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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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川の瞑想の実際  その9

川の瞑想の実際  その9
(その8からのつづき)

般若心経に「色即是空 空即是色」という言葉があります。ほとんどの方は、せいぜい、何かありがたい、凡人には計り知れない意味があるのかな、と思うだけで、お経の飾り文句のように感じているのではないかと思います。

仏教にはその教えをあらゆる角度から説明した膨大な量のお経があります。でも、「色即是空 空即是色」というこの言葉こそ仏教の心髄中の心髄であり、これほど、自己の本質と存在の真実を的確に表しているものはありません。

この場合、「色」というのは、直接的には「眼に見えるもの」、「空」は「眼にみえないもの」という意味です。したがって、色即是空は「色は、すなわち、空である」ということで、「眼に見えるものは、すなわち、眼に見えないもの」ということになります。空即是色は「眼に見えないものは、すなわち、眼に見えるもの」ということです。

これはまさに川の瞑想によって体感できる自己の本質と存在の真実に他なりません。川の瞑想では、最初に音を聞き、次に、その音の奥にある静寂の存在を体感します。そして、音は静寂より生まれ、また静寂に戻ることを体感します。それは「音即是寂 寂即是音」、つまり、「音は、すなわち、寂であり、寂は、すなわち、音である」ということです。

川の瞑想では最初は聴覚を通して、「音と静寂の世界」を、次に視覚を通して、「眼に見えるものと眼に見えないもの世界」を体感します。そして、「眼に見えるものは、すなわち、眼に見えないものであり、眼に見えないものは、すなわち、眼に見えるものである」、すなわち。「色即是空 空即是色」を体感するのです。

ついでですが、般若心経のこの文句で使われている「色」は直接的には「眼に見えるもの」、すなわち、「形姿を持って存在するもの」という意味ですが、ここでは、この世界に現れているあらゆる現象や存在(たとえ見えなくても)を表しています。

同様に、「空」は、直接的には、「眼に見えるもの」、すなわち、「姿形を持たないもの」という意味ですが、ここでは、それだけではなく、この世界のあらゆる現象や存在を顕現している、その奥、あるいは、内側にある本質を表しています。ですから、仏教で言う「空」はこれまで僕が使ってきた“いのち”と同じであると言ってもよいのではないかと思います。


このように、川の瞑想は単に「いい気分になって、くつろいで、安らぐ」など、精神を安定させるといったことを目的にしているのではありません。まさに、存在の真実を体感し体得することが目的です。しかも、それが、誰でも簡単にできると言うところが川の瞑想の一大特徴だと言えるでしょう。

そういう意味では、川の瞑想をして心が安らいだ、落ち着いたなどということは同然ありうることではあっても、あくまで副次的な効果にすぎません。このことを肝に銘じて、誤解のないようにしてください。

なお、川の瞑想の実習では、CDの川の流れの音のオン・オフに耳を傾けるとともに、眼を開けて、畳や壁など静止して、音を出していない何か外部のものに眼を合わせてその静寂を聴こうとすると、聴覚的な川の流れのオフ、つまり、静寂と、たとえば、視覚的な畳の静寂が合わさって、より静寂を聞き、見ることができて、はっきり確認することができます。

これを繰り返していると、CDなしでも、眼を、例えば、畳に合わせて、その静寂を見ようとすることによって、畳だけでなく、周りのすべてが静寂そのものであることを体感できるようになります。それに熟達してくれば、CDなしに、ただ周りの音がしていないものに視線を向けるだけで静寂を持続的に体感できるようになります。

そして、それに熟達すれば、音が出ているものを見ても、その奥に静寂を持続的に体感できるようになります。そしてついには、町の真ん中の通りに出て、周りを見ても、騒音の真っただ中で、ずっと静寂の中にいることができるようになります。

そうなると、テレビを見ていても、人と話をしていても、静寂の中にいられるようになります。ですから、心はいつも安定し安らいですっきりしています。これが本当の「平常心」です。日常生活で、いろいろなこと、いろいろな思いに振り回されて、やっさもっさしている心はとても「平常心」とは呼べません。

自分自身を振り返って、何かで心が動揺したり、アタマに来たり、心配性であったり、悲観的であるなど、しょっちゅうマイナス感情に振り回されながら生きているという人はこの川の瞑想を真剣に実践することをお勧めします。とにかく、貴重なかけがえのない人生をそんなつまらないことで自ら粗末にしながら生きていくことほどもったいなく愚かなことはないのですから・・・。

もう一つ、川の瞑想の延長で有効な方法は、川の流れのCDを聞きながら、眼を開けて自分の外を見ると同時に、その逆方向、つまり、自分の眼の奥の奥の方をずーっと見ると言うか、意識するのです。

そこに、何があるでしょうか?視覚的にはそこには何もありません。同時に、聴覚的にも何もありません。まさに、静寂・透明であり、空です。それが自分自身の本体です。それは僕が26歳の時に体験したものです。自分の体の感覚はもちろんあります。思いもあります。目の前のものも見えています。CDの音も聞こえています。でも、自分の体や心の奥には静寂・透明な空があるだけです。なにがあっても、それは絶対に変わるものではありません。

慣れてくると、CDも必要でなくなります。僕がよくやるのは、庭で空を見上げながら、同時に、視線を逆にするような感じで、自分の眼の奥の奥の方を意識することです。そこはいつも絶対の静寂であり、透明な空間です。その透明な空間には枠もありません。なにか、どこまでも透明な枠のないレンズのような感じです。その透明なレンズに外界の空が浮かんで見えています。空に雲や山が見えていると、よりやりやすいと思います。

この実習をやるときは、通りや何かではあぶないので、必ず公園や庭、あるいは、ビルの屋上、海岸、川の土手などで動かないでやってください。僕は、電車で窓側の席に座れた時は、窓から外を見上げながらやっています。そうすると、どのように見えるかというと、静寂で透明なく右である自分の中にすべての存在が入っているように感じます。

日頃の感覚では、自分は小さなアリのように、この広大な世界の中のちっぽけな存在だと感じていませんか? 確かに、広々とした戸外で自分の体とその周りを見ると、そう感じるかもしれません。でも、自分の眼の奥、その奥の自分の本体の中にこの世界、この宇宙全部が入っているのです。本当の自分は宇宙大の大きさなのです。

このシリーズのどこかで、特殊な二つのレンズがついたメガネの話をしましたが、それは以前ブログに書いた、「奇妙なガラス板」とよく似ています。この世界をそのガラスの右側から見ると、みんなバラバラにみえるのですが、左側から見ると、みんな一緒、一つに見えるのです。

私たち人間は肉眼の眼で表面的に見えるバラバラの世界と心の眼で見たこの世界の本質である不可分一体の世界という二重の世界の中で生きているのです。自分というのは個として生きながら、同時に、その本質である、この宇宙をすっぽり包んでしまうほど大きな“いのち“を生きているのです。つまり、別々でいながら、みんな一つという二重の存在性の中で生きているということです。

だから、肉体が死んでもどこにも行きません。いまここにある本質である空、“いのち“の世界から飛び出てどこかに行くわけではありません。簡単に言えば、自分の本質は“いのち“なのですから、どこにも行きようがないのです。だから、肉体が活動している時も”いまここ“にいて、肉体の活動が止んでも”いまここ“にいるのです。つまり、”あの世“というものは”いまここ“にあるのです。

(独り言:愛する人や親しい人がなくなっても、いつまでも嘆き悲しまなくてもいいじゃないか。ふと寂しく思う時もあるかもしれないけれど、死んでもいつも一緒にいるのだから、それで充分じゃないか・・・。)

もう一度、川の瞑想の目標を段階的に説明しましょう。

まず、いろいろな音の奥に静寂があることが分かった。いろいろな音があっても、いろいろな思いは出てきても、ずっと静寂の世界に留まっていることができるようになった。では、その次の段階ではどうするかということです。

それは視覚も使って、もちろん、いろいろなものが見え、音がし、思いや体の感覚がありながら、そのすべての奥に、まず、すべてが完全に静寂であること、次に、自分の内側に視線を向け、自分自身が絶対の静寂であることを体感することです。

そして、次は、外にあるものがすべてその奥は透明で空であること、そして、次に、自分自身が透明で空であることを体感することです。そして、その次の段階はCDなしでそれぞれ体感できるようになることです。

それから、川の瞑想を長時間やっていると、足がしびれてくることがあります。けれども、川の瞑想がきちんとできていれば、足がしびれてもそのまま放っておけば、なんの支障もなく、絶対的な安らぎの中で、快適に川の瞑想を続けることができます。このことがわかれば、一日中でも続けることができるような感じがするでしょう。

これは坐禅でも同じです。足が痛くてガマンできなくなるのは、やり方がまずいのです。足がしびれていても相手にしなければよいのです。アタマの思いも同じです。これが楽にできるようになると、思いも次第に出てこなくなって、心が澄んでくるようになります。この状態ですべてを任せて坐っている状態こそが本当の只管打坐なのだと言えるでしょう。

そういう状態になれば、道元禅師の言われる「心身脱落」と言えるかもしれません。ちなみに、道元禅師は『正法眼蔵』の『現成公案』の巻で次のように言われています。

仏道をならふといふは、自己をならふなり。
(仏道をならふ=存在の真実を究める、自己=真実の自己)
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
(前の自己=真実の自己、後の自己=見かけの自分)
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
(自己=見かけの自分、万法=すべての存在)
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
     (自己=自分、他己=他の人、他の自分)  (注釈:昇平)

「身心脱落」とは、身も心も一切の束縛から解き放たれた状態になることです。「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむる」とは、個としての自分と個としての他というものが消えてなくなって、すべて、宇宙全体が不可分一体であることを体感することです。


最後に一言。この世界は見かけ上のバラバラの個という視点から見ると、本当に苦しいこともありますが、不可分一体の“いのち“という存在の真実の視点から見ると、そのままで「すべてよし」の世界なのです。それを簡単に体感できる川の瞑想は最高だと思います。

(おわり)





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川の瞑想の実際  その8

川の瞑想の実際  その8
(その7からのつづき)

ここで、質問します。「自分とは何ですか?」 しばらく、時間をとりましょう。

(間)

きっと、アタマの中で、「名前」とか、「自分」とか、「いのち」とか、「人間」とか、「日本人」とか、「生物」とか、「動物」とか、いろいろ思い浮かんだでしょう。

たしかに、世間では、一応それで質問に正確に答えたように思われるかもしれませんね。でも、あくまで、「世間では」という注釈が付くんです。でも、そんなものは、ただの一応の約束事で言っているだけです。例えば、「フランスとスペインの間に国境がありますか」というのと同じです。国境があるというのは単なる約束事にしか過ぎなくて、本当は国境なんかどこにもなくて、ぶっ続きなんですね。

