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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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一人ひとりの輝き

一人ひとりの輝き

毎年クリスマスになりますと、母校玉川学園の森の中のチャペルを思い出します。

学長の小原国芳先生の言葉は今も輝いています。
塾の誕生会では、「あなたはこの世にたった一人しかいません。世界に一人しかいない大切な存在です。オンリーワンの人生です」 みんなの個性を尊重してくれました。

卒業式には一人一人手書きの「夢」と書かれた掛け軸と卒業証書が渡されます。
温かく柔らかい手で「幸せにね」と声をかけて下さいました。
今でも思い出すと涙があふれます。

「玉川の丘はみんなの家です。いつでも訪ねてきてね。
オヤジ(学長のことをみんなそう呼んでました)はいつでも待っとるよ」
今でも声が聞こえます。

そして玉川の教育を、入学前に何度も見学に行ってくれた母。
通常より高い授業料でも、無限の愛で7年間(高校~大学)学ばせてくれた両親の愛の深さに感謝です。

先日までテレビ朝日で放送されていた、黒柳徹子さんの「窓際のトットちゃん」のドラマを楽しみに観ていました。
トットちゃんが通っていた、トモエ学園の小林校長先生は、トットちゃんに言いました。

「君は、ほんとうは、いい子なんだよ」
トットちゃんが、このほんとうの意味がわかったのは、何十年も経ってからのことだった。
でもほんとうの意味はわからなくても、トットちゃんの心の中に、「わたしはいい子なんだ。」という自信をつけてくれたのは、事実だった。だって、いつも、なにかをやるとき、この先生の言葉を思い出していたんだから。(「窓際のトットちゃん」本文より)

小林先生は玉川学園の小原学長ととても親しい間柄でした。
大正時代に始まった新教育運動の流れの中、成城学園、玉川学園、和光学園、自由学園などが誕生しました。

最近の日本の子どもたちはどうなのでしょうか。

財団法人・日本青少年研究所による高校3年生対象の調査で
「自分はダメ人間だと思う」 と答えた人達が66%もいるというのです。

子供の頃の体験は、その後の人生に大きく影響していきます。

眠っている本来の子供たちの才能や可能性、思いやりのある心に、本人が自己否定の思い込みで蓋をしてはいけないのです。
みんな、たった一度のかけがえのない人生なのです。
亀の甲羅に閉じこもっても、自分自身はもちろん、誰も幸せになることはありません。

今年はセミナーでの、昇平先生の深い講話で、多くの方たちの深い潜在意識にはっきりとした変化が現われました。

「元々みんな輝いているんだよ」と、その言葉には、今ここにキリストやシャカ、道元・・・多くの先人が一緒に息をしているかのように感じられました。

私たちにとって今年は大きな転換の年でした。

今、ここで過去現在未来が一つの命となっています。
この世界は本来、気がとどまらず巡るように出来ています。
みんなが幸せで平和な世界の実現は、一人一人が輝き、生ききって実践することにかかっています。

2018年が、皆さんにとって希望に満ちた年でありますように。


よいお年をお迎えください。
                                             (奈央さんのブログより)





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大いなる 「今、ここ」

大いなる 「今、ここ」

12月に入り、今年の資料のファイルや手紙・本・雑誌の整理をしました。
旅のきれいな写真の雑誌をめくりながら「ここも、あそこもいいな」と見ている時、ふと気付きました。

私は毎日、ほとんど月曜から金曜と、前橋市内の母の介護に行っています。
そしてその行きの30分のドライブは、大空の向こうに連なる山々を目の前に、昇平先生から最高の講義を受けているのです。

自分には、何という贅沢な時間が与えられていたのか!
「今、ここ」が、最高に輝いていた。
そこに過去、現在、未来のすべてがあると思いました。

今年は特に、過去、現在、未来すべてがひとつながりで、まさに「今、ここ」と深く感じることが多い一年でした。

セミナーにご参加の皆さんもそれぞれ、本当のいのちの世界を体験した年でした。
これからも日々大切に育てていってほしいと思います。
                                             (奈央さんのブログより)





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あなたは幸福ですか?

