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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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徳川家康とタバコール

徳川家康とタバコール

「人の一生は、重き荷物を負うて、遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。」

この句は徳川家康の辞世の句であると言われています。その真偽はともかく、この句に対する感想は人それぞれだと思います。

では、次のような辞世の句があったら、あなたはどう思いますか?
「人の一生は、わざわざ必要もないのに、重い荷物を背負ってあちこち歩き回っては、荷物を降ろして小休憩をしてホッとする。それもつかの間、またその重い荷物を背負ってあちこち歩き回っては、荷物を降ろして小休憩をしてホッとする。このプロセスを延々と繰り返すようなものだ。急がなくてもいいんだ。こんな苦労は当たり前のことだと思えば何の不満もない。」

「いい句だなあ!」と思いますか?それとも、「人生って素晴らしいなあ!」と思いますか?

もちろん、思いませんよね。誰でもこんな人生なんてイヤだと思うでしょう。

でも、タバコを吸う人や日頃お酒を飲む人は、上に書いたのと同じようなイヤな人生を毎日送っているのです。あっ、それから、もし日頃ヘロインを摂取していれば、その方々も同じです。

(ところで、「タバコール」というのは、僕が作った「タバコやアルコール」という意味の造語です。なぜ、このような造語を創ったかと言うと、いちいち「タバコやアルコール」と書くのが面倒だからです。タバコもアルコールも化学的な成分は異なりますが、いずれも強力な依存性薬物であり、その依存性に関しては、非常によく似た仕組みをもっています。最初はヘロインも含めた造語も考えてはみたのですが、ヘロインは非合法であり、それに対して、タバコとアルコールはいずれも合法的に市販されているために、私たちの日常生活に、ある意味で、ごく自然なものとして、溶け込んでいるので、この二つをひっくるめた名前を考えてみたというわけです。)

さて、そのようなイヤな人生を歩んでいる人は、ヘロインをはじめ、タバコやアルコールなどの依存性が強い薬物を常習的に摂取している人たちだけではありません。この社会に生きているほとんどの人は、ある意味では、同じようにイヤな人生を歩んでいます。そういう意味で、家康の「人の一生は、重き荷物を負うて、遠き道を行くが如し。」という句はまことに的確な表現だと言えましょう。

それはどういうことかと言えば、この社会自体が存在の真実はどういうことかということも知らずに、アタマで妄想したバラバラ観を基盤として構築されているために、社会のシステムはもとより、そこに生きるほとんどの人は、バラバラ観を当然のこととして生きているということです。だから、結局は、まずは、自分が、そして、自分の家族こそ、自分の仕事こそ、自分の会社こそ、自分の国こそが何よりも大切だと思っている人が大多数である社会が出来上がったというわけです。その結果、ほとんどの人が他人を苦しめ、自分を苦しめ、自分たちを苦しめながら生きています。

私たちの人類社会は狂っているのです。それをまったく別の次元から切り開いて、不可分一体観を基盤にした新しい人類社会を創ろうというのがネホサの目的です。





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平和な世界は簡単にできる  その10

平和な世界は簡単にできる  その10
(その9からのつづき)

ネホサはただ世界の平和を祈るということとはまったく違います。平和を祈る気持ちはとても大切だとは思いますが、祈るだけでは平和な世界を実現することはできません。

ネホサは平和な世界の実現を心から望む気持ちを基盤にして、具体的に平和な世界を創りあげていくのです。と言っても、最初の段階は、世界の平和を実現を妨げている国家間の自分の国さえよければという国家エゴイズムによる対立を根本的に解消するために、世界の国々に先駆けて、自ら率先して国家エゴイズムを捨てて、「自国の国内の諸問題の解決と同様に他の国の人々の福祉や地球的規模の環境問題の解決のために全力で貢献する国を創ろう」という考えをしっかりと心に確認し、それを隣の人に確実に伝えていくということです。それが次第に人々に伝わっていけば、それか必ず徐々に具体的な形になっていくでしょう。

なるほどと思われた方も多いと思いますが、中には「私は神様ではないので、エゴイズムを捨てることなどできない。他の人だって同じでしょう。この考えは単なる理想論だ」と反論する方もいます。でも、それはまったくの誤解です。

たしかに私たちは神様ではないので、真面目な人ほど、時々「自分はなんてケチな根性を持っているのだ」と思いイヤになってしまうという人は結構多いのではないでしょうか。また、利己的な生き方はしたくないと思いながらも、こんな世知辛い社会の中で生きていくのに、家族のことや仕事のことで手一杯で、「エゴイズムを捨てて他のために尽くす」などと、そんな高尚なことは自分には無縁だというような方もいらっしゃるでしょう。

