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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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左と右の世界  その6

左と右の世界  その6

これまで説明してきましたように、左側の本来の、一元絶対、不可分一体の世界ではすべてが一つですから、たとえば、大小、生死というような物理的な比較も、優劣、所有というようなアタマの妄想による観念も一切ありません。

ですから、左の世界の中にはその中にさらに左中右、あるいは、上中下といった区別もありません。

それに対して、右側の五感とアタマで捉えた見かけ上の二元相対、バラバラの世界では、大小、生死というような物理的な比較観念が存在し、また、多くの人が優劣、所有というようなアタマの妄想による観念を真実だと錯覚しています。

ですから、右側の世界には、比較や観念によって、その中に左中右、とか、上中下などという区別ができてきます。たとえば、改憲は右の右、護憲は右の左、どっちつかずは右の中、あるいは、金持ちは右の右、貧乏人は右の左、ほどほどに豊かな人は右の中というわけです。

左側の世界にはそのような区別はまったくありません。みんな同じです。

では、僕が主催する自覚のセミナーはその中の何を理解・捉えることを目的にしているのかということを、説明してみましょう。

自覚のセミナーではアタマを超えた直感に至るまでに、アタマを使うので二元相対的な思考は変わりませんが、アタマが妄想的な思考に陥らないように、意味の正確な言葉を意識的に使って思考します。

その結果、右側の世界の、たとえば、大小、生死などの物理的な比較観念は右側の世界の物理的な事実を妄想でなくありのままに表しているけれども、たとえば、みんなバラバラであるという観念、優劣の観念、所有の観念などはアタマが作り出した妄想であり、間違いであったことに気がつきます。

その理解の深さは人さまざまですが、それでも、ほとんどの人が少なくとも知的なレベルではっきりとバラバラ観念、優劣の観念、所有の観念などの間違いに気づいて不可分一体の存在の真実を理解することができます。

これはこれまでのアタマの妄想により理解した「妄想的右側の世界」の間違いに気づき、アタマを正しく使って理解した見かけ上の「正しい右側の世界」を見出したということであり、同時に、左側の本来の世界を少なくとも知的にはっきりと理解できているということです。

また、自覚のセミナーでは、本当は実にシンプルな問いなのですが、これまで一度も考えたこともないようなことをいくつか質問します。そうしているうちに、五感とアタマの通常の思考を一気に飛び越えて、直感的に、深浅はともかく左側の世界、すなわち、不可分一体の存在の真実を体得する人がかなりいます。

これは禅における悟り(見性)と言われるものと同じだと思います。

自覚のセミナーでは、参加者がアタマを妄想的でなく正しく使い、知的に本来の一元絶対の不可分一体の左側の世界の存在をはっきりと認識するとともに、それを直感的にできるだけ深く体得し、同時に、理解体得した左側の世界を基盤として、知的に見かけ上の二元相対の右側の世界を正しく認識し、それをもとに真実の生き方を見出すことを目標としています。

(おわり)


(お願い:今回のブログは特に丁寧に読んで、自覚のセミナーの仕組みをよく理解してください。)





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左と右の世界  その5

左と右の世界  その5

これまで左の世界と右の世界という言い方で説明してきましたが、本来は左の世界しかありません。

右側の世界は左側の世界の中で“いのち”のハタラキによって(創り出された人間のアタマのハタラキによって)創り出された、いわば、“濁り”のようなものであり、それも左側の世界に内包されているのです。

言葉を変えれば、本来はどこまで行っても一元絶対の不可分一体の世界しかないのですが、その中に創り出された人間のアタマがこの世界は二元相対のバラバラな世界であると錯覚し、二元相対のバラバラ観に基づいて社会を創り、それを営んでいるのです。けれども、それは、あくまで、“見かけ上”のことであり、その“見かけ上ぐるみ”すべて一元絶対の不可分一体の世界であるということです。

そういう意味では、この世界はどこまで行っても、何をやっても落ちこぼれることのない絶対安心の世界であり、この真実によって私たちは究極の絶対の安心を得ることができることは確かです。

けれども、“いのち”によって二元相対的思考しかできないアタマを与えられた私たち人間は、その究極の絶対安心を基盤として、さらに、“見かけ上”においても、完璧に不可分一体の社会を創っていくことが内的に求められていのです。

