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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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整体セミナーの感想  AAさん

整体セミナーの感想  AAさん

昇平先生、奈央先生、恵理佳先生

先日の整体のセミナーではありがとうございました。

今回もまた、参加させていただいて、本当に良かったです。

奈央先生からのお母様のお話は、とても心に響きました。心からそう生き抜くことが出来る人で在りたいと思いました。そして、天の意志に沿って生きること、そう思うだけで決意と喜びを感じます。

先生方の、一つ一つの言葉の重みと真剣さが、私自身と深く向き合うことを導いてくれました。

川の瞑想の中で、自然と沸き上がってくるような覚悟を感じ、丹田の力強さを始めて感じました。

今まで自分がしてきた瞑想は浅いものだったな、と思います。幸せを感じたことに満足していたような、むしろ幸せを得ようと瞑想していました。それが、川の瞑想の中ではずっと変わらずにある静寂そのものを感じ、そしてすべてに静寂があり、言葉にできないほどの大きなものに包まれて広がっていきました。

宇宙と一つの呼吸を感じて、汗がどっと出るほど身体が熱くなりました。

当たり前にあったんだと気づき、ここからが始まりになるんだと思いました。

日々の実践、瞑想を続けていきます。本当にご指導ありがとうございました。

次回、9月のセミナーでもまたお会いできることを心から楽しみにしています!!






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自覚のセミナーの感想とその後  PPさん

自覚のセミナーの感想とその後  PPさん

 自覚のセミナーから帰ってきて1週間が経とうとしていますが、日常生活の中でもセミナーが続いているような感覚があります。今回、6年ぶりに再受講させていただきましたが、参加できて本当によかったです。

 初めて受講したときも、帰宅してすぐに夫に受講を勧めたほど、自覚のセミナーのすばらしさを実感していました。それから程なくして、自覚のセミナーを受講した私はやっとスタート地点に立てたのだと気づきました。この6年の間、ほぼ毎月、整体ライフスクールのセミナーに通って継続的に先生方からご指導を受け、日々さまざまなことを経験する中で、歩みはのろくとも、確実に変化し、成長している手ごたえを感じていました。そして、ようやく自分のためだけに生きるのではなく、みんなが幸せで平和な世界を実現するという方向性がはっきりし、心からやりたいことが出てきました。ただ、実際に行動し始めたものの、油が足りない車輪のように、どこかスムーズに回らないものを感じていました。

 そして迎えた2度目の自覚のセミナー。前のセミナーがどうだったとか、今までのことは脇に置いて、ゼロからやり直す気持ちで臨みました。実際にセミナーが始まってみると、そんな心構えも必要なかったと思うぐらい、だいたいのテーマにおいて初めて参加する人のような有様でした。でも、再受講だからどうこうという恥や外聞よりも、再受講だからこそ中途半端には絶対帰れない、これから前に進むために何としてもはっきりさせたいという気持ちのほうが勝っていました。

 そういう態度でいたからか、今までも昇平先生から聞いていた言葉の数々が、違う響きを持って私の中に入ってきました。そのすべてが、扉を開くための大切な鍵であるように感じました。だから、その鍵を手がかりに「本当はどうか?」と今までの人生を見つめ直し始めました。

 2日目の朝の休憩時間、先生方のコーヒーを淹れていると、昇平先生が話しかけてくださいました。「自分で壁に頭をぶつけているようなものだよ…帰るまでにわかるよ。」コーヒーの粉がお湯を吸い込むように、先生の温かい声が心に沁み込み、コーヒーを淹れていたことも忘れてしまいました。

 昼休みに一人で横になり、流れてくるカノンを聴いていたら、亡き祖父が傍にいるのを感じ、応援してくれているのがわかりました。他にも見えないところで多くの人の支えがあることを感じました。

 3日目に転換が起こりました。「○○○ですっきり楽しく生きられますか?」という問いは、お手上げ状態で、どうやって検べればいいのだったかと思ってしまうほどでした。次々と周りの人たちが答えていく中で、ちょうど右隣に座っていた△△さんの発言を聞いていたとき、はたと思い当たりました。「私はすっきり楽しく生きたいと思い、それを選んでいたと思ってたけど、実は選んでなかった!?」まさかと疑いたくなりましたが、それは疑いようのない事実としてそこにありました。「私は今までいったい何をやっていたんだろう…」唖然としていたちょうどそのとき、昇平先生から質問され、うまく言葉にならず大泣きになりました。

 「自分の姿が全く見えていなかった。こんな単純なところで引っかかっていたとは。整体ライフスクールに通い続けていったい何をしていたのか。先生の話を聞いているつもりで、全然自分のこととして受け取れていなかった。中途半端な"節煙"の生き方をしていたんだ。なんてバカな。そして、先生方はそのバカに真剣に付き合ってきてくださっていたとは…」こんな思いが一気に押し寄せ、泣いて笑うしかありませんでした。そして、すっきり晴れ晴れし、自動的にすっきり楽しく生きる道を選択していました。

 他のテーマでも、自分のいろいろな癖がよく見え、これでもかというほどすぐにアタマになる自分がいました。だからこそ、答えを出すときは、アタマの理解ではなく体感があるかを常に確認しました。不自由な枠に収まっていたことにも気づきました。平和な世界にしたいと言いながら悠長に構えていた非現実的な自分にも気づきました。

 日常生活に戻り、初心者マークを付けて左の世界を走っているような感じがします。長年慣れ親しんだアタマモードに引っ張られないよう、自覚のセミナーのことを思い出しながら、真実の生き方を深めていきます。早速、「パクチーはパクチー」という言葉が事実を見るきっかけをくれました。

 自覚のセミナーは本当にすごいです。昇平先生のファシリテーションは絶妙で、参加者全員がたった5日間で劇的に変化し、存在の真実に気づきます。これを体験した私たちは、自分たちだけのもので終わらせず、他の人たちが受けるチャンスを作っていくバトンを持っていると思います(責任でも義務でもなく)。

 最後になりましたが、昇平先生、奈央先生、恵理佳先生、いつも本当にありがとうございます。お世話係の鳥居さん、一緒に受講した仲間、整体ライフスクールの仲間、その他すべての人、すべてのことにありがとうと言いたいです。