そういうふうに人間が観念で約束事としてとりあえず取り決めているのであって、真実そのものではないんです。真理そのものではない。そういうことからいくと、「人間」と答えていても、約束事にしか過ぎない。「いのち」と言っても、それはこのグループだけで通用する約束事にすぎない。実物そのものではない。では「自分とは何か」と追及していくと、言葉では表現できなくなる。言葉というのは単なる、いろいろな約束事とか、言葉で外から規定しているだけで、それでは実物を表現できない。

禅の中でもそういう話があります。ある人が「自分とは何か」と問われ、10年とか20年、それを考えたり坐禅をしたのです。そして、最後に到達した答えは「言葉で表現することはできません。一言でも説明したら実物とは違ったものになってしまいます」というものでした。そういう答えしか出なかったわけです。

で、お師匠さんは「まあ、それでいいよ」と言ったんだけど。「言葉で表現することはできない」というのはただ「わかりません」と言っただけにしか過ぎない。「言葉で表現できるものではない」というそこまでは非常にいいんだけど。

では「何なんだ? 以前は、何でも言葉で説明できるものと君は思っていたね。お経の本を読んで、一生懸命、あれこれとアタマで考えてきたよね。でも、そういうことでは、自分自身はもとより、存在のひとつも捉えることはできない。それがわかったことは素晴らしい」と。でも、話はそこで終わっているのです。

「自分そのもの自体は言葉では規定することはできないんだ」と気が付いたことは素晴らしい。普通はそんなことにも気がついてないんです。「いや、自分は人間ですよ」、「いや、いのちですよ」、「いや、空です」とか、概念をくっつけて、実物自体にただラベルを貼っているだけです。

ラベルはそのものではない。紙に「キュウリ」なんて書いて何かに貼ったら、それがキュウリになるわけではないんです。そもそもラベルはその実物そのものではない。ただの紙です。そういうことにも気がつかずに、みんな、大騒ぎして「ああだこうだ」とやっている。では、そのもの、「それはただそれ」と答えるしかない。

でも、それはある面では答えにもなっていない。「では、何なんだ」。さらに追及していくというところは、その禅の本には出ていないんです。でも、この川の瞑想をやっていけばちゃんと答えが出ます。それをどういう言葉で言えば正解になるか。言葉で言ったら実は正解にはならない。ラベルにしか過ぎないから。

みんな言葉で答えられると思っているわけです。そこからもうすでに違っている。では、言葉で言わないでそれを表すにはどうするんだ。なんかテクニックがあるのかな、と、またアタマで答えを出そうとする。だからそういうものは全てアタマの世界のことであって、体得ということと全然違う。

「よっしゃーっ、やるっきゃない!」とキックして、バイクのエンジンをかける。「ブルブルッ」となるんだけど前に進まない。ギアを入れていないからバイクは進まない。一生懸命キックして、エンジンがかかっても、バイクは前に進まない。エンジンが空回りしているだけです。

まあ、言葉でどういうふうに表現しても、僕が禅のお師匠さんだったら「だめ、だめ」と言うんでしょうね。そうするとどんどんどんどん追い込まれていくわけです。後はもう坐るしかないと。もはや言葉ではだめなわけです。どうやるんだと。で、またアタマで考えるわけね。そんなことやっている間はいつまで経ってもだめなんです。だから坐禅で悟るということは非常に難しい。時間もかかります。

そんな世界です。それはそれで一つの文化ではあるかもしれないけども、そんなもので世界は救われない。時間の無駄です。

それを、この川の瞑想をやっていけばちゃんと答えが出ます、そのうちに。だから心の宿題にしておけばいいと思います。すぐ「はいそれは私です」とか「いのちです」なんてやるのは、だいたい学校の先生タイプが多いんです。あと坊さん。人に教えるという感じの人。アタマで言葉にすればそれが本物だと思っているんですね。

では、川の瞑想に入ります。

最初は目を開けてやったほうがいいと思います。時々疲れたら目を閉じるけれども、閉じっぱなしというのはあんまりよくないように思います。では入ります。

(川の瞑想開始)

目を半眼にして落とす。

もっときちっとしてね。背筋をまっすぐに伸ばして。静寂に集中する。

はい、静かに体を動かしてください。

(川の瞑想終了)

大変だなと思うのではなく、楽しみにしてください。また違う世界が見えてきます。

普通は、いろいろな音とかなんかあると、その音に気を取られて、そういう聞き方になっているので、音がうるさいなとか、いろいろ思ったりもする。そういう傾向が強いと思います。ところが、聞いているようで聞いてない。どっかでそういう音がしているというのは意識はしているけれども、そこにとらわれてもいない、というふうになっていくと、全然そのうるささみたいなものを感じなくなっていく。そしてその元にある、絶対的な静寂、土台というか土の部分、絶対の静寂は変わらない。しっかり感じられてくる。

今までは、瞑想しなさいとか、したほうがいいよとか、ちゃんとやってくださいと言われて、なんか義務みたいな感覚でやっていた人が多いのではないかと思います。これではだめなんです。苦行になってはダメです。やっていることが心地よくないとダメだと思います。

ちゃんとした瞑想だと、足が痛くても気にならないというか。ただ痛いなと思いながら、支障なく、瞑想が自然に流れていくみたいな感じになっていきます。

非常に心地よさと安定感を感じる。その理由というのは、いちいちいろいろな思いに引きずられない。それから、物音とか、体の痛さとか、そういうものに引きずられない。そういうことも非常に心が楽になるし、何よりも、絶対的な静寂というもの、その中に浸っている。いろいろな物音とか聞こえながらも、絶対的な静寂の中にある。絶対的な静寂の世界というのは、安らぎそのものなんです。気もそうですね、澄んだ気は安らぎです。同じことなんです。

ですから、当然、瞑想をやりたくてしょうがなくなるんです。もういくらでもやっていたい。暇さえあればという感じで、楽しさを感じるようになっていかないと、というか、そういう瞑想でないとだめだなと思います。

その安らぎと安定感はなかなか普段の日常生活の中では感じられない。川の瞑想をやると、こんな楽しい安らいだ世界があるのかと思います。普通は坐禅というと、「きちっとやる、修行でございます」みたいな感じでね。まじめ腐った顔してやっているわけです。それは、それでよいのですが、川の瞑想は苦行になっては、もはや川の瞑想ではありません。

気抜けになるのとは違う。全然違う。気抜けでは本当に楽しめないし、安らぎがない。やっぱり集中してなきゃだめです。その楽しさがあるためには。ボーっとしていたんではただの居眠りになってしまう。だから姿勢はとても大切です。

背骨、それと視線ですね。視線が、気張った感じで目をぱっちりでやるとまずいんです。かと言って、目をボーっとさせているわけではない。空、その静寂に、動かないものにきちっと目が合って、そこの音を聞き取ろうという方向性がないと、気抜けになってしまいます。

今回みなさんだいぶはっきりしたと思います。それが、いつの間にかまたマンネリになっていかないように、いつも真剣勝負、ある面で必死に瞑想をするのです。気張った必死さではなくて、すっきりしたというか。何があって、動じないみたいな、そういうところでの必死ということです。そんなような潔さで、川の瞑想に向かうということです。

(つづく)





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川の瞑想の実際  その7

川の瞑想の実際  その7
(その6からのつづき)

音が鳴っているのに、その奥に静寂を感じる。また、そこに見えているものの奥に、“見えないもの“がある。「見えているものが、同時に見えないものである、というのはどういうことか?」ということですね。たしかに、ここまで、常識的には、変な話をしているわけです。

それについては、僕は、人間の五感は人間が本来持っている能力のごく一部にしかすぎないのだと思うのです。普段はその五感で捉えた情報をアタマで認識しながら生きていると思いがちですが、五感以外にも情報を得る感覚器がいくつもあり、それを認識する脳の仕組みも他にあるのだと想像できるのです。

たとえば、一方では目で見て、つまり、視覚とアタマによって、こうやって見えている。けれども、別の感覚器と認識脳で見ると、これが透明なものとして見える。また、普通の耳、聴覚で聞くと、音がしている。でも、他の感覚器と認識脳では静寂を捉えることができる、というようなことがあるのではないかと思うのです。

たとえ話のように聞こえるかもしれませんが、ここに不思議なメガネがあるとします。1本のタンポポの花を、現象が見える左のレンズで見ると、姿がそのままに見える。でも、本質が見える右のレンズで見ると、透明なるもの(空)として見えるのです。普段は左のレンズしかないと思い、すっかりそれを頼りにして、見えている現象の姿だけしかないと思っています。けれども、本質が見える右のレンズがあることに気づき、そちらで見ると、透明なるもの、空と見えるのです。右のレンズがあることに気がついて、それに慣れてくると、1本のタンポポの花を見ても、現象のそのままの姿と本質の透明なるもの、空が二重に重なって見えるというわけです。

左のレンズを現象が見える肉眼。右のレンズを本質が見える“心の眼”とでも呼べるのではないかと思います。つまり、肉眼で見ると、姿がそのまま見え、心の眼で見ると、本質の空が捉えられるというわけです。

五感のほかにも感覚器と対応する脳の認識部位の他に、別の感覚器とそれに対応する別の認識部位があるということは作り話のように思えるかもしれませんが、決してそうではありません。

野口整体を実践している皆さんは、すでにある程度それを使いこなしているのです。それは「気」です。手が(自分の、あるいは、他の人の)必要なところにすっとくっついていく。背骨の鈍っているところが黒く見える、相互活元運動でお互いに共鳴し合う、などなど。

みなさんはある程度そういう気の世界を体験しています。野口先生が言われている気というのは、それは明らかに神秘的なものではなくって、五感以外の確かなものとして、気をちゃんと感じられる。誰でも生きている以上は、それは働いているんです。ただ、アタマが五感を通してアタマで認識できるものしかないと思っているので、目で見えたものだけがあるとしか思ってない。だから、野口整体を本当に知らない人は、「そんなのは超能力じゃないの」なんて言うのです。

野口先生の場合は、幼い時に声が出なくなった。ジフテリアです。それで、苦しまれて、それを何とか全力で打ち破ろうとした時に、別の感覚器が、元々働いてたんだけどそれがバーッと活性化したということだったんだろうなと推測しています。

気の世界というのは単なる観念としてじゃなく、事実として明らかにあるんです。それをあるということがわかっただけじゃなく、僕らが目で見て、ここに茶碗がある、あ、これはちょっと冷たいなとか、それと同じような感じで、野口先生の場合は、気というものを確かな感覚として、使いこなされていたんだと思います。だから、先生は「誰にもそれがあるんだ」ということに気がついて、それを使っていけば、だれでも健康になっていく」と言われたのです。

ところが、現代人は「五感とアタマの認識力、人間の能力はこの程度なんだ」と封じ込めてしまって、こういう能力は特殊な人だけにある特殊能力であり、普通の人間は頼りなく、ひ弱な存在であり、薬や注射など外部からの助けがなくては生きてはいけないと思っています。そして、現代科学をすっかり当てにして、もともと誰にでも自分で自分を整え、健康を維持していける素晴らしい能力が具わっていることにも気がつかない。だから、もちろん、活用もしないのです。

