プロフィール

昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

最新記事

カテゴリ

最新コメント

月別アーカイブ

最新トラックバック

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

QRコード

QR

ブロとも申請フォーム

今滞在されている皆さんの数

現在の閲覧者数:

これまで訪問された皆さんの数

僕が野良ネコを可愛がる訳

僕が野良ネコを可愛がる訳

我が家では何匹もネコを飼っているので、外のベランダにもエサを用意しています。

そのために、毎日いろいろな野良ネコが入れ替わり立ち替わりエサを食べにきます。アッピーパパもその内の一匹だったのですが、今ではすっかり我が家の一員となり、老後をゆったりと過ごしています。

その他に、黒色の毛に所々黄色のマダラがある丸々太った一匹の雌ネコが、2,3か月前から、ベランダに置いてある段ボール箱に住みついたようで、朝エサを用意しているとさっと現れるようになりました。僕は早速「マダラン」という名前をつけてやりました。

マダランはどうやら元は飼いネコだったようで、とても人懐こくて、ドアを開けてやると、すぐに部屋の中に入って、家の中を一回りしては、また外に出ていきます。

このようなことが我が家では日常茶飯事になっているのですが、僕がこのように野良ネコを可愛がるのには訳があるのです。

僕の少年時代、我が家はとても貧乏でした。ただ、母が動物好きで、家の中で小鳥を飼ったりネコを飼ったりしていました。それで僕も動物がとても好きになったのです。

ところが、ネコの避妊手術もできないほど貧乏だったので、だんだん増えて、小学5年生の時には4匹のネコを飼っていました。ところが、ある日の夜遅く父と母が変な形をしたものを入れた大きな袋をそれぞれ背中に担いで出かけようとしています。

僕は「それは何ね?」と訊きました。すると母が横を向いて「ネコたちだよ。もううちでは飼いきらんとよ。それでどこかに捨てにいくったい」と答えました。

末っ子の僕はその子たちが生まれたから弟や妹のような気持ちで可愛がっていました。それで、「嫌だ!」と叫びたくなりましたが、父と母の本当に悲しそうな顔を見て、言葉を飲み込みました。

その時、僕は「自分たちが生きていくために、ほかの者たちを押しのけて生きざるを得ないのだ」という、何とも言えず、情けなく、また、悲しい気持ちを骨の髄まで感じたのです。

生まれた時から飼ネコとして、食べ物を貰い、家の中で好きなように暮らしていたネコたちがいきなり見知らぬ路地に放り出されてどのように生きていくのかと考えると可愛そうでしかたがありませんでした。

でも、父と母の気持ちを考えると、僕は「どこにネコたちを捨ててきたとね?」と尋ねることもできませんでした。

それでも、毎日学校から帰ると、両親には内緒で、見当をつけてはアチコチとネコたちを探しに出かけていました。でも、とうとう見つけることはできませんでした。

その悲しさとやるせなさが、ついには、20歳の時に、競争社会の中で自分が生きるために他を押しのけていく生き方をやめるという決断に繋がっていきました。

僕に今いくらかでも人に対する優しさがあるとすれば、この小学5年生の時の体験があったからだと思います。

僕にとっては、人もネコもイヌも鳥もまったく同じなのです。

とにかく、人でもネコでもイヌで鳥でも一人でも一匹でも一羽でも不幸な人やものがいない世界を実現したいと思って生きています。

そして、それが、僕が肉を食べなくなった理由でもあります。





←クリックで応援よろしくお願いします
人気ブログランキングへ

私たちはエデンの園に戻れるか

私たちはエデンの園に戻れるか

旧約聖書によると、神様は天地創造の後、神様の姿に似せてアダムとイブという二人の人間を創り、エデンの園という楽園に住まわせました。

それこそ幼子のような二人は食べる心配もなく、何の心配することもない楽園の中で、無邪気にお互いに男女ということを意識することもなく、お互いをお互いの分身として、無条件に仲良く楽しく生きていました。

ところが、ある日、二人は蛇にそそのかされて、神様にこれだけは絶対に食べてはいけないと言われていた「知恵の実」を食べてしまいます。

知恵の実を食べた瞬間、二人はお互いが男性であり女性であることを意識するようになり、裸でいる自分を恥ずかしがるようになりました。

神様は絶対に食べてはいけないという掟を破った二人をエデンの園から追放します。それ以後、二人だけでなく、その子孫である私たち人間は自ら労働をしなければ食物を得ることもできず、互いに食べ物や富をめぐっていつも争いあいながら生きていくことになってしまいました。

