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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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ボサツの生き方

ボサツの生き方

この世界に生きる多くの人はバラバラ観を存在の真実と思い、そのため、「自分こそ、自分の家族こそもっとも大事なのだ」と思って生きています。そして、結果的には、自らを苦しめ、他を苦しめながら生きています。

ところが、その愚かしさに気付いた少数の人々は、「自分とは何か?この世界とは何か?どう生きるのが本当なのか?」と、存在の真実、そして、真実の生き方を求めはじめます。

そして、いろんな本を読んでみたり、講演会やセミナーや瞑想の会などに参加したり、あるいは、宗教にその答えを求める人もいます。中には、出家する人も少数ですがいます。

そこで、はっきりした真実を発見できた人は本当に幸いです。

でも、それでも、通常は、なかなかその答えがはっきりしてこないのです。そうこうしながら、月日がどんどん過ぎて、まあ大した答えにたどり着くこともなく一生が尽きてしまいます。

でも、「すべては不可分一体である」という存在の真実を分かることは、深い浅いはありますが、決して難しいことではありません。

ポイントはバラバラ観をちょっと横に置いて、この自分と世界をじっと見てみることです。そうすれば、この世界のすべてが不可分一体であることはすぐにわかります。

問題は存在の真実に気付いた後、その分かり方をどのように深めていくか?ということと、その真実を実際にどう生きるかということです。

せっかく存在の真実や真実の生き方を求めようと決意した人でも、まず、存在の真実を徹底的に極めてから、はじめて、どう生きたらよいのかを考えようという人が意外に多いようです。

それではだめなのです。

大切なことは、深くても浅くても、不可分一体こそ存在の真実であると気がついたら、「みんなの幸せのために生きるのだ」と、その目標をピタッと定めて全力で生きていくことです。

この目標を狙いながら正しい方向性をもって生きることこそもっとも大切な生きる姿勢なのです。そうすれば、存在の真実に対する理解・体得も深まっていきます。

そのような人が増えれば、みんなが幸福で平和な世界は急速に実現に向かうでしょう。


「わたしは自ら次のように念じる。
わたしは世の中の他の人と同じように、いつも生から死への浮世の流れに流されて生きていてはいけない。
わたしはそのような浮世の生死の流れに逆らって、生死の源である存在の真実を極め尽くさなければならない。
普通の人はみんな他の人から害を受ければ憤り、利益を受ければ喜び、怖ろしいところを畏れるけれども、ボサツとなった私は彼れらと同じであってはならない。
わたしは未だ煩悩を完全に断じていないけれども、自ら煩悩を抑制して耐え忍べるように努め、誰かに悩まされても害されても瞋らず、尊敬されたり頂き物をしてもいい気にならないようにしなければならない。
そして、多くの苦痛や心配や困難を恐れずに、人々のために大悲心を興さなくてはならない。
わたしはボサツとなった。私は衆生の為に生きるのだ。」(大智度論巻14:昇平訳)


あなたもボサツになりませんか?

そして、日本を国家エゴイズムを超えた大乗ボサツ国家にしていきませんか?





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自分はすでに完結している

自分はすでに完結している

ずっと前に『死は怖いものではない』というタイトルでブログに書いたことを覚えている方も多いと思いますが、まず、あらためてあなたに問います。

次の2つの質問に少し時間を取って、アタマでなく実感に沿って誠実に答えてください。

A: 自分が死ぬのは怖いですか?

B: 自分の死は怖いものですか?

Bの質問をAとどう違うのだろう、Aと同じではないのかと思った方も多いと思います。

そこでBの質問を次のCのように変更したら、あなたの答えはどうでしょうか?

C: 自分の死そのものは怖いものですか?

あなたの答えはどうなりましたか?

Aに対して「怖い」と答えた方は、生きている今、将来の自分の死を想像して「怖い」と答えています。つまり、生きている今の気持ちとして「怖い」と言っているのであって、死を体験したうえで「怖い」と言っているのではありません。

それに対して、Cに対しては、自分が実際に死んだ体験をしなければ答えることはできないのです。

このように、私たちはアタマで想像したものと実際に体験しなければ分からないこと、あるいは、体験そのものをごっちゃにしていることが多いのです。

それで、まだ死んでもいないのに「死は怖い」などと思いながら生きています。

では、実際の死はどういうものなのでしょうか。僕はまだ死んだことがないので分かりません。

「肉体は死んでも魂は生きている」と信じている人もいますが、もちろん、本当はどうかということは分からないのです。

臨死体験をして次の世の入り口まで行って中を少し覗(のぞ)いて、また、この世に戻ってきたという人もいるようですが、それも事実かどうかは分かりません。脳科学ではそれは脳内現象、つまり、夢のようなものにすぎないという意見が主流です。

それで、ここでは、とりあえず、常識的に(科学的に?)、肉体が脳を含めてすべての機能を停止したことを死であるとして考えてみましょう。

もし、死がそのようなものであれば、死ぬ前に死についていくら「死ぬのは怖い」とか「死ぬのはイヤだ」などと思っていても、死ぬときはその思いごと死んでいくのですから、実際は死は怖いものでも、イヤなものでもありません。

つまり、死は私たちの勝手な思いを超えて、それ自身で完結しているということです。

「完結」とは、広辞苑によれば、次のようになっています。
1 完全に終わること。
2 それ自体でまとまった形にととのっていること。

この場合の「完結」という言葉の意味を定義すると次のようになります。

「完結とはすべての評価や比較などの規定や思いを超越して、あるいは、それらとは無関係に、それ自身で厳然としてまとまって整っていること」。

ある方は「完結とは外から一切あれこれ言われる筋合いのないこと」と言われましたが、まさにその通りです。

完結しているのは死だけではありません。

あなた自身が、すでに、そのままで、どこまでも、完結しているのです。

この世界の生きとし生けるものがそのままで完結した存在であり、掛け替えのない存在なのです。

ですから、一切優劣はありません。

優劣観念の亡霊に怯えながら生きるのは、喫煙と同じで、自分で自分をいじめているのです。





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自己の世界  その10

自己の世界  その10
(その9からのつづき)

「みんな間違いだ。今まで見たり考えたりしたことは悉く夢だったのだ。コレが本当なのだ。真実なのはコレなのだ」この驚きや叫びと同時に明るい世界に生まれ出たような気がしました。

これは恩師和田重正先生が開悟された瞬間思わずほとばしった心の叫びです。「存在の真実が本当にわかった」ということはこういうことなのです。

ですから、その瞬間にものの見方はもちろん、生き方がそれまでとは、文字どおり、180度、そして、部分的にではなく、全面的に転換してしまいます。

もしそうでなければ、それは例の“タバコ図“の中の”節煙”と同じように、中途半端な生き方になってしまいます。

タバコ図の左側は、「タバコにはプラスの価値は一つもなく、マイナスの価値しかない、という真実に立脚して、タバコは吸う必要もなく吸いたいとも思わない、だから、タバコは吸わない」という世界です。