あなたは幸福ですか?

もし、今だれかに「あなたは幸せですか?」と質問されたら、あなたはどう答えますか? 

あなたは“幸福“とはどういうことだと思っていますか? 

ほとんどの人は幸福とは、たとえば地位、名声、金、家庭、恋人、悟りなど、自分が望む条件が満たされることだと思っています。何かを得て満足感を得ることを幸福だと思っているのです。しかし、それは単なる一時的な気分、幸福感にすぎません。

では、なぜ人は何かを得れば幸福になれると思うのでしょうか?

人は今の自分には何かが足りないと思い込んでいるからです。そして、その足りないものを何かで満たさなければ幸福になれないと思い、未来に向かいます。

だから、心はいつも今にいないので、落ち着きません。ふだんは何かで気を紛らわせて気がつかないこともありますが、それこそ、ふとそんな自分を見たときに、それはまさに孤独感と空虚感そのものであることに気付きます。

そのために、よけいに自分が望むものを得たら幸福になるであろうと思います。でも、何を得ても、自分は欠けている存在だと思い込んでいるので、その欠けていると思うものは満たされることはありません。

そこで、また、欠けているものを満たさなければと思って、どこまでも、もっと、もっとと求めます。

そうではなくて、今の自分は欠けているという感覚は、ラベルを自分だと思い込んでいるところから生じていること、ラベルは自分そのものではないことに気付きさえすれば、一瞬にして消えてしまうのです。

この世界は一大生命である“いのち”が現象や存在として顕現したものです。ですから、人間が二元相対的思考で作りあげた所有、優劣、差別などの間違った観念や規定とそれに基づく行為を除いて、この世界のすべては、それ自身で何一つ欠けるところがなく完結して存在しています。

つまり、私たち一人ひとりは“いのち”が現れたもので、人間が勝手にアタマで作り出したいろいろなモノサシによる規定(ラベル)以前に、あるがままで、そのまま、何一つ欠けるところがなく完結して存在しています。

つまり、個としての自分はどのような条件にも関係なく、どのような人間がアタマで作ったどのような規定とも関係なく、それ以前に、すでに、元々、幸福そのものです。

それはどのように状況が変わっても、どのようなラベルを付けたとしても、絶対に変わるものではありません。

ラベルについて言えば、どんなラベルであっても、ラベルにすぎず、実物ではないからです。また、実物は条件によって変わる物でもないからです。

ですから、何があっても、あるがままの自分で変わることがない実物の自分は、個としては、既に幸福なのです。

けれども、この世界には人間のアタマで作り出した妄想・観念に基づいた考え方や行為によって、不幸な人が犇めいています。

ですから、不可分一体の自己の真の幸福は、この世界から不幸な人が一人もいなくなったときにはじめて達成されます。

そのために全力で生きていくことこそが自己の真の生き方であると言えるでしょう。





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ボサツとして生きる

ボサツとして生きる

「われまさに一切所有を捨つべし。われまさに心を一切衆生とひとしうすべし。」
    (大品般若経金剛品第十三)

この言葉には端的にボサツの生きる目標、あるいは、人生の理想が表されています。

「何か菩薩様ってすごいなあ。だからお寺に行って菩薩様のお像を拝めばご利益があると言われているのだろうな」などと思われた方もいらっしゃるかもしれませんね。

でも、そんな根性で菩薩様のお像を拝んでもまったく意味がありません。

というのは、このボサツというのは、私たち人間をはるかに超えた超能力的な存在なんかではなくて、まさに、私たち一人ひとりの本来の姿そのものだからです。

たしかに、世の中に広くはびこっているバラバラ観から見れば、「われまさに一切所有を捨つべし」とか「われまさに心を一切衆生とひとしうすべし」というような“崇高な”ことはまず我々生身の人間にはとてもできないことであり、それこそ、尊い神様や仏様でなければ絶対ムリということになるのでしょう。

