたい」という思いを持って生きています。けれども、結果は、事実としては、かならずしも、自分の思い通りにはなりません。

それまで僕もずっとそうだったのですが、多くの人は「結果が自分の思い通りになるかどうか?」と始終“気をもみながら”毎日を生きています。

これは実に疲れます。“消耗”そのものの生き方です。

“死”についても同じです。「もっと生きたい」という気持ちは生物としての人間の本能から出てくるのかもしれませんが、事実は、死がいつ自分に訪れるか分からないのです。

いま突然自分に死が訪れたとしても、この世界ではそういうことはよくあることの一つにすぎません。

ただ、人はそういう事実をなるべく考えないようにして、眼をそらしながら毎日を生きているだけではないでしょうか?

でも、僕は「自分がいつ死ぬかわからない」という事実に眼をそらすことができなかったのです。

「もっと生きていたい」という思いを持ちながら「自分はいつ死ぬかわからない」という事実に直面しながら生きていくことはとてつもない苦しみであると感じたのです。

そこで僕は「もっと生きていたい」という思いを捨てた(手放した)のです。

それは「いつでも、いまこの瞬間であったとしても、自分の死をすっきりと受け入れる」覚悟を持って生きていくということです。

それが僕の「死して生きる」という言葉の意味です。

自分の死だけではありません。

自分の親しい人の死についても同じような覚悟を持って生きようと決意しました。

さらには、死だけでなく他のことについても、同じ覚悟を持って生きようと決意しました。

僕の心のなかには「こうしたい。ああしたい」という思いがあります。それを全力で狙(ねら)って生きていくことは当然ですが、その結果がどうであろうと一喜一憂はしないと決意しています。

ただ、狙って生きていくだけで、その結果は最初から手放しています。事実の世界は自分の力で何もかも思い通りにコントロールできるものではないからです。

そういう意味では、結果だけでなく、思いはあっても、思いそのものを手放しにして生きています。

江戸時代、佐賀藩のある人が書いた『葉隠』という書物には次のような文句があります。

「武士道とは死ぬことと見つけたり。」

僕流には、「生きることは死ぬことと見つけたり」となります。

死んだ人には今さらなんの憂いも辛さも苦しさもありません。

世の中はただあるがままにあるだけで、どの季節や天候も、どんな事件も災害も、ただそれだけのことです。

でも、生き方としては、楽しいと言えばこんな楽しいことはありません。

できても、できなくても、ただ真心一杯で生ききるだけです。

江戸時代の禅僧である至道無難禅師は次のような頌(うた)を詠んでいます。

生きながら死人となりてなりはてて
思いのままにするわざぞよき




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一日一生

一日一生

「一日一生」。通常この言葉は「人生がずっと続いていくと思っていると、ついつい毎日をだらだらと無自覚に生きてしまいがちになるので、一日が一生だと思って、毎日一生懸命に生きなさい」という道徳的な教訓のような意味に解釈されているようです。

つまり、“一日一生”と言いながら、でも、その”一日“が毎日続いていく。人生は一日で終わりではなく、いずれ終わりはやってくるにしても、その終わりまではずっと長く続いていくのだ、という感覚で受け止められているように思います。

僕もそれはそれでまあよいと思うのですが、ただ、僕の実感はちょっと違うのです。

それは、真実は、一生は一日だけしかないということです。

一生は一日しかないのです。

明日なんてないのです。

朝、目が覚めると同時に生まれ、夜、布団に入り寝付くとき死にます。

それだけです。それが一生です。

「じぁあ、夜時々目が覚めたときは、どうなっているのだ?」という突っ込みがありそうです。

夜眼が覚めている時、例えば、眼が覚めてトイレに行って、布団に戻って、また、寝た、というのは「一生」ということとどんな関係になっているのか?というわけですね。

そのときは「それだけ」です。

何のことか分からないですか?

ここではっきり言えば、「一日」ということもなければ、「一生」ということもないのです。

それらはいずれもアタマが作り出した観念・妄想にすぎません。

真実にあるのは「いまここ」だけです。

アタマではその「いまここ」の風景が“なぜか“変わっていくように感じるのですが、面白いことに、事実そこにあるのは「いまここ」という事実だけです。

話がいきなり飛んでしまいましたが、もう一度「一日一生」に戻りましょう。

多くの方は夜寝るとき「寝た後目が覚めれば明日になっている」と思って床に入るのではないでしょうか。

でも、真実はそうではないのです。「明日」なんてないのです。

「明日」がないと思うと怖いですか? 心配でとても安心して寝ていられないですか?