それに対して、右側は、「タバコには健康やその他の面でデメリットはあるが、タバコにはタバコでなければ得られないプラスの価値がある。だから、タバコを吸う必要があり、タバコを吸いたいと思う」というアタマの妄想が展開した世界です。

そして、この右側の世界には3つの道があります。

一つ目の道は、タバコには健康その他不都合な面もあるので、本当はやめた方がよいのだけれども、と思いながらも、吸いたいときにはタバコを吸うという”喫煙“の道です。

二つ目の道は、本音は吸いたくてしかたがないのだけれども、健康その他不都合なことがあるので、タバコを吸うのをガマンするという“禁煙”の道です。

三つ目の道はその二つの中間にあります。それは、本音は、吸いたいときに思い切り吸いたいのだけれども、健康その他不都合なことがあるので、吸いたい気持ちをガマンして、吸う本数を減らすという“節煙”の道です。

この節煙は喫煙と禁煙の“よいとこ取り”で、うまいやり方だと思ってやっている人が多いのですが、実際には、本数を減らせば減らすほど1本1本が貴重に思え、また、ガマンの末やっとありついた一本一本が「実にうまい」と感じられ、タバコへの依存度はますます増え、タバコへの依存がますます深まります。

さらに、節煙は吸いたいという気持ちを長時間押さえつけていなければならないので、苦しくて仕方がありません。それでほとんどの人がまた喫煙の道にもどり、その後、禁煙したり節煙したりと妄想で作った右側の世界をよろめきながらフラフラと徘徊するのです。

このように、左側の存在の真実がわかっていないと、いつまでも、右側の妄想の世界でウロウロしながら、中途半端な一生を終えることになってしまいます。

また、せっかく一度は存在の真実を分かったにもかかわらず、いつの間にか、右側の妄想の世界に戻っているのにも気がつかず、“節煙的生き方“をしながら、かけがえのない人生を粗末にしている人が多いように思います。

しかも、自分では存在の真実に沿って“うまく”生きているつもりなのですから、実に気の毒で、残念です。

一刻も早くその愚かしさから脱出してほしいと願わずにはいられません!

(おわり)





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自己の世界  その9

自己の世界  その9
(その8からのつづき)

自己の世界については、以上説明してきたことで大意はおおむね尽きていると思いますが、いくつか関連することを思いつくままに順不同で若干補足したいと思います。

まず、優劣観念や差別観念、所有観念などは、結局、自他の観念を根底とするバラバラ観から生じたものであり、根本的に間違っています。みんな同じ“いのち”なのですから、優劣や差別や所有があるはずがないのです。

また、すべての存在は同じ“いのち”がいろいろな姿かたちや性状や機能を持って現れたものであり、もともと人間のアタマで作りあげた勝手なモノサシを当てて測った"規定“、すなわち、ラベル以前にそのものとして何ものも欠けるところなく完結して厳然として存在しています。ですから、そこに、優劣や差別などあるはずもないのです。

存在の真実を分かるためには、特別な修行をして悟りを開かなければならないということではありません。アタマで作りあげた勝手なモノサシを当てはめて何かを規定しても、それは存在の真実そのものではないということに気がつきさえすればよいのです。

要するに、ラベルはそれを貼った実物(事実そのもの)ではないということです。存在の真実、つまり、“いのち”の実物はいつもここにそれ自身で完結して厳然として存在しています。まさに、眼横鼻直(眼は横、鼻は縦に真っ直ぐ)であり、もともとのあるがまま、それが“いのち”の実物です。

人についても同じです。あなたが修行をして別の自分に変身することでも、本当の自分がどこか別のところに存在するのを見つけるわけでもありません。

“いのち”の実物は一切のラベル以前のあるがまま、そのままのあなた自身です。それ以上でもそれ以下でもありません。

あるがままのあなた自身はそのままですでに、あらゆる規定を超えて存在しているので、あらゆる評価を超えて無上の絶対価値を備えているのです。

白隠禅師は「衆生は本来すでに仏なのです。にもかかわらず、悟りを求めようとするのは、水の中にいる魚が喉が渇いたので、水が欲しいと叫んでいるのと同じです」と言っているのはまさに至言です。

この世界の本質は「すべてを生かさずにはいられない」という”無限の愛“です。無限の愛こそ“いのち”の別称です。

瞑想の自然法、あるいは、只管打坐は何か特別の心境になるためでも、悟りを開くためでも、心を落ち着かせるためでも、心を静めて無心になるためにするのではありません。

何かを求めてするのではなく、ただ、アタマの思いを手放しにして坐相(坐った姿勢)を守りながらただ座っているだけです。人間は石や岩ではなく、アタマがあるので、思いが出てくることこそ自然なのです。

問題は、その思いの内容を事実そのものと勘違いする傾向があることで、事実や存在の真実を見失いがちだということです。

ですから、アタマの思いを押さえつけたり、追いかけたりしないで、ほったらかしにしておくと、思いの力がなくなり、もともとそこにあるのですが、思いのせいで感じられにくくなっていた不可分一体の自己の“いのち”の実物をはっきりと体感できるのです。

(つづく)




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自己の世界  その8

自己の世界  その8
(その7からのつづき)

さて、今あらためて「自分とは何か?」と問われたら、あなたはどう答えますか?

名前や性別や年齢を言ってみても、それが“自分”という実物の上に貼ったラベルにすぎず、自分という実物そのものではない、ということはもうお分かりですね。

では、「〇△国人」、あるいは、「人間」という答えはどうでしょうか?

それもラベルにすぎません。

このラベルという外的規定はアタマを通して抽象化した概念を言葉で表したものであって、どこまでいっても、実物そのものをそっくり捉えて「こうだ」と言うことはできないということです。

こうなると、「自分は自分です」などと答えにならない答えしか出てきません。

そんな答えではダメだと言われると、いよいよ追い詰められて、どこかで覚えてきた「いのちです」、とか「エネルギーです」とか「大いなる存在です」などと答えて、分かったふうにしたり顔をしています。

でも、この場合は「いのち」とか「エネルギー」とか「大いなる存在」などというのもアタマで作りあげた抽象化した概念、あるいは、ラベルです。

結局は、自分という実物そのものを言葉では表現できないのであって、何か言葉で表現しようとすると、すべて外れてしまうということです。

それで仏教では「空」とか「真如」とか、いろいろ分かったようで分からない言葉で、存在の真実を表しているのだと思われます。

そういう意味では、仏教の神髄は存在の真実を、実に的確に、また、実に深く捉えていることに驚嘆します。

「では、自分とは存在しないのか?」と言えば、ここに、事実として、厳然として存在しています。

とにかく、この世界のすべての存在は人間がアタマによって作りあげたあらゆる分類や比較や評価などの規定以前に、あるがままで完結して厳然と存在しています。

問題は、多くの方々が五感とアタマによって、この世界をバラバラのものの寄せ集めで、生きていない世界、影のような世界だと思い、そして、自分はそこでつねに他を恐れ、死の影におびえながら生きるちっぽけで、はかない存在であると思っていることです。