自覚のセミナーその後

 自覚のセミナーを再受講してから2ヶ月以上が経ちましたが、もっと時間が経ったような気がしています。セミナー中にハッと気づいたときの感覚は鮮明に残っていますが、自分が書いた感想文を読み返すと、言い得ていないような、もう古びたような印象を持ちます。
 その後心がけてきたことは、本当はどうかと物事を見ること、人の話を素直に聴くこと、自分の姿を客観的に見ることなどです。どれも基本的なことですが、心がけたからこそ見えたこと、気づけたこともあり、一方で、心がけても不十分だった部分もあるように思います。

 例えば、今までは、人からどう思われるかという意識が染みついていて、自分をよく見せたい、できないことは恥ずかしいといった気持ちが知らぬ間に働いて、どこか自分を取り繕うようなところがありました。それは、バラバラ観があり、まだ守るべき自分がいると思っていたからですが、その守ろうとしていた"自分"は砂でできたもののようで、そのもろいものを必死で守ろうとしてきたことがわかりました。でも、それが一瞬で崩れてなくなった今は、なんと楽なことでしょうか。今まで、砂でできた幻想を大事にし、まさに独り相撲をとっていたのです。これからは、ただ、できないことをできるようにしていくだけです。

 自覚のセミナーを再受講する以前も、静寂や不可分一体のいのちを体感していましたが、実際に日々の生活においてどうかと言えば、静寂の中にいる時間が少なく、静寂の度合いも浅いため、中途半端な状態でした。そんな状態だから、本当は左の世界しかないのに、左右にフラフラしてきたのです。瞑想がすべての基本だということが身に染みてわかりました。常に絶対の静寂を感じて生きていけるよう、川の瞑想を正しいやり方で続けます。





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川の瞑想の実際 その5

川の瞑想の実際 その5
(その4からのつづき)

では、あらためて川の瞑想から入ります。

今回は、目を開けてやります。川の瞑想では、目を開けるのと目をつぶったのではちょっと違いがあるんです。

僕にとっては目を開けたほうが圧倒的にやりやすいです。目を開けるといろんなものが見えます。その中に動いているものもあるわけです。例えば、CDの音なしですが、街のなかでこの瞑想をやれば、しょっちゅう車とか人とか動いている。いろんな音も聞こえるわけですね。

だけども、動かないものがある。ここの部屋だったら、例えば、畳であるとか、正面の壁であるとか、特に人間でないもの、生き物でないものがいいと思います。動かないだけではなくて音を出していないもそれをじっと見る。

つまり、そういうものは最初から静寂の中にあるということなんです。ですから、そういうものに意識を向けると、静寂を瞬間的に捉えることができる。動かないもの、静止しているものの音を聞こうとする。当然聞こえないわけです。その時に、静寂の中に入る。

元々この壁が音を出しているわけではない。畳もそうです、目の前の壁や畳をじーっと見て、その音を聞こうとする。すると、途端に静寂が自分の中にポンと入ってくる感覚がある。

僕は街の中でこの瞑想をやる時、最初はまず、動かないものをじっと見ています。周りは動いていても、動かないものに焦点を当てています。そこから静寂を感じると、今度は動いて音を出しているものも、その奥に、土台に、静寂というものがあるということがわかります。

段々慣れてくると、最初から動いているもの、音を出しているものをじっと見る。じっとと言っても、軽く気を向けるという感じです。すると、音も聞こえますけど、その奥に静寂というものが土台としてある。すべての音というのは、実は静寂から現れているのです。特別に、難しいこと言っているわけではないんです。

今この部屋はしーんとしています。外で、突然犬がワンワンと鳴いたとしますね。ワンワンという音は静寂の中から出てきているのです。だから音を聞くというのは、その奥というか、土台に静寂があるということなんです。さらに言えば、現象としての音の本質は静寂だということです。言い換えれば、「音即是寂」(音は即ち静寂である)ということです。

人間の五感の感覚器は現れている音のほうにすっと引きつけられます。それをちょっと切り替えてやるんですね。音にパッと注意が行くんだけど、それをじっと見て、その奥にある静寂に気を向ける。そうすると、明らかに静寂というものが元々あったんだなということがわかる。音は聞こえながらも、完璧なゼロラインの絶対の静寂の中にいるのです。

これは特殊な体験でも何でもないんです。すごい神秘的な体験をしているように思うかもしれないけど、実は、ごく当たり前のことなんです。何でも本物というのはね、実はね、誰でも捉えることができるのです。

ただアタマの妄想で「これはこういうことなんだ」という固定観念があると、その当たり前で簡単なことが見えなくなる。見えているのに気が付かない。でも本当は、真実を捉えることは全然難しくない。誰でもわかる。だから一生懸命求めよう求めようとすること自体が滑稽で仕方がない。

ここのところを、わかりやすく説明しましょう。
野口先生は「雲の上にはいつも青空がある」と言われました。僕流に言えば、「音の奥にはいつも静寂がある」となります。雲は青空から生まれ、また、青空に戻って行きます。同じように、音は静寂から生まれ、また、静寂に戻って行きます。このように、音がしていても、その奥にはいつもその本体である絶対の静寂があります。

僕が住んでいる山の中では、冬雪が積もった朝、起きて外に出ると、シーンとした静寂の世界が広がっています。その静寂の中に、「ピーッ」という鳥の一声が聞こえます。そして、再び、静寂だけの世界に戻ります。その鳥の声は静寂から出て来て、静寂の中に戻るのです。その時、鳥が鳴こうと鳴くまいとゼロラインの絶対の静寂は変わりません。それは白いスクリーンに映写機で動画を映して、また、消す時に、動画は映っていても、いなくても、白いスクリーンは白いスクリーンのままで変わらないのと同じです。

静かな居間で、リモコンでテレビをオンにすると音がします。リモコンで音をオフにすると、静寂を感じます。でも、ゼロラインの絶対の静寂の中に、音が飛びだして来たり、消えて行ったりしているだけで、ゼロラインの絶対の静寂はずーっと続いているのです。その証拠に、リモコンの「有音・無音切り替えボタン」を繰り返し押しながら、音があるなしにかまわないで、画面に集中していると、音のあるなしに関係なく、画面には映像がいろいろ映っていても、ずーっと静寂が続いていることがわかります。これは観念的にとか、イメージとしてということではなくて、事実としてそうなっているということです。