でも、不可分一体の存在の真実に気がついてみれば、この世にもともと所有などということはないのですから、観念的でなく、実際に一切の所有を捨てて生きることは当然のことであり、また、生きとし生けるものは同じ一つの“いのち”を生きているのですから、すべての人々の心を自分の心としてと生きていくということも当たり前のことなのです。

すなわち、本来、私たち一人一人がボサツなのであり、その真実に目覚め、ボサツとして生きていくところに真の生きがいと喜びがあるのです。

では、あらためて『大品般若経金剛品第十三』を以下ご紹介しましょう。

「われまさに一切所有を捨つべし。われまさに心を一切衆生とひとしうすべし。われまさに十方一切(天地一杯)の衆生。もしは地獄衆生、もしは畜生衆生、もしは餓鬼衆生にかわりて苦痛をうけ、一々の衆生のために無量百千億劫(むりょうひゃくせんまんおくこう:数えきれないほど長い年月)かわりて地獄のなかに苦しみをうくれば、すなわちこれらの衆生、無余涅槃(むよねはん:心身ともに全ての束縛を離れた状態)にいたるべし。この法をもってのゆえに、この衆生のためにもろもろのごん苦をうけん。これらの衆生、無余涅槃に入りおわりてのち、みずから善根を植え、無量百千億阿僧祇劫に(数えきれないほど長い年月)、まさに阿耨多羅三藐三菩提(あのくたら‐さんみゃく‐さんぼだい:一切の真理をあまねく知った最上の智慧)を得べし」

このように、自分が悟るのは後回しにして、まず地獄に落ちた人々のすべての苦しみを代わって受けて人々を救い、人々に先に悟ってもらおう。それから後に努力して自分の悟りを得よう、というのがボサツの誓願であり生きる姿勢です。

これを読んで、ボサツとして生きるのはとても苦しそうと思われたかもしれませんね。

でも、事実はちがいます。

ボサツの道こそ「自分も嬉しい、みんなも嬉しい、生きていてよかった!」というどこまでも開けた幸せ一杯の大道なのです。

あなたも、どうせ生きるのなら、こんな生き方をしてみたくないですか?





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本当の幸福とは何か その2 

本当の幸福とは何か その2 
(その1からのつづき)

この世界では、多くの人々があちこち動き回り、せかせか働き、儲かった、損した、いい会社に就職できた、できなかった、子どもがよい学校に受かった、落ちたなどと喜んだり、悲しんだりしていますが、一体何のためでしょうか?

昨日まで仲よくやっていた兄弟どうしが、親が亡くなった途端、財産の相続をめぐり互いに100年越しの仇(かたき)であるかのように、いがみ合ったりしている様子は滑稽を通り越して、あさましくも寂しくもあります。

また、隣に貧乏や病気など、いろいろな事情で苦しく寂しい日々を過ごしている人々がいるのに、気にもせずに、あるいは、気がつかないふりをして、自分の家だけの豊かさや自分の家族だけの健康に満足して、自分(たち)は幸福だなどと喜んでいたりする人も意外と多いようです。

しかしながら、そのような幸福?がいつまで続くのかと考えると、途端に不安になってくるのではないでしょうか?

こんなことが本当の幸せであるはずがありません。

今こそ私たちは、日々何のためにあくせく働き、いたずらに苦しんでいるかということに痛烈な反省と省察を加えなければならないのです。

そして、憎み合いや奪い合いのない世界、みんなが幸せで永遠に平和な世界を実現するために立ち上がるべきなのです。

そのためには、それを妨げている原因を突き止め、それを取り除かなければなりません。

その原因は、「一番大切なのは自分であり、自分の家族だ。結局は、自分さえ、自分の家族さえよかったらよいのだ」というエゴイズム(利己主義)です。

では、エゴイズムが出てくる根本の原因は何なのでしょうか?