これは俗に「失楽園物語」と言われていますが、実に真髄をついた話だと思わずにいられません。

この話を僕なりに解釈すると、アダムとイブは知恵の実を食べることによって、アタマが働くようになったのです。そして、その結果、二人はバラバラ観を存在の真実だと思い込むようになったのです。

エデンの園では生きるために必要なものはすでにいつも目の前に用意されていました。だから、そこには食うための努力も心配もなく、生存競争もなく、ただただ、無邪気に楽しく生きていくことができました。だからこそ、エデンの園は「楽園」なのです。

こうして、エデンの園を追放されて以来、人間は苦しみの中で生きていくことになったのですが、そのあまりの辛さのために、人々は天の国に救いを求めるようになりました。

そうした中、「神の子」と称される一人の青年が現れて、人々に言います。

「幼子のごとく素直で無邪気でなければ、天の国に入ることはできません。」

幼子はアタマを使わないので、バラバラ観に毒されていません。だから、幼子はみんな誰でも素直で無邪気なのです。

ところが、成長するにしたがって、アタマが働き始め、バラバラ観を持つようになります。それとともに、素直さを失い、無邪気さを失うとともに、あの可愛い笑顔を失ってしまいます。

これでは、とても正常な人間とは言えません。

そうした苦しみの中から、その苦しみの根本原因がバラバラ観にあり、不可分一体こそ存在の真実だということに気がつき、エデンの園に回帰する確かな道を人々に指し示す人が出てきました。

そのポイントは「アタマを手放しにして、不可分一体の存在の世界に自分を投げ入れる」ということです。

それが只管打坐であり、活元運動であり、愉気です。

日常的に、これらの行法を生活の基本に据えて、不可分一体の真実のより深い体得を心がけ、“いのち“を土台にして、アタマを不可分一体の理に沿った方向でみんなのために使いこなしていくことこそが人間に課せられたテーマなのです。

アダムとイブをエデンの園から追放した神様の本当の意図はそこにあったのだと思います。





←クリックで応援よろしくお願いします
人気ブログランキングへ

観念脱落  その2

観念脱落  その2
(その1からのつづき)

観念の脱落は一瞬のうちに起こったのではありません。脱落が始まってからそれがすっかり完了するまでには10時間ほど掛かったように記憶しています。

ですから、たとえば、一時的に何もなくなってしまったような心理状態になったのではありません。

そのときの観念の脱落の様子を描写することは難しいのですが、こんな感じです。

ふいに、ある一つの観念がアタマに浮かんできました。それを見ていると、その観念がまったく実体がなく、その正体がただの幻(まぼろし)のようなものであることが見透かされたために、急に接着力がなくなって下に落ちていく、というような感じです。それが長時間に渡って、全部の観念や思い込みや妄想が脱落するまで次々に起きたという訳です。

こうして、観念がすっかり脱落して、自分はこの世界にすっかり素通しとなってしまいました。体はちゃんと見えているのに、自分が透明のような感じがするのです。それは今も続いています。

こうして、僕は、あらゆる観念やアタマの思い以前にすでに存在している世界、すなわち、不生不滅の“いのち”が顕現したこの世界において、常に変化し、生死するコロッと固定した自分というものはないこと、また、そのような他も存在しないこと、不生不滅の“いのち”こそが本当の自分であることにあらためて気がつくことができました。

まさに、道元禅師のお言葉をもじって言えば、「自分は不生不滅の“いのち”であるので、生死する個としての自分はない」のです。

かつて若かったときに、僕が真実の自分、真実の生き方を求めて、和田重正先生のところにしょっちゅう出入りしていました。

先生のお話を何度もお聞きし、ご著書も繰り返し読んで、アタマでは分かるような気がするのに、どうしても実感としてわかった!という気がしませんでした。

僕自身のこの苦い体験を、いま、振り返ってわかるのは、結局は、自分で作りあげたいろいろな観念や思い込み自体を検証することもなく、その観念と思い込みでできたレンズの分厚い色メガネを通して、先生のお話を聞き、先生の本を読んで理解しようとしていたのだな、ということです。