私たちは静かなところにいて静寂を感じていても、いったん音が聞こえると、本能的にその音だけに注意が引き付けられて、「音がして、静寂がなくなった」というように感じる傾向があります。

この川の瞑想で言っていることは、その時に、あえて静寂に意識を向けて、実は、音が鳴っていても、消えていても、それとは無関係に、絶対の静寂はずーと続いているということです。

この絶対の静寂をいつも感じることができるようになると、その絶対の静寂に意識を集中している自分自身も静寂そのものであることに気づいてくるのです。

これはやり方さえ勘違いしなければ、小学生にもわかる容易なことなのです。とにかく、わかってしまえば、あきれるほど簡単なことなんです。野口晴哉先生は、愉気、活元運動、焦点にバッと手が行くというのは、できないほうが不思議だ、何でできないんだ、と言われてますね。ただ、先入観や思い込みがあると、この簡単なことがとても難しいことのように思え、実際にできない。ところが、ふと自分の先入観に気がついて、視点を変えてやってみると、拍子が抜けるほど簡単だということがわかります。そんなものなのです。誰でもできるのが当たり前です。

普通の人はまず難しいというところから、その大変なところを乗り越えて、その境地に至ることができるというようなイメージを描きやすい。トレーニングと訓練を積んだ先にやっとそういう世界が開けてくるみたいに思っています。本当は逆です。一番簡単なものがすでに一番正面に現れています、ですから、その見方の角度が変わって、真実が分かると、「な~んだ」と、そこで思わず大笑いしてしまうのです。

「今まで一体何をやってたんだろう」と、泣き笑いですね。散々苦労してね、それこそ何十年も求めて、それがパンとわかった時には、笑っちゃうわけですよ。おかしくてしょうがない。でも、もちろん、分かったから、うれしくてしかたがないんですが、「こんなことだったのか」と思う。だったら、最初から、簡単なはずだとやって行けばいいわけですね。そういうことをみなさんにはお伝えしています。

これは僕が、なんかすごいマスターであるとかそういうことではない。当たり前の人間だからできてしまうのです。本当はマスターなんていうのはね、周りがそういうふうに奉っていくわけね。本当に分かっていれば、その人自身は、自分はごく当たり前の人間だと思っているはずです。もともと特別な人などいません。

ということで、目を開けて川の瞑想をやります。ごく当たり前のことです。目をどこか、動かないものに、焦点を当てるといっても、睨みつけるというのではまずいんですね。動かないもの、そこにすっと気を持って行く。そして、動かないものの音を聞こうとする。

その時このCDの川の音がばっと切れ、ゼロの静寂になる。それと重なってくるわけです。50の音がゼロになったとき、ふっとこう静寂を感じる。それと動かないものの静寂が一つになっていく。そうすると、なんだ元々ゼロラインには絶対の静寂があるではないかとはっきりわかる。

最初は動かないものの一点だけを見ているんですね。一点の静寂を感じたら、少しずつ周りに視点を動かしていく。そうすると、ああ全部が絶対の静寂だとわかる。すべてが「静寂、静寂」と言っているみたいに聞こえる。変な表現ですけど。

通常は、いろんなものが音を出していると、そっちのほうにアタマが引っぱられてしまうんです。そうすると「みんな音を立てている、騒音だ、うるさくてしょうがない」と思ってしまう。でも、この瞑想をすると、どんなところでも、絶対の静寂の中からそういう音も出ているんだということがわかってくる。

音が聞こえたら、そこに気を集中するんではなくて、それは、放っておく。音だけではなくて、体の感覚や思いもそうです。いろんなものが浮かんできても放っておく。「また自分はこんなこと考えている、だから私は無心になれないんだ!ダメだ!」みたいな感じで思っていると、それこそダメなんです。「思いがまた出ていますね。それは生きている証拠だ」ぐらいに思って、放っておく。出ても構わないんです。

このようにしていくと、すべてがゼロラインでは完全に静寂ということが簡単にわかります。何も難しいことではない。もしわからないという人がいたら、それは、角度が違っているんです。そこに気が付いていないからそういうふうに言っているのです。気が付いたら「なあんだ」自分でもおかしくなります。

はい、それでは、瞑想に入ります。

(川の瞑想開始:目を開けて)

目が疲れてきたら目を閉じてもいいですよ。目はぱっちり開かないで、半眼という感じですね。緊張しちゃだめですね。

(川の瞑想終了)

はい、いいでしょう。足崩してください。

(つづく)





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川の瞑想の実際  その4

川の瞑想の実際  その4

これから愉気の実習に入りますけど、手つなぎをやる時にも、絶対の静寂の状態になるということなしにただ手を握っていてもだめなのです。それなしでは、呼吸を合わせて、波長を合わせるとか、なんとか、勝手に思っているだけで、ただの“ごっこ”なんです。

そういう物理的なことではなくって、静寂というのは言葉を変えれば“いのち”、この全世界を成り立たせている根本、もともと繋がっている“いのち”と“いのち”が、絶対の静寂の中で手をつなぐことによってより確かに繋がっていく。

みんなアタマでどこかにバラバラ観を持って、バラバラな感じがどうしてもあるんです。でも、みんなで手をつなぎ、絶対静寂な世界に入っていくというか、そこに立ち戻る。でも、イメージの静寂ではないのです。そういう状態になって呼吸が合ってくると、元々がつながっているのだから、手つなぎがうまくいく。愉気も同じなんです。絶対の静寂の中で気のコミュニケーションが起こっているだけです。お互いにそういう状態です。活元運動もそこでもっとも自然に出る。

道元禅師が言った只管打坐、ただ坐るということ。それはアタマを手放しにして、“いのちに全てを任せるということなんです。けれども、絶対の静寂状態を忘れて、あるいは、それとは別のところで形だけまねして坐っていても、本当の只管打坐にはなりません。

もし只管打坐が難しければ、まだ活元運動のほうがましなんです。どこかで自分を任せているからです。ただそれも絶対の静寂から離れて、イメージや妄想になってしまうとダメです。静けさの中から出てくる活元運動、本当に、いのちに触れた時は、最も必要な動きが出てきます。