おっしゃる通りだと思います。でも、ネホサの考えは、「あなたにゴイズムを捨てなさい」と言っているのではありません。

でも、そんな私たちでも、「自分の国がケチ臭いエゴイスティックで世界中の国や人々から軽蔑され嫌われている国と、世界の困っている国々や人々に対する全面的に援助を惜しまず、地球環境問題などの解決に全力で貢献し世界中の国々や人々から尊敬されているノンエゴイスティックな国と、そのどちらが好きですか?」と問われれば、ほとんど誰でも「ノンエゴイスティックな国」と答えるのではないでしょうか。

その気持ちだけでいいのです。たとえ今の自分自身は利己的な面があっても、「こうありたいという気持ちを自分の国に託す」ことは誰にでもできるのです。その真心がまとまっていけば、それがやがて目指すべき国の理想になっていきます。そして、やがて、脱エゴイズム国家を目指そうという国の理想、国の在り方に引っ張られて、いつの間にか少しずつ私たちひとり一人のケチな根性が浄化され抜けていくでしょう。

だから、ネホサは誰でもすぐに始めることができるのです。そして、未来の日本を夢見て、未来の世界を夢見て、未来の自分を夢見て思わずワクワクしてくるのです。

そして、自分の周りに同じように平和な世界を夢見ている人たちがどんどん増えていくことに気がついて、うれしくてしかたがなくなるでしょう。

そのようにして、みんなの夢が実現するのです。

それがネホサです。

(おわり)





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平和な世界は簡単にできる  その9

平和な世界は簡単にできる  その9
(その8からのつづき)

ネホサの考え方は非常に単純ですから、従来の固定観念に縛られて、そんな簡単にはできないだろうなどと躊躇したり傍観しているのではなく、「必ずできる!」という信念を持ってやっていけばよいのです。そうするからこそ、必ず成就するのだと僕は確信しています。

ネホサについてよくある意見は「ネホサの考え方は空想的で現実的でない」という意見です。

では、これまでのデモや選挙などのいろいろな社会的活動や、国会の場を含めていろいろなレベルでの議論や意見の交換や応酬によって、果たして、憲法、自衛隊、戦争、原発、教育、福祉、医療など、社会的に重要な問題が“根本的に”解決したという事例はあるでしょうか?

懸命な努力によって、何かの社会的問題が部分的に改良できたり解決したという事例はあるでしょう。そういうことから、「どんな重要な社会的問題でもそのような努力を一歩一歩積み重ねることによって、根本的な解決に至るのだ」という意見があるのでしょう。しかし、一歩一歩の努力の積み重ねによって、深刻な社会的な問題が解決した事例があるでしょうか?

ただの一つもありません!

「だからこそ、もっとみんなが真剣に取り組むようにしならなければならないのだ」と言うのでしょうが、そう言い続けながら、戦後73年も経っているのに、はっきり言って、何も変わっていないどころか、ますます、事態は深刻になっているという事実について、それらの方々は一体どのように考えているのでしょうか?

きっと、「だからこそ、もっともっと努力する以外にはないのだ」と、これまでと同じ方向で“頑張って”行かれるのでしょう。

僕は「それこそ非現実的な考えなのだ。深刻な社会的な問題を解決するためには、これまでのやり方、考え方ではダメなのだ。それこそ、戦後73年の歴史によって証明されているのだ。だからこそ、これまでとはまったく次元の異なった考え方ややり方ではならないのだ。その点で、ネホサの考え方こそもっとも現実的で確実だ」と思います。

これまで頑張ってこられた方々には心から敬意を表したいと思います。けれども、大変失礼な言い方ですが、これまでの考え方やり方だけではダメなのだということに、気づいてほしいと念願しています。そして、ここで提案しているネホサの考え方の真意を固定観念や思い込みを外して、理解していただければと心から願わずにいられません。

平和な世界の実現は
  簡単に容易にできる
  誰にでもできる
  主役は自分
  ワクワクしながらできる

この考え方・やり方は
  どんどん広まり効果が出る。

この考え方・やり方には
  対立するものがない
  何も犠牲にするものはない
  生活のスタイルを変える必要がない

この考え方・やり方で
  人づきあいがもっと楽しくなる
  友達がたくさんできる
  生きていくのが楽しくなる
  仕事や勉強が楽しくなる
  幸せな人がどんどん増えていく
  
もし、こんな魔法のような世界平和実現方法が本当にあったら、あなたはやってみたいと思いませんか。それがネホサです。

(つづく)






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平和な世界は簡単にできる  その8

平和な世界は簡単にできる  その8
(その7からのつづき)

新しい平和な世界(社会)を創るカギはどこにあるのでしょうか?