いま考えると、当時先生のところに集まっていた人のほとんどが、ご自分ではどのように思われていたかは別として、同じような状態だったように思えます。要するに、理解が生煮えになっていた人が多かったと思うのです。

僕自身はさんざん苦労した後に、幸いにも、気付くことができたのですが、観念や思いを通して、存在の真実を理解しようとしてもダメなのです。

ですから、体臭のように自分では気がつかず、当然だと思い込んでいる観念や思い込みに気付かせることによって、それらが自ら脱落するような場を設けることが必要です。そうすることにより、真実はずっと目の前にあったことに気がつくことができるのです。

それが自覚のセミナーであり、整体ライフスクールでの講話と只管打坐と活元と愉気の実習です。

かつて、道元禅師は心身脱落を体験し大悟されたそうですが、僕の観念脱落の体験も、少なくとも、僕にとっては、まさに、大悟だったと思います。

(おわり)





←クリックで応援よろしくお願いします
人気ブログランキングへ

観念脱落  その1

観念脱落  その1

眼が見えても見えなくても、自分は決して変わらない。体や心、さらには外界の状況はいろいろ変わることはあっても、自分自身は決して変わらない。なぜなら、体や心は着物のようなもので、それらを着ている自分自身ではないからだ。自分は体や心のずっと内側にあって、絶対不変で完璧であり、何があっても傷つくものではない。だから、どんなことがあっても、恐れることも心配することもないのだ。以上は、僕が26歳のときの気づきを当時の僕の拙い言葉で表現したものです。

この確信は今日に至るまでどんな状況にあっても微塵も揺るぐことはありませんでした。そのお蔭で、今日まで、文字通り、何物も恐れることなく楽しく生きてきました。

けれども、当時は、「自分は身体や心ではなく、目に見える形や動きではない」ということには気づいていたのですが、「その“自分”の正体は何なのか」ということがはっきりしていたわけではありませんでした。

そのときはまだ「個としての“自分”はある」という観念に縛られていたからです。

別の角度から言えば、それまで、すでに“自分”というものについて、体験的に存在の事実をはっきりと捉えていたにもかかわらず、それを表現しようとするときに、“ある”とか“ない”という二元相対的にしか表現できない言葉の制約によって、捉えた事実を的確に表現できないでいたのです。

そんな中、30歳の時に、たまたま「自分とは何か、この世界とは何か」ということを、1週間と期間を限定して、徹底的に極めようという機会に恵まれました。

毎日朝早くから夜遅くまで食事の時間も惜しんで取り組みました。考えに考え続けました。どんどん自分が追い込まれていきました。その中で、ハッとするような気づきがいくつかありました。しかし、それらは断片的なもので、何か一番大切なことがはっきりしてないという感じで、結局もやもやした感じで1週間が終わってしまいました。

ところが、その直後に、突然、強固な岩山のような頭に一筋の小さなひびが入ったような感じがしました。さらに、いくつもひびが入り、それがどんどん大きくなる感覚があり、ついには、岩山の一角、あるいは、老朽化した大きなビルの壁などが欠けて崩落するような感じで、頭から観念が崩落し始めました。そして、どんどん、次から次へと観念が落ちて、最後にはすべての観念の岩山がガラガラと大きな音を立てながら粉々になって崩れ落ちてしまいました。そして、気がつくと、下に落ちた粉も消えていたのです。

ここで、観念というのは、自他、所有、優劣、差別、好き嫌い、善悪、浄不浄、自由不自由、義務、責任など人間が作り出した観念、感情その他に関する思い込み、捉われ、事実に沿わない妄想、思いなどです。

そのすべての観念が脱落したのです。

こうして、観念がストッと落ちてしまい、「そもそも、“自分”というコロッとしたものはなかったのだ」ということにはっきりと気づくことができました。

(つづく)





←クリックで応援よろしくお願いします
人気ブログランキングへ

生死

生死

「生死の中に仏(不生不滅の“いのち”)があるので、生死というものはない。
(中略)
生死を超えようと思う人は、まさにこの趣意を明きらかにするべきである。
(中略)
生より死に移ると思うのは間違いである。生は(不生不滅の“いのち”の)一時の在り方であり、(中略)死も(不生不滅の“いのち”の)一時の在り方である。
(中略)
生と言う時には、生より他に何もなく、滅と言う時には、滅より他に何もない。だから、生が来たならば、ただ生に、滅が来たならば、ただ滅に向かいあって、従うべきである。生死を嫌がってはいけない。また、生死を願ってもいけない。