でも、実物の世界、実物の自分、すなわち、自己はまったくその反対です。この世界は自分を含めてすべて一つの“いのち”の世界です。この世界は光と、もえる“いのち”の活々とした行き詰りのない世界です。

そして、この世界こそ自己の全身、つまり、この世界ぐるみが自己なのです。

でも、それがただの一時的な体験的感覚であったり、単なる観念的理解で終われば、それではまったく何の意味もありません。

存在の真実は存在の真実を生きる時にはじめて意味を持つのです。

すなわち、この世界にはいろいろなことが原因で不幸な人が犇めいています。それらの不幸な人は自分の分身です。事実として、我が子、我が親が苦しんでいるのと同じです。

ですから、一刻も早く全世界から不幸な人が一人もいなくなるように、全身全霊で工夫し努力することこそ、自己の真実の幸福であり、また、真の生きがいであり、喜びであることに気付くことこそ、今あなたにもっとも求められているのです。

(つづく)





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自己の世界  その7

自己の世界  その7
(その6からのつづき)

私たちは、ふつう、すでに存在しているこの世界という広大な舞台にちっぽけな自分が一人の“個”(登場人物の一人)として生まれ(登場し)、生き(演技し)、そして、一人で死んでいく(退場する)ことを「自分の誕生、生涯、死」であり、そして、それは他の人についても同じだと思っています。

自分が生きている間(演技中)は広大な舞台の上で他の出演者たちと絡んで演技をします。自分では自分が主役のつもりなのですが、ごく身近な人を除いて、周りのほとんどの人からはその他大勢の役者の一人ぐらいにしか思われていません。

演技が終われば、自分ではまだどうしても演技を続けていたいと思いながらも、わずかに身近な人たちからだけ惜しまれつつ、でも、周りのほとんどの人からは当然のこととして、あるいは、気にもされないうちに、イヤイヤながら死んでいか(退場し)なければならないのです。

このように、常識的な死生観と自分と世界の構造では、生きている人(演技をしている出演者)はすべて同じ一つの世界(舞台)で生きて(演技して)います。

けれども、存在の真実から言えば、自分は自分の生きる世界と共に生まれ、自分は自分の生きる世界と共に生き、自分は自分の生きる世界と共に死んでいくのです。

「えっ? どゆこと?」とお思いでしょうね。

順を追って説明しましょう。

まず、簡単に言えば、すべての人はみんな本質は同じ“いのち”ですが、体験的には自分は自分であり、他の人とは何一つ貸し借りできない別々の存在なのです。

あなたのお腹が空いているのに、他の人に何か食べてもらっても、あなたのお腹が膨れるわけではありません。

今テーブルの上に1個の茶碗があるとします。その事実は誰にとっても変わらないことは、それこそ、事実です。

でも、私が見る角度と他の人が見る角度は違います。また、私の視力と他の人の視力がまったく同じということはありません。また、色彩を認識する能力も人によって微妙に違います。

ですから、一つの茶碗が事実としてそこにあり、それを見ているのには違いはないのですが、私が私の見る角度、私の視力、私の色彩認識能力、心身の状況、感性、思いなど独自の特性を持って体験するものと、他の人がその人独自の特性を持って体験するものとはナマの体験的事実としてはまったく異なるのです。

このことは、この世界のすべてについて同じです。ですから、ナマの体験としては、自分が生きている世界と他の人が生きている世界はまったく別々なのです。これは主観的とか客観的という抽象的概念や科学的事実を超えた生(ナマ)の体験的事実・真実です。

このようにして、個としての自分は生きるナマの体験として、この世界のすべてと関り、それを内容としてと生きています。そういう自分を僕は”自己”と呼んでいます。

ですから、自己は自己の生きるナマの世界と共に生まれ、自己の生きるナマの世界と共に生き、自己の生きるナマの世界と共に死んでいくのです。

すなわち、自己はそのままで刻々と変化している自己の生きるナマの世界と共に、どちらに転んでも、何があっても、過不足一切なしで完結しています。

(つづく)





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自己の世界  その6

自己の世界  その6
(その5からのつづき)

ここに粘土の塊が一つあるとします。その粘土を全部使って、イヌとネコと人の像を作ったとします。

それらのイヌとネコと人の像は異なる別々のものでしょうか?それとも、同じものでしょうか?

私たちの常識的な答えは、それぞれは現在は異なる別々のものであるが、元々は同じ一つのものだった、ということになるのでしょう。

では、それらの像をもう一度潰(つぶ)して、もとのように一つの粘土の塊にしたとします。

それらのイヌとネコと人の像は異なる別々のものでしょうか?それとも、同じものでしょうか?

やはり、私たちの常識的な答えは、それぞれはもとは異なる別々のものであったが、現在は同じ一つのものであるということになるのでしょう。

以上の答え方が実にご都合主義的でいい加減な答えであることは誰にも明らかです。

それで、真実はそれらのイヌとネコと人の像は異なる別々のもの?それとも、同じもの? 一体どっちやねん? ということになります。

本質としては、つまり、この場合は粘土という素材に関しては、それがどのような形になっても、そこから、いくつもの“個”が現れたように見えても、あくまで全部同じ一つのものです。

そう言えば、神様が一つの粘土の塊からいろんな動物や人の像を作って、それを手のひらに乗せて、息をフッと吹きかけて、生命(いのち)を与えていろいろな生物や人を創造した、というような神話がありました。
(ついでに、息(いき)という日本語は本来、い=いのち、き=気、すなわち、いのちの気という意味だそうです。)

僕には神様がいらっしゃるのかどうかは分かりませんが、この世界のすべての存在はすべて目に見えない粘土(“いのち”)という素材からできています。

だから、見かけ上はいろいろ形が違うものがいくつもあるように見えますが、(そして、そう見えることにもそれなりの意味があるのですが、)本質はどこまで行っても、全部同じ一つの粘土(“いのち”)なのです。

この粘土、すなわち、“いのち”がどういうものであるか、それは私たちの五感では捉えることはできません。また、将来どんな観測機器を開発したとしても、その正体を捉えることはできないでしょう。なぜなら、“いのち”はこの世界を生み出した力ですから、それによって生み出されたものによってそれを捉えることはできません。つまり、被創造物はその創造者を認識することはできないのです。

では、“個”というものは存在しないのか?というと、もちろん、そんなことはありません。

“いのち”という素材はまったく同じで、それぞれの存在はぶっ続きなのですが、姿形や性状や働きなどの視点から言えば、当然、すべてが同じではないのは当然の事実です。

ですから、姿形や性状や働きなどを見れば、自他があり、みんな別々の存在のように“見える”のですが、それは、あくまで、それぞれの存在の根底・土台はどこまでも同じ一つのものという絶対真実の上での自他であり、別々の存在なのです。

つまり、すべての存在は表面上は別々でありながら、その本質は不可分一体なのです。

(つづく)




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自己の世界  その5

自己の世界  その5
(その4からのつづき)

ここまでのところを整理するために、もう少し個と全体ということについて検べてみましょう。

庭にタンポポとバラの2本の花が咲いているとします。この2本の花は同じものでしょうか?