だけど、現実にこうやって生まれてくること自体、呼吸していること自体、みんな五感だけの働きではない。五感を通してアタマで認識できるものとは違うところの働きがあって、こうやって生きているわけです。五感はごく一部でしかないのです。

むしろ、気とかそういうもののほうがより確かです。距離が離れていても通じるんです。直接見てなくても、壁を通してでも通じ合うことができる。これは普通特殊な能力と思われているけれども、実は、当たり前の能力なんです。

ですから、もう一回そこに立って、人間とは何なんだと考えてみるべきなのです。自分の能力を自ら封じ込め、限定したところで、野口整体で言われていることを捉えようとしても捉えきれない。だから難しい、難しいとなってしまうわけです。生まれつき特殊な能力を持った人だけができるようになるんだろうとか、特別な訓練をしてそういう能力を開発しようというようなことになるんですね。

でも、「そんなようなことやらなくても、元々誰にもあるんだよ」というところから出発しないとダメです。そうでないと、修行して、「自分が」そういう能力を身につけたいという、「俺が俺が」の競争になってしまう。俺はすごいだろうと。こんな力があるんだよ、ということになりがちです。

そんなものが一体人間の何の役に立つんだ。本当の幸せということから言うと、言葉では、「自分を向上させるのだ」などと、美化してるんだけど。それを一枚引っ剥がすと、「自分が人よりも勝っていたい」というところが見えてくるんですよ。一言で言って、「グダラナイ」。

それは余談ですけども、「ほら、見えるものの奥に、透明で見えないものがあるでしょう」なんて話を、普通の人が聞いたら、なんて言うでしょう。「この人は特殊能力の持ち主なのかな?」と思うかもしれませんが、僕が言おうとしているのは、誰でもそれが当たり前にならないと本当の生きている甲斐がないっていうことです。実は、みんなそういう能力を備えており、その力によって生きているけれども、それをこの社会の洗脳によって、無意識のうちに封じ込めているのだ、と言いたいのです。

いずれにしてもいきなり、「空」というようなところに行かなくても、まずは「絶対の静寂」ということがはっきりしていくと、自然にそういうものはわかってきます。ただ、静寂と音と空間、それは違うものみたいな観念でそれらを別々のものであると区別していれば、本質に気がつきにくいのです。静寂、それは透明な空間や空に通じる、ということがアタマに入っていると、そのうちに、「なるほど、みんな同じことなんだ」ということを体験的に理解できると思います。

大切なことは、できないと決めつけないこと、そして、ほんとは簡単だということ。それから、絶対の静寂ということは、別のほうから言えば、空ということでもあるのか、ということをアタマに入れておくということです。それが今わからなくても、そのうちに、あ、なるほどこういうことかと解ります。いっぺんにここで全員が「みんな空です」とならなくても、ひとりひとりの気づきの歩みというのがあるのです。でも、そのように思い込もうとするのではありません。

ということで、もう一度、川の瞑想に入ります。

今回の川の瞑想は長いです。25分くらいやります。時間が長いと、途中でだらけるみたいな、眠くなってくるような人は、気をしっかりとしてやっていくとより深く入っていきます。

整体の実習では、普段、この川の瞑想の時間をあまり取ってないと思うんですけども、家でやる時はできるだけ長く、最低20分、できれば50分やってほしいわけです。そうすると深まり方が全然違うので、さっき言ったように、あ、本当に何もない。体もない、消えちゃった、というようなことを当たり前に体験するようになるでしょう。

でも、そういうことを興味本位でやることではない。あくまで、五感を超えて、自己の本質、存在の真実を体験的に捉えるのだという気持ちでやってください。「見えるもの」が「見えないものである」、透明な空間でもあり、空であるというのは単なる観念的なことではないんだということです。

NHKで最近やった番組ですが、交通事故で脳に損傷を受けて、突然絵を描きたくなった。描いてみたら、緻密な幾何学模様で、すごいものが描けた。それ以来、描きたくて描きたくてしょうがない。いいものが描けたからもっと描いてみようとかそういうんではない。描きたいという気持ちが中から湧きだしてくる。それまで絵なんか全然描いたことがなかった人がそんな絵を描いてるわけです。

そういうようなことが、絵だけじゃなくって、アタマにいろんな数式が浮かんでくるとか、世界中にいろんな症例が見つかっているんです。やったことがないのに。何でできるんだと不思議でしょ。私たちの脳の中にはものすごい能力があるんです。でも、その一部しか使ってない。特にあなたは。いや、みんなそうなんです。すごい天才なんて言われている人だって、脳のごく一部しか使ってない。何パーセントも使ってない。ほとんど99パーセントは使ってない。

野口先生なんかは普通の僕らから比べるとすごいですよ。本を読むスピードが1ページ数秒。で、それを30年たっても一字一句、全部覚えている。昔の漢文とか。そういう難しいのを。和田先生もそういう方でした。

脳のある部分が開けているのです。というか、実はそっちのほうが当たり前だということです。野口先生にしても和田先生も同じ言い方をされている。できるほうが当たり前なんだと。できないのは自分で意識的にアタマを変な使い方をして、閉じ込めているからだと。だから私たちはまだまだ可能性があるのです。お互いによかったですね。

みんなすごい能力があるということです。感覚器も必ずしも五感だけではない。気なんていうのはごく当たり前の世界。ものが透明に見えたなんていうのは、昔から伝わっている坐禅の悟りの体験談を読むと、あちこちで出てくる。

「ここにこのようにあるのが何で空と言えるんだ」と最初は思うわけです。一体何を言っているんだと。あるいは、逆に、それをもって「悟りだ、悟りだ、とても凡人の及ぶところではない。すごいことを達成されたんですね」みたいになって崇め立てられているわけです。でも、それは誰でもできると思っていると、そのうちにごく当たり前にいろんな現象が起きてきます。

でもそれは決して自分が素晴らしいからじゃない。人よりも優れているからでも何でもない。ただそういうことが起きるんだなということです。他の人もそういう能力を持っている。誰だってできることが、自分にもそのうちのひとつが起きたんだな、と自然に謙虚でいられるわけです。だから、誰でもただの人。野口先生も和田先生もただの人なんです。

ただ、野口先生にしても和田先生にしても、ものすごく愛情深い方でした。キリストの話もしましたけど、とにかく愛情深い方々です。ひとりひとりの存在を本当に認める、それはすごいです。努力して認めているんじゃなくて、本当に存在として認めて、大切にする。このような方々に出会って、自分の目が開けました。

奈央先生もそれでいのちを救われたのです。だから野口先生に対してはもう信仰とかそういうんじゃなくって絶対的な信頼があるわけですね。ひとりの人間としてはっきり認めてもらった、どんなに生きていてよかったと言えるかということですね。それでここまでやって来たんですね。僕にとっては和田先生がそういうお方です。

(つづく)





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川の瞑想の実際  その6

川の瞑想の実際  その6
(その5からのつづき)

静寂ということをテーマに川の瞑想をやっているわけですが、今目を開けてやったと思いますけど、目を開けているといろんなものが見えます。それは全くの静寂であり、実は、「空」なんです。いろんなものが見えているわけですけども、その実体は空であるというのがしだいにはっきりしてきます。

ちょっと理屈っぽく説明すれば、静寂というのは音が“ない”ということです。つまり、音はその“ない”という静寂から現象として現れて、そして、また、“ない”という静寂に戻っていきます。ですから、現象としての音の本質は何もない静寂だということです。

言い方を変えれば、静寂というのは “ない”ということですから、「中身空っぽ」、すなわち、「空」であるということです。

同じように、眼に見えるものは“透明で見えないもの”、すなわち、“何もないもの”から現象として現れ、そして、また、“何もないもの”に戻っていきます。

“何もないもの”というのは「中身空っぽ」、すなわち、「空」であるということです。

したがって、静寂=なにもないもの=空=透明で見えないもの、であり、「空」を聴覚を通して認識したものが「静寂」であり、視覚を通して認識したものが「透明で見えないもの」ということになります。

ですから、音を通してその奥にある静寂を実感することも、見えるものを通して透明で見えないものを実感することも結局は同じことであり、現象の奥にある空を実感しているのです。

そして、それは自分の外にあるものだけではありません。視線を反対方向、すなわち、自分の体の内側というか、奥に向ければ、そこに絶対の静寂と絶対の透明な空の世界が広がっていることに容易に気がつくことができます。

何かを見ている自分、あるいは、聞いている自分をどこかで意識しています。また、体の感覚を感じたり、思いも出てきます。けれどもそういうものは現れるままに放っておきます。

そうすると、静寂がはっきりしてきて、思いもぽつぽつとたまに出てくるという感じになって、心が穏やかになり、安らいで、まったく気にならなくなります。そして、とても澄んだ心になっていきます。

そのようになって来た時にはっきりすることは、自分というものの実体、ここに肉体があって、そこに、いろんな思いもあったりして、何かが詰まっている感じがしていたのが、今度は自分自身が何もない。その実体が空であるということがはっきりしてきます。

これが、道元禅師が言った、身心脱落という境地ではないかと思います。でも、境地というよりも、誰でも本当はもともとそうなんです。

道元禅師の身心脱落の体験のエピソードはこういうことです。道元禅師が、もう800年以上昔ですけども、中国の南宋の地に行かれて、そこで、如浄禅師というお師匠さんの下で修業されました。

夜、鐘の音か鳴り、みんなが坐禅堂に集まって坐禅をするわけなんですね。真夜中になってもみんな坐っていた。そしたら、如浄禅師が入って来られて、たまたま道元禅師の近くで居眠りをしていたお坊さんをしかるわけです。

「坐禅中に居眠りをするとは何事だ。真剣にやりなさい。身心脱落せよ」と大きな声で叱ったのです。脱落という意味は「抜け落ちる」ということです。

それで、道元禅師もあらため、真剣に坐りました。どのくらい時間たったのか、道元禅師が如浄禅師の部屋入って、お線香を立てて、礼拝した。そこに仏像か何か置いてあったんでしょうか。

で、如浄禅師が訊ねるわけです。「何しに来たのか」と。道元禅師の言葉は本当にかっこいい。「身心脱落して来たる」と。明らかに、道元禅師は悟られたのですね。身心脱落ということを、観念ではなくて、体感というか体得された。それが、道元禅師の教えの基本になっているんですね。「ただひたすら坐って身心脱落せよ。坐禅は身心脱落である」
というわけです。

その身心脱落というのは、今、みなさんのうちの、少なくとも何人かは体験された、その状態です。自分の身も心もその中身は空っぽである。空である。ただ澄み切ったものが、透明なものが、そのままあるだけだ。そして、いろんなものがあるけれども、みんな中身空っぽ、空である、ということです。

人間はいつも「何かがあるはずだ、あるはずだ」と思っているわけです。そう思っているから、本当のことに気が付かないけども、本当は何もないんだ。いろいろな現象や存在は何もないところから立ち現れている。それがわかってくる。この中にもわかった人がいると思います。