それは、静かに自分の“内なる声”である真心を素直に聴いてみれば容易に分かることです。真心こそ“いのち”の願いなのですから。

個人的であれ、社会的であれ、苦しみや混乱を、自分のものであれ、他の人のものであれ、本来は、思わずそれを何とか解決したいという思いが沸き起こり、「そのためにどうしたらよいか」と考え、行動することは本来はごく自然のことであるはずなのです。

それが、自分のことであれば、当然そうするのだが、他人のことや社会のことは関係ないということであれば、それこそ心がバラバラ観に毒されているからです。

でも、そういう人でも、例えば、もし、道路で幼い子供が転んだら、たとえ、その子が自分の子供でなくても、思わず、「大丈夫?」とその子供を抱き起すのではないでしょうか。

その気持ちこそあなたの“本当の気持ち”、すなわち、“いのち”の願いなのです。

真心は心がけてそれを素直に聴こうとしていれば、中からどんどん湧き上がってくるようになります。

真心は不可分一体の“いのち”そのものからダイレクトに私たちに湧き上がってくるものですから、それがどんどん湧いてくるようになると、自分のことだけでなく、個人的、社会的な苦しみや混乱を何とか解決したいという気持ちがどんどん強くなってきます。

このような現象を観察していて思うことは、“いのち”は、わざわざ、二元相対的な思考しかできないアタマを備えた人間を創造し、人間に個人的、社会的な苦しみと混乱を作り出させ、それによって、行き詰りることによって、人間たちが自分という存在そのものに疑問を持ち、存在の真実(本来の“自分”、本来の世界)に目覚めるように“仕組んでいる”のではないかということです。

和田重正先生もご著書『もう一つの人間観』(地湧社)のなかで、同じような説明をされています。

この本はまさに名著だと思います。ぜひ、購入されて読んでみてください。

(つづく)






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左と右の世界  その4

左と右の世界  その4

これまで述べてきた左側の世界と右側の世界は様々な言葉で表現することができます。

左側の世界は本来の事実の世界、五感を超えて直感的に捉えた世界。一元絶対の世界。不可分一体の世界、一つの“いのち”の世界、などなど。

右側の世界はアタマで妄想した世界。見かけ上の世界。二元相対の世界。バラバラの“個”の集合した世界、などなど。

さらに、左側の世界と右側の世界のそれぞれの特性のようなものを列記してみましょう。

左側の世界では自分という“個”はない。すなわち、実体を持った“個”は存在しない。みんな一つ(これはいくつもある中の一つではない)。“いのち”という“全体“だけがある。実体を持つのは“いのち”だけである。

一つしかないので比較するものがない。したがって、たとえば、大小、長短、寒暑、明暗、生死、考えや行いの正誤、幸福と不幸、戦争と平和、効率的―非効率的、分かりやすいー分かりにくい、などもない。

また、当然、それぞれの人間がアタマの妄想で勝手に作り出した物差しで規定した優劣、所有、差別、考えや行いの善悪、美醜、などもない。

右側の世界では自分という“個”がある。実体を持った“個”がたくさん存在する。(部分的な繋がりがある場合もあるが)基本的には、別の実体としてみんなバラバラで切り離されている。自他の区別がある。

そして、実体を持った“個”が数多く存在するという前提の下に、いわば、“物理的に”捉えた事実に即して複数の“個”の間に比較が生まれる。したがって、たとえば、大小、長短、寒暑、明暗、生死、考えや行いの正誤、幸福と不幸、戦争と平和、効率的―非効率的、分かりやすいー分かりにくい、などは“一応存在すると言うことができる”。

けれども、複数間の“物理的な”比較によるのではなく、それぞれの人間がアタマの妄想で勝手に作り出したモノサシによって規定する優劣、所有、差別、考えや行いの善悪、美醜、などは右側の世界にももともと存在しない。

このように、私たちの本来の世界である左側の世界には生死はもちろん、右側の世界の物理的な比較も、アタマの妄想で勝手に作り出したモノサシによる比較も一切ないので、いかなる比較をも超越した、絶対安心の世界なのです。