これまで述べてきたように、いずれも一つの川の流れの中の渦のようなものですから、色や形や性状が異なっていても本質は共に“いのち”であり、同じ一つのものです。何しろ、この世界のすべてのものは同じ“いのち”なのですから。

ところが、私たちのアタマは、その性能として、そのタンポポとバラの表面的な姿形や性状やハタラキや存在している場所が違えば、それぞれを別々の“個”として捉えるようになっています。

そして、タンポポとバラではなく、2本のタンポポがある場合にでも、「種類は同じではあるけれど、それぞれ別々の個だ」と捉えるようになっています。

つまり、どんなものでも2つ以上のものがあれば、それらの本質が同じものであったとしても、それぞれ別々の個として捉えるようになっています。

ということは、アタマを通して見ると、この世界のそれぞれの存在は、分数で表せば、「全宇宙一切分の一」、人に限れば、「全人類70億人分の一」ということになります。

ですから、すべては分離してバラバラであり、個体としてのこの自分以外は「同じ人間ではあるけれど、すべて他人」ということになります。

たしかに、この個体としての自分のお腹が空いている時、誰かが代わって食べてくれても、自分のお腹が膨れるわけではありません。また、自分が考えているさまざまな思いの内容は隣の人の思いの内容と部分的に一致する場合もあるかもしれませんが、根本的にはまったく別のものです。一人一人考えることも違えば、行動も別々で異なります。

そういうことから言えば、それぞれ「全人類70億人分の一人」を生きるまったく別々の人間であるということも事実なのです。
ところが、以前に『1本の花』で書いたように、それぞれの人間はただ一人の人間であるのではなく、その個体的あり方を通して天地一杯ぶっ続きのいのちを生きているのです。それを分数で表すと「一切分の一切、全人類分の全人類」ということになります。

存在の真実は「それぞれの存在が天地一杯の“いのち”を生きている」ということですが、それを言い換えると、それぞれの存在がすべての存在を自己の内容として含みながら生きているということです。

つまり、存在の真実は私たちひとり一人は本質は「一切分の一切」でありながら、表面的には「一切分の一」という(アタマで考えると)二重構造的自己を生きているということです。

私たちの手のそれぞれの指は姿形、働きの違いだけを考えると別々ということになりますが、指の根元を見ると全部繋がっています。どこにも境目がありません。それぞれの指はもともと一緒に動くことによって一つの働きをするようにできています。

このように、眼には見えなくても、この世界はみんな繋がっており境目もありません。それぞれが表面的には“個”であるように見えながら、すべてはどこまでも不可分一体の世界なのです。

(つづく)





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自己の世界  その4

自己の世界  その4
(その3からのつづき)

その3で説明しましたように、自分というのは流れている川に現れた渦のようなものであり、それはこの世のすべての人やものについても同じことです。

要するに、本質としては、自分はこの世と別のものではなく、この世のすべての人やものと同じものなのです。

この真実を、少し別の角度から説明してみましょう。

私たちはふつう、自分は自分の力で生きているように思っています。でも、本当にそうでしょうか?

そもそも、自分が生まれてきたのは自分の力ではありません。そして、心臓が動き、呼吸をしているのも、食べ物を消化し、吸収し、排せつするのも、考えるのもすべて自分自身で働かせている力ではありません。もちろん、自分に働いている力ですから、自分の力ではあるのですが、自分の思い以上のところで働いている“力“です。

また、その力は自分だけに働いているはずはありません。その力は、自分以外の人はもちろん、庭の花々や草や樹木などの植物、鳴いている小鳥やストーブの周りに寝転がっているネコたちなどの動物などに働き生かしている力と同じ力であることは明白です。

でも、その力は生物だけに働き生かしているのではありません。そもそも、その力はこの大宇宙そのものを創造し、そのすべての存在をあらしめ、空や雲、雨、山、川、海、森、平野などの大自然を創造し、そこに働きかけ、生きとし生けるものすべてを生かしている力であることには誰にも異論はないはずです。

その力を”神“、あるいは、創造者と呼んでもよいのかもしれませんが、ここでは「その力」を あえて“いのち”と呼んでおきます。

この世のすべての存在は“いのち”が現象として顕れたものです。“いのち”とその現れとしての存在は一枚の紙の裏表のようなものであり、同じものです。

ですから、「すべての人は“いのち”から生まれ、“いのち”として生き、死んで“いのち”に帰っていく」と言ってもよいでしょう。

つまり、本当の自分、すなわち、”自己”は生死を超えて不生不滅の“いのち”そのものなのです。

“いのち”は、この世において、表面的には姿形や性状やハタラキが異なったものとして現われます。けれども、本質はみんな同じ“いのち”であり、自も他もありません。

また、“いのち”という本質はアタマによる全体―部分という認識や観念を超えているので、すなわち、誰にとっても出会うところすべて我が“いのち”なのであり、誰でも天地一杯の“いのち”を生きているのです。

ただ、人間の場合には、アタマで分別的に認識した内容を存在の真実そのものだと思うクセが非常に強いので、私たちは自分が“いのち”であることも、他人などいないことも、また、本質としては生死を超えた存在であることも見失いがちです。

そして、自他の観念に縛られて、自分と自分の家族を守ることこそ最も大事だと思ってケチ臭い生き方をし、しばしば”他“と対立したり争ったりし、心の底では、いつも死を恐れながら生きています。

だからこそ、こころがけてアタマを手放しにして瞑想の自然法や只管打坐をやって、本当の自分を再体認する必要があるのです。

(つづく)




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自己の世界  その3

自己の世界  その3
(その2からのつづき)

これまで書いてきた自分と世界の関わり方についての理解、バラバラ観のどこに問題があるのでしょうか?

それは「その1」の冒頭に書いた「私たちはふつう、この世という舞台に登場することを誕生だと思い」というところに決定的な間違いがあったのです。


この文句の意味を自分について言えば、「自分は自分にとっては”他“であるところのこの世”に“生まれた。だから、自分以外はすべては他、みんな他人だ」ということです。

では、真実はどうなのでしょうか?