難しいことではない。非常に単純なことなんですが、このように、わかりやすく、説明したのを僕は聞いたことはありません。

昔からみんな、坐禅の本とかいろんな記録を見ても、悟ったというような体験はあっちこっちにあります。すごい修業をして、大変な思いをして、それで、何かがバーンと外れて悟った。中身空っぽである。空であるというようなことは書かれている

けれども、その身心脱落ということが文字通りどういうことであるかということはあまり説明されていない。今みたいに、こういうような、川の瞑想ですね、そういうものを通じて体験できるというふうに説明したものはありません。

偉ぶって言っているわけではなくと、事実として言っているのです。そして、誰でもできることなんです。

道元禅師が「ただひたすら坐って身心脱落せよ。坐禅は身心脱落である」と言われたのは、ご自身の心身脱落の体験から、「正しい態度で坐禅をすれば誰でもできるのだよ」ということが根底にあるのだと思います。実際に、道元禅師にそういうふうに言われて心身脱落を体験されたお弟子さんもいると思います。けれども、はっきり言って、少なくとも現代人には、それだけでは足らないように思います。

只管打坐ということで、ただひたすら坐りなさい、全てを任せて坐りなさい、自分のアタマの思いを追っかけないで、ただアタマの思いを手放しにして座りなさい、と言われます。

それは間違いではないですが、いろんな妄想が渦巻くような状態で、自分はアタマの思いを手放しているつもりでも、本当にアタマの思いを手放していることができるのか、疑問です。

只管打坐。思いを手放して坐る。そのこと自体が身心脱落だというふうに説明されています。確かに思いを手放しにして坐相をしっかりと守り、任せているという意味では、それでいいんです。

だけれども、全てが静寂の中から起こっている。全てが空から、無と言ってもいいですが、何もないところから現れているんだということを、体感しながら坐っていなかったら、それは本当の意味でのアタマの手放しにもならないし、ただ観念的に「坐ることがすなわち心身脱落だ、悟りだ」と思っているにすぎないのだと思います。いろいろな異なった考えはあるとは思いますが、僕自身の体験からはそう思うわけです。

それはそれとして、こういうふうに、畳があるけども、そこを見ていると、ただ静寂しかない。そこをさらに見ていくと、畳という形には現れているけど、その奥には、空があるだけです。

そういうようなことがはっきりして、見えているものだけではなくて、見ている本人自身も空なんだということが、観念ではなくはっきりわかる。それを確認しながら坐っている。

そこまでいかないと、といっても、そんな難しいことではないんです。誰でも10分とか15分の中で体験できるわけです。それをきちんと言わないと、「ただ坐りなさい」というだけでは、本当の意味では、道元禅師が言われた身心脱落にはならないだろうと思います。

言葉がちょっとかっこいいもんだから、どこかのお坊さんが「ただ坐りなさい」なんてやっているというのを聞いたことがあります。でも、「ただ坐る。それが悟りだ」と言われても、何の実感もなく、何にもなりません。

内山興正先生は「アタマの思いを手放しなさい全てを任せて坐りなさい」と的確に言われています。実際に、きちんと、アタマの思いを手放すことができるように、綿密に指導されたのだと思います。

坐禅だから動かないんですけども、活元運動みたいなもんですね。そこまでは、間違とはいないけども、その先が、静寂とか、空。それを自分自身の実体なんだ。周りの世界もそういう空の世界から立ち上がっている。それを体感しながら坐っていないと、かえって観念的な坐りになってしまい、本当の意味での、只管打坐にはならないと僕は思います。

身心脱落というのが一番難しいこととされているわけです。そんなものではない。では、ただ坐っていればそれが身心脱落かというと、そうでもない。そこが、自分が空だということ、これがはっきりしない限りはどこまでいっても自分というかたまりに固執するわけです。

自我。アタマで何とかしなきゃと、どこまで行っても、自我が抜けきらない。自分の本体が空であることを実感していなければ、どこまでいっても、自分と思っているもの、つまり、自我にしがみつきます。

かつての僕のように、普通の人は、なんか自分というころっとしたものがあると思っているわけです。単なるアタマの思いだけではなく、体も心もなんかころっとしたもの、これこそが自分だと思っているわけです。そのころっとしたものの奥を見て自分の本体そのもの、つまり、空であることを観るというのが川の瞑想です。

(つづく)





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整体セミナーの感想  DDさん

整体セミナーの感想  DDさん

奈央先生 昇平先生 恵理佳先生

総合・合同コースに参加し、先生方はじめ、長年続けてこられた先輩方と一緒に学ばせて頂き、たくさんの気づきを得ました。

先生方の教え1つ1つが自分の中で大きく、力強く根づき、夏の太陽を浴びる様に大きく花開いていくように感じています。

セミナー後、自分の中で”無力である“という感覚が浮かびました。命である本体に申しわけない、浅い思いではありましたが、仕事上何ができていたのだろうというものでした。

そんな時、自分の中、奥の奥から”無力という言葉そのものを無限の力と捉えてください”と聞こえてきました。

セミナーでの教えの深さが形になり、表に現れ、私に語りかけてくれました。

尊いですね。全てに響きました。

岩手の夏をここち良くすごし、心と体の声を聞き、9月のセミナーに笑顔で参加できるよう整えていきます。

奈央先生のお母様に安らぎが届きます様、お線香を送らせてください。

ご縁と導きに感謝しています。

山の夏を体験できてよかったです。

不自然なクーラーに振り回されそうになりましたが、(多少死にかけてました)、知恵とお教えを総動員?させ、良い経過をたどっています。(笑)





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整体セミナーの感想  AAさん

整体セミナーの感想  AAさん

昇平先生、奈央先生、恵理佳先生

先日の整体のセミナーではありがとうございました。

今回もまた、参加させていただいて、本当に良かったです。

奈央先生からのお母様のお話は、とても心に響きました。心からそう生き抜くことが出来る人で在りたいと思いました。そして、天の意志に沿って生きること、そう思うだけで決意と喜びを感じます。

先生方の、一つ一つの言葉の重みと真剣さが、私自身と深く向き合うことを導いてくれました。

川の瞑想の中で、自然と沸き上がってくるような覚悟を感じ、丹田の力強さを始めて感じました。

今まで自分がしてきた瞑想は浅いものだったな、と思います。幸せを感じたことに満足していたような、むしろ幸せを得ようと瞑想していました。それが、川の瞑想の中ではずっと変わらずにある静寂そのものを感じ、そしてすべてに静寂があり、言葉にできないほどの大きなものに包まれて広がっていきました。

宇宙と一つの呼吸を感じて、汗がどっと出るほど身体が熱くなりました。

当たり前にあったんだと気づき、ここからが始まりになるんだと思いました。

日々の実践、瞑想を続けていきます。本当にご指導ありがとうございました。

次回、9月のセミナーでもまたお会いできることを心から楽しみにしています!!






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自覚のセミナーの感想とその後  PPさん

自覚のセミナーの感想とその後  PPさん

 自覚のセミナーから帰ってきて1週間が経とうとしていますが、日常生活の中でもセミナーが続いているような感覚があります。今回、6年ぶりに再受講させていただきましたが、参加できて本当によかったです。

 初めて受講したときも、帰宅してすぐに夫に受講を勧めたほど、自覚のセミナーのすばらしさを実感していました。それから程なくして、自覚のセミナーを受講した私はやっとスタート地点に立てたのだと気づきました。この6年の間、ほぼ毎月、整体ライフスクールのセミナーに通って継続的に先生方からご指導を受け、日々さまざまなことを経験する中で、歩みはのろくとも、確実に変化し、成長している手ごたえを感じていました。そして、ようやく自分のためだけに生きるのではなく、みんなが幸せで平和な世界を実現するという方向性がはっきりし、心からやりたいことが出てきました。ただ、実際に行動し始めたものの、油が足りない車輪のように、どこかスムーズに回らないものを感じていました。

 そして迎えた2度目の自覚のセミナー。前のセミナーがどうだったとか、今までのことは脇に置いて、ゼロからやり直す気持ちで臨みました。実際にセミナーが始まってみると、そんな心構えも必要なかったと思うぐらい、だいたいのテーマにおいて初めて参加する人のような有様でした。でも、再受講だからどうこうという恥や外聞よりも、再受講だからこそ中途半端には絶対帰れない、これから前に進むために何としてもはっきりさせたいという気持ちのほうが勝っていました。

 そういう態度でいたからか、今までも昇平先生から聞いていた言葉の数々が、違う響きを持って私の中に入ってきました。そのすべてが、扉を開くための大切な鍵であるように感じました。だから、その鍵を手がかりに「本当はどうか?」と今までの人生を見つめ直し始めました。

 2日目の朝の休憩時間、先生方のコーヒーを淹れていると、昇平先生が話しかけてくださいました。「自分で壁に頭をぶつけているようなものだよ…帰るまでにわかるよ。」コーヒーの粉がお湯を吸い込むように、先生の温かい声が心に沁み込み、コーヒーを淹れていたことも忘れてしまいました。

 昼休みに一人で横になり、流れてくるカノンを聴いていたら、亡き祖父が傍にいるのを感じ、応援してくれているのがわかりました。他にも見えないところで多くの人の支えがあることを感じました。

 3日目に転換が起こりました。「○○○ですっきり楽しく生きられますか?」という問いは、お手上げ状態で、どうやって検べればいいのだったかと思ってしまうほどでした。次々と周りの人たちが答えていく中で、ちょうど右隣に座っていた△△さんの発言を聞いていたとき、はたと思い当たりました。「私はすっきり楽しく生きたいと思い、それを選んでいたと思ってたけど、実は選んでなかった!?」まさかと疑いたくなりましたが、それは疑いようのない事実としてそこにありました。「私は今までいったい何をやっていたんだろう…」唖然としていたちょうどそのとき、昇平先生から質問され、うまく言葉にならず大泣きになりました。

 「自分の姿が全く見えていなかった。こんな単純なところで引っかかっていたとは。整体ライフスクールに通い続けていったい何をしていたのか。先生の話を聞いているつもりで、全然自分のこととして受け取れていなかった。中途半端な"節煙"の生き方をしていたんだ。なんてバカな。そして、先生方はそのバカに真剣に付き合ってきてくださっていたとは…」こんな思いが一気に押し寄せ、泣いて笑うしかありませんでした。そして、すっきり晴れ晴れし、自動的にすっきり楽しく生きる道を選択していました。

 他のテーマでも、自分のいろいろな癖がよく見え、これでもかというほどすぐにアタマになる自分がいました。だからこそ、答えを出すときは、アタマの理解ではなく体感があるかを常に確認しました。不自由な枠に収まっていたことにも気づきました。平和な世界にしたいと言いながら悠長に構えていた非現実的な自分にも気づきました。