ここで、「本来の世界」と書きましたが、この世界こそが本来の“自分”なのですから、「本来の自分はすべての比較を超越した絶対安心の存在である」ということです。

このように、左側の世界と右側の世界について説明してきたのですが、本当は一つの世界しかないのであり、左右の二つの世界があるわけではありません。

ただ、人間はアタマを持っているために二重構造的に生きざるを得ないので、このような説明の仕方になってしまうのです。

そういう意味で、本来の世界(あるいは、自分)を基盤として、その上にアタマによる見かけ上の世界(あるいは、自分)が上下にオーバーラップしている重層構造的イメージがより事実に近い感じがします。

あるいは、本来の世界(自己)の中に見かけ上の世界(自己)が包まれているイメージでもよいかもしれません。

(つづく)





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左と右の世界  その3

左と右の世界  その3

この世界の個人的、社会的な苦しみや混乱を解消するためには、バラバラ観で“濁った“不可分一体の社会から濁りのない澄み切った不可分一体の社会に転換することが必要です。

そのためには、バラバラ観の間違いに気づき、不可分一体の存在の真実を自覚する(従来、それは「悟り」と呼ばれてきました)人が増えていくことが必須です。

僕は今日までこれまでの正しい本格的な禅の修行をはじめとする伝統的な考え方や方法は、とくに、深い悟りを得るという点においては大いに評価すべきであり、これは人類文明の粋(すい)ともいうべきものだと考えています。

と同時に、今日まで、悟りを得ることは厳しい修業を長年続けても得ることのできない大変に難しいことと言われてきたことも事実です。

そういう意味では、今日の社会における個人的、社会的行き詰まりという人類史上はじめての危機的状況を根本的に解消し、恒久的にみんなが幸福で平和な世界を実現するためには、従来の伝統的な考え方や方法だけではまったく不充分であることは明白です。

要は、方法の問題なのです。

「正しい方法」(別称、易しい方法、Easyway)によれば、バラバラ観の間違いに気づき、不可分一体の存在を自覚することは、その深浅はともかく、けっして難しいことではありません
。 
むしろ、非常に容易だと言えるでしょう。なぜなら、それが本来の世界、本来の自分なのですから・・・。

けれども、残念ながら、ここでその「正しい方法」ということを言葉で説明して理解していただくことは今のところ不可能です。

いろいろと説明を文章にして読んでもらえるように、あれこれと工夫してはいるのですが、まだ、成功していません。

それで、今のところは、実際に僕の「自覚のセミナー」に参加して体験してみなければわからないとしか言えないのです。

自覚のセミナーについては、このブログにあるこれまでの受講者の感想文を読んでみてください。

セミナーなんて言うと、「何か洗脳されるのではないか?」などと何か不安な感じがする方もいらっしゃるもでしょうが、自覚のセミナーの目的はあなたの苦しみの原因を解消するために、あなたがこの社会で気がつかないうちに洗脳されて身に付けた観念の間違いに気付いてもらうことであり、いわば、“脱”洗脳セミナーであるということです。

でも、僕の書いてきたブログ(とくに、存在の真実やこの世界の進化などについて書いたもの)を最初の方から読みながら、できるだけ自然に接するようにしていれば、バラバラ観の間違い、不可分一体こそ存在の真実であることを、深浅はともかく、納得せざるをえないでしょう。

ただ、アタマだけの理解だけではまったく不充分です。それでは、まだ、浅すぎるからです。

本当に、はっきりと、不可分一体の真実に気づけば、このバラバラ観社会で生まれ育った中で、いつの間にか身に付けてきたあらゆる間違った観念が脱落し、それらの観念によって作られたジメジメした陰うつでとげとげしいメンタルプリズンから脱出することができた喜びに満たされることでしょう。

(つづく)





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左と右の世界   その2

左と右の世界   その2

右側の世界は事実(真実)の世界を私たち人間の五感と大脳(アタマ)で捉えたものです。

ところが、私たちの五感は限られた能力しか持っていないので、存在の真実をすべて的確に感じ取ることはできません。

また、五感で捉えた限定された情報を私たちのアタマは二元相対的にしか認識することができません。

そのために、本来は一元絶対、すなわち、不可分一体の世界を、結局は二元相対的なバラバラな存在が寄り集まった世界としか認識することができません。

もう少し詳しく言えば、世界と言う枠の中に、あるいは、舞台の上でもともとバラバラな無数の“個”が寄り集まり、くっついたり離れたりしているように見えるということです。