それはバラバラ観を存在の真実だと錯覚し思い込んでいることです。

ですから、私たちがバラバラ観の誤りに気がつくことさえできれば、みんなが幸せで恒久の平和を実現することができるのです。

従来、この不可分一体の存在の真実を本当に自覚すること(いわゆる、悟り)はとても難しいと言われてきました。

でも、本当は決して難しいことではありません。なぜなら、それが真実だからです。

これまで、難しいと言われてきたのは、バラバラ観こそが存在の真実であるという思い込みを持ちながら、存在の真実を見極めようとしていたからなのです。

要は、バラバラ観こそが存在の真実であるという思い込みを“ひょいと横に置いて”この世界を見てみれば、不可分一体の存在の真実に誰にでも容易に気がつくことができるのです。

このようにして、いったん不可分一体の真実に気がつけば、道端で転んだ見知らぬ幼子を思わず駆け寄り抱き起してやるのと同じように、また、肉親の誰かが病気や寒さに震えているのを嘆くのと同様に、何とか隣人はもちろん、世界中の人が不幸から免れるようにしたいという気持ちが自然に心の底から湧き上がってきます。

その上で、一人も不幸な人がいない恒久の平和世界を一刻も早く実現するために、みんなで方策を立てて実行に移すのです。

ただ今、この瞬間に、このように決定して生きていくことこそ真実の生き方、すなわち、本当の幸福であり、真の生き甲斐ではないでしょうか。

(おわり)





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本当の幸福とは何か  その1

本当の幸福とは何か  その1

人類の誕生は数百万年前だと言われますが、現在私たちが数々の遺跡や記録によって知ることのできる時代、有史時代は数千年前に始まり今日まで続いています。

しかしながら、この間、心ある多くの人々が懸命な努力を傾けてきたにもかかわらず、この世界は依然として混乱と苦しみに満ちた状況が続いています。

個人的には、人を疑い、妬み、憎しみ、奪い合い、社会的には、絶え間のない紛争、熾烈な企業間の競争、そして、環境破壊など、実に不安定で間違いの多い世の中です。

このような世界の中で、多くの人々が、少しでもより豊かで安定した生活を確保しようと毎日毎日一生懸命に働いています。

また、少しでも高い社会的地位に就くために、絶えず他と争っている人たちもいます。

政治を見ても、多くの人は自分たち民衆のための政治を金や地位や権力を目的にした“政治屋”に任せて、自分たちは日常生活の忙しさのなかに埋没しています。

このような有様では、自分自身はもちろん、この社会のすべての人々、そして、将来の我々の子孫にも、絶対に安定した本当の幸福をもたらすことはできません。

それは、本当の人生、本当の幸福が何かということを知らないからです。

今日、多くの人が立派な家に住み、家族一同が健康で、何不自由しない財産があり、人を思いのままに使える社会的地位を得ることを幸福だと思い込んでいます。

このような生き方をしていけば、いずれ子どもや孫の代でその反対に嘆き悲しまなければならない日が来るだろうということに気がつかないのでしょうか。

多くの人が一時的に過ぎない幸福感を求めて、日々あちらこちらと駆け回り、あくせく働いていますが、結果的には、そのような生き方こそが今日までの不幸な人々の充満した浅ましい社会を作ってきたのです。

これが正しい人生の姿、正しい社会の在り方であるはずはありません。

これまで心ある人々が懸命に努力を傾けてきたにもかかわらず、みんなが幸せで平和な社会が実現できなかったことの原因は、無知と無関心と諦めです。

そして、それらの根本原因は肝心の「幸福とは何か?」ということさえも知らず、知ろうともせずに、また、幸福というものについて間違った考え方をしているところにあります。