真実は、すべてのもの、そして、人はこの世“から”生まれたのです。もちろん、自分もこの世から生まれたのです。だから、すべてのものや人はこの世そのものであり、みんなぶっ続きの一つのものなのです。

分かりやすく比喩的に説明しましょう。

この世は大きな川のようなもので、遥かなる昔から絶えることなく流れ続けています。その流れの中にいくつもの渦(うず)が現れます。その渦の一つが自分です。

その渦は絶えず姿が変わります。そして、やがて、もとの川の水に戻って消えます。

さて、その渦と川の水はもともと別々のものでしょうか? もちろん、同じものですね。

では、その渦と他の渦はもともと別々のものでしょうか? もちろん、同じものですね。

私たちのアタマはその渦とあっちの渦は別のものなどと思うのですが、それは表面的な形とか存在する場所が異なるからなどと、なんでも分別(ぶんべつ・ふんべつ)せずにはいられないアタマがつい、癖で、そのように思ってしまうだけのことです。本質的には、どの渦もみんな同じ水であることは明らかです。

では、その渦は川の一部分なのでしょうか? 

今、象というものについて何も知らない目の見えない人が1頭の象の尻尾を掴んでいます。そばにいた人が「それは象というものだが、象がどんなものだか分かるか?」と問えば、その目が見えない人は「象はヒモのようなものだ」と答えるでしょう。

象の鼻を掴んだ場合には「象はホースのようなものだ」と答え、象の足を掴んだ場合には「象は丸太のようなものだ」と答えるでしょう。

けれども、真実は、本質的には、象は1頭の象という全体でしかないのです。

この例が適切かどうかはわかりませんが、要するに、「全体があり、その部分がある」というのも私たちの分別を好むアタマのクセのようなものであり、本質には、全体も部分もないのです。

もちろん、アタマが捉えた表面的な現象に沿って、「その渦は川という全体の一部分である」と表現しても、それが間違いだと言っているのではありません。ただ、それによって本質を見失ってしまえば、「象はヒモのようなものだ」と言うのと同じようなことになりかねないということなのです。

要するに、本質としては、その渦も他の渦も川もみんな同じ水であり、互いに、交流・循環しあっているのですから、全体と部分などと拘(こだわ)る必要はないのであって、その渦を見て、「川だ」と言っても何の間違いではないのです。
(つづく)




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自己の世界  その2

自己の世界  その2
(その1からのつづき)

その1で説明しましたように、五感の情報だけに頼って二元相対的に思考するアタマは通常、結局、「この個体が自分であり、それ以外の存在は全部”他“である」と認識します。

そして、「この個体としての自分以外の人は全部他の人であり、自分は全人類70億分の一、の存在である」と認識します。

ですから、私たちはふつう、こころの奥では、「自分という存在は実にちっぽけではかない存在である」と思っています。だからこそ、少しでも頑張って、この社会でお金、社会的高地位、高学歴、よい結婚相手など、いろいろなものを手に入れて、自分を大きくしなければいけないと考えるのでしょう。

元々自分はちっぽけでツマラナイ、つまり、不足した存在であると思い込んでいるので、どこまで行っても満たされることはありません。そして、他の人と比べることにより、自分はまあまあの方だと自己満足したりするのですが、心の底では不安がなくならないのです。

また、仮に、頑張って自分を随分大きくすることができたと自分では思っても、死ぬときにはそれを全部捨てて裸でこの世から消えていかなければならないのですから、どんなに寂しく心細いことでしょう。

ただ、財産がある程度ある場合には、それを自分のいのちの延長だと思う子供や孫に残せるという思いだけが唯一のなぐさめかもしれません。

でも、ここで、あらためてあなたに問います。こんな人生楽しいですか?

一般の方々にそれとなく聞いてみると、「人生ってそんなものだと諦めている」という方が意外に多いのです。

そして、「だから、お金を貯めて、できるだけいい家に住み、きれいな服を着て、美味しいものを食べて、あちこちに旅行に行ったり、コンサートに行ったり、それでも何か満たされないので、何かの趣味に打ち込んで、・・・・」などと付け加えます。

生活のためにただただ働いている人生、気晴らし人生、マニアック人生、・・・でも、もともと欠けていると思っているのですから、そんなもので欠けた感覚が癒されるはずがありません。

個人的には、ほとんどの方はとても善良な方なのです。けれども、ほとんどの方が生きることは本当に素晴らしいと心から思えないのは、人生のもっとも大事なことを見失っているからだと思います。

それは、言い換えれば、お釈迦様がすでに2500年も前に言われた人間に共通した「生老病死」の4つの苦しみと自分中心の利己的な生き方から脱却できていないということだと言えるでしょう。

その根本の原因はバラバラ観を真実だと思い込んでいることです。つまり、自分というもの、自分が生きている世界というもの、それが本当はどうなっているのかということに関して、ほとんどの人が誤解をして生きているからなのです。

この世界のそして、個人的、社会的な苦しみや混乱の根本原因はバラバラ観を人々が信じ込んでいることにあります。

(つづく)





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自己の世界  その1

自己の世界  その1

私たちはふつう、この世という舞台に登場することを「誕生」、その舞台で動き回ることを「生」、その舞台から退場することを「死」であると思い、自分の外側に存在する人はすべて、血のつながりのあるお父さんやお母さんや兄弟も含めて、「自分ではない他の人だ」と思っています。

つまり、自分は「全体分の一」の存在にすぎず、それは他の存在についても同じことですから、この世界のすべての存在はすべてバラバラだというわけです。

ですから、自分にとってはこの世はまったく他人ばかりであり、その中でなんとか一生を生き抜いていかなければならないので、本当に大変だと思っています。

(二元相対的にだけ働く私たちのアタマが存在を五感によって捉えた情報をそのように認識するのは、ある意味では当然のことです。)

そのような思いから、多少の例外はあるとしても、以下のような一般的傾向が生じます。

世の中ではとにかく一番大切なのは自分であり、自分の家族、特に、自分のいのちの延長だと思う子供や孫たちです。

自分や自分の家族を守るために、多くの人はこの世は競争社会、あるいは、弱肉強食社会だと見極め?競争に明け暮れながら生きていきます。

ちょっとでも油断をすると落伍者になって他の人から踏みつけられ、惨めな有様で生きていかなければならないので、イヤだな!と思いながらも、小さい頃から何年も何年も親や教師などに叱咤激励されながら、少しでもこの社会で優位に立てるように努力していかなければなりません。

このようにして、やっと上級の学校に入って、ホッとしたのも束の間、やがてすぐに、いよいよ人生競争本番スタートとばかりに、就職活動に励まなければなりません。

こうして、やっと就職できた人は自分は幸せだと思うでしょう。というのは、ここまでに至るまでにすでに多くの落伍者が出ており、その人たちはもはやこの世では生存価値の低い存在であると人も思い自分も思う中で一生を生きていかなければならないのですから。