僕は不可分一体の本来の世界に対して、アタマで捉えた世界を“バラバラの世界”と呼んでいます。

問題はほとんどの人がアタマで捉えたバラバラ観という間違った“思い”を事実、すなわち、真実だと思い込んでいることです。

そして、その間違ったバラバラ観に沿って人々は考えたり、感じたりしながら生きています。

その結果、現実の社会はバラバラ観を基盤にして作りあげられています。

バラバラ観というのは、結局のところ、「自分、あるいは、自分たちが一番大切だ」という考え方ですから、そのために、この社会では個人的、そして、社会的な苦しみや混乱が絶えないのです。

けれども、左側の世界、右側の世界と言っても、それらの二つの世界があるわけではありません。

本来、不可分一体の世界はどこまで行っても、何があっても一つのものです。つまり、良い悪いは別として、右側の世界は左側の世界に内包されているわけです。

ですから、バラバラ観を基盤とした社会が存在したとしても、それを含んで不可分一体の世界しかないのであり、どこまでも不可分一体の世界が展開されているのです。

つまり、見かけ上はたしかにバラバラ観社会であり、いろいろな苦しみや混乱があって“困る”のですが、それも不可分一体世界の一つの模様ということです。

もちろん、いくら「右側の社会では見かけ上」と言っても、苦しみや混乱は実際に“とても困る”わけですから、そこに、その苦しみや混乱を解決しようという考えやハタラキが生じます。

それらのはハタラキも右側で起こるのですが、それをも含めてどこまでも不可分一体の世界が現実として展開されて行きます。

けれども、もし、人々が不可分一体の世界こそが本来の世界であり、本来、「すべては一つだ」という存在の真実に気付けば、不可分一体観に沿った考え方、生き方に転換し、徐々に、バラバラ観社会は崩壊し、代わって、そこに不可分一体観を基盤とする社会が築き上げられていくでしょう。

それは、いわば、バラバラ観によって濁った不可分一体の社会から、澄み切った不可分一体の社会になるということです。

この社会のすべての問題の本質はほとんどの人がバラバラ観こそ存在の真実だと思い込んでいることにあります。

ですから、存在の真実に気づく人が増えていくことがなりより大切なのです。

(つづく)





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左と右の世界  その1

左と右の世界  その1

そもそもこの世界はどのようにできているのでしょうか? 

僕は、説明上便宜的に、本来の事実としての世界を「左側の世界」、その世界を私たち人間の五感を通し、それを大脳(アタマ)で認識したものを「右側の世界」と呼んでいます。

まず、左側の本来の世界について説明しましょう。

本来の世界である左側の世界は一つのものがいろいろな模様のようなものとして刻々に展開している一元絶対・不可分一体の世界です。

小宇宙と言われる一つの人体は最初何もなかったところに、眼に見えないような小さな受精卵が生じ、それが無数の細胞分裂を繰り返した結果、各細胞や組織や器官などができ、しかも、その構成要素が互いに循環・交流・交換しながら成長し続けています。

それと同じように、私たちの世界である大宇宙も最初何もなかった状態から、極小の素粒子が生まれ、それらが組み合わさって、次第に段階を追っていろいろな原子、分子、物質、星々などができ、そして、ついには生物が誕生し、進化の結果人類が誕生するなど、その構成要素が互いに循環・交流・交換しながら成長し続けています。

つまり、本来の世界においては、いろいろな模様はありますが、“個”という実体はまったく存在しません。その事実を仏教では「空」と呼んでいるようです。「空」というのは「中身が空っぽ」と言うことですが、「“個”という実体がない」ということを言っているのです。

要するに、本来の世界においては、“個”というものはなく、ただ全体である(いくつもある中の一つという意味ではない)たった一つのものだけしかありません。それを僕は“いのち”と呼んでいます。