要するに、一時的な幸福感を得ることを本当の幸福だと勘違いしている人がほとんどだからなのです。

多くの人がいつかはなくなってしまう一時的な満足感を幸福だと思い込んでいます。

しかし、それはただ一時的に幸福だと思っているだけです。幸福な気分、すなわち、“幸福感”にすぎないのであり、“本当の幸福”では決してありません。

「結局、幸福なんてそんなものだろう」と言う人もいるでしょうが、それこそ、無知であり、無関心であり、諦めなのです。

それでは絶対にダメです。

本来、人間はそんなに愚かな存在であるはずはありません。

私たちは今こそ「本当の幸福とは何か」と真剣に自分自身に問い本当の幸福を掴み、みんなが幸福で平和な社会を築いていかなければならないのです。

そのポイントは「本当の自分とはなにか、本当の世界は何か」を知るということです。

(つづく)





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二つの原体験

二つの原体験

僕は10歳のとき、ある日突然、「なぜ、この世の中には貧しい人びとがいるのだろうか。こんな世の中は絶対に間違っている」という思いに強く打たれました。

そして、14歳のときに修学旅行で、広島の原爆記念館を見学しました。そこに展示してある数々のものを見ている間ずっと、ただただ、「人間はなんて馬鹿なんだ。こんな世の中は絶対に間違っている」という思いに体が震え続けていました。

この二つの原体験の記憶は、その後もずっとわたしのこころの奥にあり続けました。そして、22歳のとき、和田重正氏の「みんなで国に理想を」という提案に出会いました。

それを読んで、「これこそ、人びとが幸せになり、それぞれの国も世界も救われる確かな道だ」と確信しました。こどものときから、ずっと持ち続けていた疑問に対する答えが見つかったのです。本当にこころの底から感動しました。

そして、この考えを世界中の人びとに伝えていくことが、自分の使命だと思ったのです。それが、約40年の思索と実践を経て、著書『国の理想と憲法――国際環境平和国家への道』、そして、その英語版の『BEYOND NATIONAL EGOISM(国家エゴイズムを超えて)』として結実しました。 

147億年の宇宙の歴史の中で、この地球上に35億年前に最初の原始的単細胞生物が誕生し、そこから生物の進化の歴史が始まりました。

そして、今日のわたしたち一人ひとりに至るまで、無限とも言える世代を経て、“いのち”が一つの世代から次の世代へとバトンのようにリレーされてきました。

もし、「いのちの鎖」の輪の一つでも切れていれば、あなたも、わたしも、この世には存在していないということになります。そういう事実からも、一人一人、また、すべての生物の生命はかけがえのないものであると言うことができるでしょう。

人間は他の動物にはない発達した大脳を駆使して輝かしい科学技術文明を発達させてきました。その結果、人類は他の動物を圧倒して、この地球上で繁栄を謳歌しているように見えます。

ところが、その人類は今日まで絶えず同じ人類同士で大規模な殺戮を繰り返しています。そして、いまや、自分たちの食べ物や飲み水に毒を入れ、吸う空気を汚染し、自分たちの生きている世界そのものを破壊しようとしています。

このような世の中で、多くの人びとが個人的にも社会的にも不安を抱え苦しみながら生きています。

こんな世の中は絶対に間違っています。

人間はそんなに愚かしく無力な存在なのでしょうか。人間は数々の過ちを犯し、自他を苦しめてきました。しかし、自分たちで犯した間違いは、必ず自分たちの力で解決できるはずです。

わたしたちは、自分自身の幸福と安らぎを得ることは勿論、わたしたち人間自身によって、諸々の社会的問題を解決し永遠の世界の平和と人類の幸福を必ず実現できるはずなのです。