この生死はすなわち仏の御いのち(不生不滅の“いのち”)である。これを嫌がり捨てようとすれば、それはすなわち仏の御いのち(不生不滅の“いのち”)を見失う。また、生死に執着すれば、これも仏のいのち(不生不滅の“いのち”)を見失ってしまう。

生死を慕うことがないとき、はじめて仏のこころ(“いのち”の世界)に入る。ただし、アタマで考えたり、言葉でもって言ってはいけない。

ただ自分の身も心も放ち忘れて、仏の家(“いのち”の世界)に投げ入れて、仏(“いのち”)の方から行われて、これに従って行く時、力も入れず、アタマを使うこともなく、生死を離れて、仏(“いのち”の人)となる。誰が自分のアタマの中でぐずぐずしていられようか。

仏(“いのち”の人)となるのに、とても易しい道がある。諸々の悪を作らず、生死に執着する気持ちがなく、すべての人々のために、憐れみを深くして、(中略)すべてのことを嫌がる気持ちも、願う気持ちもなくて、アタマでいろいろ思うこともなく、憂えることもない。これを仏(“いのち”の人)と名付けるのである。他に仏(“いのち”の人)を求めてはいけない。」
(道元禅師著『正法眼蔵』生死の巻 現代語訳・注釈:昇平)

僕はこの文章がとても好きです。みなさんも繰り返し読んでみてください。

「ただ自分の身も心も放ち忘れて、“いのち”の世界に投げ入れて、“いのち”の方から行われて、これに従って行く時、力も入れず、よけいなアタマを使うこともなく、生死を離れて、“いのち”の人となる。誰が自分のアタマの中でぐずぐずしていられようか。」

これは、まさに只管打坐、そして、真実の生き方とは何かということであり、また、野口整体の活元運動と愉気の極意そのものです。

「“いのち”の人となるのに、とても易しい道がある。諸々の悪を作らず、生死に執着する気持ちがなく、すべての人々のために、憐れみを深くして、(中略)すべてのことを嫌がる気持ちも、願う気持ちもなくて、アタマでいろいろ思うこともなく、憂えることもない。これを“いのち”の人、すなわち、真実の人と名付けるのである。他に真実の人を求めてはいけない。」

これ以上説明は必要ないでしょう。

心がけて、毎日只管打坐をし、活元運動をし、愉気をして、心身を整えるとともに、生死を超えた天地一杯の“いのち”を実感し、何の憂えることもなく、すっきり爽やかに、すべての人々のために憐れみを深くして生きたいものです。





←クリックで応援よろしくお願いします
人気ブログランキングへ

願望と選択  その2

願望と選択  その2
(その1からのつづき)

さて、あなたはこの分岐点に立って、どちらの道でも自由に選択することができます。

では、選択の基準、あるいは、根拠は何でしょうか?

それはあなたの願望でしょうか?

でも、結局のところ、人間は何かを選択する場合には、アタマの願望で選択したつもりでも、あるいは、そのように見えても、実際は、本音(潜在意識による願望を含めた総合判断)でしか選択していないのであり、本音による選択による結果しか得ることはできないのです。(ここのところは、静かに、自分自身を振り返ってよく考えてください。)

では、本音は何を根拠として出てくるのでしょうか?

それはタバコであれば、タバコに対する価値観です。

「タバコにはデメリットはあったとしても、メリットはそれを上回る。タバコはなくてはならないものだ。だから、タバコは絶対必要だ」という価値観を持っていれば、「何が何でもタバコを吸いたい」というのが本音でしょう。

それでも、健康のためにタバコをやめなければならないと思えば、吸いたい気持ちを精神力でガマンするしかありません。

片方では、吸いたい、もう一方では、吸ってはいけない、というのですから、その葛藤はいつまでも続いていきます。だから、ガマンの禁煙は難しいのです。

その反対に、「タバコにはメリットは何一つない。あるのはデメリットばかりだ。タバコは大切な体と心の健康を奪う。タバコなんかまったく必要ではない」という価値観を持っていれば、「タバコなんか全然吸いたくない」というのが本音でしょう。