だから、アタマで、いのちは静寂だから、動きもこういうふうにしなきゃいけないかな、なんて、イメージでもってやり始めると変なことになる。任せたんだからって、ガーって狂ったようにやっている人もいますけど、それもまた違います。それはただの妄想的狂乱であり、活元ではありません。

では、川の瞑想から手つなぎ、それから愉気の実修に入ります。

まだ、最初は手はつながない。手をつなぐ時は、右手が左の方の手。そして手の平は上を向いている。手の平は上を向いている。それが正常です。

最初10分間ぐらい川の瞑想やります。一切解説、説明無しです。とにかく静寂。50とゼロのゼロの方にず~っと意識を添わせる。思いが出て来たりしてもそれを相手にしない。

50の音が突然消えて、ゼロの方に気が向いたら、ずーとゼロのラインに気を添わせて、次に50の音が始まっても、それはただ聞こえるに任せておく。そんな感覚です。任せるんです。勝手に音が鳴っているなぐらいの意識で、ゼロのラインから離れそうになってもまたゼロに戻すという感じです。はい、それでは入りましょう。

(川の瞑想の音)

はい、それでは手を繋いで下さい。そのまま瞑想をしています。

(川の瞑想)

息を吸い込みます。そろえます。はい。

揃っていません。もう一度。単純に息を吸い込む。同時に、ハイと言ったら。一緒に吸い込みます。はい。

(手つなぎ・瞑想中)

ご一緒に息を吸います。はい。片目づつ目を開けます。息を吐きます。手を離します。

合掌行気。目の前に両手を出して、3センチ程手を離します。真ん中の1点をじ~っと見つめているとだんだん呼吸をしているのでくっついてきます。

そうしたら指先から手の平全体で息を吸い込む、吐き出す。これも途中で呼吸を揃えます。

こて先の手の平だけの呼吸ではなく、全宇宙の呼吸が指先に入って来て吐いて行く。

静寂のみ。目がくっついたら目をつぶります。

掌の呼吸のみ。他はありません。息を吸い込みます。ご一緒に。はい。掌で呼吸だけです。

ご一緒に息を吸い込みます。はい。そのままお隣の方の背骨に手を当てて愉気に入ります。そのままの静寂。2人組。左の手が肩、で、今合掌行気をしている状況です。

今の静寂を背骨の愉気、行気にしていきます。静寂。

掌全体。指先ではありません。掌全体。行気です。

力を絶対使わない。押し付けない。静寂の掌の呼吸をしていると愉気する側も全身呼吸で、整うように出来ています。

静寂のみです。呼吸。自分がやるんではない、宇宙が働いているんです。

はい、ゆっくり手を離して下さい。

基本的に川の瞑想から、その人の本体である絶対の静寂。頭を超えたその人のいのちの本体に手を触れて行くと顔がすがすがしく物凄く透明に美しくなって行くんです。それが念でやっていると、静寂が愉気していない。だから黒い顔のままです。

愉気する側の背骨の捻じれや色々が自然に取れて行きます。世界がいのちそのものですから、アタマを超えた行気と呼吸、静寂になってくんです。ここが一番のポイントです。

はい、足がしびれている方はそのまま静寂の中で戻して下さい。

今日の瞑想から手つなぎ、合掌行気、愉気。この一連のポイントとなるのが静寂です。アタマで想像するのではなく、元々ある絶対の静寂です。アタマではない本体である静寂。元々静寂なんです。そのいのちそのものの絶対の静寂の中ですべてが整うように出来ている。これは静寂を会得して体感するのに非常に素晴らしい実習だと思います。

では、休憩しましょう。

この後実習をもうちょっと続けますが、ちょっとだけ説明をしておきます。

絶対の静寂、それは別の言葉で言えば“いのち”ということです。仏教ではそれを空であるとか無であると言うようです。要するに何にもない、空っぽなんだと表現しています。でも、僕はちょっと違うと思っているんです。

確かに現象界の方から見たら何も無いんだけども、絶対の静寂というのは現象界を超えたところにあるんです。現象界として見れば、無とか空ということになりますが、絶対の静寂というのは現象界の奥にあって、それを生み出している実在の世界という意味で、僕は“いのち“という言葉で表現しています。そこには生き生きしたものがびっちりと詰まっているんです。

静寂なんです。でも空っぽのようで空っぽではない。無限のエネルギーがそこにある。

ただ観念的ではなくて、別の言葉で表すと「気」なんです。絶対の静寂から気がば~っと出てくる。イメージか妄想か知りませんが、ムードに浸るような頼りないものではないんです。

とにかく静寂という気の流れ。気というのはムードではないんですよ。あくまで静寂なんです。そこにゆだねて行くと言うか、静寂が自分そのものである。それにゆだねる。何をゆだねるか、ゆだねる物は何もないんです。それしかないだから本当は。

それをコントロールしようとするのもまずい。一生懸命、念を持って静寂にならなくちゃというのもまずい。もうすでに静寂なんだ、とそこは外す。それを無理に追っかけようとしてもダメです。

想念が静寂を作るということではありません。元々静寂があるんだから。

はい、ではもう一度川の瞑想から行きます。

静寂がハッキリ安定して来たら愉気に入って下さい。そうでない場合は愉気に入らない。必ず静寂を持って手を触れる。

(瞑想中)

愉気をする人は眉間を使わないようにして下さい。集中という事と静寂とはまた別です。

はい、それでは目をつむってゆっくり息を吸い込んで下腹に整えましょう。

整体は下腹が満ちている。鳩尾は虚。おへその下はつき立てお餅。虚・中・実という法則があります。はい、片目づつ目を開けて息を吐きます。息を吐きます。仰向けの方は横向きうつぶせで正座をして下さい。そろそろ時間です。

瞑想は静寂そのもの。この静寂の中で生きている自分の存在そのものが、呼吸して生きて触れて、全部と繋がりあって、気がすべてという世界です。そこから相手のいのちに触れて行きます。