今、この居間から外を見ると、一番手前に赤いバラの花が見えています。その赤い花は“自分”です。そのバラを見ているのも同じ“自分”です。

遠くには山が見えています。その山は自分です。その山を見ているのも同じ“自分”です。

大智禅師の言われた「人山を見、山人を見る」とはまさにこの存在の真実を体験的に表現したものです。

いま、視線をこちらにぐっと近づけると、シャツを着た胸とお腹、その先に脚、その足元、床、次第に視線を挙げてすこしずつ遠くに合わせると、床、窓、赤いバラ、芝生、ヒラヒラ舞っている白い蝶々、垣根、畑、林、山、青空、白い雲、飛んでいく鳥などが見えています。

胸やお腹、脚などが自分の体であるのと同様に、床も窓もバラも芝生も蝶々も林も山も空も雲も鳥もみんな自分の体です。

長沙禅師が言われた「十方世界是れ全身」というのはまさにこのことです。

「大宇宙すべて“自分”」ということです。

お釈迦様は悟りを開かれた瞬間、「天上天下唯我独尊」と言われたとのことですが、それはこの世界がすべて“自分”だという意味です。もちろん、“自分”と言っても「無数の人間の中の一人の“個”としての自分」という意味ではありません。

要するに、「この世界は一つの“いのち”である」ということです。

ですから、この世界に存在するものはすべて“自分”そのものであり、“自分”の分身なのです。

(つづく)





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存在の瞑想

存在の瞑想

存在についての“思い”は存在の事実(真実)そのものとは異なったものです。

なぜなら、この場合、“思い”というのは、あくまで、事実に対するアタマの“解釈”にすぎないからです。

したがって、一般的に言えば、事実の内容と解釈の内容は一致することもあれば、一致しないこともあります。

ところが、私たちのアタマは非常に限られた性能しか持たない”五感“によって捉えた情報を、二元相対的にしか認識できないので、次元を超えた一元絶対・不可分一体の存在の真実をありのままに捉えることができないのです。

それは、例えて言えば、何でも極端に近く小さく見えてしまう赤いレンズの特殊眼鏡を掛けて、遠くにいる大きな灰色の象を見て、「ああ、ここに小さな赤い虫けらがいる」と思っているようなものです。

ですから、存在の真実をありのままに見るためには、自分の掛けている特殊メガネを外して、“裸眼“で見なければなりません。

ところが、困ったことには、人間の特殊メガネはアタマの中に装着されているので、通常、私たち自身はまさか自分がそんな特殊メガネを掛けて見ているなどとはほとんどの人は思ってはいません。

けれども、「事実そのものと、それに対する解釈(“思い”)はもともと違うものだ、事実として存在そのものである真実の世界と、私たちのアタマで捉えた世界についての“思い”とはまったく異なったものだ」というようなことに気がついた人は、アタマの”思い“に振り回されずに、存在の真実そのものを特殊メガネを外して裸眼でありのままに見なければ、ハナシニモナラナイということがはっきり納得できるはずです。

では、どうしたら存在の事実をありのままに見ることができるのでしょうか?

私たちの五感は生きるために必要なものですから、それを意識的には全部ストップすることは不可能です。けれども、できるだけ、体、そして、眼を動かさないようにすることは、五感の働きをかなり抑えることができます。

特殊メガネを使わないためには、二つしか方法はありません、一つは思考(思い)を停止することであり、もう一つは思いを手放すということです。

そのために最適な方法がCDを使って断続する川の流れの音を聞きながらその奥にある絶対静寂の世界を体験できる“川の瞑想”です。

川の瞑想中は思考が停止している時間がかなり持続すると同時に、思いがわずかにしか出てこないので思いを手放すことがとても容易にできるからです。熟達すればCDがなくてもできるようになります。

瞑想の自然法(只管打坐)もお勧めです。これは、しっかりした坐相を維持しながら、思いを手放して、ただ、坐っている、というものです。

存在、その真実(事実)こそ我が主体です。それをアタマで捉えようとしてもまったくダメなのです。また、それを知的に理解しているだけでもまったくダメです。

日常の生活の中で意識的に存在の真実を生に体験する時間を持つこと、つまり、川の瞑想や瞑想の自然法を実行することは何よりも大切です。




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中道と大道

中道と大道

僕はこれまで、便宜的に、本来の不可分一体の存在の真実に基づいた世界を「左側の世界」、存在の真実を錯覚したバラバラ観に基づく世界を「右側の世界」と呼んできました。

それはパソコンの画面やホワイトボードなどの平面の上で図を描いて説明するのに都合がよいからなのであって、「左側・右側」という表現は、実は、必ずしも、存在の真実を正確に表しているとは言いがたいのです。