今日までそれが実現しなかったのは、無関心と無知と、そして何よりも、諦めにあったのではないでしょうか。

「必ず実現できる」という信念を持って、間違いの根本原因を徹底的に究明すれば、必ず解決への道を見付けることができる、と僕は確信しています。





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アッピーパパ

アッピーパパ

我が家にはアッピーというとても可愛いトラネコがいたのですが、1年半ほど前に亡くなってしまいました。

ところが、数か月前にアッピーにそっくりの足腰がヨボヨボしたオスネコが家の外にあるネコ食堂にやってくるようになり、いつの間にかベランダに置いてある大きな段ボール箱に住み着いてしまいました。

僕たちはその老いたネコを「アッピーパパ」と呼び始めました。その外見と仕草がどう見てもアッピーのお父さんとしか思えないからです。

アッピーは若くてヤンチャな子でしたが、アッピーパパはとてもおとなしく気の弱いネコで、僕らが近づいても、少しは緊張はするのですが、普通の野良ネコのように警戒してサッと逃げたりはしません。

歩くときもゆっくりしか歩けません。日が当たる日中はほとんど芝生の上でじっとしています。そして、夜になると、例の段ボールに入って寝ています。

毎日「モンタ」と呼んでいる凶暴なオスの野良ネコがネコ食堂にやってくるのですが、アッピーパパを見つけては噛みついたりしています。アッピーパパは抵抗することもできずにやられっぱなしです。

どうやら、アッピーパパは以前は飼いネコだったようです。もしかしたら、飼い主に捨てられてしまったのか、それとも、何かの事情で旅に出て、そのまま家に帰れなくなったのかもしれません。

僕はそんなアッピーパパを見るたびに切なくなってしまいます。

そうこうしている内に、このところ急速に寒くなってきました。このままでアッピーパパはこの冬を越せるだろうかと僕は毎日気になってしかたがありませんでした。

ところが、2週間ほど前の朝、外のネコ食堂で我が家のネコサグループのメンバーたちとアッピーパパに食事をやったら、食べ終わったアッピーパパが我が家の家の中に入りたそうにしてドアのところに近づいてきたのです。

そこでドアを開けてやったらアッピーパパはためらいもなく部屋の中に入ってきて、部屋の片隅の日の当たるところに体を横たえたのです。

その日以来アッピーパパは我が家の一員となりました。

夜はネコ用の寝室で寝るのですが、食事は台所の隅にあるレストラン・ネコサでみんなと一緒に食べ、食べ終わると居間の薪ストーブの近くにおいてあるネコ用ベッドに横になって寝たり、くつろいだりしています。

日が照って風が吹かない日中は様子を見てアッピーパパを外の芝生に出してやるのですが、アッピーパパは気持ちよさそうに昼寝をしています。

毎日このようにヨボヨボと歩いたり、じっと横になっているアッピーパパの姿を見て、大変だなとしか僕には思えないのですが、アッピーパパはそんな状況を当たり前にただ生きています。そのナントモナイ姿は僕の思いを超えて、まさに荘厳そのものです。

(もちろん、だから何もしなくてもよい、憐れみや哀しさを感じるのはおかしいなどと言っているのではありません。)

そして、そんなアッピーパパを見るたびに、アッピーの声が聞こえてくるような気がするのです。

多分、アッピーがパパの中に入って戻ってきているのでしょう。




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ありのままに見る

ありのままに見る

車で町から我が家に帰る途中、僕はしばしばその景色の素晴らしさに心から感動してしまいます。

青空に雲が浮かんでいて、遠くにはいくつかの山が見える中に、林や畑があり、所々に家々があり、そこに田舎道が曲がりくねって続いています。

他の人に聞いても、ほとんどの人は、確かにその景色は田舎の感じで悪くはないけれども、ごく平凡な景色であり、とても感動するような景色とは言えない、と答えるでしょう。

でも、僕はそんな景色に出会って、いつも心から感動しながら運転を続けています。そして、その度に「この景色に出会ったことにより、これまでの人生のすべてを100パーセント肯定することができる」とさえ思うのです。まさか運転中ですので天に向かって合掌するわけにもいきませんが、まさに、そんな感じです。