 日常生活に戻り、初心者マークを付けて左の世界を走っているような感じがします。長年慣れ親しんだアタマモードに引っ張られないよう、自覚のセミナーのことを思い出しながら、真実の生き方を深めていきます。早速、「パクチーはパクチー」という言葉が事実を見るきっかけをくれました。

 自覚のセミナーは本当にすごいです。昇平先生のファシリテーションは絶妙で、参加者全員がたった5日間で劇的に変化し、存在の真実に気づきます。これを体験した私たちは、自分たちだけのもので終わらせず、他の人たちが受けるチャンスを作っていくバトンを持っていると思います(責任でも義務でもなく)。

 最後になりましたが、昇平先生、奈央先生、恵理佳先生、いつも本当にありがとうございます。お世話係の鳥居さん、一緒に受講した仲間、整体ライフスクールの仲間、その他すべての人、すべてのことにありがとうと言いたいです。


自覚のセミナーその後

 自覚のセミナーを再受講してから2ヶ月以上が経ちましたが、もっと時間が経ったような気がしています。セミナー中にハッと気づいたときの感覚は鮮明に残っていますが、自分が書いた感想文を読み返すと、言い得ていないような、もう古びたような印象を持ちます。
 その後心がけてきたことは、本当はどうかと物事を見ること、人の話を素直に聴くこと、自分の姿を客観的に見ることなどです。どれも基本的なことですが、心がけたからこそ見えたこと、気づけたこともあり、一方で、心がけても不十分だった部分もあるように思います。

 例えば、今までは、人からどう思われるかという意識が染みついていて、自分をよく見せたい、できないことは恥ずかしいといった気持ちが知らぬ間に働いて、どこか自分を取り繕うようなところがありました。それは、バラバラ観があり、まだ守るべき自分がいると思っていたからですが、その守ろうとしていた"自分"は砂でできたもののようで、そのもろいものを必死で守ろうとしてきたことがわかりました。でも、それが一瞬で崩れてなくなった今は、なんと楽なことでしょうか。今まで、砂でできた幻想を大事にし、まさに独り相撲をとっていたのです。これからは、ただ、できないことをできるようにしていくだけです。

 自覚のセミナーを再受講する以前も、静寂や不可分一体のいのちを体感していましたが、実際に日々の生活においてどうかと言えば、静寂の中にいる時間が少なく、静寂の度合いも浅いため、中途半端な状態でした。そんな状態だから、本当は左の世界しかないのに、左右にフラフラしてきたのです。瞑想がすべての基本だということが身に染みてわかりました。常に絶対の静寂を感じて生きていけるよう、川の瞑想を正しいやり方で続けます。





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川の瞑想の実際 その5

川の瞑想の実際 その5
(その4からのつづき)

では、あらためて川の瞑想から入ります。

今回は、目を開けてやります。川の瞑想では、目を開けるのと目をつぶったのではちょっと違いがあるんです。

僕にとっては目を開けたほうが圧倒的にやりやすいです。目を開けるといろんなものが見えます。その中に動いているものもあるわけです。例えば、CDの音なしですが、街のなかでこの瞑想をやれば、しょっちゅう車とか人とか動いている。いろんな音も聞こえるわけですね。

だけども、動かないものがある。ここの部屋だったら、例えば、畳であるとか、正面の壁であるとか、特に人間でないもの、生き物でないものがいいと思います。動かないだけではなくて音を出していないもそれをじっと見る。

つまり、そういうものは最初から静寂の中にあるということなんです。ですから、そういうものに意識を向けると、静寂を瞬間的に捉えることができる。動かないもの、静止しているものの音を聞こうとする。当然聞こえないわけです。その時に、静寂の中に入る。

元々この壁が音を出しているわけではない。畳もそうです、目の前の壁や畳をじーっと見て、その音を聞こうとする。すると、途端に静寂が自分の中にポンと入ってくる感覚がある。

僕は街の中でこの瞑想をやる時、最初はまず、動かないものをじっと見ています。周りは動いていても、動かないものに焦点を当てています。そこから静寂を感じると、今度は動いて音を出しているものも、その奥に、土台に、静寂というものがあるということがわかります。

段々慣れてくると、最初から動いているもの、音を出しているものをじっと見る。じっとと言っても、軽く気を向けるという感じです。すると、音も聞こえますけど、その奥に静寂というものが土台としてある。すべての音というのは、実は静寂から現れているのです。特別に、難しいこと言っているわけではないんです。

今この部屋はしーんとしています。外で、突然犬がワンワンと鳴いたとしますね。ワンワンという音は静寂の中から出てきているのです。だから音を聞くというのは、その奥というか、土台に静寂があるということなんです。さらに言えば、現象としての音の本質は静寂だということです。言い換えれば、「音即是寂」(音は即ち静寂である)ということです。

人間の五感の感覚器は現れている音のほうにすっと引きつけられます。それをちょっと切り替えてやるんですね。音にパッと注意が行くんだけど、それをじっと見て、その奥にある静寂に気を向ける。そうすると、明らかに静寂というものが元々あったんだなということがわかる。音は聞こえながらも、完璧なゼロラインの絶対の静寂の中にいるのです。

これは特殊な体験でも何でもないんです。すごい神秘的な体験をしているように思うかもしれないけど、実は、ごく当たり前のことなんです。何でも本物というのはね、実はね、誰でも捉えることができるのです。

ただアタマの妄想で「これはこういうことなんだ」という固定観念があると、その当たり前で簡単なことが見えなくなる。見えているのに気が付かない。でも本当は、真実を捉えることは全然難しくない。誰でもわかる。だから一生懸命求めよう求めようとすること自体が滑稽で仕方がない。

ここのところを、わかりやすく説明しましょう。
野口先生は「雲の上にはいつも青空がある」と言われました。僕流に言えば、「音の奥にはいつも静寂がある」となります。雲は青空から生まれ、また、青空に戻って行きます。同じように、音は静寂から生まれ、また、静寂に戻って行きます。このように、音がしていても、その奥にはいつもその本体である絶対の静寂があります。

僕が住んでいる山の中では、冬雪が積もった朝、起きて外に出ると、シーンとした静寂の世界が広がっています。その静寂の中に、「ピーッ」という鳥の一声が聞こえます。そして、再び、静寂だけの世界に戻ります。その鳥の声は静寂から出て来て、静寂の中に戻るのです。その時、鳥が鳴こうと鳴くまいとゼロラインの絶対の静寂は変わりません。それは白いスクリーンに映写機で動画を映して、また、消す時に、動画は映っていても、いなくても、白いスクリーンは白いスクリーンのままで変わらないのと同じです。

静かな居間で、リモコンでテレビをオンにすると音がします。リモコンで音をオフにすると、静寂を感じます。でも、ゼロラインの絶対の静寂の中に、音が飛びだして来たり、消えて行ったりしているだけで、ゼロラインの絶対の静寂はずーっと続いているのです。その証拠に、リモコンの「有音・無音切り替えボタン」を繰り返し押しながら、音があるなしにかまわないで、画面に集中していると、音のあるなしに関係なく、画面には映像がいろいろ映っていても、ずーっと静寂が続いていることがわかります。これは観念的にとか、イメージとしてということではなくて、事実としてそうなっているということです。

私たちは静かなところにいて静寂を感じていても、いったん音が聞こえると、本能的にその音だけに注意が引き付けられて、「音がして、静寂がなくなった」というように感じる傾向があります。

この川の瞑想で言っていることは、その時に、あえて静寂に意識を向けて、実は、音が鳴っていても、消えていても、それとは無関係に、絶対の静寂はずーと続いているということです。

この絶対の静寂をいつも感じることができるようになると、その絶対の静寂に意識を集中している自分自身も静寂そのものであることに気づいてくるのです。

これはやり方さえ勘違いしなければ、小学生にもわかる容易なことなのです。とにかく、わかってしまえば、あきれるほど簡単なことなんです。野口晴哉先生は、愉気、活元運動、焦点にバッと手が行くというのは、できないほうが不思議だ、何でできないんだ、と言われてますね。ただ、先入観や思い込みがあると、この簡単なことがとても難しいことのように思え、実際にできない。ところが、ふと自分の先入観に気がついて、視点を変えてやってみると、拍子が抜けるほど簡単だということがわかります。そんなものなのです。誰でもできるのが当たり前です。

普通の人はまず難しいというところから、その大変なところを乗り越えて、その境地に至ることができるというようなイメージを描きやすい。トレーニングと訓練を積んだ先にやっとそういう世界が開けてくるみたいに思っています。本当は逆です。一番簡単なものがすでに一番正面に現れています、ですから、その見方の角度が変わって、真実が分かると、「な~んだ」と、そこで思わず大笑いしてしまうのです。

「今まで一体何をやってたんだろう」と、泣き笑いですね。散々苦労してね、それこそ何十年も求めて、それがパンとわかった時には、笑っちゃうわけですよ。おかしくてしょうがない。でも、もちろん、分かったから、うれしくてしかたがないんですが、「こんなことだったのか」と思う。だったら、最初から、簡単なはずだとやって行けばいいわけですね。そういうことをみなさんにはお伝えしています。

これは僕が、なんかすごいマスターであるとかそういうことではない。当たり前の人間だからできてしまうのです。本当はマスターなんていうのはね、周りがそういうふうに奉っていくわけね。本当に分かっていれば、その人自身は、自分はごく当たり前の人間だと思っているはずです。もともと特別な人などいません。

ということで、目を開けて川の瞑想をやります。ごく当たり前のことです。目をどこか、動かないものに、焦点を当てるといっても、睨みつけるというのではまずいんですね。動かないもの、そこにすっと気を持って行く。そして、動かないものの音を聞こうとする。

その時このCDの川の音がばっと切れ、ゼロの静寂になる。それと重なってくるわけです。50の音がゼロになったとき、ふっとこう静寂を感じる。それと動かないものの静寂が一つになっていく。そうすると、なんだ元々ゼロラインには絶対の静寂があるではないかとはっきりわかる。

最初は動かないものの一点だけを見ているんですね。一点の静寂を感じたら、少しずつ周りに視点を動かしていく。そうすると、ああ全部が絶対の静寂だとわかる。すべてが「静寂、静寂」と言っているみたいに聞こえる。変な表現ですけど。

通常は、いろんなものが音を出していると、そっちのほうにアタマが引っぱられてしまうんです。そうすると「みんな音を立てている、騒音だ、うるさくてしょうがない」と思ってしまう。でも、この瞑想をすると、どんなところでも、絶対の静寂の中からそういう音も出ているんだということがわかってくる。

音が聞こえたら、そこに気を集中するんではなくて、それは、放っておく。音だけではなくて、体の感覚や思いもそうです。いろんなものが浮かんできても放っておく。「また自分はこんなこと考えている、だから私は無心になれないんだ!ダメだ!」みたいな感じで思っていると、それこそダメなんです。「思いがまた出ていますね。それは生きている証拠だ」ぐらいに思って、放っておく。出ても構わないんです。