これまではタバコに対してプラスの価値観を持っていても、タバコの正体をはっきりと見極めて、タバコに対してマイナスの価値観を持つようになれば、タバコをやめるのは簡単そのものです。

吸いたくないものを吸わないでいるのに、ガマンも精神力もまったく必要ありません。

いま、あなたはタバコが必要な生き方とタバコは必要ない生き方の二つの道の分岐点において、タバコに対する新しいマイナスの価値観を持って、重大な選択、すなわち、タバコをきっぱりやめて、一生タバコなしに生きていくかの決断をしようとしています。

いくら、タバコに対するマイナスの価値観を持っていても、それだけでは、不十分なのです。

人生上の大問題においては、この「決断をする」という自分自身に対する宣言という手続きが重要なのです。これはやってみればわかります。

さて、あなたは、人生図でこれから一生、右側の世界で生きるか、それとも、左側の世界で生きるのかという2つの道の分岐点にいます。

あなたは、そのどちらでも“自由に”選択することができます。

右側の世界はアタマの妄想が作り出した苦しみの世界です。メリットは一つもなく、あるのは、とんでもないデメリットばかりです。

自分が右側で生きることは、自分が右側の世界を支えていくということであり、結局は、自分だけでなく、他人に、また、これからの子どもたちに苦しみを与え続ける生き方です。

このことに気がつけば、誰でも、もはや、選択の余地はなく、左の世界で生きることをワクワクした気持ちで決断したくなるのではないでしょうか。

(おわり)





←クリックで応援よろしくお願いします
人気ブログランキングへ

願望と選択  その1

願望と選択  その1

不可分一体観で生きる人とバラバラ観で生きる人の選択の違いは何でしょうか?

例のタバコ図に習って、人生図の左側は、「存在の真実は不可分一体である。だから、不可分一体の真実に即して、我、人と共に生きん!」という世界(生き方)です。

それに対して、人生図の右側は、「存在の真実はすべての存在はバラバラである。だから、バラバラ観に即して、自分(たち)ファーストで生きる」という世界(生き方)です。

すなわち、バラバラの世界で、何が何でも、自分(たち)と自分(たち)の家族や組織や国が生き残ろうというのが右側の生き方です。

そして、この右側の世界(生き方)には3つの道があります。

右の道は、積極的に他を圧倒していこうという”積極的自分(たち)ファースト“の道です。

左の道は、目立たないようにしながら自分(たち)を守っていこうという”消極的自分(たち)ファースト“の道です。

中間の道は、攻守バランスを取りながら、自分(たち)を守っていこうという“中間的自分(たち)ファースト”の道です。

ここでタバコ図を使って、例題を解く感じで、生き方の選択ということについて考えてみましょう。(以下、昨年の11月18日にアップした「自己の世界10」を参考に読んでいただければと思います。)
あなたはタバコをやめたいという願望を持ったスモーカーだとします。いま、あなたは1本吸い終わって、このブログを読んでいるとします。

さて、いま、あなたはタバコ図のどこにいますか? あなたはどこに立って世界を眺めていますか?

あなたはガマンできずに喫煙の道を歩いているのでしょうか?

あなたはガマンの禁煙の道を歩いているのでしょうか?

あなたは少しガマンしながら節煙の道を歩いているのでしょうか?

いいえ!!!

いま、あなたは1本のタバコを吸い終わったところですから、上の3つの道のどこにもいません。

いま、あなたはの前には2つの道が伸びています。あなたはその分岐点に立っているのです。

左側の道は、「タバコにはプラスの価値は一つもなく、マイナスの価値しかない、という真実に立脚して、タバコは吸う必要もなく吸いたいとも思わない、だから、タバコなしで生きていく。タバコは吸わない」という世界に繋がっています。

それに対して、右側の道は、「タバコには健康やその他の面でデメリットはあるが、タバコにはタバコでなければ得られないプラスの価値がある、という妄想に立脚して、タバコを吸う必要があり、タバコを吸いたい。だから、タバコと共に生きる」という世界に繋がっています。(そして、この右側の道はその先で、喫煙と禁煙と節煙という3つの道に分かれています。)