それはこの自分の中にあります。そして、一人一人の手の中にあります。それは志のある人であれば誰でもできる考え方・やり方です。

要するに、まずこの自分がやっていけばよいのです。そして、同じように志のある人たちとともに力を合わせていくのです。

今までは、平和な世界を実現するといっても、何か気に入らないものを変えたり、誰か他の人がやるものと思っていたかもしれませんが、まず、自分でやればいいのです。同じ志のある人が出てくれば一緒にやればいいだけです。

では、何をやるのか? それは、「新しい理想の国を自分たちで創っていこう!」ということです。これならだれでもすぐに取り掛かることができます。

新しい理想の国はどういう国かと考えた時に、国の根本姿勢を考えた時に、国家間の対立の根本原因となっているだけでなく、「私たちが利己的に生きることは当然のことである」という考えを助長する国内外の政策の原理となっている国家エゴイズムではなく、真の平和世界を率先して創っていくノン・エゴイズム国家(脱エゴイズム国家)を創ることが一番有効、つまり、ネホサの考え方が一番よいと僕は思います。

やり方は、もし、ネホサをやるのであれば、一人ひとりの自分がネホサの考えの趣旨を心のレベルではっきりと確認する。そして、その趣旨をしっかり隣の人に伝えるということです。やることは基本的にそれだけです。これだったら誰でもできるはずです。誰でもできることでなければ平和な世界を実現することはできないのです。

それだけなのですが、もしできるなら、例の「賛同した人は必ず二人以上の人に確実に伝えていく」という「ペイ・フォワード・ピース」方式で考え方を伝えていけば、平和な世界の実現は予想以上の速さで実現できるでしょう。

最初の頃は「そんな簡単なことで平和な世界が実現できるはずがない」と思う人も多いかもしれませんが、それこそ、失礼ながら、従来の思い込みに捉われているアタマの堅い証拠だといえましょう。この考えが広まって、機運が高まっていけば、「これならできるかも」という考え方にだんだん転換してきて、ある時点からは急速にこの考えは広まっていくはずです。

ネホサは素直な志さえあれば、誰でもできるのですから、まずこの自分から始めるのです。そして、最初はとにかくノン・エゴイズム国家を創ろうという考えを広めて機運を高めていくのです。機運がある程度高まってくれば、ある時点からそれは単なる機運だけでなく、少しずつ形のあるものが出来ていくでしょう。そうなれば、後は、それこそ、自動的に必要なことが次から次へと起きてくることが予想されます。

「そんなのは、それこそ取らぬタヌキの皮算用だ」などと横目で見ながら言う人もいるかもしれませんが、そんな人のことは放っておいて、ただ「できるように、できるように」やっていけば、大丈夫必ず実現できるのです。まずは、そんな人が集まってくればよいのであって、最初から、先はどうなるのか分からないから、と消極的な態度では絶対にダメです。

(つづく)





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平和な世界は簡単にできる  その7

平和な世界は簡単にできる  その7
(その6からのつづき)

タバコ図の右側はバラバラ観に基づく対立世界(社会)であり、左側は不可分一体観に基づく非対立世界(社会)です。

アタマのバラバラ観によって作り出された右の世界では対立的思考しかできません。ですから、何か問題を解決しようとしても、何をやっても結局は何かと対立せざるをえないのです。対立するというのは「敵」がいるということです。そこで、敵をやっつけなければいけないという気持ちが出てきて、それが互いに対立的あるいは敵対的行動となっていきます。その結果、世界はますます混迷を深めていきます。それが今日の世界、そして、日本のありのままの状況だと言えるでしょう。

また、この世界ではどんなことでも単独では存在しえないので、お互いに複雑に絡み合っています。そのため、ある一つの問題を解決しようとしても、全体が変わらなければ解決できないために、根本的に解決することができません。

ですから、この世界の諸問題を解決するためには、不可分一体観に基づいた「敵」がない非対立の考え方あるいはやり方でなければならないのです。と言っても、それは存在の真実を悟らなければできないということでは決してありません。私たちは普段はアタマに振り回されて生きる傾向があるのは否定できませんが、静かに自分自身を見つめてみれば、ほとんどの人には、真心や思いやり、つまり「みんなとともに仲良く生きていきたい」という集団本能がすでに具わっていることに容易に気づくことができるでしょう。もちろん、中には心がひねくれていたり、あまりにも理屈っぽくなって、それを認めないという人もいるとは思いますが、そういう人はしばらく放っておけばよいのだと思います。

