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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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名前とバラバラ観

名前とバラバラ観

この世界は本来不可分一体の世界です。

自分は全世界とぶっ続きの“いのち“を生きています。

自分は大きな世界の中に小さな個として存在しているのではありません。

宇宙即我、つまり、全宇宙・全世界がそっくり自分なのです。

このように言うと、「宇宙即我」なんて、すごい悟りですね、な~んて言われそうですが、気がついてみたら、実に当たり前の真実にすぎません。なぜなら、もともと、みんな一つだということに気がつけばいいのですから・・・。

でも、それに気づくのがすごい、なんてあなたは言うかもしれませんね。

確かに、すごいと言えば、すごいとも言えるかもしれませんが、それでも、気がついた真実はごく単純なことにすぎません。

では、なぜ、ほとんどの人が難しいことと思っているのでしょうか? それが分かれば、存在の真実なんて誰でも簡単に分かるようになります。「なあんだ、そんなこと当たり前じゃん」というわけです。

では、あらためて、なぜ、ほとんどの人が「宇宙即我」の真実に気がつくのが難しいと思っているのでしょうか?

それは、名前を付けるからです。

勘がいい人はなるほどと思われたかもしれませんが、ほとんどの人は「名前? エッ? どゆこと?」と思われたでしょうね。では、分かりやすく説明しましょう。

たとえば、今「カー カー」という音が聞こえているとします。そうすると、私たちは「カラスが鳴いている」と思います。

これが問題なのです。「カー」はただ「カー」なのですが、名前は他と区別するためのものですから、“カラス”という名前を付けた瞬間に世界が分離しバラバラになってしまいます。

つまり、カラスとそうでないもの、カラスとそうでない自分、というようにすべてが分離しているかのようにアタマは認識するのです。というか、アタマはいつでも、この世界を分離したものとして捉える傾向があるのですが、ちょっとしたきっかけを捉えては、名前を付けることによって、それを実証しようとする傾向があるといったほうがより正確なのかもしれません。ニワトリが先か、タマゴが先かの問題と似ていますね。

でも、真実は、「ゴ~ン」はただ「ゴ~ン」なのです。「鐘」という名前を付けなければ、ただ、それだけで、この世界のどこにも分離したものはありません。

聴覚だけでなく、視覚についても同じです。

たとえば、今、前方を見ているとします。いろいろなものが見えています。ただそれだけで、どこにも分離したものはありません。すべては一つです。この世界は不可分一体の世界です。

ところが、「あそこに”山“がある」とか「”空“に”雲“がある」というように、名前を付けた瞬間に、この世界はみんなバラバラの分離した世界であるかのように認識されてくるのです。

この実験は簡単にできるのですが、アタマ型の人は「分かったようで、分からないなあ」と思うことでしょう。

そういう場合には、絶対の静寂の中で、思考を止めてこの世界を見ていればよいのです。

そして、いったん、この世界には分離がないということが分かれば、名前を付けようが付けまいが、いつでも不可分一体のこの世界を実感できるようになるでしょう。





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真実に眼を覚ます

真実に眼を覚ます

タバコを吸い終わると、体内のニコチンはすばやく減少し、しばらくすると禁断症状を引き起こし、何か物足りないような不安で落ち着かない気持ちになる。と同時にタバコを吸いたいという何かイライラするような渇望感が生じる。

そこでまたタバコを吸うと、煙を吸引してから7秒後にニコチンが体内に供給され、イライラするような渇望感が癒されホッとする。と同時に禁断症状が治まり満足感を得る。からだはリラックスし、タバコは楽しい、タバコはうまい、タバコはこころの支えだと感じる。

しかし、タバコを吸い終わると、体内のニコチンはすばやく減少し、しばらくすると禁断症状を引き起こし、何か物足りないような不安で落ち着かない気持ちになる。と同時にタバコを吸いたいという何かイライラするような渇望感が生じる。