道元の、仏の家に投げ入れてという事をよくお話するんですが、その静寂の世界に任せきる。活元も同じですね。するとやはり宇宙の法則に沿って自ら整って行く。

馬鹿になれば、つまり、アタマを使わないほどわかるんです。だから馬鹿な人はすごく恵まれてます。変な言い方だけど、変にわかったつもりの人っていうのはやっぱり遠回りしますね。何もかもわすれて任せてしまうということです。

ほんとは非常に簡単な事なんです。わかってみればな~んだと。出来ない方がおかしいではないかと。そういう事なんです。整体にしても自覚のセミナーでやる事にしても、その後の色んな話をしている事、世界平和の実現についても話してますけどもみんな、ほんとは非常に簡単な事なんです。

誰でも出来る。そういうものですから、「何で出来ないんだろう」と嘆くのではなく、自分が何か勘違いしている所があるんではないかなと、検べるという態度が大切です。悩むんでもないし、ただ考え込む事でもなくて、ダメだなと思うことではなくて、それを探究するんです。

わかってみたら何だこういう事だったのか、は~っ、何年間もこんな見当違いなことをやってたんだなって思って愕然とするようなことだけど、それがバッとわかったらね、他の事も全部わかるわけです。

ですから、あきらめずに検べる。検べるという態度で、宿題にして、追及して行って欲しいんです。

気が付いてみたら、こういう事だったんだなと解った人は今度は他の人に対してアドバイスが出来るようになるんです。自分がわかったら、他の人のことが自分と同じようになぜかわかるんですよ。ほんとにわかったら、どっちが早い遅いっていうのは本当は関係ないですね。

(つづく)





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川の瞑想の実際  その3

川の瞑想の実際  その3
(その2からのつづき)

この川の瞑想によって、この世界の根底、奥にある絶対静寂の世界をはっきりと実感できるようになったら、その次に、自分自身が絶対静寂な存在であることを目標にして、このゼロのラインに意識をずっと保っているようにします。これは努力するのではないんです。自然に、そこにすっと気を向けるだけで、いつもそれを維持することができます。

いままでいろいろな瞑想法をやられた方もいらっしゃると思いますけども、この川の瞑想の説明は誰もやっていないと思います。坐禅の只管打坐にしても、こういうことを抜きにただ坐ればいいというのは違うのではないかと思います。もちろん、ただ坐ることによって、存在の真実を体感された方もいらっしゃるでしょう。でも、時間がかかるし、非常にまれだと思います。こんなにわかり易く、説明されているのは、他にはないのではないかと思います。

絶対静寂の世界は元々あるのです。元々ある状態。気が付いたらずっとある状態。いったん気が付いてはっきりしたら、瞬間的にそこに入れるというか、そこに戻れるようになる。

はい、では、やってみましょう。

姿勢はカチカチでは困ります。手を開く感じだと胸が開いてきますね。これも無理に広げるんではないのです。

最初は目をつぶってやります。目をつぶってやる時に、イメージはかえって邪魔になるので、イメージで静寂、静寂と思わない。

最初、何回か途中で止めて、少しずつこういうふうにしたほうがいいということを注意しながらやって、その後一気に、15分とか20分続けることにします。

足が痛くなれば、崩してもやむを得ないでしょう。そういう時は足をいったん楽にして再度挑戦する、そんな感じです。はい、いいですか。

(川の瞑想開始)

はい、ここで、いったん止めます。
少し説明しますね。最初にCDからザーッという音が流れると、当然そこに注意が引き付けられる。ごく自然なことです。その音がさっとゼロになる。ゼロになった時にすっとするけども、雑音がするところでやると、ちょっとその落差がわかりにくい部分があります。

ですから、ゼロということが明確になるような静かなところで、やったほうがいいと思います。最初の実習では、いろんな音が聞こえている中では、絶対のゼロの静寂を見つけるのは非常に難しいのです。

ですから、静かなところでCDを流して、50からゼロになる環境でやるということですね。慣れてくると、テレビ見ながらだってできるのです。CDなしに外の雑踏の中でもできるのですが、まず最初の練習はできるだけ静かなところでやります。

ゼロになった時に、スーとしたような感じがします。そして再び川の音が聞こえてくる。最初のうちはまた音に注意がいって50。そして、ゼロ。ゼロがしばらくつづいて、また50。しばらくして、またゼロ。こういうことを繰り返してればいいんです。

慣れてきたら、50からゼロになったら、しばらくして、また50にパッとまた上がるんですが、川の音がざーと鳴り始めた時に意識的にこのゼロのところに気持ちを持って行ったほうがいいです。50に注意するよりも、ゼロのほうに注意を持って、自分はゼロの静寂のところにいるんだけど、どこかで川の音が勝手に鳴っているな、という感覚です。50に注意するよりも、ゼロのほうに注意を持っていく。そうすると、だんだんこのゼロの状態、静寂がずーっと持続的にあるということがはっきりとしてきます。

まずは、50、ゼロ、50、ゼロ。それを繰り返しやっているうちに、だんだんゼロのところが長くなっていく。というか、ゼロのところに楽に気持ちを持っていける、そんな感じになってきます。はい、もう1回目をつぶってください。

(川の瞑想再開)

ではもう1回注意します。そのままで聞いていてください。やっているうちに思いが出てきます。だから、これでいいのかなとか、いろんな勝手な思いが出てきます。でも、思いは放ったらかしにしておき、静寂のほうに、ゼロのほうに気持ちを持っていく。というか、楽な気持ちでゼロの静寂を意識している。気を詰めて努力するのではありません。

(川の瞑想終了)

この後、時間長くしてぶっ続きでやります。静寂の部分、ラインを掴まえるということがポイントです

我が家のベランダに出て森や空を見る時、いつもしーんとしています。人間だけがなんか彷徨ったり、ざわざわしている。だけど、人間そのものも大自然の中の一部で、思いや体の感覚などはあっても、その奥はいつもしーんとしているのです。だから静けさがずっと続きます。森の静けさが自分の中に入ってくるというか同調します。

雑踏の中に行っても元々そうなんです。アタマがごちゃごちゃしていること自体が異常。異常事態の火事みたいな感じ。しょっちゅう、自分のアタマの中で、なんか、火事かなんかでサイレンがピッピピッピ鳴っているような、そういう異常な事態になっている。人間の本来の姿は本当に静寂そのものだということに気がつかないのです。