でも、誰でも、どんな不眠症の方でも、必ず夜床の中で完全に熟睡している状態があるのです。

その時はまったく「自分は生きている」という意識がありませんから、実感としては、それは死んでいる状態と似たようなものです。というか、実感そのものがないのです。

その状態で、何かが起こって気がつかないままに死んでしまっても、「自分は死ぬんだ」とか「死ぬのはいやだ」なんてことも思わないのですから楽なもんです。

実際、これ以上楽なことはありません。

要するに、ここで僕が言いたいのは、人はアタマで時間の観念を作り出し、その観念に基づいて、「今日があり、明日があり、一生が続いていく」という妄想(物語・ストーリー)を作り上げて、そこで振り回されているということです。

真実、事実としてあるのは「いまここ」だけであり、「一日だけの一生」だけなのです。

朝生まれて、夜死ぬ。それだけです。







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死は怖いものではない

死は怖いものではない

本質的には、人は不生不滅の“いのち”ですから、死ぬということはありません。

けれども、現象的には、見かけ上の個としての人は誰でもいずれ死にます。

そういう意味で、人はいずれ訪れる死に向かって毎日生きています。

一日生きたということは一日死に近づいたということです。

戦後、直接的に戦争の惨禍に会うことがなかったためか、一般的には人は自分の死についてはなるべく考えないようにしているためか、死に対して、あまり実感が湧かないようです。

そのために、逆に「どう生きればよいのか?」という問題意識が曖昧(あいまい)になって、毎日を何となく生きているというような人が増えて来ているように思います。

けれども、ほとんどの人の思考や行動をつぶさに観察してみると、本人が気がついているかどうかは別として、その根底に”死に対する恐怖“があり、それが、その人の思考や行動を歪めているように思います。

それは自分自身の死だけでなく、身近な肉親の死についても同様です。

僕自身は若い時に、死というものは今感じている意識がなくなることであり、それがどんなことかまったく想像もできないこと自体がとても怖くて仕方がありませんでした。

ですから、自分がいずれ死ぬときは死ぬしかないのだけれども、自ら命を絶つ人がいることがまったく理解できませんでした。

とにかく、生きていることがすべてであり、死ぬことはすべてを失うことであり、それが怖くて仕方がなかったのです。

でも、ここで、はっきり言えば、本当は死は怖いものではありません。

僕の周りには、誰も死んでから戻ってきた人はいないので、本当のことはわかりませんが、個としての死については常識的に次の2つのケースが考えられます。

一つ目は肉体は滅びても魂は意識を持って生き続けるというケースです。この場合は本当には死んでいないことになります。

二つ目は肉体が滅びるとともにすべてが無くなるいうケースです。この場合は怖いという気持ちも湧いてこないのです。

つまり、私たちは生の側から死を見てアタマで想像して「死ぬのは怖い」と思っているのですが、死の側から死を見てみれば、死自体は意識もろともすべてが無になるということですから、「怖い」とか「悲しい」とか、「このままではとても死ねない」などという気持ちさえも湧いてこないのです。

ですから、死自体は事実として絶対無、絶対の静寂そのものあり、少しも怖いものではないのです。

人間には生き続けたいという生存本能(欲望)がありますので、生きている限りは精一杯自己表現をして生きるのが望ましいと思いますが、いざ死に臨んだ時には死をすっきり受け入れニッコリ笑って死んでいきたいものです。

身近な人の死も同じです。時々寂しいとか悲しい気持ちが湧いてくるのは当然でしょうが、いつまでも、それに引きずられてグズグズ生きていれば、亡くなった方が「もういい加減やめてくれ!」と化けて出てきてくれるとでもいうのでしょうか?






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お釈迦様の最期の教え

お釈迦様の最期の教え

お釈迦様は旅の途中で体調を崩し、死期が近いことを自覚しながらも旅を続けられました。

その最後の旅でお釈迦様はもっとも大切な教えを弟子たちに残されました。

「私が死んでも真理はなくならない。他を拠り所とするのでなく、自己と法(真理)を灯明とし拠り所として生きなさい。励み努めなさい。」

まさに「どう生きればよいのか?」というテーマについての至言(しげん:この上なく適切に言い表した言葉)だと思います。

ここでは僕なりにこの言葉から感じ取ったことを書いていきたいと思います。

まず、「他を拠り所」の”他“とは何を意味しているのでしょうか?