実は、このように景色を見て心から感動するのは、いつもの帰り道だけでなく、他の田舎道を通る時や我が家から空や雲や遠くの山々や林や畑を見る時も同じなのです。

ですから、その時々の気分(心理的状態)や脳の条件反射で景色がそのように見えるのではないことは明らかです。

どうして、こんなに感動するのだろうかと考えてみると、ずっと若い時にも、2,3回同じような体験があったことを思い出しました。

でも、若い時の体験の時には、その素晴らしい景色と感動の先に、「もっと、もっと」と、まだ求めたいものがあるような気がしてたことをはっきりと覚えています。

ところが、ある頃より見え方がさらに変わって、いつも「これですべてよし! これ以上求めるものは何もない!」と感じるようになりました。そして、庭の草花やネコたちを見ても同じ性質の感動を感じるようになったのです。

それが今日まで続いているのですが、見え方がそれ以前とどのように変わったかと考えてみると、感覚的には存在しているいろいろなものがそのまま、直接見えるようになったと言えるでしょう。

“直接”というのは、それまではメガネを掛けて、それを通して見えていたものが、裸眼でその実物がはっきりと見えたというような感覚です。

より正確に言えば、自分ではそのものを、つまり、実物をそのまま見ているつもりだったのが、事実は、思いというメガネを通してスクリーンに映った映像を見ていたということです。

それまでは、スミレの花一つ見ても、見ているつもりで、実は、まったく見ていなかったのです。思い、つまり、ラベルによって色付けられ歪んだレンズを通してスミレを見ていたからです。バラの花を見る時でも、バラの花用のメガネで見ていたというわけです。

ところが、実物を直接見ることができるようになったら、この世界の人間がバラバラ観という妄想によって作ったもの以外はすべて、その一つ一つが、そして、その全体が、ありのままで完結し、そのようにあることこそがこの上なく安らぎであり美しいということに気がついたのです。





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只管運転

只管運転  

このタイトルを読んで、「なんだか危なそう」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんね。

でも、大丈夫です。心配いりません。かえって、普通の運転より安全です。

僕はすそ野がとても広い大きな山の中腹に住んでいるのですが、町に行くには自動車でほとんど一本道の整備された県道を10キロほど降りて行きます。その時は、普通の運転です。

帰りは時々まがりくねった田舎道を通って我が家に向かいます。晴れの日には前方には広大な青空の下に大きな山が見えています。

只管運転と言っても、実は、ただ運転しているだけです。目の前には大きな空や雲と山を背景にして、林や畑や家があちこちに点在しています。

そのような景色の中を“ただ運転に運転を任せて運転していくだけ”です。ですから、あちこち、眼をキョロキョロ動かしたりはしません。ただ、ゆったりと前方を見ているだけです。

また、林や畑や家、時々やって来る対向車など一つ一つのものに注意を集めるということもありません。次から次へと自然に変化する景色と共に、アタマの思いも次々と跡を留めることなく自然に流れて行きます。まさに只管瞑想です。

道路の状況は素直にはっきりと目に映っており、状況に従ってほとんど自動的に対応しながらスムーズに運転しています。ですから、同じ田舎の道を普段の運転態度で運転する時よりもかえって安全な運転になっていると思います。、

僕にとってはこのような運転が実に楽なのです。それは自分のこころがとても安らいでいるからだけでも、また、目の前に展開される景色がただ田舎の景色だからということでもなくて、もともとすべてがとても安らいでいるからです。

たとえば、前方から対向車がやってくるとき、その車を運転している人はアタマに何か大きな心配事を抱えながら運転しているのかもしれません。また、点在している家々のなかでもいろいろな心配事や問題を抱えてどうしたらよいかと不安になっている人もきっといらっしゃるに違いないのです。