ポイントは、思いが出てきても、雑念が出てきてもいいんです。関係ない。普通の瞑想の指導では、雑念とか思いを何とかこう精神力で封じ込めて出ないようにするのが、静寂の瞑想みたいに言われているんですが、川の瞑想はまったく違います。

静寂というのは、そういうアタマの思いとか、雑念、あるいは、いろんな音が聞こえていようがいまいが、どっちでもいいんですよ。そういうものにかかわりなく静寂の世界がシーンとあって、自分の本体はそういう状態だということです。アタマのほうがちょっと勝手に騒いでいる、といった感じで、それを余裕で見ている。こんなふうになればいいんです。

だから、雑念や何かを何とかするんではないんです。ほっとけばいいんです。「無心になる」なんて言うとね、全く思いが出てこない状態を実現することのように思われているようですが、それはそれとして、僕はちょっと違う考えをもっているんです。

というのは、思いとか、そういう感情とか、あるいは音が聞こえることは当たり前なのです。そうでないと困るわけですよ。石ころではないんだから。瞑想の極意は石ころになることではありません。

ただ、それだけではだめなんです。そういういろいろなものがありながら、土台に、全くの静寂で空(くう)の世界がある。これがはっきりしたら、これは自分そのものだから消えないんです。自分そのものが本当はその土台の絶対の静寂なんです。何もない、空が自分の本体です。

人間の場合はアタマが付いている。だから思いも出てくる、感情も出てくる。だから、どうぞ勝手に出てくださいというわけです。でも、その奥に、絶対の静寂がある。

ということは、瞑想しようと思わなくても、いつも、いわば、瞑想状態でいられるわけです。思いとかそういうものは、普通に出ています。車を運転しながら瞑想をしていて、どっかに車をぶつけちゃったとか、歩きながら瞑想しているうちに、ドブに落っこっちゃったとかはないんです。この瞑想では心がすっきりしている分だけ、物事を冷静に受け止めることができるんです。

普通の生活をしながら、たとえば、普通にテレビ見ながら、瞑想状態でいることができるんです。瞑想状態って言うと、なんか独特の心境で、世間から離れた特殊な世界にいて、何も思いも出てこないみたい、夢を見ているような状態に思うかもしれないけど、川の瞑想で会得していただきたいのは、この自分、この世界の土台は絶対の静寂であり、それが本体で、それが自分の本当の心であり、この世界の本質だということを体得することです。

その状態で、当然人間だから、アタマが働きます、いろんなものも聞こえるし、しゃべろうと思えばしゃべれます。ただ普通は絶対の静寂を意識しないでやっているから、すぐアタマにきてピピピピピッってどっかに行ってしまう。

静寂というのは、探し求めるんではないんです。ある。「ある」ということに気がつくのです。この出発点を間違えると、とんでもない、なんか努力してそういう特殊な状況に入らなきゃいけないと思って、かえってもともとある絶対の静寂を見失ってしまうのです。

誰でもすでに静寂の中にいるんです、本当は。だけど見失っているためにアタマが勝手に、暴走してしまうのです。この静寂を仏教的に言えば、空とか、無と呼ぶのだと思いますが、僕はそれを「いのち」と呼んでいます。

そのいのちの土台、目に見えない“いのち“が、こういうふうに現象として現れている。なんかエネルギーみたいなものかな、なんて勝手にイメージしているけれども、その”いのち“というのは、絶対の静寂というか、何もないものとして、体感できるものでもある。

普通はそれが体感できないと思われているようで、仏教なんかでも坐禅とかして、みんな一生懸命に求めてといった感じで何十年かが過ぎて、とうとうわからずに死んでいく人が多いようです。だから、根本的に静寂に対する見方の角度が違うんです。元々すでにあるんです。一番自分に近いところにあるんです。近過ぎて、アタマでは、逆に気がつかないというか、そんな状態です。

(つづく)





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川の瞑想の実際  その2

川の瞑想の実際  その2
(その1からのつづき)

今回からは川の瞑想の実際の指導を、実際のセミナーをもとに、実況中継風に述べていくことにしましょう。

では、始めましょう。

活元運動、愉気の基本が川の瞑想にあります。これが一番の王道なんです。

愉気にしても、活元運動にしても、その基本はとにかく全てを大いなるいのちに任せるということなんですが、その任せるということが、ある意味では非常に難しいのです。妄想的な感覚で、自分では任せているつもりになっているだけという人が多いのです。

とにかく任せるということが基本なんです。野口先生は愉気や活元運動についてそこのところをただ「天心で」とか「ポカンとして」という表現でしか言われていません。まあ、的確と言えば的確なんですけど。その天心、あるいは、ポカンとなること自体がなかなかできない。

で、結局、予備運動を丁寧にやるというところにまた戻るんですが、そういうことも踏まえて、川の瞑想をきちんとやるということです。これは、結局、このCDの音に任せるのです。最初はアタマで「ああだ、こうだ」と思っていても、自然に任せるということがどういうことかを体得しやすいのです。これが川の瞑想の効能の一つです。

もちろん、川の瞑想というのは、自分の本体、この世界の本体そのものを体感する、体得することが目的です。体感しようというんじゃなくって、体感が自然とできるのです。ただやればいいんです。アタマでああだ、こうだとやっていると、その分だけ遅れます。任せるという気持ちでいれば、自然と任せるというのはこういうことなんだな、ということが自然と身に付いていきます。

この瞑想はとにかく努力が必要がないのです。一生懸命頑張って努力してある心身状態になっていくということではありません。

いくつかポイントがあります。まずはですね、最初に川の音がザーッというふうに流れます。そうすると、人間は本能的にその音に注目します。でも、なんか他のこと考えていちゃだめなんです。音が鳴っているなと思ったら、耳を澄ますという感じ。本能的にもそういうふうになりますけども、意識的にそっちのほうに意識を向ける。

川の流れの音に注意が引き付けられている状態で、突然川の流れの音がストップします。最初は音がゼロだったのが、川の流れの音が始まり、例えば50くらいにザーッと上がっていく。そして50に上がっていったのが、突然川の音が消えて、ゼロにポトンと落ちる。この突然の落差、その時に、すっと一瞬何かに引き込まれるような感じで、そのゼロの静寂世界に入る。

