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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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なぜタバコについて書くのか  その3

なぜタバコについて書くのか  その3

スモーカーモードの何が問題なのでしょうか?

それは、スモーカーは洗脳されて、自分のアタマがスモーカーモードになっていることに気が付いていないということです。

アボガドを生まれて初めて食べることによって、アボガドの味を知ることができるのと同じように、スモーカーも、タバコを吸うようになったからこそ、「タバコは喜びであり、心の支えだ」と思うようになったのです。

でも、そこに見逃している大きな過ちがあります。

それは、アボガドは普通の果物であり、タバコは依存性物質、つまり、麻薬だという事実に気が付いていないということです。

麻薬は人を騙(だま)して、「これは喜びだ、心の支えだ」と錯覚させます。

つまり、スモーカーはタバコに騙されて、「タバコはいいものだ」と思わされているだけなのです。

「そう言われても、なかなか実感としてそう思えない」とスモーカーは言うかもしれません。

でも、実感を当てにして判断してはダメなのです。なぜなら、タバコは狡猾な手品師のようなもので、スモーカーはみんな見事に騙されてしまうからです。

では、どうしたらよいのでしょうか?

それは「メタ認識」をするということです。

スモーカーはスモーカーモードで“主観的に“考えたり、感じたりして認識しているのですが、メタ認識というのは、自分の姿を外から第三者の眼で”客観的に“見て認識するということです。

ヘロイン患者はヘロイン依存モードで、腕にヘロインを注射して、「ヘロインは喜びであり、心の支え」だと思っています。

でも、たとえスモーカーではあっても、ヘロイン患者でなければ、誰でもヘロイン患者を外から第三者の眼で客観的に見ることができます。

その結果、少し注意してみていれば、「ヘロイン患者はヘロインを注射してハイな気分になっているのでもなく、真の喜びを得ているのではない。前に注射したヘロインが生み出したヘロイン切れの惨めな気持ちを、新たにヘロインを補充することによって一時的に解消しているだけだ。しかも、新たに補充したヘロインが再び惨めな気持ちを生み出すのだ」ということに気が付くでしょう。

スモーカーも自分自身の姿をメタ認識して見れば、自分自身がヘロイン患者とまったく同じだということに気が付くでしょう。

スモーカーも最初の1本を吸うまではノンスモーカーだったのです。その時、どんな状況でもタバコが必要だ、吸いたいなどと思ったことはなかったはずです。それがタバコに対する真実の見方です。

ですから、スモーカーモード、すなわち、タバコの価値観は全くの幻想にすぎません。この真実に気が付けば、誰でも一瞬にしてタバコに対する幻想の価値観を放り投げて本来のノンスモーカーに戻れます。

これと同じように、存在の真実に気づく、すなわち、悟りを得るためには、メタ認識により、この社会で身に付けてきたいろいろな観念がすべて洗脳されたものであり、すべて間違っていたことに気が付けばよいのです。

その間違いをはっきり認めたときに、すでに自分は不可分一体の真実の世界に生きていたことにはっきりと気づくことができるでしょう。





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なぜタバコについて書くのか  その2

なぜタバコについて書くのか  その2

このブログでタバコについてしばしば書いているもう一つの大きな理由は、「どうすればタバコをやめられるか?」というテーマは、「自分とは何か? この世界とは何か?」を知ること、つまり、存在の真実を知ること、つまり、「悟り」と質的には同じだからです。

ここで、あらためて、簡単に、「どんな意味で質的に同じであるか」ということについて説明してみたいと思います。

私たちはこの社会で生まれ生きていく中で、「本当はどうか?」と、きちんと検証していないのにもかかわらず、ほとんどの人が「当然のこと」としている考え方を、私たちもいつの間にかそれをきちんと検証することもなく、「当然のこと」としてしまって、それらの考えに基づいて生きています。

ここでは、それを「社会的洗脳」と呼んでおきましょう。それで何も問題がなければ、それでよいとも言えるのですが、実際には、この社会では個人的にも社会的にも人々はいろいろな深刻な苦しみと混乱の中で生きています。

その根本的な原因は、私たちが当然のこととしていることのほとんどが間違っているからなのです。

そういう社会の在り方に疑問を感じて、真実、つまり、悟り、あるいは、本当の救いを求めるために、家や家族を離れ、出家した人の代表的存在がお釈迦様です。

いずれにしても、私たちは個人的、社会的ないろいろな問題に直面して、それを何とか解決しようとはするのですが、ほとんどの場合に、洗脳されたアタマ、あるいは、間違った観念の中で、個人的にあれこれ考えたり、あるいは、複数の人で議論したりしながら、それを解決しようとしているので、どうしても根本的な解決を得ることができないことがほとんどなのです。