そこでまたタバコを吸うと、煙を吸引してから7秒後にニコチンが体内に供給され、イライラするような渇望感が癒されホッとする。と同時に禁断症状が治まり満足感を得る。からだはリラックスし、タバコは楽しい、タバコはうまい、タバコはこころの支えだと感じる。

しかし、タバコを吸い終わると、体内のニコチンはすばやく減少し、しばらくすると禁断症状を引き起こし、何か物足りないような不安で落ち着かない気持ちになる。と同時にタバコを吸いたいという何かイライラするような渇望感が生じる。

そこでまたタバコを吸うと、煙を吸引してから7秒後にニコチンが体内に供給され、イライラするような渇望感が癒されホッとする。と同時に禁断症状が治まり満足感を得る。からだはリラックスし、タバコは楽しい、タバコはうまい、タバコはこころの支えだと感じる。

しかし、タバコを吸い終わると、体内のニコチンはすばやく減少し、しばらくすると禁断症状を引き起こし、何か物足りないような不安で落ち着かない気持ちになる。と同時にタバコを吸いたいという何かイライラするような渇望感が生じる。

そこでまたタバコを吸うと、煙を吸引してから7秒後にニコチンが体内に供給され、イライラするような渇望感が癒されホッとする。と同時に禁断症状が治まり満足感を得る。からだはリラックスし、タバコは楽しい、タバコはうまい、タバコはこころの支えだと感じる。


タバコの負の無限ループはきっぱりとやめてしまわないかぎり死ぬまで続く。

それでもタバコを吸いたいと思うか?

でも、こんなことはほんの一例にすぎない。

ある南の島の豪華なホテルに泊まっている一人の富豪(F)が、いつもヤシの木の下で昼寝をしている現地人の男(G)をつかまえて話しかける。

F:怠けてないで、一生懸命に働いたらどうだ。
G:一生懸命に働いて、どうするの?
F:とにかく働いて働いて、大金を貯めるんだよ。
G:大金を貯めて、どうするの?
F:たとえば、暖かい所に別荘を持つのさ。
G:別荘を持って、どうするの?
F:別荘の庭のヤシの下で、昼寝をするんだよ。
G:オレはずーっと前からこうしてヤシの下で昼寝をしているよ。

ほとんどの人は自分が何事についても負の無限ループ思考に陥っていることに気づいていない。

だから、目の前の存在の真実に目覚めることができないのだ。





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川の瞑想の最終目的

川の瞑想の最終目的

川の瞑想の第一段階の目的は自分の周りにあるこの現象界の奥に常に変わらない絶対の静寂の世界が存在していることに気づき、その気づきが持続している状態を達成することです。

第二段階の目的はこの自分と思っているものの奥に常に変わらない絶対の静寂の世界が存在していることに気づき、その気づきが持続している状態を達成することです。

第三段階の目的は自分の周りにあるこの現象界の奥にある絶対の静寂の世界と自分の奥にある絶対の静寂の世界が別物でなくぶっ続きの一つのものであることに気づき、その気づきが持続している状態を達成することです。

ここまでの第一段階、第二段階、そして、第三段階までは、自分の外側、あるいは、内側の音や体の感覚や思いなどの現象の奥にある絶対の静寂に”自分“という意識(我)が集中しているという状態で、いわば、”有我一念“の状態です。

そして、第四段階は、有我一念が深まり、音や体の感覚や思いなどとともに“自分“という意識(我)が消えて、“無我一念”の状態にある時に、突然訪れます。それは、努力でなく無意識のうちに絶対の静寂に集中している状態であり、絶対静寂三昧(ざんまい)、”無我無念“の状態です。