普段は、川の流れ以外の何かの音が聞こえているとすれば、その音が聞こえているわけですから、静けさを感じているわけじゃないんです。ところが、川の流れの音がプラス50から一気にゼロになると、その落差が一瞬でマイナス50になり、脳が自動的に反応して、一種の錯覚ですが、瞬間的にバーンと静寂な世界に入ったという感覚があるわけですね。その静寂になった時は一瞬、無の状態のような感じになります。

けれども、1、2秒もしないうちに、脳が再び立ち直ってきて、周りの音が聞こえ始める。ゼロになっていたのが、また5とか10とこう上がっていく。それと同時に、いろんな思いも現れてくる。

そんなふうな状態になっている時に、またしばらくすると川の音がザーッと流れるので、それが一気が50に上がり(厳密に言えば、他の音と合わせて55とか60になり、)そのレベルがまたずーっと続いていく。そして、再び突然音が切れてゼロに下がり(厳密に言えば、5とか10に下がり)、一気に静寂を感じる。同時に、アタマの中の思いもすっと消える。だけども、それも、1、2秒すると、また音が聞こえ始める。思いも出てくる。こういうようなことを繰り返していくわけです。

これから先は、他の音を無視して、川の音がしているときは音量50、していないときはゼロ(0)として説明していきます。

川の音が50からゼロに落ちた時の静寂な感覚を、そこに集中することによって、努力して時間的に延ばそうとする人がいますが、これは間違いです。

僕がこの川の瞑想のポイントとして、みなさんにお伝えしているのは、そういうことではありません。プロセスとしては、50が何秒か続いてたのがストンと0に落ちて静かになる。1、2秒して、また音が聞こえ始めたり、思いが出てくる。そういうことを繰り返している。

50が0にストンと落ちてできた瞬間的な静寂な時間を努力して引き延ばすのではなくて、ストンと瞬間的に0に落ちて静寂になった時に、意識的に、この0ところに意識を向ける。1、2秒して、また音が聞こえ始めたり、思いが出てきて、音が3とか5とか10に上がっていく感じがあるのですが、それと併行して、同時に、0のラインのところにずーっと静寂が続いていることに気づきます。つまり、音があるなしに関わらず、元々このゼロのところはいつも変わらず絶対的に静寂なんだということに気がつくのです。僕は、それを「絶対静寂の0ライン」と呼んでいます。

川の瞑想のCDは、例えば、50の有音が10秒続き、その後突然0になり、0の無音が1分とか2分とか5分間続くというように音が鳴ったり消えたりします。その川の音が突然消え、音が0になるたびに意識を0ラインに向けることを繰り返していると、絶対静寂の0ラインがもともと存在していることをはっきりと体感できるようになります。

つまり、元々音があるなしに関わらない絶対的に静寂な世界があるということがわかってくるわけです。つまり、川の音が流れている。それから、それがゼロに落ちてから、1、2秒後に、また川の音が聞こえ、部屋の外を流れている実際の川の音とか風の音とか人の声が聞こえてくる。そういういろいろな音とかが聞こえながらも、0の静寂のラインがずーっと切れずに続いている、ということにアタマでなく実際に気づくのです。

繰り返します。これまでは、CDの川の流れの音がしていると、注意力は50の有音のほうにだけ引かれているので、このゼロラインの静寂がないように感じているんです。

で、突然川の流れの音が消えて、ポトンと0に落ちる。で、最初は落ちた瞬間の1,2秒の普通の静寂だけを感じている。ところが、繰り返していると、0のライン、つまり、絶対の静寂がずっと続けて存在しているのを感じることができるようになります。

熟達してくると、川の音が50でザーッと鳴っている時にも、同時に、このゼロのラインの静寂を感じることができるようになります。この0のラインの絶対的な静寂の世界は川の音がしようとしまいと、人の声がしようとしまいと、車の音がしようとしまいと、思いがアタマに浮かんで来ようと来まいと、体の感覚があろうとなかろうと、ずーっと続いているのです。そこに気が付くまで、何回も川の瞑想をやってください。

つまり、意識的に静寂になろうとするということじゃないということです。自分が、結果的に自然になってくると、元々静寂の世界がずーっと根底にあることに気づくのです。そこで、そこのところに意識的に意識を集めていきます。

そうすると、絶対的な静寂が根底、あるいは、奥にありながら、その絶対的な静寂をバックにして、川の音が聞こえたり、いろんな外の風の音とか人の声なんかも聞こえている。満員電車の中でアナウンスが聞こえたり、人の声が聞こえたり、車の音がしたり、ゴーゴーゴーゴー、そういう音が一方で聞こえながら、その奥にはいつもこの絶対的な静寂がある。これに気が付くことです。

そのうちに、CDを使っていちいち川の瞑想をしなくても、ずーっと静寂な状態でいれるようになるわけです。東京駅のあの雑踏の中だってできる。丸の内のあの車が行きかっているところでも、いろんな音が聞こえたりしているのにも関わらず、この絶対の静寂が常にある。もともと、すべての音の奥にはそういう絶対の静寂な世界が存在しているのです。

自分の思いはもちろん出てきます。でも、思いが出てきても、他の音が聞こえても、絶対静寂な世界にいることができるようになります。そうなってくると、思いに引きずられないようになって、思いを手放しにしておけるようになるので、思いは次第に力を失い、気にならなくなるとともに、相手にされない思いはいつのまにかほとんど浮かんで来なくなってきます。

そうなってくると、今度は、周りだけでなく、自分自身が完全な静寂であることを体感することができるようになります。これが人間の一番自然な状態です。これがあって初めて愉気ができる。これがあって初めて活元、本当の意味での任せる活元運動が出てきます。

(つづく)





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川の瞑想の実際  その1

川の瞑想の実際  その1

僕の生きる目標は一人も不幸な人のいない世界を実現することです。その目標を実現する手段の一つとして、このブログも書いています。

今回の『川の瞑想の実際」』のシリーズは、私たちはどうすれば自分の正体に体験的に気づき、人生の目標をはっきり自覚するとともに、何があっても絶対安心の中で生きられるようになるのか、との思いで書いています。