ところが、特に、男性の場合には、やっと就職できたとしても、ここからは世知辛い競争社会において親に頼らずに勝ち抜いていかなければならないのですから本当に大変です。

女性が結婚する相手を決める場合には、将来的に経済的な豊かさが期待されるかどうかが大きなポイントとなります。

そして、親の立場としては、自分の子供がこの厳しい人生競争で少しでも優位に立てるように、例えば、少しでも多くの財産を蓄えようなどと涙ぐましい努力をします。

それで、経済的にまあまあということになれば、そこで初めて少しホッとし、「これが幸福というものなのだろう」などと時々自分で思ったりもするのですが、心の奥には、自分たちの健康のことや子供や孫の将来のことなど、どこまでいっても不安を抱えながら生きていくことになります。

そうこうしているうちに、実際に、いよいよ健康状態が悪くなったり、老齢になってくると、「広い世の中に自分はただひとりで生きて、そして、死んでいくのだ。一体、自分の人生って何だったんだ?後は子供、いや、孫に期待するしかない」などとわびしくなってきます。

(つづく)




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自己の実物の絶対真実

自己の実物の絶対真実

以下は僕の自覚のセミナーの一受講者から最近いただいたコメントです。

「自覚のセミナーを受講中、私は綺麗な鳴き声の鳥にもなれる、と理屈ではなく頭を通り越した真心で感じたことを覚えています。その時、心がパーっと開かれ、まるですべてが一体となったような感覚がありました。
自覚のセミナーから生き方はごろっと変わったのたのだけど、しかし、あの感覚を日々持って生きているかというと、まだまだ断続的であって、なんだかスッキリとしない日も多々あります。」

日本でも外国でも自覚のセミナーの最中に、受講者のなかには、体験の内容、深浅の度合い、感覚の持続時間などは人によって少しずつ異なりますが、「心がパーっと開かれ、すべてが一体となったような感覚」を体験される方が少なからずいます。

この現象はかならずしも自覚のセミナーだけで起こるものではありません。歴史的にも、セミナーや座禅の接心、あるいは、個人的な悩みの極限状態などにおいて、同様の体験をした人は少なからずいるようです。

僕は「そのような感覚がどのくらい持続するのか?」ということに興味を持って調べてみましたが、「一体感がずっと消えずにいつまでも持続した」という人はほとんどいないようです。

和田先生は「その感覚は1週間くらいで元に戻った」というようなことを、ご著書のどれかに書かれていたと思います。

でも、僕自身の体験から言えば、まったく、その感覚が消えてしまったということではないのだろうと思います。というのは、その感覚が強烈であればあるほど、何かの時にはその感覚がある程度の鮮明さをもって蘇えるはずだと思うからです。

それでも、時がたつにつれて、その感覚は生の感覚から記憶に変わっていくことが一般的な傾向ではないかと思います。それでよいのです。

そのような体験を再び体験せねばならないと思うとすれば、それはかえって捉われ、執着となって、自由を失い、自ら苦しみをつくることになってしまいます。

自覚のセミナーの場合に、人によってですが、そのような現象が起きるのは、子供のころから信じ込んでいたバラバラ観の間違いに気づいた衝撃によって、アタマの思考経路に一時的に何かの変化が生じ、一体感が現れたのではないかと僕は推察しています。

一体感の体験はそれはそれとして、もっとも大切なことは、そう思っても思わなくても、そう感じても感じなくても、それ以前にある「この世界のすべては不可分一体であり、自分は天地一杯の“いのち”を生きているのだ」という自己の実物の絶対真実にはっきり気がついたら、後は、その絶対真実を生きるだけだということです。

そうして、自分を全開にしてみんなと共に生きていく中で、ある日あらためて、最初に体験したときの強烈さや衝撃はないかもしれないが、まったく自然な感覚で、「天地一杯、自分も人も小鳥もイヌもネコも空も山も川も、みんな一つの同じ“いのち”だ」ということをしみじみと感じている自分自身に気がつくでしょう。





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思いがけぬ目覚め  その3

思いがけぬ目覚め  その3
(その2からのつづき)

おとなになる

それから、今までは愛されたい、理解されたいとそれのみ求めていました。ところが物質を貪るのが間違いであるのと同じく、愛や理解を他に求めることは心を貪ることで、それも、間違いであることを知りました。物でも心でも欲張ることはどんなに愚かしいことであるかをこのときはじめて知りました。

また、それまでは淋しい淋しいと自分の淋しさばかりみつめて、他から愛されることばかり求めていましたが、眼を放ってみれば淋しいのは自分ばかりではない。すべての人は皆同じように淋しいのである。だから人間は誰も彼も自分のように愛と理解に飢えているに違いない。お互い限りなく淋しい人間同志が、もし少しでも慰め合えたならどんなに幸せだろう。飢え渇く砂漠の旅行者のために自分がもし一滴の水となり得るならば、どんなに幸せなことだろうと思いました。そう思うと、淋しさは忽ち変じて明るい希望となり喜びとなりました。淋しさの故に、人を愛することができる。なんという有難いことでしょう。

淋しいといえば父も淋しい人である。気の毒な人である。神や仏ではない、弱い欠点だらけの当り前の人にすぎない。それを、自分は神に求むる如くに父に完全を求め、これを責めてきた。

父ばかりではなく、先生やその他一般の大人に対しても同じであった。しかもその求むるところは自分の我儘な欲望の満足である。我欲に屁理屈をつけて正しいものとして強要したのである。他を責める資格が自分のどこにあるか。己れの愚痴と食欲によって自らを餓鬼畜生道に堕としていたのではないか。

父をはじめすべての人は、皆一個の人間としてそれぞれどうにもならぬ欠点を持ちながら淋しい人生を精いっぱい生きているのだ。それらの人々をどうして心から愛さずにいられようか、と強く強く胸に迫って思いました。

このとき私は、はじめて独立の一個の人間―大人―になったのだと思います。この他、無数のことをこの三日間に思ったのですが後で考えてみると、このときに私の心の向きが真反対に変ったようです。有無、確不確、損得。いろいろの感じ方や考え方が完全に反対になってしまいました。

このことがあったのは昭和9年4月2日でしたが、この日を境にして、私の日常生活もすっかり変りました。勿論変ったといっても急に神の如くに立派な生活になったというのではありません。ただ方向が逆転したというだけです。――自分のために、自分の力で、すべて自分を中心として生きてきたのが、こんどは自分の力やはからいでなく、すべてこの世界に満ち満ちている愛と知恵に生かされて生きることになってしまいました。そしてこの変化は実際生活の上では世のため、人のためという意識となって表われることになりました。丁度東行きの汽車から西行きの汽車に乗り換えたようなものです。東行きの汽車に乗っていれば、汽車の中でいくら西に向って歩いても東へ行ってしまいますが、西行きに乗り換えたらその中でどちらに向いて歩いても結局西へ行ってしまうようなものです。