というのは、「左側・右側」と言ったり、それを実際に左側と右側に描くと、「本来の不可分一体の世界とバラバラ観に基づく世界が同一平面上で左右に並行して存在するような印象を与え勝ちだからです。

真実は、本来の不可分一体の世界と錯覚によるバラバラ観に基づく世界とはまったく次元の異なる世界でありながら、同時に、互いに異なった場所に存在するわけではありません。

ですから、次のような上下立体図がより真実に近いのかもしれません。

画面の基礎の平面に本来の不可分一体の世界が無限に広がっている。そして、その基礎の平面の上方に基礎の平面と並行して錯覚によるバラバラ観に基づく世界の平面が広がっている。

いずれにしても、僕が言いたいのは、本当は本来の不可分一体の世界は「左側」と位置付けられるようなものではないこと、そして、バラバラ観に基づく世界には「右側の右」、「右側の左」、「右側の中間」など「右、左、中間」と言うものがあるのに対して、本来の不可分一体の世界自体の中には「右」、「左」、「中間」などの区別は存在しないということです。

お釈迦様は「中道」が大切であると言われたそうですが、手元の辞書などによると、「中道」とは次のようになっています。
1 仏教用語でない用法としては、極端に走らない中正の立場   
2 仏教用語としては、二つの極端すなわち有・無・断・常などの対立した世界観を超越した正しい宗教的立場。また、快楽主義と苦行主義の両極端を離れること。

このことから、お釈迦様が言われた「中道」は「左右平面図」の左側の不可分一体の本来の世界のことであり、右側のバラバラ観に基づく世界の中の「右側の中間」を意味するものではないことがわかります。

もちろん、「上下立体図」では基礎の平面そのものを指しているのであり、その上方にある錯覚と妄想で作り出した平面上の右と左の中間という意味ではないということです。

要するに、本来の不可分一体の世界は、
1 左右平面図の右側の世界とはまったく次元を異にする世界であること。
2 “だから”本来、左側でも右側でもないこと。
3 また、本来の世界自体の中にも右も左もなく、どこにも偏りがないこと。
4 そういう意味で、「中道」であること、
がわかります。


この「中道の生き方」こそが人生の「大道」です。

古(いにしえ)の中国の賢者老子は「大道廃れて仁義あり」と言っています。

つまり、「(不可分一体の本来の世界において)人の道理が自然に行われていた昔は、(バラバラ観による)仁義という人為的な道徳は必要なかったのだ」と。

キリストも言っています。

安心して行きなさい。





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雲外蒼天

雲外蒼天

雲外蒼天は「うんがいそうてん」と読みます。訓読すれば、「雲外に蒼天あり」となり、「雲の上には青空がある」、あるいは、「雲の上には太陽がある」ということと同じです。

いくつかの辞書の直訳的意味は、「雲の外にはかならず青空がある。雲の中では霧がかり、前が見えない状態であっても、自分の目指した方向へ進めば、必ず青い空のもとへたどり着ける」となっています。

その真意は「どんな困難な状況の中にあっても、あきらめずに一生懸命努力すれば必ず明るい未来が開ける。絶望してはいけない」ということだそうです。

それはそれで問題はないのですが、僕はこれまでこの言葉に他の意味を重ねて理解してきました。

僕は青年時代に野口整体の創始者野口晴哉(はるちか)先生のご著書の中で、「雲の上には青空がある」という言葉に出会い、こころがはじけるような気持ちになったことを今でもはっきりと覚えています。

それ以来、この言葉を繰り返すたびに、その時と同じ感覚がこころの中から湧き上がってきます。

でも、それは辞書に説明されているような意味とはまったく異なった意味をその言葉に見出したからです。

野口先生がこの言葉を使われたのは、「人間の体には自らを整える機能がもともと備わっており、病気はその機能の一つであり、それを自然に経過することによって自ら治るようになっている」というようなことを説明される流れの中であったように思います。