このところのブログで、26歳の時の体験とその後の生き方について詳しく書いたのは、そこに、それぞれの方が自分の正体に体験的に気づく動機、あるいは、きっかけのようなものを読み取っていただけるのではないかと思ったからです。

実は、ここまでがこのシリーズの前書きのようなものです。これからは、川の瞑想についてさらに詳しく書いていきます。というのは、これまで読んでこられて、ある程度は理解された方もいらっしゃると思いますが、川の瞑想を正しく実行することが、存在の真実、自分の正体に体験的にはっきり気づくためにもっとも有効な方法であると僕は確信しているからです。

読まれる前にお願いがあります。それは文章をざーっと読んで、それで終わりにしないことです。納得がいくまで何回も読んで文章の真意を掴むようにしてください。

また、川の瞑想のやり方を大体わかっていると思われてきた方も、多分、多くの方が重要なポイントを誤解されていると思いますので、先入観に捉われないで、あらためて、思い違いがないかどうかと検べながら読んでいってください。

そして、実習してみては、また、文章を読み直して、そのうえで再び実習に戻ると言うことを繰り返して、体験としてきちんと理解するようにしてください。そのようにして、自己の本質・存在の真実を体得することを目的としてください。

では、さっそく川の瞑想について説明しましょう。

川の瞑想は、まず第一に、有音と無音のコントラストと聴覚と脳の錯覚を利用して、絶対静寂の世界の存在に気づくこと、そして、それが深まることによって、自分自身が絶対静寂の存在であることに体験的に気づくことです。

第二には、絶対静寂の世界が絶対透明の世界、というか、空の世界であることに気づくこと、つぎに、自分自身が空であることに気づくことです。

第三には、それが深まって、自分自身もこの世界もすべて絶対静寂であり、空であることに気づくことである。

普段は、常識的には音がしている状態(有音状態)と静寂(音がしていない無音状態)の関係は、「有音状態であれば静寂(無音状態)ではない、静寂(無音状態)でなければ有音状態である」というように、AかBかの関係にあると思いがちです。

けれども、川の瞑想の目的は、まず、有音状態であろうと無音状態(通常の静寂)であろうと、その奥、あるいは、土台に絶対の静寂がある、ということに気づくことです。

さて、有音と無音のコントラストというのは、たとえば、居間でテレビの音を着けて(有音)しばらく画面を見ている時に、突然リモコンの「無音」ボタンを押して、無音にすると、他の場所から何かの音が聞こえているかもしれないけれども、「シーン」とした静寂を感じます。

これは通常の静寂で相対的なものです。仮にテレビの音が50、その他の音が10、合わせて有音が60である時に、突然、テレビの音を無音にして0にすれば、その他の音が10聞こえていても、60の音が10に下がったわけですから、私たちの聴覚と脳はホッとする感覚とともに、50の静寂を感じるわけです。

この実験をテレビ以外の音がしていないところでやってみれば、つまり、テレビを50にしていたものを突然0にすれば、より鮮明に50の静寂を感じることができるでしょう。

原理的には、このプロセスを何回も繰り返していると、有音状態、無音状態に関わらず、通常の静寂ではなく、その奥に何ものにも妨げられない絶対の静寂があることに容易に気づくことができます。
それが川の瞑想の第一歩です。

(つづく)





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眼を瞑って自分を確かめる

眼を瞑って自分を確かめる

普通、ほとんどの人は「自分とは何か?」などと自分自身に問うことはほとんどないでしょう。

もし「自分とは何か?」と問われても、ほとんどの人は何となくその答えが分かっているような気がしているのではないでしょうか。

「自分とは何か?」と問われれば、ほとんどの人は他の人と区別することのできる自分自身の人間的な個人的特徴をいくつか並べるでしょう。それは、通常、その並べ立てたいくつかの個人的特徴が自分を表していると自分自身が思っているからです。

では、自分自身を他人と区別し、自分自身の自己証明となるような個人的特徴として挙げられるのは、通常どのようなものがあるでしょうか?

自分の名前、人種、国籍、年齢、性別、結婚関係、家族関係、体付き、仕事、住所、財産、学歴、友人関係、趣味などでしょうか。

その他に、個人的特徴として、過去の経験とか、思い出とか、考え方、体の特徴とか、もっと精密な特徴を挙げることもできるでしょう。

いま自分が日本でなく、ヨーロッパ、あるいは、アメリカにいるとすれば、皮膚の色、髪の色、眼の色などを挙げるかもしれませんね。

いずれにしても、ほとんどの人が、そういう個人的特徴によって、「自分」というものを他の人と区別できると漠然と考えています。

では、他のものに邪魔されない静かな場所で、眼を閉じて、心を静かに、それらの際立った特徴のどれか一つでも、いまここに存在しているかどうかを検べてください。最低1分間は掛けてください。イメージではありません。

そうすれば、そのような「個人的特徴」と呼ばれるものは何も存在していないということがはっきり分かるはずです。

分からなければ、分かるまで何回かやってみてください。

では、そこであなたは何を経験しているのでしょうか?

あなたは、いかなる個人的な特徴もない、「本質である自分自身」をありのままに経験しているはずです。

つまり、そこにあるのは、どんな人間としてあなたがあるか、ということではなく、ただ、「あなたが存在している」ということです。

先に挙げた他の人と区別するいろいろな“個人的特徴“というものは、何者でもない自分自身に、二元相対的思考しかできないアタマによって外から勝手に付けた”ラベル”、あるいは、規定にすぎません。

ほとんどの人は個人的特徴というものの総和が自分であると漠然と考えているようですが、個人的特徴というものは時と場合によってクルクル変わる幻影のラベルなのであり自分自身ではないのです。

重要なことは、「自分は~~である」ということではなく、「ただ自分は存在する」ということです。

さらに言えば、自分というものには、本当は、他と区別する個人的特徴はないということは、他の人、他の存在にとってもまったく同じだということです。

ということは、他の存在と自分とを区別するものがないということであり、結局、「みんな一つの同じ存在である」ということです。

この実験?のもう一つ大切なことは、眼を瞑って、ただ、自分が存在していることを意識していると、自分は死なない、つまり、不死の存在であることが分かるということです。

気負わないでやってみてください。




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