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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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ナムアミダブツ

ナムアミダブツ

今回は前回のブログで紹介した和田重正先生の『川底の小虫』という文章の最後に書かれていた「南無十方不可思議無礙光如来」という文句について書いてみたいと思います。

僕は仏教の専門家ではありませんが、大まかな意味を説明してみましょう。

「南無」は梵語「ナム」の当て字で「帰依する・服従する・従う・ゆだねる」という意味です。

「十方」は「あらゆる場所」、「不可思議」は「思いはかることができない」、「無礙光」は「遮るもののない光」、「如来」は「仏の尊称」を意味します。

つまり、「十方不可思議無礙光如来」は「阿弥陀仏」のことです。「阿弥陀仏」は梵語の「アミタアーバブッダ」の略である「アミダブツ」の当て字です。(ア=否定語、ミタ=量る、アーバ=光、ブッダ=覚者・如来・ハタラキ)

このように、梵語の「アミタアーバブッダ」の発音を漢語で表したたものが「阿弥陀仏」であり、そのハタラキの面から漢語で名付けたものが「十方不可思議無礙光如来」というわけです。

要するに、「南無十方不可思議無礙光如来」は「南無阿弥陀仏」、つまり、「阿弥陀仏に帰依します」という意味なのです。

もしかしたら、このようなことは浄土真宗などの信者の方であれば常識なのでしょうが、そうでない方にとってはあらためて「そういう意味なのか」と思われた方も多いのではないかと思います。

ただ、多くの方は「ナムアミダブツ」というのは「亡くなった方の成仏をお祈りするために唱える呪文」とだけ理解されているのではないでしょうか?

でも、その別称である「十方不可思議無礙光如来」から見えてくるのは、阿弥陀仏というのは「はるかな無限の昔から今日に至るまで、そして、これからも未来永劫、この世界のあらゆる場所を明るく照らし続け、何ものにも妨げられることなく、生きとし生けるものを生かしハタラキ続けている絶対的な実体である」ことがはっきりと見て取られます。

信者の方から見れば失礼になるのかもしれませんが、僕はこの「実体」というのは少なくとも、私たち人間には見えない、あるいは、五感では捉えることのできない「無限の愛と力とエネルギーを備えた大いなる存在」と表現してもよいのではないかと思っています。

そういうことから、僕は「阿弥陀仏」というのは、まさに、重正先生、そして、僕が呼んでいる“いのち”のことなのだと思います。

すなわち、阿弥陀仏はこの世界のすべてのもの創造し、すべてのものに働きかけ、活かし続けている“いのち”であり、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるのは、そして、瞑想の自然法(只管打坐)も「すべてを“いのち”にゆだねます」ということなのです。

私たちは阿弥陀仏の実体そのものを眼で見ることはできません。また、しょっちゅうアタマによって存在の真実を見失っています。そのような私たちに、あらためて、私たちすべてを創造し生かし続けている「お力」の存在を実感的に感じるように、という願いから作られたのが阿弥陀仏の仏像なのでしょう。

でも、本当は、阿弥陀仏は眼に見えるのです。この世界のすべての存在、生きとし生けるものが阿弥陀様なのですから。

ナムアミダブツ





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川底の小虫

川底の小虫

「 川底の小虫

塾の生徒達が来る時刻になると何かをじっと見つめたくなるような不安を感じ、みんなが帰った後では救われ難い空虚を覚える。
これが30年毎日繰り返している内心のすがたです。

一生をかけたこの仕事の、どこにそんな不安がひそみ何にうつろを覚えるのだろう。
要するに、力がないのだ。イザリがオリンピックに出ようとするのと同じだ。白痴が総理大臣になろうと思うのと同じことなのだ。きっと、そうなのだ。それはわかっている。わかっているけどやめられない。
オリンピックなら誰かが出てくれる。総理大臣は誰かがやってくれるだろう。ところがこれは誰もやってくれる人がいない。こんな仕事には、利口な人は決して手を出してくれはしない。自分がやめたら、ゼロになってしまう。
無力の不安と空虚にさいなまれながら、そして、年と共に深刻さを加えながら、それでもしがみついている。濁流の底の小石にかじりついている小虫のように、流されまい、そしていつかは流れを変えてやるんだ、と目をむいている。