小3の時の「この社会はすべてが根本的に間違っている!」という僕の魂の叫びは、中3の時の修学旅行で広島の原爆記念館を訪れた時に決定的になりました。

その時の「アメリカも日本も、この世界は徹底的に狂っている!」魂の叫びは、残念ながら、2013年の福島の原発事故で完全に実証されました。あれだけの大惨事があってその危険性が実証されたにもかかわらず、また、事故の後始末もまったくといってよいほど、見通しがついていないのにもかかわらず、その後日本政府は原発の全廃どころか、次々と原発を再稼働し、海外にまで原発プラントを輸出している始末です。それらの動きを食い止めることもできない、日本の社会状況はまさに「アメリカも日本も世界もみんな狂っている!」ことを実証しています。

このように、この社会ではみんな狂っているのですから、今までの考え方ややり方では絶対にダメなのです。これまでのように、政治家や政府や官庁の役人などのお上や学者や評論家や実業家など能力のある人や社会的な地位のある人にやってもらうことではありません。

今こそ、“これまでのすべての行きがかりを捨てて”、“まったく新しい考え方”でやり始めなければならないのです。

では、それはどこにあるのでしょう・

それは確かにあるのです。でも、右側の考え方に洗脳されて、あまりにも身近なところにあるので、気がつかないのです。

(つづく)





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平和な世界は簡単にできる  その6

平和な世界は簡単にできる  その6
(その5からのつづき)

個人的あるいは社会的な諸問題の解決には対処療法的解決法と根本療法的解決法とがあります。

例のタバコ問題で言えば、ガマンの禁煙は、強いて言えば、非常に成功率の低い対処療法的解決法であり、タバコをきっぱりやめることは成功率100%の根本療法的解決法であると言えるでしょう。

では、その具体的な違いはどこにあるのでしょうか? 
まず、ガマンの禁煙の場合には、本音の部分ではタバコにはなくてはならないメリットがあると思っています。だから、本音ではタバコを吸いたくて仕方がありません。それをたとえば健康に良くないという理由で、精神力でガマンして抑え込もうとするのですから、大変な頑張りが必要です。それでタバコがやめられたという人がいないわけではないのですが、失敗に終わる場合がほとんどです。

それに対して、タバコをきっぱりやめる場合には、それまではタバコを吸ってきたのですが、タバコにはメリットは一つもなく、あるのはデメリットばかりだというタバコの正体に気づいたのです。だから、本音で、タバコなんかバカバカしくて絶対に吸いたくないと思っています。ですから、やめようと決断した瞬間から、何の未練も葛藤もなく、すっきりとタバコをやめることができるのです。そして、二度とタバコを吸いたいと思うことはありません。

ですから、私たちが個人的、社会的な諸問題の解決を目指す場合には、当然、タバコをきっぱりとやめるという根本療法的解決法に習うことが重要です。

たとえば、“怒り”の問題を考えてみましょう。
「腹が立つのは人間の本能であり当然だ」とほとんどの人が、本音の部分で思っているようです。だから、誰かが自分の思い通りにしないような場合に腹を立ててしまうのです。タバコで言えば、「喫煙」です。

しかし、同時に、腹を立てるのはよくない、ガマンしなさい、と宗教や道徳や人生訓、あるいは、教育の場などでも繰り返し指摘されてきました。

それで、本音の部分では腹が立つのは当然だと思いながらも、それを表に出すとマズイので、腹を立てたいのを精神力でガマンして抑える。ですから、実に、大変です。タバコで言えば、「ガマンの禁煙」です。

でも、本当に、腹が立つのは当り前のことなのでしょうか? 
腹が立っている時に、自分は気分が良いという人はまずいないでしょう。自分の気持ちが悪い、相手も気分が悪い。下手をすると、とんでもない事態になるかもしれない。こんな怒りの正体と実態を丁寧に検べてみると、怒りには何のメリットもないことが分かります。(分からないという人は分かるまで検べてみることをお勧めします。)

それが、はっきりすれば、どんな状況であろうと、本音で、バカバカしくて腹を立てる気にもならないでしょう。だから、もう二度と腹が立たないことを確かめれば、その瞬間から、何の未練もなく、永久に怒りから解放されるのです。それはタバコで言えば、「タバコをきっぱりやめる」ということです。これが怒りの根本療法的解決です。