あなたは、いま、この左側の道と右側の道の分岐点に立って、どちらの道でも自由に選択することができます。もともと、あなたは完全に自由なのです。

でも、中間の道はありません。また、両方選択するということもできません。どちらも選択しないということもできません。

この選択の機会はあなたがタバコを1本吸い終わるごとに訪れています。

(続く)





←クリックで応援よろしくお願いします
人気ブログランキングへ

“いのち”は間違わない

“いのち”は間違わない

この世界には、さまざまなものや生命が存在し生滅・変化していると思われていますが、それはそっくりそのまま不生不滅・不変、ただ一つの大生命である“いのち”の現われです。

ですから、本来、あらゆるものは別々であるように見えながら、一つなのです。

この世界の生物・無生物を問わず、あらゆる存在、あらゆる現象、あらゆる行為はすべて“いのち”の現れです。

朝、日は東から出て、夜、月は西に沈む。犬がワンと鳴き、ネコがニャンと鳴く……。それがそのまま“いのち”の現れです。

私たちが呼吸するのも、食べるのも、眠るのも、考えるのも、話すのも、笑うのも、泣くのも、悩むのも、悟るのも、生きるのも、死ぬのも、あらゆる行為や身体的、心理的現象のすべてが“いのち”の現れです。

このように“いのち”は絶対であり、すべてなのです。(それを仏教では仏性、空、心などと呼んでいるようです。)

ですから、“いのち”が現れたこの世界には一切間違いがないのです。この世界はすべてよしです。

絶対である“いのち”が私たち人間を生み出し、その人間のアタマの働きによって生み出されたバラバラ観も、それに起因するいろいろなトラブルや争いや環境破壊なども間違いではありません。

えっ!?とお思いでしょうが、以下、平面的ではなく立体的によく考えてください。

たしかに、大宇宙や大自然の調和した姿や動きを含めて、この世界の存在の真実は不可分一体であることは明らかです。それこそ間違いはありません。

それにもかかわらず、バラバラ観、その他の存在の真実に合致しない考え方や行いや、現象などを絶対である“いのち”が生み出したことも事実なのです。

僕は、これは“いのち”の大きな計らいによるものだと考えています。

この地球上では、“いのち”は本能的に不可分一体の真実に沿って生きる存在として、人間以外の動物を生み出しました。ですから、そこにはもちろん間違いはありません。

ところが、“いのち”はあえてアタマを持った人間という“不可分一体の真実から逸脱してしまう可能性がある”存在を生み出したのです。

「不可分一体の真実から逸脱する」というのは、仏教では「迷い」と呼びます。

でも、なぜ、何のために?

迷いは苦しみです。苦しみは誰でも嫌なものです。ですから、迷った人間は必然的に苦しみから逃れようとします。

でも、一時的に苦しみから逃れることができたと思っても、ふたたび、迷って苦しみます。

そういうことを繰り返しているうちに、苦しみの根本原因を探し出し、それを取り除くしか苦しみから根本的に開放されることはないということに気付き、存在の真実とは何か?ということを求めるようになります。

その結果、存在の真実を自覚する、すなわち、悟りを得ることができるのです。

そして、迷っては悟るというプロセスが繰り返されることによって、存在の真実の自覚が深まっていきます。

このように、この世界で起きているすべては、“いのち”が私たち一人一人が存在の真実を自覚した存在、ネオ・ホモ・サピエンスになるために必然的に引き起こしている現象です。

だから、「すべてよし」です。





←クリックで応援よろしくお願いします
人気ブログランキングへ

ペイ・フォワード・ピース

ペイ・フォワード・ピース

アメリカ映画『ペイ・フォワード』は「ひとりの少年のアイディアが世界を変える」という映画です。

映画のストーリーの概要は以下の通りです。

11歳の少年トレバーは、社会科の授業中、担任のシモネット先生から「もし君たちが世界を変えたいと思ったら、何をする?」と問い掛けられる。

悩んだ末にトレバーはあるアイディアを思いつく。それは“ペイ・フォワード”。他人から受けた厚意をその人に返すのではなく、まわりにいる別の人へと贈っていく・・・・という奇想天外なアイディアだった。

やがて、少年の考えたユニークなアイディアが広がり、こころに傷を負った大人たちの心を癒していく・・・・。
(DVD『ペイ・フォワード』の説明書きより)