最初に浮かんでくるのは、個としての自分以外のあらゆる人です。教祖、指導者、先生、世間的に権威のある人、地位の高い人、金持ち、先輩、友人、後輩、親、兄弟姉妹、子供などなど、とにかくすべての他の人ということです。

次に浮かんでくるのは”周りの状況や状態“です。その時々において自分の置かれているあらゆる個人的、社会的状況や状態ということです。

お釈迦様はそのような”他“を拠り所、つまり、考え方や生き方の基準や規範にしてはいけないと言っているのです。

では、何を拠り所にせよと言っているかと言えば、まず”自己“です。

この”自己”は普通一般に私たちが使っている“自分”という意味ではないように思います。

というのは、普通一般の私たちはついついアタマの妄想や感情に振り回され、自分自身だけでなく、周囲の人をも巻き込んで混乱と苦しみに陥ることが多々あり、とても生きる上での“拠り所”になるような確かなものではないからです。

では、ここでお釈迦様の言われる”自己”とは何なのでしょうか?

それは不生不滅、完全無欠の”真実の自分”、言い換えれば、不可分一体の“いのち”そのものだということです。

では、次に“法”とは何なのでしょうか?

それは不可分一体の“いのち”の世界に働いている真理(法則)ということです。

このように、お釈迦様は生きる上でもっとも大切なことは一切の”他“を拠り所としてはいけない、例えば、教祖様の言われたことだからそれに従って行うなどということをしてはいけないと言われています。

そして、真実の自分とこの世界に働いている真理のみを拠り所にしなさいと言われています。

これは宗教上、他に類をみない言葉です。なぜなら、ほとんどの宗教では「教祖様の言葉を信じて、それに従いなさい」と言われているからです。

そういう意味で、僕は逆にお釈迦様の生き方そのものこそもっとも純粋な宗教的生き方であったと思うのです。

お釈迦様はある時「人間はなぜ苦しまなければならないのか?」という大きな疑問を持たれました。

そして、その疑問を解決するためには「自分とは何か?」ということを明らかにしなければならないということが求道の原点だったのです。

お釈迦様は“真実の自分”に気付かれた後も、ずっといつも“真実の自分”という原点を見続けてこられたのだと思います。

僕がお釈迦様に親しみを感じるのはこの素直さです。





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心とは何か? その2

心とは何か? その2

今回は僕が日ごろ読み親しんでいる『盤珪禅師語録』(鈴木大拙編校 岩波書店)から、「心とは何か?」というテーマについて関連するいくつかの箇所を現代語風に直して、分かりやすいように部分的に紹介します。

ある一人の僧が質問した。
「自分は生まれつき、いつも短気で、お師匠様に意見をされるのですが、治りません。私もこれはいけないと思って、治そうとするのですが、これが生まれつきであり、治りません。どうしたら治るでしょうか?」

盤珪禅師は言われた。
「あなたは面白いものを生まれつきましたね。今もここに短気がありますか? あればここに出しなさい。治してあげよう。」

僧が言った。
「ただ今はありません。何かの時にひょっと短気が出るのです。」

禅師が言われた。
「だったら短気は生まれつきではありません。何かの時の縁によって、ひょっとあなたが出すのです。あなたが身びいきのために自分の思い通りにしたくて、自分で短気を出しておいて、それを生まれつきというのは、難題を親にふっかけるとんでもない親不幸です。」

「人は皆、親が生みつけたものは仏心一つであり、他のものは生みつけはしません。だから一切の迷いはわが身のひいきのためで、自分で出しておいてそれを生まれつきと思うのは愚かなことです。自分でしでかさなければどこに短気があるでしょう。」

「一切の迷いも皆これと同じことで、自分が迷わなければ、迷いはないのです。生まれつきでないものを、我欲で、自分で迷っていながら、生まれつきだと思っているので、何ごとについても迷わずにいられないのです。」

「それほど迷いが尊いものであるのなら、仏心に替えて迷うでしょう。けれども、皆が仏心の尊いことを知れば、迷いたくても迷わないのが仏で、他に仏になる方法はありません。」

「自分自身の身びいきから迷い、その迷いからいろいろと気癖を出しておきながら、生まれつきとは大きな間違いです。この度しっかりと決定(けつじょう)して、二度と迷わぬように、いつも仏心でいるようにしなさい。」

「親が生みつけたものは不生の仏心一つで、他のものは生みつけません。それなのに、あなたが幼少のころより人々が短気を出すのを見習い、聞き習って、短気が気癖となって、時々ふと短気を出して、生まれつきだと思うのは愚かなことです。」

「今これまでの非を知って、今ここからずっと短気を治そうとしても、もともと治す短気はないのです。治すよりは、しでかさないでいるほうが近道なのです。しでかしておいてから治そうとするのは造作がかかり無駄というものです。しでかさなければ治すことは必要ありません。これをよく納得しなさい。よく納得すれば、この短気のことだけでなく,他のことについても少しも迷うことはできません。そうすれば、いつも不生の仏心一つでいて、他のものはありません。その不生の仏心で、今日生きて働き、一切ごとが整います。それは今日の活仏(いきぼとけ)ということです。何と単純明快で、尊いことではないでしょうか。」

(おわり)





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