それはなぜかと言えば、自分自身がこの社会において洗脳されてきた事実自体にほとんどまったく気付いていないからです。

その現象はスモーカーの心理状態によく似ています。タバコをはじめて吸い始めると、スモーカーのアタマは社会における人々(特に、スモーカー)のタバコについての認識、つまり、タバコは確かに健康に悪いし、副流煙が人に迷惑をかけるなどのデメリットがあるかもしれないが、「タバコは何ものにも代えがたい喜びだ、心の支えだ、必要なんだ、吸いたい」という認識と同時に、タバコ自身の化学的作用によって洗脳されて、いつの間にか自分自身も「タバコにはタバコならではのメリットがある。タバコはいいものだ」と思い込むようになり、もはやそれを疑おうともしません。

けれども、「スモーカーモード」のアタマで「吸いたい!」と思いながら、健康に悪いし反社会的な習慣だからなどの理由で、「吸ってはいけない!」と頑張ってみても、自分の座っている座布団を自分で持ち上げようとしているようなもので、これですっきりタバコをやめることはできません。

これは洗脳されたアタマで物事を解決しようとしても、まずは不可能だということの典型的な例だと言えるでしょう。

(つづく)





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なぜタバコについて書くのか  その1

なぜタバコについて書くのか  その1

僕のブログを読んでいる人は、「タバコ」というタイトルを見るたびに、「また、タバコの話かぁ」と思うことでしょう。

でも、僕がしょっちゅうタバコについて書くのには大きな意図があるのです。

もちろん、スモーカーには一日も早く邪悪なタバコの正体に気づいて、タバコをやめてほしいと思っています。でも、それと同時に、もっと大切な意図があるのです。

僕があえてノンスモーカーの人たちにもタバコの正体について知ってほしいのは、タバコは強い麻薬的効果を持ち、健康に大きな被害をもたらすにもかかわらず、“嗜好品”として、社会のいたるところで堂々と合法的に販売されているこの社会の異常さに気づいてほしいからです。

このように、大きな犠牲を人々に強いながら、タバコで莫大な利益を得ているのは、それを製造・販売しているJT、外国のタバコ会社、タバコ税を徴収する財務省の官僚など、そして、それらに関わり利権を得ている国会議員などで構成されている「タバコ村」の人々です。
(ちなみに、タバコを買ってタバコ税を納めても、タバコによる健康被害の治療にかかる医療保険の方がもっと大きいので、社会貢献にはなりません。)

これと似たような仕組みが「原子力村」、「医学村」などです。その他にも、それぞれ程度の差はあっても、同様の仕組みは政治、経済、産業などいろいろな分野において存在しています。

多くの人たちはあまりにもこれらの実態について無知であり無関心すぎるのです。

なぜなのか、それは一つには「お上信仰」だからです。「お上の言うことは間違いない」と思い込んでいる人が多すぎるのです。そして、さらに、「みんなと同じように振舞っていれば大丈夫だろう」という気持ちで生きているので、「本当はどうか?」などと考えもしないのです。

この社会ではごく一部のものが巧みにこのように大衆を操作して、自分たちの企みに気づかせないようにしながら、莫大な富と権力を私物化しています。

私たちはこれらの企みとその仕組みをしっかり見抜く目を持たなければなりません。

では、なぜ、このような企みや仕組みができるのでしょうか? 

それは、根本的には対立関係を当然のこととするバラバラ観が社会の基盤(土壌)となっているからです。化学肥料と農薬まみれの土壌からはどんなに工夫しても安全で美味しい作物はできません。

誰でもちょっと考えれば、私たちの社会は非常に不安定なものであり、この先どうなるのかもまったく不透明であることが分かるでしょう。

これまでのように人任せで、「誰かが何とかしてくれるだろう」などと思っていては、本当にどうなってしまうか分からないのです。

いま私たちの社会(世界)はギリギリのところに来ており、その存続そのものさえ危ぶまれていると言っても決して過言ではありません。

今こそ、バラバラ社会(世界)の異常さに気がつき、本気でこの社会(世界)を不可分一体社会(世界)に変えようという人がどんどん出てきてほしいと思います。それがネホサです。

タバコのトリックについて繰り返し書いているのはそのためです。

そして、「いのちの塾」のブログもすべてそのために書いているのです。





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誰でもすでに完結している

誰でもすでに完結している

今日地球上に生息する生物は、生命の発生以来数十億年の間に生命を脅かす無数の危機に遭遇しましたが、その度に遺伝子の突然変異により、いろいろな機能を獲得・進化させることによってその危機を乗り越えてきました。