生徒が来る時刻には助けを求めるような、帰った後では赦(ゆる)しを乞うような、孤独な気持ちで祈らないではいられない。ただ心の底からそんな気持ちがするだけである。
こんな毎日を送る、こんな奇妙な小虫を、よくも見のがしてくれるものだ。30年もの間ヒネりつぶしもせず生かしてくれるこの世界の寛容さは不思議というほかない。
南無十方不可思議無礙光如来     (40・6・10)」

以上は僕の恩師である和田重正先生(はじめ塾創始者)のご著書『山あり花咲きて父母いませり』(柏樹社刊)の中の一文章です。

僕はこの文章をこれまで何回繰り返し読んだことでしょう。そして、読むたびに、「セミナーをやったり、ブログを書くときの僕の心境とまったく同じだなあ」と思うのです。

僕のセミナーやブログは参加される方や読まれる方の一生と、同時に、全人類の運命を左右する重要なテーマを直接扱っているので、セミナーで話すときやブログを書くときは、1回1回がそれこそ文字通り真剣勝負です。ですから、毎回「今度こそは必ず!」と祈るような気持ちで取り組んでいます。

ただ、僕自身はこの文章を書かれた時の重正先生ほどはセンチメンタルな気持ちになっているわけではありません。(もちろん、この文章は先生の内心の一面の吐露にすぎないのであって、少なくとも僕らの前では、先生はいつもニコニコされており。「こんな笑顔の素敵な方はいない!」というお方でした。)

僕自身、誰かが代わりにやってくれるのなら、どんなに楽だろうかと思っているのは事実です。

残念ながら、僕の力不足で、今までのところそんな方は出てきていませんが、僕は「理想は、“必ずできる”という信念と的確な方法の工夫によって、必ず実現できる]と確信しています。

また、どんなに思うようにいかなくても、こころまで悩ます必要はないと思っていますので、代わりにやってくれる人がどんどん出て来るにはどうしたらよいかと、日々工夫しながら明るく生きています。





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進化と自覚  その2

進化と自覚  その2
(その1からのつづき)

例えば、疲れやすいので自分の食生活を振り返ってみたら、肉食に偏っており食べすぎのようだということに思い至った。そこで菜食中心の小食に切り替えたら、体の調子が非常に良くなったというような体験を通じて、少なくとも自分の体にとっては、正しい食生活とはどういうことかが分かります。

このように、「何が本当か?」ということをはっきりと深く自覚するためには、事実としては、その過程で間違いを犯すということも必要だと思うのです。最初から玄米菜食などを中心に正しい食生活を心がけている家庭に育てられた健康な子供は、逆にそのありがたみが分からないという場合もあるのではないかと思います。

大自然の生命の要請は、遠回りのように見えても、人間に大脳を持たせて、その中で人間を悩んだり苦しんだりさせ、それを通してはっきり深く「自分とは何か?」「自分はどう生きたらいいのか?」ということを自覚させるようになっているのではないでしょうか。

しかしながら、例えば100万人の人達が苦しみの経験を通して、「自分とは何なのか?」を自覚したいと思ったとして、果たしてそのうち何人が本当の自覚を得ることが出来たのでしょうか? 

歴史的に見ると、深い自覚に到達した人はごく少数であると言わなければならないでしょう。残りの大多数の人たちは、自覚を求めても、ついにはそれを得ないで死んでいったのです。ということは、これらの人たちの苦しみや自覚を求める願望や努力は無駄だったということでしょうか? 

この問題は、地球上の進化の流れの中で、水の中だけで暮らしていた生物が陸上に上がって生きていけるようになるまでの進化の様子を考えると分かりやすいと思います。

水の中の生物はいきなり陸で生きていける生物に進化したのではなく、少しずつ陸上で生活できるように進化していったと考えられています。つまり、ある生物が最初は水辺に打ち上げられても、全部すぐ干からびて死に絶えてしまいます。それを繰り返しているうちに、進化を通じて、少しずつ適応力が育っていって、その中の数匹だけが生き延びることが出来るようになっていきました。そういうことを無限に繰り返すうちに、本当に陸上に適応していける生物が出てきたのです。

ですから、進化という観点から言って、全体としてみれば、個々の死は決して失敗でも無駄でもなく、それがあったからこそ、進化の目的は達せられたのだということになります。それと同様に個人として自覚を求めて生きることは、たとえそれを達成することができなかったとしても、それは人類全体の進化という観点から見ると、人類全体が進化したという大きな価値があるのです。

ところで、進化と言うけれども、人間は種として、一体どの方向に進歩、発達していくのでしょうか? いや、そもそも、いったい人間の次の進化の段階がありうるのでしょうか?