英語の“ペイ・バック”、pay backとは「厚意を受けた人にお礼をすること」という意味ですが、“ペイ・フォワード”、pay forward とは「ある人から受けた厚意をその人に返すのではなく、まわりにいる別の人に何らかの形で厚意を贈ること」という意味です。

ペイ・バックの場合には、二人の間だけで厚意のやり取りとお返しがあるだけでそれ以上の広がりはありませんが、ペイ・フォワードの場合には、一つの厚意は、AさんからBさん、BさんからCさん、CさんからDさん、・・・・とどこまでも伝わり広がっていきます。

この“ペイ・フォワード”というアイディアの斬新さに感動して、僕にも “ペイ・フォワード・ピース”、pay forward peaceというアイディアが閃きました。

その内容は「一人の人から受けたある“平和のメッセージ”を確実にこのメッセージをまだ受け取っていない二人以上の人に伝えていく」ということです。

たとえば、一人の人が平和のメッセージを1週間で確実に重複しないように二人以上の人に伝えていけば、1,2,4,8,・・・と、計算上は、34週間以内に世界中の大人の大多数が“平和の人”となり、この世界に平和が実現できるのです。

もちろん、どうしても、戦争をしたいという人もいるでしょうが、世界中で平和の人が圧倒的な多数を占めるようになる可能性は充分にあります。そうなれば、もはや、戦争は起こらなくなるはずです。

“ペイ・フォワード・ピース”は1か月に二人以上であれば、34か月以内ということになります。いずれにしても、そんなに期間はかからないでしょう。

“ペイ・フォワード・ピース”のポイントは、どうすれば、その話を聞いた人が確実にその気になり、それを確実に二人以上の人に伝えるかということです。それは、ただ、ただ、“平和のメッセージ”の内容一つに掛かっています。

だから、単純に「世界平和を実現しましょう」「平和を祈りましょう」などと言ってもだめです。

それは、たとえば、長くてもA4用紙1枚以内の簡潔で明瞭な文章で、誰でも「なるほどなあ。こういう内容であれば、そして、このやり方だったら、絶対に世界平和が実現できるだろう。私も必ず二人以上の人に伝えよう」と思ってしまうものでなければなりません。

そこで、「新春スペシャルクイズ」として、それをみなさんお一人お一人考えて、考えたものをいくつでもコメント欄に書いていただきたいのです。

特賞は世界平和です。




←クリックで応援よろしくお願いします
人気ブログランキングへ

梅開早春

梅開早春

大晦日に、私たちが「田んぼのお師匠さん」と呼んでいる通称「平八郎さん」が軽トラで大量のキャベツとネギと一枝の梅を届けてくれました。

梅の枝にはいくつもの蕾(つぼみ)がついていましたが、早速花瓶にさして玄関に飾っておきました。

年が明け、朝早く新聞を取りに行こうと、玄関を開けようとしたときに、ふと気がつくと、梅の枝に一輪の梅の花がポッと白く咲いていました。

そのとき「梅開早春」という言葉が浮かびました。

この「梅開早春」というのは、「只管打坐」を唱えた道元禅師が仏教の奥義を極めようと、宋の国に留学したときについた天童如浄禅師がある日の講話で詠まれた詩の一節です。

(ちなみに、道元禅師は、ある夜半、如浄禅師が言われた「心身脱落せよ」という言葉を聞いた瞬間に、存在の真実を大悟されたと言われています。)

さて、あなたは「梅開早春」を何と読みますか?

これは昔の中国語、つまり、漢文で、「梅は早春を開く」と読みます。

「梅は早春に開く」とも読めるのかもしれませんが、僕は断然「梅は早春を開く」と読みたいと思います。

つまり、早春が来て、そこで、梅が開く、というよりも、僕の実感としては、梅が早春を開くのです。

私たち現代人は、いわゆる、科学的思考は絶対に正しいというように教育されてきたように思います。

もちろん、科学的に思考することは、それはそれでとても有益だと言えます。でも、現代までの科学はまだものごとの一面しか表現できていないのも事実です。

このように言っても、迷信でも何でも、きちんと検証することなく、信じてもよいということではありません。

言葉の使い方もありますが、いずれにしても、私たちの多くが「早春になったから、つまり、気温が上がってきたから、梅の花が開いた」ということだけを真実だと思っているのではないでしょうか?