別の言葉で言えば、第四段階の目的は”無念無想“、つまり、純粋意識だけがある、心が最高に統一され安定した状態に入ることです。これが川の瞑想の最終目的です。

この状態では、アタマが作り出した”自分“という思いやその他の思いや心配・不安などの雑念に一切妨げられることなく、この大宇宙のすべてを創造し、そのすべてに常に働きかけ、調和させている大宇宙の根源の生命力と智慧、つまり、“いのち“が自分の生命と直結して圧倒的な力で自分の中に入ってくるのです。

この “いのち“こそが大宇宙の、そして、この自分自身の正体なのです。そして、「この自分はこの世界のすべてとぶっ続きの“いのち“である」ことをはっきり体感・体得した時に、心から「生まれてきてよかった!」と思えるのです。

そして、アタマに妨げられることなく、一切の心配や不安、あるいは、雑念から解放されて、大宇宙の根源の生命力と智慧、すなわち、 “いのち”とぶっ続きになるときに、心も体も最高に癒されます。

この状態が野口整体で言う「天心」です。ただ、何も考えないようにしようと、ボーッとしているのが天心ではありません。

野口先生は「雲の上にはいつも青空がある」と言われましたが、本当の天心は「すべて青空。青空っきり」の状態です。それは達磨禅師が言った「廓然無聖(かくねんむしょう)」、つまり、青空のようにからっと澄み切って何もない、(人間がアタマで思うような)聖なるものさえ超越した、“無”、あるいは、”空“と言われる状態です。

つまり、第四段階の目的は自分とこの世界の正体、“いのち“をはっきりと体得することであり、整体的には、天心を体得し、天心三昧の状態で愉気や活元運動をして、心身を常に整体に保つということです。

川の瞑想を必死になってやってほしいと繰り返し言っているのは、みなさんに、ぜひとも、第四段階の目的を達成してほしいからです。





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カント少年の悟り

カント少年の悟り

インマヌエル・カントは18世紀、ドイツが生んだもっとも偉大な哲学者だと言われています。

カントは大学で哲学を学び、深い思索をもとに独自の考えを次々に発表し、有名な大学の総長にもなり、80歳まで生きました。

彼の著書『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』は今日に至るまで西洋哲学全体に大きな影響を及ぼしています。また、彼は当時の不安定な国際状況を憂い、『永遠の平和のために』という本も書いています。

このような彼の経歴を聞くと、ほとんどの人は、カントは裕福な家庭に育ち、アタマがとてもいいだけでなく、健康にも恵まれて丈夫な人だったようなイメージを抱かれるかもしれません。

けれども、カントは小さな村の貧しい馬具職人の四男として生まれ育っただけでなく、体が先天的に変形しており、背中には大きな瘤(こぶ)が載っていました。また、胸の乳と乳の間が6センチぐらいでとても狭く、そのため幼い時からいつも、ぜいぜいと苦しい呼吸し、脈拍もとても速く打っていました。けれども、家が貧しいので医者に診てもらうこともできませんでした。

カントが15,6歳の頃、村に巡回の医者がやってきたので、初めてカントは医者に診てもらうことができました。

医者は丁寧にカントの体を診察した後、カント少年に言いました。

「この体ではいつも苦しくてしかたがないだろう。この体は何をやっても治らないよ。でも、ご両親に苦しい、辛いと言っても、ご両親はただ辛い思いをするだけだ。だから、どんなに体が苦しくても、苦しいとか辛いと言わないようにしてごらん」

医者はさらに続けて言いました。

「確かに、体は治らないかもしれない。でも、君の心は病んでも苦しんでもいないじゃないか。だから、そのことを感謝して毎日を生きていきなさい。」

この言葉によってカント少年の心は180度転換しました。
「お医者さんの言うとおりだ。苦しい、辛いといくら言ってみても、体がよくなるわけではないし、苦しさがなくなるわけではない。よけいに苦しくなるだけだ。それだけでなく、お父さんやお母さんを苦しめ、悲しませる。僕は今までなんという親不孝をしてきたのだろう。本当に申し訳なかった。」