このようにしていくと、すべてがゼロラインでは完全に静寂ということが簡単にわかります。何も難しいことではない。もしわからないという人がいたら、それは、角度が違っているんです。そこに気が付いていないからそういうふうに言っているのです。気が付いたら「なあんだ」自分でもおかしくなります。

はい、それでは、瞑想に入ります。

(川の瞑想開始:目を開けて)

目が疲れてきたら目を閉じてもいいですよ。目はぱっちり開かないで、半眼という感じですね。緊張しちゃだめですね。

(川の瞑想終了)

はい、いいでしょう。足崩してください。

(つづく)





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川の瞑想の実際  その4

川の瞑想の実際  その4

これから愉気の実習に入りますけど、手つなぎをやる時にも、絶対の静寂の状態になるということなしにただ手を握っていてもだめなのです。それなしでは、呼吸を合わせて、波長を合わせるとか、なんとか、勝手に思っているだけで、ただの“ごっこ”なんです。

そういう物理的なことではなくって、静寂というのは言葉を変えれば“いのち”、この全世界を成り立たせている根本、もともと繋がっている“いのち”と“いのち”が、絶対の静寂の中で手をつなぐことによってより確かに繋がっていく。

みんなアタマでどこかにバラバラ観を持って、バラバラな感じがどうしてもあるんです。でも、みんなで手をつなぎ、絶対静寂な世界に入っていくというか、そこに立ち戻る。でも、イメージの静寂ではないのです。そういう状態になって呼吸が合ってくると、元々がつながっているのだから、手つなぎがうまくいく。愉気も同じなんです。絶対の静寂の中で気のコミュニケーションが起こっているだけです。お互いにそういう状態です。活元運動もそこでもっとも自然に出る。

道元禅師が言った只管打坐、ただ坐るということ。それはアタマを手放しにして、“いのちに全てを任せるということなんです。けれども、絶対の静寂状態を忘れて、あるいは、それとは別のところで形だけまねして坐っていても、本当の只管打坐にはなりません。

もし只管打坐が難しければ、まだ活元運動のほうがましなんです。どこかで自分を任せているからです。ただそれも絶対の静寂から離れて、イメージや妄想になってしまうとダメです。静けさの中から出てくる活元運動、本当に、いのちに触れた時は、最も必要な動きが出てきます。

だから、アタマで、いのちは静寂だから、動きもこういうふうにしなきゃいけないかな、なんて、イメージでもってやり始めると変なことになる。任せたんだからって、ガーって狂ったようにやっている人もいますけど、それもまた違います。それはただの妄想的狂乱であり、活元ではありません。

では、川の瞑想から手つなぎ、それから愉気の実修に入ります。

まだ、最初は手はつながない。手をつなぐ時は、右手が左の方の手。そして手の平は上を向いている。手の平は上を向いている。それが正常です。

最初10分間ぐらい川の瞑想やります。一切解説、説明無しです。とにかく静寂。50とゼロのゼロの方にず~っと意識を添わせる。思いが出て来たりしてもそれを相手にしない。

50の音が突然消えて、ゼロの方に気が向いたら、ずーとゼロのラインに気を添わせて、次に50の音が始まっても、それはただ聞こえるに任せておく。そんな感覚です。任せるんです。勝手に音が鳴っているなぐらいの意識で、ゼロのラインから離れそうになってもまたゼロに戻すという感じです。はい、それでは入りましょう。

(川の瞑想の音)

はい、それでは手を繋いで下さい。そのまま瞑想をしています。

(川の瞑想)

息を吸い込みます。そろえます。はい。

揃っていません。もう一度。単純に息を吸い込む。同時に、ハイと言ったら。一緒に吸い込みます。はい。

(手つなぎ・瞑想中)

ご一緒に息を吸います。はい。片目づつ目を開けます。息を吐きます。手を離します。

合掌行気。目の前に両手を出して、3センチ程手を離します。真ん中の1点をじ~っと見つめているとだんだん呼吸をしているのでくっついてきます。

そうしたら指先から手の平全体で息を吸い込む、吐き出す。これも途中で呼吸を揃えます。

こて先の手の平だけの呼吸ではなく、全宇宙の呼吸が指先に入って来て吐いて行く。

静寂のみ。目がくっついたら目をつぶります。

掌の呼吸のみ。他はありません。息を吸い込みます。ご一緒に。はい。掌で呼吸だけです。

ご一緒に息を吸い込みます。はい。そのままお隣の方の背骨に手を当てて愉気に入ります。そのままの静寂。2人組。左の手が肩、で、今合掌行気をしている状況です。

今の静寂を背骨の愉気、行気にしていきます。静寂。

掌全体。指先ではありません。掌全体。行気です。

力を絶対使わない。押し付けない。静寂の掌の呼吸をしていると愉気する側も全身呼吸で、整うように出来ています。

静寂のみです。呼吸。自分がやるんではない、宇宙が働いているんです。

はい、ゆっくり手を離して下さい。

基本的に川の瞑想から、その人の本体である絶対の静寂。頭を超えたその人のいのちの本体に手を触れて行くと顔がすがすがしく物凄く透明に美しくなって行くんです。それが念でやっていると、静寂が愉気していない。だから黒い顔のままです。

愉気する側の背骨の捻じれや色々が自然に取れて行きます。世界がいのちそのものですから、アタマを超えた行気と呼吸、静寂になってくんです。ここが一番のポイントです。

はい、足がしびれている方はそのまま静寂の中で戻して下さい。

今日の瞑想から手つなぎ、合掌行気、愉気。この一連のポイントとなるのが静寂です。アタマで想像するのではなく、元々ある絶対の静寂です。アタマではない本体である静寂。元々静寂なんです。そのいのちそのものの絶対の静寂の中ですべてが整うように出来ている。これは静寂を会得して体感するのに非常に素晴らしい実習だと思います。

では、休憩しましょう。

この後実習をもうちょっと続けますが、ちょっとだけ説明をしておきます。

絶対の静寂、それは別の言葉で言えば“いのち”ということです。仏教ではそれを空であるとか無であると言うようです。要するに何にもない、空っぽなんだと表現しています。でも、僕はちょっと違うと思っているんです。

確かに現象界の方から見たら何も無いんだけども、絶対の静寂というのは現象界を超えたところにあるんです。現象界として見れば、無とか空ということになりますが、絶対の静寂というのは現象界の奥にあって、それを生み出している実在の世界という意味で、僕は“いのち“という言葉で表現しています。そこには生き生きしたものがびっちりと詰まっているんです。

静寂なんです。でも空っぽのようで空っぽではない。無限のエネルギーがそこにある。

ただ観念的ではなくて、別の言葉で表すと「気」なんです。絶対の静寂から気がば~っと出てくる。イメージか妄想か知りませんが、ムードに浸るような頼りないものではないんです。

とにかく静寂という気の流れ。気というのはムードではないんですよ。あくまで静寂なんです。そこにゆだねて行くと言うか、静寂が自分そのものである。それにゆだねる。何をゆだねるか、ゆだねる物は何もないんです。それしかないだから本当は。

それをコントロールしようとするのもまずい。一生懸命、念を持って静寂にならなくちゃというのもまずい。もうすでに静寂なんだ、とそこは外す。それを無理に追っかけようとしてもダメです。

想念が静寂を作るということではありません。元々静寂があるんだから。

はい、ではもう一度川の瞑想から行きます。

静寂がハッキリ安定して来たら愉気に入って下さい。そうでない場合は愉気に入らない。必ず静寂を持って手を触れる。

(瞑想中)

愉気をする人は眉間を使わないようにして下さい。集中という事と静寂とはまた別です。

はい、それでは目をつむってゆっくり息を吸い込んで下腹に整えましょう。

整体は下腹が満ちている。鳩尾は虚。おへその下はつき立てお餅。虚・中・実という法則があります。はい、片目づつ目を開けて息を吐きます。息を吐きます。仰向けの方は横向きうつぶせで正座をして下さい。そろそろ時間です。

瞑想は静寂そのもの。この静寂の中で生きている自分の存在そのものが、呼吸して生きて触れて、全部と繋がりあって、気がすべてという世界です。そこから相手のいのちに触れて行きます。

道元の、仏の家に投げ入れてという事をよくお話するんですが、その静寂の世界に任せきる。活元も同じですね。するとやはり宇宙の法則に沿って自ら整って行く。

馬鹿になれば、つまり、アタマを使わないほどわかるんです。だから馬鹿な人はすごく恵まれてます。変な言い方だけど、変にわかったつもりの人っていうのはやっぱり遠回りしますね。何もかもわすれて任せてしまうということです。

ほんとは非常に簡単な事なんです。わかってみればな~んだと。出来ない方がおかしいではないかと。そういう事なんです。整体にしても自覚のセミナーでやる事にしても、その後の色んな話をしている事、世界平和の実現についても話してますけどもみんな、ほんとは非常に簡単な事なんです。

誰でも出来る。そういうものですから、「何で出来ないんだろう」と嘆くのではなく、自分が何か勘違いしている所があるんではないかなと、検べるという態度が大切です。悩むんでもないし、ただ考え込む事でもなくて、ダメだなと思うことではなくて、それを探究するんです。

わかってみたら何だこういう事だったのか、は~っ、何年間もこんな見当違いなことをやってたんだなって思って愕然とするようなことだけど、それがバッとわかったらね、他の事も全部わかるわけです。

ですから、あきらめずに検べる。検べるという態度で、宿題にして、追及して行って欲しいんです。

気が付いてみたら、こういう事だったんだなと解った人は今度は他の人に対してアドバイスが出来るようになるんです。自分がわかったら、他の人のことが自分と同じようになぜかわかるんですよ。ほんとにわかったら、どっちが早い遅いっていうのは本当は関係ないですね。

(つづく)





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川の瞑想の実際  その3

川の瞑想の実際  その3
(その2からのつづき)

この川の瞑想によって、この世界の根底、奥にある絶対静寂の世界をはっきりと実感できるようになったら、その次に、自分自身が絶対静寂な存在であることを目標にして、このゼロのラインに意識をずっと保っているようにします。これは努力するのではないんです。自然に、そこにすっと気を向けるだけで、いつもそれを維持することができます。

いままでいろいろな瞑想法をやられた方もいらっしゃると思いますけども、この川の瞑想の説明は誰もやっていないと思います。坐禅の只管打坐にしても、こういうことを抜きにただ坐ればいいというのは違うのではないかと思います。もちろん、ただ坐ることによって、存在の真実を体感された方もいらっしゃるでしょう。でも、時間がかかるし、非常にまれだと思います。こんなにわかり易く、説明されているのは、他にはないのではないかと思います。

絶対静寂の世界は元々あるのです。元々ある状態。気が付いたらずっとある状態。いったん気が付いてはっきりしたら、瞬間的にそこに入れるというか、そこに戻れるようになる。