ともかく、その後愚かなことや、欲張ったことを繰り返しては、つまづいてきましたが、でもつまづいても迷い込んでも気がつけば立戻れる根拠地が与えられたことは幸いでした。

×××

さて、こうして図らずも自分というものの本来のすがたを知り、生き方の基本的態度もきまってみると、いよいよ「よい学校」を作るべき使命を感じ、専らこれに心を傾けるようになりました。

しかし、私はまだほんの生まれたばかりです。教育者としての具体的なカを得るのはこれからです。今は学校を作るための力は何も持ち合わせていません。

第一世の中というものを少しも知りません。お金もなく、協力者もありません。それよりもなお決定的なことには実際教育の経験が全然ないのですから、「よい学校」といってもその具体的内容は明らかでありません。

こんなに何もないところから出発するのですから、準備だけに何年かかるか見当がつきません。しかし、もし私の願いを神さまが受け入れて下さるならば、何時かは実現するであろうし、また、生涯遂に実現し得なくても神さまや仏さまは、私の愚を憐んでくださるかもしれないが、この一途な熱願を、よもやお責めになることはなかろうと思って私は祈りながら、祈りながら一歩一歩準備をしてきました。

一番迂遠な道が一番の近道。これが私のモットーの一つです。そこでまず実際教育にたずさわることにしました。そのためには差当り学校の教師になるより他ありません。

最初の学校は東京の郊外に、丁度その当時新設されたばかりの私立中学でした。

一方、私の教育上の考えと熱意に強い関心を寄せてくれた入たちが私の家の屋敷の中に小さい学生寮を建ててくれましたので、「一誠寮」と名付けて中学下級生を七、八人ずつ預かり起居を共にしはじめました。

(おわり)





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思いがけぬ目覚め  その2

思いがけぬ目覚め  その2
(その1からのつづき)

私はその晩父に向って、今まで自分のやってきた嘘偽りの生活を心から詫び、また孝行をしたいと思いながら不孝ばかりをつづけ、父を悲しませてきたことなど細々と語り赦しを乞いました。父は私が語っている数時間黙って聞いていましたが、語り終ったとき唯一言、「それでよろしい」と低い力の籠った声で言ってくれました。

それから三日三晩泣けて泣けて仕様がありませんでした。何の涙か自分にも分りません。ありがた涙のようでもあり、悔恨の涙のようでもあります。嬉しいのか悲しいのか分りません。迷子の子が親の家につれて帰られたような気持とでも言うのでしょうか。或いは長い悪夢から醒めたようにも思いました。そんな気持で涙を流している三日三晩の間不思議なことに、痛みのない激しい下痢をつづけました。精神的激動が肉体にこんな現象を起させたのでしょうか。ともかく心身の変動の中にありながらも次から次へと数限りない思いが泛んできました。

光とか知恵とか、ともかく生かす力として働く、あらゆるよきものに満たされた世界にいる自分を見て「愛されている」と思いました。そして更に、この世界の実質が「愛」というものであろうと思いました。愛の世界においては、自分の小さな力によるもがきやはからいには拘りなく、すべての事物がありのままに、しかし必然性をもって存在し展開しているのだと知りました。自分はありのままを求めて彼岸に到ろうとして濁流を泳いでいたのでした。そして力尽き果てて濁流の底に巻き込まれたと観念したとき、濁流と思ったのは実は自分を支え生かしてくれるいのちの流れ、光の大河であったことに気づいたのでした。それと同時に何か大きな意志のようなものを感ぜずにいられませんでした。すべてを生かさずにおかない意力とでもいうようなものでした。その量り知れない大きなカに生かされている自分を見たとき、今まで求めていた人生の意義など、もしそんなものがあるとしても、それはわれわれの理解を遙かに超えたものであることが分りました。もしわれわれがたとえ自分の頭で納得できる人生観を描き得たとしても、それはただ自己満足をかち得たにすぎず、真実の自分の人生に何のプラスにもなり得るものではないことを知りました。私はただただ、この量り知れない大きないのちの流れの中で、大きな意力にはからわれて生きるだけである。それがすべてである。その他に自らはからって加えるべき何物があるだろうか。生きようとする一切の努力ともがきを停止しても、まだ生きている自分。一切の理解を抛棄してもなお明らかに認め得る活々としたこの世界のすがた。

ともかく、自分を含めたすべてのものが、無限の愛と知恵に護られ導かれていることを知ったとき、今まで押し潰されそうな重圧を感じていた「人生」という重荷が消えてなくなって、自分の体さえ春風に溶け去ってしまったように軽やかに爽やかになっていました。今までは、自分でどうかしなければよくなれないと思って力んでいたのでした。自分の判断と意志のカで悪い生活をやめようとしていたのです。それはとても望なきことであると思いながらも、それより他に仕様がないので努力をやめることはできなかったのです。これほど努力しようと心がけてさえこの有様なのだから、ほっておいたらどんなことになるか知れたものではない、などと思っていました。しかし、この努力は丁度自分が坐っている坐蒲団を自分で持ち上げようとするのと同じで、どんなに頑張っても一寸も上がらず、そのうちに精根尽き果てて倒れてしまうようなものでした。

また、小さいときから私は「感謝せよ」とうるさく教えられました。特に食物の不平を言ったり、小遣の少いのに憤慨すると、父は感謝の念のないものは人間ではない、と感謝の大切なことを諄々と説いてくれました。しかし私はどうしても感謝の念は出て来ません。与えられたものに対して感謝すべきであることも、感謝の念の大切なことも頭では理解できますし、感謝の心から多くのよいものが出て来ることも想像がついていました。だから自分でも、どんなに感謝の念を起したいと希っていたかしれません。時には感謝の言葉と形を真似てみたこともありました。それでも少しも実感が伴わず、まことに不愉快なものでした。

私の父は不肖の子のために随分泣かされたことでしょうが、それでもどうにかしてこの子を救ってやろうと日夜心を砕いていてくれることを私は知っていました。「母のない子だから母親の分までもと心を配っているのに」という父の言葉は、それが真実であるだけに、私の心に強い自責の念を起させました。それにも拘らず、私は父に対してどうしても感謝の気持が起りませんでした。われながら不思議な気がしたものです。起そうとしても起らぬ感謝の念を起せ、と要求する父に対して、かえって反抗的になりました。

父はむろん、自分に対して感謝せよ、と言っているのではありません。すべて与えられたものを通して、神さまに感謝しなさいというのですが、私はどうしてもその気になれなかったのです。ところが三日問も泣いているうちに一切のものに対していくら感謝してもしきれない、詫びても詫びきれない気持になっているのには驚きました。しかもそれが、神さまに対してでも、仏さまに対してでもないのです。むしろ、自分がこのようないのちの世界に、このようにある、という事実に対するありがたさと、それを知らずに勝手に目茶苦茶なことをしてきたことに対する悔恨の念だというのが事実に近いかもしれません。