いずれにしても、自分自身、周りの人々、そして世の中の動きを人間が進化の過程にあるという観点から見ると、それまで見えなかったものがはっきりと見えてくると思います。それは、私たちはこれで終点ではなくて、次の段階へいく一歩手前にいるのだということです。そして、次の段階に進む一歩手前の状態として、私たちはこのように行き詰っているのです。

実際、人間は、個人的にでも社会的にでも、本当に行き詰らなければ、次の段階に進めないような仕組みにできています。

以上のように、人類の進化という観点から見ると、この数十年間(正確には広島、長崎に原爆が落とされてから今日に至るまで)、人類の歴史は従来とは質をことにする新たな段階に入ってきているのだと思います。

つまり、それまでは、個々の人間がそれぞれに、「個人個人のテーマとして」自覚を求めるということであったと思います。ところが、ここ数十年ごく普通の人々の中から、「従来とはまったく異なる新たな価値観に目覚め、新たな生き方を目指し、新たな社会を築こう」という人たちや運動が世界のあちこちに生まれてきています。この新しい動きは、おそらく、核問題や環境問題など人類がかつて経験したことのない行き詰まりに直面した人々の危機感が根底にあり、その新たな意識と動きの原動力となっているのだと思われます。

このように、人類の進化という観点から見ると、人類が今絶体絶命の危機に直面しているのは、まさに必然であると言えるのです。つまり、いよいよ個人個人のレベルを超えて人類全体が「自覚を持った存在」に進化するために、大自然の生命の意図によって、このような絶対絶命の危機がもたらされたということだと思います。

そして、この危機に直面した人類が個々のレベルを超えて、全体として「存在の真実」に目覚めること、そしてこの危機を乗り越え新たな人類の文明を切り開くことこそ、新たな人類の進化の段階であり、それこそ大自然の生命の要請であるのだと思います。

結局、人間というのは苦しみを越えて初めて深い真実に到達することが出来るのだと言えるでしょう。




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進化と自覚  その1

進化と自覚  その1

この宇宙や大自然は一つの法則が働いており、すべてその法則に従って動き、整然として調和した世界が展開されています。

(この法則は自然の法則、あるいは、宇宙の法則、あるいは、真理とも呼ぶことができるでしょう。)

たとえば、宇宙を見ると、太陽、月、星々などすべてが調和しています。

また、自然界はライオンがシカを襲ったりする場面だけ見ていると、弱肉強食の世界であるように見えますが、それは表面的な見方であり、事実はこの一つの法則に従って、全体が調和しています。

その中で、人間以外の動物は本能に従って自然の法則に沿って生きているので全体と調和して生きています。

ところが人間はしばしば本能でなく大脳(アタマ)に頼って、この法則から逸れ、この世界の調和を乱してしまいます。

本能というのは、何十億年もの生命の歴史の中での無限回に近い成功体験を重ねてくる中で磨き抜かれたものですから、非常に精巧に出来ており、それに沿って生きればすべてと調和して生きていくことができるのです。そう言う意味で、人間も、本来、素晴らしい智慧を備えているのです。

それに比べて、人間の大脳はたかだか15万年(あるいは、せいぜい200万年ぐらい)の体験しか持っていません。本能に比べると大脳ははるかに体験が少ないのです。また、人間の大脳の働きは非常に限られており、二元相対的にしか認識、判断、思考することができません。

そのために、この世の中で大脳の働きに頼って生きていこうとすると、どうしても自分中心に判断してしまいがちになり、その結果、他の人と対立し争ったり、自然を破壊したり、戦争で殺し合いなどさまざまな間違いを犯してしまいます。

そうすると、この大脳は無い方がいいのではないのか?大脳がなければ、本能によって自然の中で調和して生きていけるのに、どうしてこんなに間違いを犯してしまうような不完全な大脳を人類は発達させてきたのだろうか?という疑問が湧いてきます。

人間は本当に賢い存在なのでしょうか?例えば、ライオンが鹿を食べるといっても、鹿を食べ尽くすこともしません。お腹がいっぱいの時は鹿を食べません。また、ライオン同士で殺し合いをしたりはしません。ライオンは本能に従って調和して生きていますが、人間だけが調和を乱しています。

例えば、核兵器を使えば、相手だけでなく自分も滅びてしまうかもしれません。そんな兵器を造る人間は賢いといえるのでしょうか?