はい、では、やってみましょう。

姿勢はカチカチでは困ります。手を開く感じだと胸が開いてきますね。これも無理に広げるんではないのです。

最初は目をつぶってやります。目をつぶってやる時に、イメージはかえって邪魔になるので、イメージで静寂、静寂と思わない。

最初、何回か途中で止めて、少しずつこういうふうにしたほうがいいということを注意しながらやって、その後一気に、15分とか20分続けることにします。

足が痛くなれば、崩してもやむを得ないでしょう。そういう時は足をいったん楽にして再度挑戦する、そんな感じです。はい、いいですか。

(川の瞑想開始)

はい、ここで、いったん止めます。
少し説明しますね。最初にCDからザーッという音が流れると、当然そこに注意が引き付けられる。ごく自然なことです。その音がさっとゼロになる。ゼロになった時にすっとするけども、雑音がするところでやると、ちょっとその落差がわかりにくい部分があります。

ですから、ゼロということが明確になるような静かなところで、やったほうがいいと思います。最初の実習では、いろんな音が聞こえている中では、絶対のゼロの静寂を見つけるのは非常に難しいのです。

ですから、静かなところでCDを流して、50からゼロになる環境でやるということですね。慣れてくると、テレビ見ながらだってできるのです。CDなしに外の雑踏の中でもできるのですが、まず最初の練習はできるだけ静かなところでやります。

ゼロになった時に、スーとしたような感じがします。そして再び川の音が聞こえてくる。最初のうちはまた音に注意がいって50。そして、ゼロ。ゼロがしばらくつづいて、また50。しばらくして、またゼロ。こういうことを繰り返してればいいんです。

慣れてきたら、50からゼロになったら、しばらくして、また50にパッとまた上がるんですが、川の音がざーと鳴り始めた時に意識的にこのゼロのところに気持ちを持って行ったほうがいいです。50に注意するよりも、ゼロのほうに注意を持って、自分はゼロの静寂のところにいるんだけど、どこかで川の音が勝手に鳴っているな、という感覚です。50に注意するよりも、ゼロのほうに注意を持っていく。そうすると、だんだんこのゼロの状態、静寂がずーっと持続的にあるということがはっきりとしてきます。

まずは、50、ゼロ、50、ゼロ。それを繰り返しやっているうちに、だんだんゼロのところが長くなっていく。というか、ゼロのところに楽に気持ちを持っていける、そんな感じになってきます。はい、もう1回目をつぶってください。

(川の瞑想再開)

ではもう1回注意します。そのままで聞いていてください。やっているうちに思いが出てきます。だから、これでいいのかなとか、いろんな勝手な思いが出てきます。でも、思いは放ったらかしにしておき、静寂のほうに、ゼロのほうに気持ちを持っていく。というか、楽な気持ちでゼロの静寂を意識している。気を詰めて努力するのではありません。

(川の瞑想終了)

この後、時間長くしてぶっ続きでやります。静寂の部分、ラインを掴まえるということがポイントです

我が家のベランダに出て森や空を見る時、いつもしーんとしています。人間だけがなんか彷徨ったり、ざわざわしている。だけど、人間そのものも大自然の中の一部で、思いや体の感覚などはあっても、その奥はいつもしーんとしているのです。だから静けさがずっと続きます。森の静けさが自分の中に入ってくるというか同調します。

雑踏の中に行っても元々そうなんです。アタマがごちゃごちゃしていること自体が異常。異常事態の火事みたいな感じ。しょっちゅう、自分のアタマの中で、なんか、火事かなんかでサイレンがピッピピッピ鳴っているような、そういう異常な事態になっている。人間の本来の姿は本当に静寂そのものだということに気がつかないのです。

ポイントは、思いが出てきても、雑念が出てきてもいいんです。関係ない。普通の瞑想の指導では、雑念とか思いを何とかこう精神力で封じ込めて出ないようにするのが、静寂の瞑想みたいに言われているんですが、川の瞑想はまったく違います。

静寂というのは、そういうアタマの思いとか、雑念、あるいは、いろんな音が聞こえていようがいまいが、どっちでもいいんですよ。そういうものにかかわりなく静寂の世界がシーンとあって、自分の本体はそういう状態だということです。アタマのほうがちょっと勝手に騒いでいる、といった感じで、それを余裕で見ている。こんなふうになればいいんです。

だから、雑念や何かを何とかするんではないんです。ほっとけばいいんです。「無心になる」なんて言うとね、全く思いが出てこない状態を実現することのように思われているようですが、それはそれとして、僕はちょっと違う考えをもっているんです。

というのは、思いとか、そういう感情とか、あるいは音が聞こえることは当たり前なのです。そうでないと困るわけですよ。石ころではないんだから。瞑想の極意は石ころになることではありません。

ただ、それだけではだめなんです。そういういろいろなものがありながら、土台に、全くの静寂で空(くう)の世界がある。これがはっきりしたら、これは自分そのものだから消えないんです。自分そのものが本当はその土台の絶対の静寂なんです。何もない、空が自分の本体です。

人間の場合はアタマが付いている。だから思いも出てくる、感情も出てくる。だから、どうぞ勝手に出てくださいというわけです。でも、その奥に、絶対の静寂がある。

ということは、瞑想しようと思わなくても、いつも、いわば、瞑想状態でいられるわけです。思いとかそういうものは、普通に出ています。車を運転しながら瞑想をしていて、どっかに車をぶつけちゃったとか、歩きながら瞑想しているうちに、ドブに落っこっちゃったとかはないんです。この瞑想では心がすっきりしている分だけ、物事を冷静に受け止めることができるんです。

普通の生活をしながら、たとえば、普通にテレビ見ながら、瞑想状態でいることができるんです。瞑想状態って言うと、なんか独特の心境で、世間から離れた特殊な世界にいて、何も思いも出てこないみたい、夢を見ているような状態に思うかもしれないけど、川の瞑想で会得していただきたいのは、この自分、この世界の土台は絶対の静寂であり、それが本体で、それが自分の本当の心であり、この世界の本質だということを体得することです。

その状態で、当然人間だから、アタマが働きます、いろんなものも聞こえるし、しゃべろうと思えばしゃべれます。ただ普通は絶対の静寂を意識しないでやっているから、すぐアタマにきてピピピピピッってどっかに行ってしまう。

静寂というのは、探し求めるんではないんです。ある。「ある」ということに気がつくのです。この出発点を間違えると、とんでもない、なんか努力してそういう特殊な状況に入らなきゃいけないと思って、かえってもともとある絶対の静寂を見失ってしまうのです。

誰でもすでに静寂の中にいるんです、本当は。だけど見失っているためにアタマが勝手に、暴走してしまうのです。この静寂を仏教的に言えば、空とか、無と呼ぶのだと思いますが、僕はそれを「いのち」と呼んでいます。

そのいのちの土台、目に見えない“いのち“が、こういうふうに現象として現れている。なんかエネルギーみたいなものかな、なんて勝手にイメージしているけれども、その”いのち“というのは、絶対の静寂というか、何もないものとして、体感できるものでもある。

普通はそれが体感できないと思われているようで、仏教なんかでも坐禅とかして、みんな一生懸命に求めてといった感じで何十年かが過ぎて、とうとうわからずに死んでいく人が多いようです。だから、根本的に静寂に対する見方の角度が違うんです。元々すでにあるんです。一番自分に近いところにあるんです。近過ぎて、アタマでは、逆に気がつかないというか、そんな状態です。

(つづく)





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川の瞑想の実際  その2

川の瞑想の実際  その2
(その1からのつづき)

今回からは川の瞑想の実際の指導を、実際のセミナーをもとに、実況中継風に述べていくことにしましょう。

では、始めましょう。

活元運動、愉気の基本が川の瞑想にあります。これが一番の王道なんです。

愉気にしても、活元運動にしても、その基本はとにかく全てを大いなるいのちに任せるということなんですが、その任せるということが、ある意味では非常に難しいのです。妄想的な感覚で、自分では任せているつもりになっているだけという人が多いのです。

とにかく任せるということが基本なんです。野口先生は愉気や活元運動についてそこのところをただ「天心で」とか「ポカンとして」という表現でしか言われていません。まあ、的確と言えば的確なんですけど。その天心、あるいは、ポカンとなること自体がなかなかできない。

で、結局、予備運動を丁寧にやるというところにまた戻るんですが、そういうことも踏まえて、川の瞑想をきちんとやるということです。これは、結局、このCDの音に任せるのです。最初はアタマで「ああだ、こうだ」と思っていても、自然に任せるということがどういうことかを体得しやすいのです。これが川の瞑想の効能の一つです。

もちろん、川の瞑想というのは、自分の本体、この世界の本体そのものを体感する、体得することが目的です。体感しようというんじゃなくって、体感が自然とできるのです。ただやればいいんです。アタマでああだ、こうだとやっていると、その分だけ遅れます。任せるという気持ちでいれば、自然と任せるというのはこういうことなんだな、ということが自然と身に付いていきます。

この瞑想はとにかく努力の必要がないのです。一生懸命頑張って努力してある心身状態になっていくということではありません。


いくつかポイントがあります。まずはですね、最初に川の音がザーッというふうに流れます。そうすると、人間は本能的にその音に注目します。でも、なんか他のこと考えていちゃだめなんです。音が鳴っているなと思ったら、耳を澄ますという感じ。本能的にもそういうふうになりますけども、意識的にそっちのほうに意識を向ける。

川の流れの音に注意が引き付けられている状態で、突然川の流れの音がストップします。最初は音がゼロだったのが、川の流れの音が始まり、例えば50くらいにザーッと上がっていく。そして50に上がっていったのが、突然川の音が消えて、ゼロにポトンと落ちる。この突然の落差、その時に、すっと一瞬何かに引き込まれるような感じで、そのゼロの静寂世界に入る。

普段は、川の流れ以外の何かの音が聞こえているとすれば、その音が聞こえているわけですから、静けさを感じているわけじゃないんです。ところが、川の流れの音がプラス50から一気にゼロになると、その落差が一瞬でマイナス50になり、脳が自動的に反応して、一種の錯覚ですが、瞬間的にバーンと静寂な世界に入ったという感覚があるわけですね。その静寂になった時は一瞬、無の状態のような感じになります。

けれども、1、2秒もしないうちに、脳が再び立ち直ってきて、周りの音が聞こえ始める。ゼロになっていたのが、また5とか10とこう上がっていく。それと同時に、いろんな思いも現れてくる。

そんなふうな状態になっている時に、またしばらくすると川の音がザーッと流れるので、それが一気に50に上がり(厳密に言えば、他の音と合わせて55とか60になり、)そのレベルがまたずーっと続いていく。そして、再び突然音が切れてゼロに下がり(厳密に言えば、5とか10に下がり)、一気に静寂を感じる。同時に、アタマの中の思いもすっと消える。だけども、それも、1、2秒すると、また音が聞こえ始める。思いも出てくる。こういうようなことを繰り返していくわけです。