僕が野口整体の根本とも言えるこの考え方に深く共鳴するのは、人間の体についてはもちろんのことですが、この考え方は先生が大悟された自己、そして、この世界の本質を端的に表現されたものである思うからです。

「雲の上にはいつも青空がある」というのは、僕なりに解釈するとつぎのようになります。

「私たちは限られた性能しかない五感と二元相対的にしか思考することのできないアタマによって、自らだけでなく、周りの人をも巻き込んで、苦しみと混乱に満ちた社会を作り、その中でもがきながら生きている。

けれども、自己と世界の本当の姿は澄み切った青空のようなものである。この混乱した自分と世の中が五感とアタマの妄想によって作り出された幻想であることに気がつけば、その瞬間に明るい青空のような世界に生きている“自分”を見出すことができるのである」。

つまり、一面の空を覆う雲を下から見上げれば、陰うつな灰色の世界しかないように思いますが、それが幻だと気付いた瞬間、雲を飛びぬけて青空の中にいる自分を発見し、この青空こそがこの世界と自己の本質だということに気付くのです。

そして、たとえ空一面を雲が覆っていても、その上にはいつも厳然として青空が存在している、一面の雲はみんな自分の妄想が作り出していたのだ、ということにはっきりと気がつけば、実際には、青空にいくつかの小さな白い雲が美しくのどかに浮かんでいるだけだということが分かるでしょう。

「雲の上にはいつも青空がある」。いい言葉だなあ~!






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思い込みについて

思い込みについて

私たち人間はいろいろな間違った思い込みを持って生きています。

でも、ほとんどの場合、それを間違いだと気付くこともありません。

そのために、もしかしたら自分が間違った思い込みを持っているかもしれないなどとも思っていません。

実際には、苦しい状況のなかで生きている場合にでさえも、「どうしてこんなことになったのだろう?」などと思うことはあっても、かなり多くの場合に、その原因が自分の間違った思い込みにあるなどということには思い至ることもないようです。

そのために、問題の解決がつかないまま、それを引き摺りながら生きているという状況が多いように思います。

これまでも、このブログでは私たちの間違った思い込みの正体について度々書いてきましたが、今回は「断食」を例に説明してみましょう。

断食をやったことがない人は、一般的に、断食は生存にもっとも必要な食物を断つのだから、大変な忍耐と頑張りが必要なのだろうと思っている人が多いようです。

実際に、断食すればお腹が空いて大変苦しいにちがいない、それを成し遂げるには強い精神力で食べたい気持ちをガマンして押さえつけなければならないのだろうなどと思って断食をすると、これは大変です。

断食中お腹が空いてどうしようもなかったり、「食べたいけれど食べては断食にならない」などという精神的葛藤がいろいろな心身の苦しい症状、いわゆる、禁断症状を作り出し、それに苦しみ耐えなければならなくなってしまいます。

そのようにして、精神力で何とか断食期間を乗り切ったとしても、復食期間になり、最初はほんのごくわずかのお粥みたいのものから、徐々に食べ物の量と種類を増やしていく過程で、それまで押さえに押さえてきた食欲が心の表面に出てきて、ついには、爆発的に湧き上がってきます。

そして、「危険だ」とさんざん注意されてきたにもかかわらず、その勢いに負けて、「ほんの少しだけ」のつもりが、気がついてみたら大量爆食をしてしまって、その後危険な状態に陥って大変苦しい思いをする人がいます。

けれども、断食の原理をよく理解して、「断食をしても空腹やいろいろな症状に苦しむことはない」と充分納得してから断食に臨めば、まったく苦しさを感じることはないのです。

普通の食事に戻るまでの復食期間も空腹感を抑えきれずについ食べ過ぎて危険に陥るということもありません。また、禁断症状などまったく現れないのです。

つまり、きちんと本質を理解したうえで断食をすれば、それこそ「嘘のように」まったく禁断症状は出ません。「禁断症状が出る」ということこそ、まさに「嘘でしょう!」ということなのです。

このように、正しい理解と方法で断食した多くの断食体験者の体験記を読めば誰でも断食に対する認識を改めざるをえなくなるでしょう。

禁煙でも禁酒でもまったく同じです。

これらはほんの一例ですが、この社会においては、個人的、社会的問題のほとんどは、物事の本質を勝手に誤解して思い込むことから生じているのです。





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