70億の世界人口のうち、30億がどこかでひもじい思いをしていて、10億人が絶えず飢餓の危機を感じながら生きています。残りの人達(特に、その中でも10億にぐらいの人たち)は逆に食べ過ぎて病気を抱えて苦しんでいます。

人間は、絶え間なく便利快適を求め、出来るだけ労力を使わないようにいろいろな乗り物や機械を作ります。その結果、人間の体はどんどん弱ってきています。体だけでなく心も弱ってきています。

人間は自分自身を維持してくれている大自然を自らどんどん破壊して、自分たちの食べるものにまで毒をかけています。そして、自分の吸い込む空気や自分の飲む水をどんどん汚しています。自分にとって一番大切な、空気と水と食べ物を自ら汚染しているのです。

なぜか医学が発達すればするほど難しい病気が出てきて、薬に頼れば頼るほど、人間の体が弱ってきています。勝手な人間のお陰で、毎日何十種類もの動物が絶滅しています。

こういうことがいずれは自分の首を絞めることになるのは何となくは分かっていても、止められないのです。軍備拡張競争だって、適当なところで止めればいいのに止められないで、大量の核兵器を持つようになりました。これが進化の頂点に立つ人間のやることでしょうか。どうしてこんなにも間違いを犯すのでしょうか。

これから述べることは、仮説にしかすぎないと言われるかもしれませんが、自分を含めて、人間を深く観察して出てきた確信でもあります。

それは、最初から本能で何でも間違えることもなく出来てしまうと、自分のやっていることの意味が分からないからだ、と思うのです。

猫や犬の振る舞いを見ていても、彼らは過ちも犯しませんが、自分のやっていることの意味が分かっていません。また、その必要もないというのも事実ですが・・・。

人間が過ちを犯すのは、過ちを犯して見てはじめて、「自分はなにか?自分の生きている世界はどうなっているのか?」ということを知ることができるからだと思います。

つまり、人間は他の動物と異なり、大宇宙の進化の結果、「自分とは何か?」「この世界とは何か?」、つまり、存在の真実を自覚するべき存在としてこの世界に生み出されたのだと言えるでしょう。

(つづく)




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わざわざ自分で苦にしない

わざわざ自分で苦にしない

「苦にする」というのは、不安に思ったり、心配したり、悩んだりするということです。

その元にあるのは、何かが自分の望むよう行っていないと感じたときに、私たちにもともと備わっている本能が発する「これはまずい。何とかしなければ」という感覚的な警告システムの発動だと思われます。

もしその警報システムが壊れてしまえば、たとえば、危険な状況にあるときでも、不安も何も感じなければ、危険から身を守るために何らかの対処をすることもできません。

このように、本来、警告システムは私たちの生存を守るために働いているのですから、私たちには必要不可欠のものなのです。

ですから、その範囲であれば何も問題はなく、とても役に立つ機能だといえるでしょう。

けれども、問題は、私たちはアタマを持っているために、たとえば、何かが不具合な場合に、それを過大に想像して苦にしたり、あるいは、現在は何の問題もないのに、将来、このように不都合なことが起こったら困ると想像をたくましくして、それを苦にしたりするということです。

このような傾向が強いと、いつも何かを苦にしながら生きていくことになります。

これは、警報シグナルが、本能によって有意義に働く範囲を逸脱して、アタマの想像によって作り出された妄想に基づいて、必要もないのに何かにつけて発せられている状態ですから、私たちが生活を快適に送るうえで大きな弊害となってしまいます。

たとえば、ほとんどの人は体の調子が良くないとそれを苦にするようです。この場合、体の調子が悪いなと気がついて不安になるのは本能による警報シグナルですから問題はありません。

ですから、まずは「あっそうか」と冷静に警報シグナルを受け取れば、それで警報システムの役目は終わりです。ですから、その後は不安な気持ちを持ち続ける必要はないわけで、ただ冷静に、より適切だと思う方策を考え、実行するだけです。

それでも、警報シグナルを受け取った後、それを苦にする必要はありますか?