これから先は、他の音を無視して、川の音がしているときは音量50、していないときはゼロ(0)として説明していきます。

川の音が50からゼロに落ちた時の静寂な感覚を、そこに集中することによって、努力して時間的に延ばそうとする人がいますが、これは間違いです。

僕がこの川の瞑想のポイントとして、みなさんにお伝えしているのは、そういうことではありません。プロセスとしては、50が何秒か続いてたのがストンと0に落ちて静かになる。1、2秒して、また音が聞こえ始めたり、思いが出てくる。そういうことを繰り返している。

50が0にストンと落ちてできた瞬間的な静寂な時間を努力して引き延ばすのではなくて、ストンと瞬間的に0に落ちて静寂になった時に、意識的に、この0ところに意識を向ける。1、2秒して、また音が聞こえ始めたり、思いが出てきて、音が3とか5とか10に上がっていく感じがあるのですが、それと併行して、同時に、0のラインのところにずーっと静寂が続いていることに気づきます。つまり、音があるなしに関わらず、元々このゼロのところはいつも変わらず絶対的に静寂なんだということに気がつくのです。僕は、それを「絶対静寂の0ライン」と呼んでいます。

川の瞑想のCDは、例えば、50の有音が10秒続き、その後突然0になり、0の無音が1分とか2分とか5分間続くというように音が鳴ったり消えたりします。その川の音が突然消え、音が0になるたびに意識を0ラインに向けることを繰り返していると、絶対静寂の0ラインがもともと存在していることをはっきりと体感できるようになります。

つまり、元々音があるなしに関わらない絶対的に静寂な世界があるということがわかってくるわけです。つまり、川の音が流れている。それから、それがゼロに落ちてから、1、2秒後に、また川の音が聞こえ、部屋の外を流れている実際の川の音とか風の音とか人の声が聞こえてくる。そういういろいろな音とかが聞こえながらも、0の静寂のラインがずーっと切れずに続いている、ということにアタマでなく実際に気づくのです。

繰り返します。これまでは、CDの川の流れの音がしていると、注意力は50の有音のほうにだけ引かれているので、このゼロラインの静寂がないように感じているんです。

で、突然川の流れの音が消えて、ポトンと0に落ちる。で、最初は落ちた瞬間の1,2秒の普通の静寂だけを感じている。ところが、繰り返していると、0のライン、つまり、絶対の静寂がずっと続けて存在しているのを感じることができるようになります。

熟達してくると、川の音が50でザーッと鳴っている時にも、同時に、このゼロのラインの静寂を感じることができるようになります。この0のラインの絶対的な静寂の世界は川の音がしようとしまいと、人の声がしようとしまいと、車の音がしようとしまいと、思いがアタマに浮かんで来ようと来まいと、体の感覚があろうとなかろうと、ずーっと続いているのです。そこに気が付くまで、何回も川の瞑想をやってください。

つまり、意識的に静寂になろうとするということじゃないということです。自分が、結果的に自然になってくると、元々静寂の世界がずーっと根底にあることに気づくのです。そこで、そこのところに意識的に意識を集めていきます。

そうすると、絶対的な静寂が根底、あるいは、奥にありながら、その絶対的な静寂をバックにして、川の音が聞こえたり、いろんな外の風の音とか人の声なんかも聞こえている。満員電車の中でアナウンスが聞こえたり、人の声が聞こえたり、車の音がしたり、ゴーゴーゴーゴー、そういう音が一方で聞こえながら、その奥にはいつもこの絶対的な静寂がある。これに気が付くことです。

そのうちに、CDを使っていちいち川の瞑想をしなくても、ずーっと静寂な状態でいれるようになるわけです。東京駅のあの雑踏の中だってできる。丸の内のあの車が行きかっているところでも、いろんな音が聞こえたりしているのにも関わらず、この絶対の静寂が常にある。もともと、すべての音の奥にはそういう絶対の静寂な世界が存在しているのです。

自分の思いはもちろん出てきます。でも、思いが出てきても、他の音が聞こえても、絶対静寂な世界にいることができるようになります。そうなってくると、思いに引きずられないようになって、思いを手放しにしておけるようになるので、思いは次第に力を失い、気にならなくなるとともに、相手にされない思いはいつのまにかほとんど浮かんで来なくなってきます。

そうなってくると、今度は、周りだけでなく、自分自身が完全な静寂であることを体感することができるようになります。これが人間の一番自然な状態です。これがあって初めて愉気ができる。これがあって初めて活元、本当の意味での任せる活元運動が出てきます。

(つづく)





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川の瞑想の実際  その1

川の瞑想の実際  その1

僕の生きる目標は一人も不幸な人のいない世界を実現することです。その目標を実現する手段の一つとして、このブログも書いています。

今回の『川の瞑想の実際」』のシリーズは、私たちはどうすれば自分の正体に体験的に気づき、人生の目標をはっきり自覚するとともに、何があっても絶対安心の中で生きられるようになるのか、との思いで書いています。

このところのブログで、26歳の時の体験とその後の生き方について詳しく書いたのは、そこに、それぞれの方が自分の正体に体験的に気づく動機、あるいは、きっかけのようなものを読み取っていただけるのではないかと思ったからです。

実は、ここまでがこのシリーズの前書きのようなものです。これからは、川の瞑想についてさらに詳しく書いていきます。というのは、これまで読んでこられて、ある程度は理解された方もいらっしゃると思いますが、川の瞑想を正しく実行することが、存在の真実、自分の正体に体験的にはっきり気づくためにもっとも有効な方法であると僕は確信しているからです。

読まれる前にお願いがあります。それは文章をざーっと読んで、それで終わりにしないことです。納得がいくまで何回も読んで文章の真意を掴むようにしてください。

また、川の瞑想のやり方を大体わかっていると思われてきた方も、多分、多くの方が重要なポイントを誤解されていると思いますので、先入観に捉われないで、あらためて、思い違いがないかどうかと検べながら読んでいってください。

そして、実習してみては、また、文章を読み直して、そのうえで再び実習に戻ると言うことを繰り返して、体験としてきちんと理解するようにしてください。そのようにして、自己の本質・存在の真実を体得することを目的としてください。

では、さっそく川の瞑想について説明しましょう。

川の瞑想は、まず第一に、有音と無音のコントラストと聴覚と脳の錯覚を利用して、絶対静寂の世界の存在に気づくこと、そして、それが深まることによって、自分自身が絶対静寂の存在であることに体験的に気づくことです。

第二には、絶対静寂の世界が絶対透明の世界、というか、空の世界であることに気づくこと、つぎに、自分自身が空であることに気づくことです。

第三には、それが深まって、自分自身もこの世界もすべて絶対静寂であり、空であることに気づくことである。

普段は、常識的には音がしている状態(有音状態)と静寂(音がしていない無音状態)の関係は、「有音状態であれば静寂(無音状態)ではない、静寂(無音状態)でなければ有音状態である」というように、AかBかの関係にあると思いがちです。

けれども、川の瞑想の目的は、まず、有音状態であろうと無音状態(通常の静寂)であろうと、その奥、あるいは、土台に絶対の静寂がある、ということに気づくことです。

さて、有音と無音のコントラストというのは、たとえば、居間でテレビの音を着けて(有音)しばらく画面を見ている時に、突然リモコンの「無音」ボタンを押して、無音にすると、他の場所から何かの音が聞こえているかもしれないけれども、「シーン」とした静寂を感じます。

これは通常の静寂で相対的なものです。仮にテレビの音が50、その他の音が10、合わせて有音が60である時に、突然、テレビの音を無音にして0にすれば、その他の音が10聞こえていても、60の音が10に下がったわけですから、私たちの聴覚と脳はホッとする感覚とともに、50の静寂を感じるわけです。

この実験をテレビ以外の音がしていないところでやってみれば、つまり、テレビを50にしていたものを突然0にすれば、より鮮明に50の静寂を感じることができるでしょう。

原理的には、このプロセスを何回も繰り返していると、有音状態、無音状態に関わらず、通常の静寂ではなく、その奥に何ものにも妨げられない絶対の静寂があることに容易に気づくことができます。
それが川の瞑想の第一歩です。

(つづく)





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眼を瞑って自分を確かめる

眼を瞑って自分を確かめる

普通、ほとんどの人は「自分とは何か?」などと自分自身に問うことはほとんどないでしょう。

もし「自分とは何か?」と問われても、ほとんどの人は何となくその答えが分かっているような気がしているのではないでしょうか。

「自分とは何か?」と問われれば、ほとんどの人は他の人と区別することのできる自分自身の人間的な個人的特徴をいくつか並べるでしょう。それは、通常、その並べ立てたいくつかの個人的特徴が自分を表していると自分自身が思っているからです。

では、自分自身を他人と区別し、自分自身の自己証明となるような個人的特徴として挙げられるのは、通常どのようなものがあるでしょうか?

自分の名前、人種、国籍、年齢、性別、結婚関係、家族関係、体付き、仕事、住所、財産、学歴、友人関係、趣味などでしょうか。

その他に、個人的特徴として、過去の経験とか、思い出とか、考え方、体の特徴とか、もっと精密な特徴を挙げることもできるでしょう。

いま自分が日本でなく、ヨーロッパ、あるいは、アメリカにいるとすれば、皮膚の色、髪の色、眼の色などを挙げるかもしれませんね。

いずれにしても、ほとんどの人が、そういう個人的特徴によって、「自分」というものを他の人と区別できると漠然と考えています。

では、他のものに邪魔されない静かな場所で、眼を閉じて、心を静かに、それらの際立った特徴のどれか一つでも、いまここに存在しているかどうかを検べてください。最低1分間は掛けてください。イメージではありません。

そうすれば、そのような「個人的特徴」と呼ばれるものは何も存在していないということがはっきり分かるはずです。

分からなければ、分かるまで何回かやってみてください。

では、そこであなたは何を経験しているのでしょうか?

あなたは、いかなる個人的な特徴もない、「本質である自分自身」をありのままに経験しているはずです。

つまり、そこにあるのは、どんな人間としてあなたがあるか、ということではなく、ただ、「あなたが存在している」ということです。

先に挙げた他の人と区別するいろいろな“個人的特徴“というものは、何者でもない自分自身に、二元相対的思考しかできないアタマによって外から勝手に付けた”ラベル”、あるいは、規定にすぎません。

ほとんどの人は個人的特徴というものの総和が自分であると漠然と考えているようですが、個人的特徴というものは時と場合によってクルクル変わる幻影のラベルなのであり自分自身ではないのです。

重要なことは、「自分は~~である」ということではなく、「ただ自分は存在する」ということです。

さらに言えば、自分というものには、本当は、他と区別する個人的特徴はないということは、他の人、他の存在にとってもまったく同じだということです。

ということは、他の存在と自分とを区別するものがないということであり、結局、「みんな一つの同じ存在である」ということです。

この実験?のもう一つ大切なことは、眼を瞑って、ただ、自分が存在していることを意識していると、自分は死なない、つまり、不死の存在であることが分かるということです。

気負わないでやってみてください。




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