「これからはどんなに苦しくても、絶対に苦しいとは言わないようにしよう。心は何ともないのだから、その何ともない心でやれることをやっていこう。」

こうして、苦しい中にも勉学に励み、幸いにも、大学にも入って、ついには哲学の分野で偉大なる業績を上げることになったのです。

医者が言ったのは「体は病んでいても、心まで病ませることはない」ということです。しかし、それは単なるプラス思考ではありません。

心はもともと絶対の静寂・透明・空であり、絶対に何ものによっても傷付いたり、汚れたり、病気になったりするものではない、ということです。その真実にカント少年は気がついたのです。そして、この心の真実に立って、カントは生涯明るく積極的に生き切ったのです。

何ごとも心の持ち方一つに掛かっているのです。

掛け替えのない一生をどこまでも明るく、積極的に、みんなと仲良く、本当に幸せに生きるポイントは、まさに、ここにあります。

自分が心の主人公なのです。





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火星は丸かった!

火星は丸かった!

人類で初めて宇宙空間に飛び出したソ連のガガーリンは地球に帰還した時、「地球は青かった!」と言った。

その言葉はメデイアを通して全世界を駆け巡った。多くの人々と同じように、僕もこの地球をこの上なく愛おしく思った。そして、その上に住む生きとし生けるものの幸福と平和を心から祈った。

テレビなどでは、このところ火星の大接近が話題になっている。都会ではどうなのかは分からないが、山の中腹にある我が家からは町の明かりに妨げられることなく、ほとんど毎晩火星をはっきりと見ることが出来る。

たしかに、今までに比べると輝きが一段と大きくなっているようだ。けれども、火星は明るい光を放っているが、「火星大接近」と言っても、僕にとっては夜空に輝く多くの星々と同じように、火星はたんなる光の一点にすぎなかった。

ところが、昨夜家の中に熱気がこもって、あまりにも暑いので、外に出て山の冷気を楽しんでいる時に、東南の夜空に火星が赤っぽい光を放っているのが見えた。その時、たしか我が家のどこかに望遠鏡があったことを思い出した。

「そうだ。あの望遠鏡で見てみよう」と思って、家の中に戻って、書斎の隅のほうにあった望遠鏡を外に持ち出して、早速火星に照準を当てて、レンズを覗き込んだ。

その瞬間、僕は何十年に一度あるかどうかという何とも言えない感動に包まれていた。その時、僕の口から飛び出したのは「火星は丸かったんだ!」という言葉だった。

火星はもはや大きさもない無機質な点ではなく、小さくはあるが、実体のある生きた球体の星であることを理屈や知識としてでなく、自分の眼ではじめて知ることができたのだ。まさに火星は地球に大接近して、その真の姿を私たちに見せてくれたのだ。

そして、その時思ったことは、火星から自分たちが生きている地球を見れば、地球もこの火星と同じように、実体のある生きた丸い小さな星として見えているにちがいない、ということだった。

その時、僕は初めて、自分たちが生きている地球が広大な宇宙の中の一つの星であることを実感することができたのである。

たしかに、これまで度々テレビなどで、宇宙船や月から撮影した地球や火星の写真を見たことはあったが、昨夜は望遠鏡は通したとしても、この自分自身の肉眼で火星の実像をみて、それを実感することができたのである。

こんなことを書けば、天文学者の方々やアマチュアの天文フアンの方々からは、何をいまさら言っているのだと笑われるだろう。しかし、それらの方々も初めて望遠鏡で火星や他の星の姿を認めた時には、僕と同じような感激を味わったにちがいないと思うのである。

それはともかく、今、我が家の外に目の前に見えているこの景色は、もはや、ただの見慣れた景色ではない。僕には、今この瞬間太陽の周りを回っている地球という小さな星の姿として見えるようになった。

それだけに、あらためて、この地球という小さな星に住む生きとし生けるものの永遠の幸福と平和を実現するために微力ながら全力で頑張りたいと思わずにはいられないのだ。





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