何もありませんね。

苦にすれば、冷静に考えることも、冷静に対処することもできません。かえって事態は悪化するだけです。

これは簡単な道理です。でも、それがわからない人が非常に多いようです。

そこで、「どうして苦にするのですか?」と尋ねると、多くの場合、「人間は感情の動物で、コントロールできないのですから、仕方がないでしょう。」という答えが返ってきます。

一見、もっともな考えのように聞こえますが、でも、それは物事をはっきり見極めていないところから出てくる思い込み、あるいは、言い訳にすぎません。

たとえば、体が病気になっても、こころまで悩ます必要はありません。

病気になったら、それを苦にするのでなく、明るく病気を治す実験を楽しめばよいのです。

病気だけでなく、生きているうちにはいろいろな望ましくないと思うことが起きます。でも、それらを苦にするのは当然だと言いながら、生きていっても何の得にもなりません。

二度とないかけがいのない人生です。“言い訳”はもうやめて、どんなことがあっても、腹を決めて、いつも前向きに対処して生きていきたいものです。





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裸の王様

裸の王様

アンデルセンの『裸の王様』は有名な童話ですから、きっとあなたも読んだことがあるでしょう。

仕立て屋という触れ込みの詐欺師が作った、バカには見えないという触れ込みの素晴らしい衣装をまとって、本当は、何も着ていない裸なのですが、王様が群衆に囲まれながら大通りを堂々と行進します。

実は、王様自身を含めて、家来たちにも群衆にももちろん見えるはずがないのですが、他の人に自分がバカだと思われたくないので、みんな口を揃えて「なんて素晴らしい衣装なんだろう!」と褒めたたえます。

こうして、華やかな行進が絶頂に達したとき、沿道にいた小さな子供が(王様は裸だ! 裸だよ! 変なの!)と叫びます。その声をきっかけに群衆の中に「王様は裸だ! 裸だ!」という声がとんどん広がって行きます。

その中をニコニコと笑顔の(作り笑いなのですが)王様の行進は続いていくのでした。

あらすじは大体以上ですが、この童話には大人の欺瞞と虚栄心、さらには、こころの内にある醜さが実に巧みに表現されています。

アンデルセンは素晴らしい!

人間は誰でもただ裸で生まれ、ただ裸で死んでいきます。

実は、誕生と死の間も、本当は裸で生きているのです。

それが人間です。それ以下でも、それ以上でもありません。というか、本当は、以下も以上もありません。ただそれが真実なのです。

それは、人間はもともと如何なる外的規定をも超えた絶対的価値を備えた存在であるということです。

ところが、人間は成長するにしたがって、他との兼ね合いでアタマのなかに作りあげたいろいろなモノサシによって規定したものを自分だと思い込むようになります。

つまり、いろいろな外的規定を着物のように身にまとい、その着物を自分だと思い込んでしまうのです。

でも、着物は自分ではありません!

どんなにきらびやかな(と自分も周りの人も思う)着物を身にまとっても、自分はどこまでも裸なのです。

その裸の自分はあるがままの裸で、いかなる規定以前に、つまり、無条件で、欠けるところが一つもなく完結しています。それは自分を含めたすべての人間のアタマで作ったあらゆる評価を超えたものです。だからこそ、裸の自分には無上の価値があるのです。

それはそうなのですが、もちろん、現実の生活においては、事実に沿った正しい規定も沿わない間違った規定もあるでしょうが、いろいろと外的に規定されることは当然です。でもそれは、自分の本来の存在価値とは無関係なものです。

それはそうなのですが、自分には、本来、無条件の絶対的存在価値があるのだから、どんなに間違ったことをしてもよいということではありません。

私たちのこの社会における現実の考え方や行為は、真理に照らしてそれが正しいか、間違っているかが判定され、適切に対処されなければならないことは当然のことです。

それはともかく、もしかしたら、この王様は本当はすべてを見通したうえで、裸で行進しながら、「裸の自分こそ本当の自分なのだよ」と家来や群衆に伝えようとしていたのかもしれませんね。

もしそうだとすれば、アンデルセンって本当に素晴らしい!!!





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