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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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徳川家康とタバコール

徳川家康とタバコール

「人の一生は、重き荷物を負うて、遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。」

この句は徳川家康の辞世の句であると言われています。その真偽はともかく、この句に対する感想は人それぞれだと思います。

では、次のような辞世の句があったら、あなたはどう思いますか?
「人の一生は、わざわざ必要もないのに、重い荷物を背負ってあちこち歩き回っては、荷物を降ろして小休憩をしてホッとする。それもつかの間、またその重い荷物を背負ってあちこち歩き回っては、荷物を降ろして小休憩をしてホッとする。このプロセスを延々と繰り返すようなものだ。急がなくてもいいんだ。こんな苦労は当たり前のことだと思えば何の不満もない。」

「いい句だなあ!」と思いますか?それとも、「人生って素晴らしいなあ!」と思いますか?

もちろん、思いませんよね。誰でもこんな人生なんてイヤだと思うでしょう。

でも、タバコを吸う人や日頃お酒を飲む人は、上に書いたのと同じようなイヤな人生を毎日送っているのです。あっ、それから、もし日頃ヘロインを摂取していれば、その方々も同じです。

(ところで、「タバコール」というのは、僕が作った「タバコやアルコール」という意味の造語です。なぜ、このような造語を創ったかと言うと、いちいち「タバコやアルコール」と書くのが面倒だからです。タバコもアルコールも化学的な成分は異なりますが、いずれも強力な依存性薬物であり、その依存性に関しては、非常によく似た仕組みをもっています。最初はヘロインも含めた造語も考えてはみたのですが、ヘロインは非合法であり、それに対して、タバコとアルコールはいずれも合法的に市販されているために、私たちの日常生活に、ある意味で、ごく自然なものとして、溶け込んでいるので、この二つをひっくるめた名前を考えてみたというわけです。)

さて、そのようなイヤな人生を歩んでいる人は、ヘロインをはじめ、タバコやアルコールなどの依存性が強い薬物を常習的に摂取している人たちだけではありません。この社会に生きているほとんどの人は、ある意味では、同じようにイヤな人生を歩んでいます。そういう意味で、家康の「人の一生は、重き荷物を負うて、遠き道を行くが如し。」という句はまことに的確な表現だと言えましょう。

それはどういうことかと言えば、この社会自体が存在の真実はどういうことかということも知らずに、アタマで妄想したバラバラ観を基盤として構築されているために、社会のシステムはもとより、そこに生きるほとんどの人は、バラバラ観を当然のこととして生きているということです。だから、結局は、まずは、自分が、そして、自分の家族こそ、自分の仕事こそ、自分の会社こそ、自分の国こそが何よりも大切だと思っている人が大多数である社会が出来上がったというわけです。その結果、ほとんどの人が他人を苦しめ、自分を苦しめ、自分たちを苦しめながら生きています。

私たちの人類社会は狂っているのです。それをまったく別の次元から切り開いて、不可分一体観を基盤にした新しい人類社会を創ろうというのがネホサの目的です。





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お知らせとお願い

お知らせとお願い

明後日からしばらく旅に出ますので、その前に明日、「国の理想・NEHOSA」についての10回分のブログを一度にアップします。

この10回のブログを読んでいただければ、NEHOSAについての理解と共感が一気に深まるものと自負しています。

どうか、旅から帰ってその次のブログをアップするまで、それらを何回も繰り返し読むとともに、併せて、あらためて拙著『国の理想と憲法』の後半、とくに、NEHOSAの考え方に関する部分を丁寧に読み直していただきたいと思います。

おそらく、これまでのNEHOSAについての思い込みに気がつかれて、目からうろこの感を抱かれるとともに、「これなら自分にもすぐできる! そして、みんなにもすぐできる! 平和な世界の実現は簡単にできるのだ!」と嬉しくなってしまうでしょう。

旅先でもブログはチェックできますので、どんどんコメントをお寄せください。




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死についての勘違い

死についての勘違い

人は誰でもいつかは必ず死にます。

その死について次のように言う方がいます。
「人生というものは市民マラソンのようなものだ。選手は途中見える風景をそれぞれに楽しみながら走っていく。所々には給水ポイントがあり、冷たい水やジュースなどを飲んだり、何かを口にいれたりして一息入れることもできる。そしてゴールに向かって走り続ける。人生マラソンには落伍者がいない。必ず全員がそれぞれのタイムで完走してゴールに飛び込むのである。しかし、そのゴールにはテープは張ってない。ただ、みんな崖の上から深い真っ暗闇の谷底に落ちていくのである。」

読み終わった後、なんかゾーッとしませんか。とくに最後のところが。

だから、ほとんどの人は普段「自分の死」というものからなるべく眼を逸らそうとしているのではないでしょうか。そして、「どんなに嫌でも、どうせ死ななければならないのだから、生きているうちにできるだけ楽しく生きられればと思っているのではないでしょうか。

たしかに、人間は「生き続けたい」という本能を具えた動物ですから、たとえば、路地を歩いているときに、横の小道から突然自転車が飛び出して来た時などには冷やっとします。これは危険を察知して、瞬間的に「身を守れ!」というアラームシステムが働いているのです。ですから、人間にとってはごく自然の反応と言えるでしょう。

でも、僕は上の死についての説明の最後の「みんな崖の上から深い谷底に落ちていく」という箇所の表現の仕方にちょっと異論があるのです。

もし、肉体が死んだ後でも魂は生き続ける、すなわち、自我がずーっと存続するとすれば、それは使っている体が動かなくなっただけで、それを使っている魂である“自分“は生きているのですから、本当の意味では、自分は死んでいないということになります。

次に、もし、「魂などというものはなく、肉体ともに”自分“というものも無くなってしまうのであれば、完全に熟睡している状態を想像すればわかるように、「自分が死んでいる」という意識さえもないのです。「怖い」などという感情が湧いてくることもありません。それは「完全な安らぎ」であるとさえ言えるでしょう。

ほとんどの人は、身近な人が亡くなった後に、その固く動かなくなった状態を見て、「それが自分の身に起きたら」と、生きている自分がアタマで自分の死に重ね合わせて「怖い」とか「イヤだ」と思ってしまいます。

僕が「死に対する勘違い」と言っているのは、アタマで人の死の様子を自分の死の様子であると想像することです。

人の死と自分の死はまったくの別物です。人が死んだ時にはその様子について、いろいろな思いや感情が出てきます。でも、自分が死んでしまえば、自分自身の死について「怖い」とか「イヤだ」とか、あるいは、「これで楽になれた」とさえ、まったく思うことも感じることもないのです。

生きている限り、できるだけ精一杯生きようとするのは当然ですが、それでも、自分がいよいよ死ぬんだなという時には、どんな気持であっても、その気持ちぐるみ死んでいくのですから、何の心配も不安も必要はないのです。

すでに亡くなった方々も同じです。





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