(つづく)





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思いがけぬ目覚め  その1

思いがけぬ目覚め  その1

以下は僕の恩師である和田重正先生のご著書『よい教育の場を求めて』(柏樹社刊)の中の文章ですが、先生が存在の真実に目覚められた時のことがかなり生々しく書かれています。

奇しくも、このところ僕が書こうとしていることと符合する所が多いので、みなさんの参考になると思い、あえて先生の書かれた文章をそのまま3回に分けて掲載する次第です。


思いがけぬもう一つの"目覚め" 

こうなったとき、人のすることはきまっています。私も例に洩れずハッキリと覚悟をきめました。そして、十年がかりで作り上げたところの「人間は自分のありのままの正体を知ることはできない。それは生きる意義を知ることができないという意味でもある。結局、如何に生きるべきかということを徹底した意味において知ることは絶対にあり得ない。また神や仏を信じて救われるのには自分の心はあまりに頑なである。この頑なな心をどうすることもできない自分は、宗教からも見放された人間であると思わなければならない」という理屈を繰り返し繰り返し検討し直して、その誤りのないことを確かめました。完全な敗北を確認したのです。そしてまず自分の辿ってきた考えの筋道を数日かかって一通り書き纒めました。これを読んでくれることによって、自分の死の意味を理解し、父や兄弟の悲しみがいくらか軽くなるだろうと思ったのです。そこでいよいよ実行にとりかかりました。姉の用い残したグレランという劇薬を多量に服むのです。

4月2日正午のことです。将に服もうとするとき、日頃口をきいたこともない女中が廊下伝いに急ぎ足で私の部屋にやってきて、障子を細く開けて言いました。「ごらんなさいませ。もうこんなに咲き始めました」

その張りのある明るい声に誘われて、私は何気なく振り向きました。女中の差し出して示す桃の小枝にはポッとまさに開こうとする桃色の蕾がついています。それを見たときの私の驚きようは、ただ目を見張るばかりでした。そして心中にはこんな叫びが渦巻いて起りました――、「みんな間違いだ。今まで見たり考えたりしたことは悉く夢だったのだ。コレが本当なのだ。真実なのはコレなのだ」

この驚きや叫びと同時に明るい世界に生まれ出たような気がしました。予期しない、あまりに急激な世界の変貌のために、暫しは呆然としましたが、「まてまて、これも瞬間の夢ではないか」と思いましたので、驚いてなおそこに立ちつくしている女中を去らせ、独り正坐して静かに瞑目しました。――生け垣の外を子どもが歌って通ります。庭の植込みで小鳥が啼いています。時々、遠くを走る省線電車の音が伝わってきます。5秒ぐらいだったか、それとも2、30分も経ったかわかりません。「よし!」という気がするので、それでも恐る恐る目を開けてみました。後戻りしていません。急に腹の底から大きな笑いが押し上げて来ましたが、辛うじて爆発を抑えました。

久しぶりに障子をあけて庭を眺めました。桜も松も生きています。門の外へも出て見ました。森も小川も雲も大地も、春の麗かな光の中にいのちのよろこびに燃え上がっています。このとき、私は生まれてはじめて天に向って合掌しました。思慮も分別もなしにただ合掌したのでした。

実にこの世界は生きた世界である。今までの世界は生きていない世界だった。あの世界はバラバラのものの寄り集まりの世界だった。この世界は一の世界である。あの世界の質は極度に粗い。この世界は精妙微妙を極めている。この世界の景色はあの世界の言葉では言い表わすことができない。これが実物ならばあれは影絵にすぎない。要するにこの世界は光と、もえるいのちの活々とした行き詰りのない世界でありました。しかもそれこそ己れの本来の住居だったのです。

(つづく)





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他の悲しみは自分の悲しみ

他の悲しみは自分の悲しみ

「教師とはまず同情者である

生長の悩みを悩む子にとって教師はその悩みの課題を卒業して来た人生の先輩である。それが先輩であるならば、悩める後輩に接してどんな態度をとるであろうか。軽蔑するであろうか、鞭をもって責めるであろうか、甘やかしてその問題から逃避させてその解決を放棄させるであろうか。

真に、今眼前に後輩が解き難きものとして悩める課題を過去において身をもって解決して来た先輩であるならばどうして、そのような薄情なことができようか。子どもと共に悩むより他に道がないではないか。子どもの心をじっとみつめて、その子どもの心に添って、子どもの心の動きと共に自分もついていく。それによってこの子が、いかなる点において問題の解決を阻まれているかを、わが身をもって知ることができ、共に手をとってその難関を透過することができるのである。

共に悩むのが教師で、共に悩むことのできぬものは教師であり得ない。

子どもについて悩むといっても、子どもが思うようによくなってくれないからとて悩む大人の悩みは必ずしも貴いものではない。むしろこの悩みは子どもの正しい生長のためには悪影響を及ぼす場合すら少くないのである。ここに言う「共に悩む」というのはそれとは別で、子どもの悩みそのものを自ら悩むということである。すなわち文字通りの「同情」をいうのである。

子どもの心の動きを真に知り同情し得る人は子どもの生長のため役立つよき先輩であり然らざるものは先輩たるに値せぬものである。教師とはまず同情者である。

しかし、子どもの遭遇する殆んどすべての課題について自分の過去に経験を持つ教師が果たしているであろうか、しばしば反聞されるが、実は大ていの大人は殆んどその経験を持っているものである。心の上で経験してきている。ただその問題に出合ったとき、どの程度にこれを解決してきたかは各々差があるであろう。その差はよき教師たる資格の差であると言わねばならぬ。

観音菩薩という方は人間の遭遇するありとあらゆる困難な問題をすべて経験し解決を遂げてわれわれの後輩を導いて下さるそうである。どんな人間の心をもわが心として共に悩む最大の同情者であるならば、観音さまは模範的教師であるかも知れない。
(昭和21年1月)」

以上は僕の恩師である和田重正先生のご著書『よい教育の場を求めて』(柏樹社刊)の一文章ですが、今日何十年かぶりに手に取って開いたページがこの文章でした。

読んでみて、僕もまったく同感です。でも、同情は教師、あるいは、教育者だけの問題ではありません。

「同情」とは広辞苑によれば、「他人の感情、特に苦悩・不幸などをその身になって共に感じること」となっています。つまり、同情とは私たち人間の自他不可分一体の存在の真実に基づく集団本能の発露であり、私たちが生きていくうえで最も大切なものです。

つまり、他の苦しみをそっくりそのまま自分の悲しみとし、自分の喜びをそっくりそのまま他の喜びとしていこうという心境に立って生きていかないかぎり、私たち自身も絶対に真の幸福を得ることはできないのです。




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