人類は生物進化の頂点に立っていると言われますが、体の面でも心の面でも、その生存能力の素晴らしさは過去数十億年の実績により実証済みであると言えましょう。

その証拠に、医学が生まれるまで、人類は医者や薬に頼ることなく地球上のほとんどあらゆる所に生息地を広げ繁栄してきました。

ところが、近代医学が発展するに従って、私たちは、人間は体も心もか弱い生き物だと信じるようになってしまいました。

野生の動物にとっては妊娠、出産は自然の営みで、医者や薬なしに自分ひとりでちゃんとこなします。

ところが、人間はと言えば、妊娠や出産をまるで病気のように扱い、何度もいろんな検査を受けたり、出産に際しても促進剤を使ったり、医者や看護婦や助産婦の補助なしにはできないというのが常識となっています。

学校での定期的な健康診断、あらゆる種類の予防接種も人間はか弱い生き物であり、薬や医者なしには生きてはいけないという考えを子供心に植え付けます。健康診断や予防接種は大人になっても奨励され、私たちは「人間はか弱い生き物だ」とますます洗脳されていきます。

私たちは、あらためて、人間には野生の動物と同じように、本来、自分自身で体や心を整えて健康を保っていく力が十分に備わっていることをしっかりと認識することが重要です。

薬や医者など外部の助けに頼るのではなく、体の不調の原因は食生活を含めた不自然な生活態度にあるのですから、まず、生活態度を見直し、健全な生活に戻すことが肝要です。そのうえで、自分自身にもともと備わっている体を整える機能をより活発にすればよいのです。

心についても、ほとんどの人がストレスや恐れ、不安、心配は不都合なことと勘違いしています。

でも、アタマで妄想をたくましくして必要以上に感じすぎるのは問題ですが、真実は、「何かがうまくいっていないよ。何とかしなければいけないよ」と警告してくれているのであり、生存をよりスムーズにするために人間にもともと備わっている大切な機能なのです。

ですから、たとえば、ストレスがあるからと言って、甘いものを大食いしたり、お酒や鎮静剤などを飲んだりして神経を麻痺させてストレスを感じなくするというのはとてもマズイのです。

一時的にストレスを感じなくさせても、酔いや薬の効果が醒めればストレスは戻ってくるわけで、大食いやアルコールや薬そのものによるストレスも加わり状況はさらに悪くなります。

ストレスは警告シグナルですから、ストレスを解消するにはその原因そのものを見つけてそれを取り除くしかないのです。まさに、そのために必要であるからこそストレスは生じるのです。恐れや不安や心配などについても同じです。

このように、人間は、本来、体も心も何一つ欠けることなく、すでに完結しているのです。





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徒然の思い

徒然(つれづれ)の思い

幼かった時の子と父の会話
父、「なぁ、将来お前は何になりたい?」
子、「大人」
父、「だから、大人になったら何になりたいんだ?」
子、「何にも」

少年になった時の子と父の会話
父、「将来お前は何になりたい?」
子、「大人」
父、「偉くなりたくないのか?」
子、「ただの人が一番いいな」

彼が何かをやっていた時の母と子のいつもの会話
母、「そんなに一生懸命何のためにやっているの?」
子、「面白いからさ」

幼い時から、彼はどんな小さな生き物でさえ、殺すのを嫌がった。
母は、ある時彼が自分の手の甲にとまって血を吸っている蚊を面白そうに見ているのに気づいた。
母が蚊を叩こうとすると、彼は手を振って蚊を逃がしてやった。
母、「どうして?」
子、「腹を空かさせちゃ可哀そうじゃないか」
動物も魚も彼の友達であり、遊び仲間なのだ。
誰が友達を捕まえたり、友達を食べたりするだろうか?
彼は肉も魚も一切口にしない。

いろいろ質問されても、彼の答えはいつも直截で簡単だった。
いつでも本心しか言わないからだ。
彼は生まれてから方便のための嘘をついたことがない。
口に出したことはすべて本気なのだ。
約束や誓いはいつも心からのものだ。