でも、なぜか、すべてが安らいでいるのです。(もちろん、私たちのアタマの中には、大変だとか、不安だなどといろいろな思いがあり、それぞれ適切に対処しなければならないことは当然です。)

でも、ここで僕が言おうとしていることは、私たちの思いや行いを超えたところでは、事実の世界は、その思いや対処などぐるみ、絶対的に安らいでいるということです。僕はそこに何があってもナントモナイ悠久の世界を感得するのです。

私たちは生活のなかで、いつもアタマの思いに引き摺られて、思いを物足らせようとして、もともと何があってもナントモナイ存在の実物を見失いがちになっていることが多いのではないかと思います。

アタマの思いは存在の実物そのものとは違います。

だからこそ、日々、こころがけて、アタマの思いを手放しにして坐る姿勢に任せきる只管打坐(瞑想の自然法)をやっていくことが大切です。

僕には只管打坐よりも只管運転の方がやりやすいのですが、間違ったやり方でやるととても危険ですから、只管運転はマネをされないほうがよいかもしれませんね。(念のため)





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教えない教育

教えない教育

僕が和田重正先生にはじめてお会いしたのは22歳の時です。その当時僕は「こころから納得のいく生き方をしたい」と思い、その答えを求めて悩みに悩んでいました。

その時先生が話された内容は僕にはよく分からなかったのですが、なぜか僕は「自分の求めている答えがここにある」ということを確信したのです。それ以来、時間を作っては先生のご自宅や塾を訪れ、先生のお話をお伺い、また、先生のご著書を繰り返し読みました。

けれども、それらの言葉の意味はアタマではよく分かるのですが、ストンと腹に落ちないのです。つまり、「そうだ!」という生々しい実感がないのです。どのように考えてみても、こころから納得のいく答えが見つかりません。その状態が数年間も続いたのです。

先生は、僕たちが具体的なことについて質問しても、それに対して直接お答えになるということはほとんどありませんでした。そのような先生の姿勢から、僕は「要するに、答えは自分で出すしかないのだ」ということを理解しました。

ある時先生が、「人生の根本問題に関わる疑問は、アタマで、ああでもない、こうでもない、と捻くり回してもなかなか答えは出ない。そういう時にはその問いを宿題としてこころの片隅において置いておけば、そのうちに、ふとその答えに気づくことがある」と言われたのです。

それでも、どうしてもアレコレ捻くり回す癖が止まずに、とうとうアタマでは完全に行き詰ってしまい、気がついたら、すべての疑問を手放していました。そのとき、突然、その答えが“向こう側から”こちらにやってきたのです。それでやっとコツが分かりました。

僕たちは何でもかんでもアタマで考えれば分かると思う傾向が非常に強いのですが、人生の根本問題に関する疑問を確認したら、それを“こころの宿題”としてこころの片隅にそっと置いて、あとは大いなる智慧のハタラキに任せて、安心してすべて忘れてしまえばよいのです。

おかげさまで、僕の人生は、少なくとも自分にとっては、若い時には想像もできなかったほど豊かなものとなりました。振り返ってみるたびに、すべてその源が先生にあったのだと感じざるをえません。

その源をまず先生が時間的に先に掘り当てられて、辛抱強くその在り処と掘り方を、お話やご著書を通じて、僕たちが気づかないうちに教えていただいていたのだと思うのです。

今あらためて先生のお言葉を思い出し、ご著書を読み返して思うことは、先生は人生の根本問題については、いつも僕たちが自分で答えを見つけるように工夫し配慮されていたということです。

これは教育者にとっては本当に大切なことだと思うのです。自分自身の体験から言っても、教えてもらって分かったということと、自分自身の力で分かったということは天と地の差があります。つまり、人生の根本問題については、誰も教えて分からせることはできないのであり、本人が自分で気がつくしかないのです。

僕は今この文章を書きながら、僕自身今日まで数十年の間「教えない教育」をやってこられたのは、まさに、先生のおかげなのだという思いを噛みしめています。





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