たしかに、科学的に表現すると、そういうことになるのでしょう。

でも、別の角度から言えば、気温が上がってきたこと、梅が開いたこと、ひばりが鳴き始めたこと、野外から人々の笑い声が聞こえてきたこと、そういうことの一つ一つ、そして、そのすべてが早春なのです。

ですから、我が家の玄関にある一輪の梅の花が早春を開き、新らしい年を開いたのです。

この世界は、本来、バラバラのものが寄り集まってできているものではありません。

この世界はたった一つの大生命力である“いのち”がいろいろな模様を描きながら現れ展開している世界です。

この世界のすべてのものはみんな同じ“いのち”です。

その梅の一輪の花が全世界を悉(つく)してます。そして、存在の一つ一つが全世界を悉しています。

それは、この自分についても同じです。この自分はちっぽけな存在などではなく、真実は全世界を悉しています。

つまり、真実の自分は自分が生きる全世界と共に生きているのです。

その真実の自分を僕は”自己“と呼んでいます。

ですから、梅開早春であり、梅開新年、梅開世界、梅開自己なのです。


梅一輪 いちりんほどの 暖かさ (服部嵐雪)



←クリックで応援よろしくお願いします
人気ブログランキングへ

明けまして、おめでとうございます

明けまして、おめでとうございます

私たち日本人は年のはじめに「明けまして、おめでとうございます」と挨拶します。

いつもこのように挨拶しながら、僕はこれはとても良い風習だなと思います。

でも、年が明けて、一体何がおめでたいのでしょうか?

ただ、現代生活の中では、正月にはそういう風習だから、あまり考えることもなく、何となくそんな気分になって挨拶しているという方が多いのではないでしょうか。

まあ、文句を言う筋合いでもないので、それはそれとして仕方がないのだとは思いますが、ちょっともったいないと僕は思うのです。

僕は正月は自分自身が一気にリセットされる機会だと思い、一年でもっとも大切にしています。

「自分自身がリセットされる」というのは、年が明けるとともに「生まれたての自己」に完全リセットされるということです。

「生まれたての自己」と言っても、もちろん、“肉体的に”生まれたての自分に戻ることはできないので、まあ“精神的に”と言う意味です。

さらに言えば、「精神的に生まれたての自分に戻る」というよりも、「本来の自己に戻る」と言ったほうがぴったりきます。

僕は日ごろからこころがけて瞑想をしたりしながら、本来の自己を見失わないように努めてはいます。

でも、毎日アタマで「ああでもない、こうでもない」といろいろ考えながら生活する中で、日が経過するにつれて、何か自分のこころの中にだんだん滓(カス)のようなものが澱んで溜まってくるように感じるのです。

それが、いつのころからか、毎年、元旦の朝起きると、その澱んだものが振り祓われて、自分が生まれたままの新鮮な自己に完全にリセットされているのを感じるようになりました。

それこそ「おめでたいヤツだな。自分で勝手にその気になっているだけだろ」と言われれば、その通りなのかもしれません。

でも、日本人が古来から正月に「新年、明けまして、おめでとうございます」と互いに挨拶を交わしてきたのは、1年という時が巡り、新しい年が明けると共に、天地のすべて、生きとし生けるもの、そして、自分自身が、一斉に、天地創造のはじめにリセットされたことを寿ぎ祝ってきたからに違いありません。

本来は、それは旧暦の元旦に寿ぎ祝うべきなのかもしれませんが、僕はどういうわけか新暦の1月7日が誕生日にあたっているので、毎年、新暦の正月1日から7日までをリセットされた生まれたての新鮮な気持ちで、一年の計を立てながら、自分自身と向かい合って過ごすことにしています。

現代社会においては、自分が相当意識して過ごさないと、正月と言っても、ただただ、うるさく、何か浮かれた気分のうちに、あっという間に過ぎてしまいます。そして、また、いつもの年のように、忙しさの中で、世間の雰囲気に流されて月日が過ぎてしまいかねません。

どうか、みなさまも、「今日も明けましておめでとうございます」とこころから言える心境で、毎日毎日を生きられるよう、お祈り申し上げます。


新ためまして、新年明けましておめでとうございます。




←クリックで応援よろしくお願いします
人気ブログランキングへ

| ホーム |


 ホーム