彼は何事も先取りして考えたり悩んだりすることが大嫌いだった。
明日のことなど人間風情に分かるわけがない。
分からないからこそ、生きるのが楽しいのではないか。
現実にぶつかってみて、知力と体力の限りを尽くして対応すればいい。
それで駄目なら死ねばいい。
彼にとって人生は極めて簡単で楽しさに溢れたものだった。
予測や不安でその楽しさを消してしまう人間の気持ちがわからない。
「その時はその時のことさ」彼はいつも自然である。
明日への方策を明るくしっかりと巡らしながら、
今日を精一杯生きられれば、それでいいじゃないか。
いつ死ぬかは分からないが、死ぬまで清々しく生きたい。
一点の曇りもなく、晴れた空の下で生き、そして、死んでゆきたいと思う。

大人になった時の、父と子の会話
父、「お前はいつ見ても世の中に何の憂いもなさそうな顔をしているな。毎日がそんなに楽しいかね?」
子、「そりゃあ、楽しいですよ。当たり前じゃないですか」
父、「なぜだ?」
子、「私は運がいいんです」
父、「そうだ、お前は運がいい。だからその運を十二分に生かしなさい」
子、「私は好きなように生きます。自分を抑え、自分が自分でなくなってまで、長生きする気はありません」

彼は、少年の日の自分自身との約束だからこそ必ず守ろうと思う。この約束を破ることは、そのまま少年期の無垢への裏切りだと思う。

人は環境によって不幸になる生き物ではない。
人を不幸にするのは確実にその人の心である。
心さえ健やかに爽やかであれば、どんな境遇にいても幸せを見つけることは可能なのだ。
みんなにもそれを見つけてほしいと思う。

生まれてから今まで、好きなように生きてきた。
この世の素晴らしさも充分に味わってきた。
「いつ死んでも悔いはない」それが彼の本音だ。
だからこそ、きっと長生きするんじゃないかな。





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あなたの宝の蔵はどこに

あなたの宝の蔵はどこに

中国の禅は実質的には馬祖道一から始まったと言われます。馬祖は8世紀の中国に生き、趙州禅師の師匠・南泉禅師の師匠に当たります。

馬祖は数多くの弟子を持ち指導をする中で「平常心是道」や「即心即仏」など有名な言葉だけでなく、たくさんの逸話を残しています。以下はその一つです。


大珠慧海が初めて馬祖に面接した。
馬祖が尋ねた、「どこから来たのか」。
大珠、「越州の大雲寺から来ました」。
馬祖、「いったい何が目当てでここに来たのか」。
大珠、「仏法(真実の自己)を求めに来ました」。
馬祖、「自分の宝蔵には見向きもせず、家をほったらかして走りまわって、どうしようというのか。わしの所には何も無い。仏法なんぞ見付かりはせぬ」。
大珠は礼拝して尋ねた、「何が私の宝蔵なのですか」。
馬祖、「いま私に問うている君こそが君の宝蔵だ。一切が具わっており、何の欠けたものはなく、使おうとすれば思いのままだ。どうして外に求める必要があろう」。
聞いたとたん大珠ははたと自己の本心を識り、躍り上がって喜び感謝した。
師事すること六年であった。後に受業の寺に帰り、自ら『頓悟入道要門論』一巻を撰した。馬祖はこれを読んで大衆に言った、「越州にみごとな輝きを具えた大真珠がある。その光は自在に透過して、隔てるものもない」。
(参考:『馬祖の語録』入矢義高編 禅文化研究所出版)


とくに難しい文章ではないので、大体の文意は分かると思います。問題はその内容が実感として分かるか? 自分自身について、心からそう思えるか? ということです。

この馬祖の問いは、僕の言葉では、「あなたは一切欠けるところがなく、完結した存在ですか?」となります。

この問いこそが究極の問いなのです。あなたは全身で「ハイ」と答えられますか?

もし、腹の底から「ハイ」という答えが出てこないようであれば、今度の休日にでも、心掛けて一人になる時間を作って、朝から晩まで自分に問いかけてみてください。

すべてはこの問いに集約されています。これがはっきりしなければ何をやってもどうにもならないのです。

この問いに、心から全身で「ハイ」と言えることは自分の宝蔵を見つけたということです。その時、自分の心がどこまでも澄み切っていて、どこまでも開き、真心が溢れるように出てくるのを自ら感じることでしょう。

そして、この世界が「なるほど不可分一体なんだ」ということを全身で感じることができるでしょう。それは決して消えることはありません。

僕自身はとくに修行したわけでもないのですが、不思議なめぐり合わせで、自分が存在の真実について体験的に理解した内容については絶対的な確信があります。他からの何ものも保障や認定も必要ないと思っています。

このところ僕が過去の著名な禅師の言葉を取り上げてきたのは、言われていることが僕の体験的理解と符合するところが多いのが我ながらとても面白いからです。

その面白さをみなさんにも体験的に理解していただければというのが僕の気持ちなのです。




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