このように、世界平和の実現を目指すネホサもそうですが、根本療法的解決法こそ諸問題に対する、まさに現実的で容易な方法なのです。





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平和な世界は簡単にできる  その5

平和な世界は簡単にできる  その5
(その4からのつづき)

タバコ図のバラバラ観を基盤にした右側の世界は基本的に対立社会です。ですから、そこには作用反作用の法則が働いています。つまり、右の右が押してくれば、右の左がそれを押し返します。右の左が押してくれば、右の右が押し返します。この現象はどこまでも繰り返されます。

安保法制や日米地位協定についても、日米の押し合い・引き合いの力関係、中国、韓国、北朝鮮との関り、そして、自衛隊はもちろん、それらに絡む日米の企業や政治家、民衆などの自分たちの利益を第一とする力関係・・・ 網の目のように利害と力関係が絡み合っている状況をきちんと正視することが絶対に必要です。

自民党や安倍政権を選挙や署名やデモでなんとかしようとしても、ほとんど何も変わりません。これまでのように、いろいろな問題について喧々諤々議論してもどうにもなりません。それどころか、相手はそういう動きを計算に入れて、それを逆に利用して、どこまでも自分たちの都合と利益のために、これまでのやり方を続けていこうとしているのです。私たちはこの恐るべき実態にはっきりと気がつかなければなりません。

和田先生は『国家エゴイズムを超えて』の中で、次のように書かれています。
「(前略)世の中の重要な問題は、どれをとってみても瓢箪鯰(ひょうたんなまず)で、押さえどころのないものばかりです。(中略)要するに世の中全体のあり方に関連する問題であって現状では“これ”という急所を補足することができません。このように世の中の大きな問題はその事柄の中で解決をつけようとしても解決のつかぬことばかりです。何を考えてきても、踏まえて力をいれる足場がないような気がするではありませんか。力をいれると足場が動いてしまっては折角の努力も何の役にも立ちません。コマネズミが車の中で走っているようなものです。これは一体どういうことでしょう。世の中の締めくくりをする軸というか、土台というか、何か要(かなめ)となる確固たるものが欠けているからに違いありません。」

つまり、深刻な諸問題を根本的に解決するには右側的な考え方では絶対に解決しないということです。根本的解決は右側の世界が自然に崩壊してしまう不可分一観に立脚した非対立の方策によるしかありません。

私たちは、これまでのやり方では、この状況は変わっていくはずがない、悪くなる一方だということを認めたうえで、困難な社会の諸問題を根本的に解決するためには、これまでとは全く異なった原理によって、今までの行きがかりの外に出るのでなければならない。過去の因果の働く平面を他の平面で截ることによってのみ私たちは救われるはずだということに気づかなければならないのです。

ですから、私たち庶民がお上を相手にどうこうしようとするのではなく、自分たちの手で新しい本当に望ましいと思う理想の国づくりを始めるしかないと僕は思います。その手はじめは、ここまで書いてきたような社会についての現状認識とともに新しい国づくりが必要だという考え方を広めて、賛同者を増やしていくことです。





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平和な世界は簡単にできる  その4

平和な世界は簡単にできる  その4
(その3からのつづき)

僕は拙著『国の理想と憲法』を、文字通り、いのちを懸けて世に出しました。その考えに賛同する方が増えるのは、もちろん、嬉しいことだとは思いますが、『国の理想と憲法』を読んで、その真意を受け止め、それぞれがいのちを懸けた魂の叫びのレベルで話し合って、真の平和世界を実現するために本当によいものを打ち出していくことこそがもっとも重要で必要なことだと僕は思います。

もちろん、僕には誰かを非難する気持ちはまったくありません。このシリーズはただ、どこにみなさんの考えと僕の考え、特にネホサについての考えとに違いがあるかということを明らかにするために書いているだけなのです。もちろん、これは僕の考えですから、押し付ける気持ちもまったくありません。

僕は、僭越ながら、いろいろなメーリングリストなどでの意見交換に、それぞれの意見はそれなりに立派なものであるとは思いながら、あまり興味を持てなく、しばしば「不毛な議論をいくら続けるつもりなのか」と思ってしまいます。つい、「こんな有様では、この社会はいつまで経ってもどうにもならない。それどころか、ますます混乱と苦しみが増えていくだろう」と思ってしまうのです。

僕がこのように感じてしまう背景については前にも書きました。小3の時の直感については、折に触れてそれが正しかったのかどうかを検証してきましたが、結果的には、今日までその直感の間違いを見出すことはできませんでした。

何よりも、大人になって、まるで何かに導かれるかのように、和田先生に出会い、ネホサの考えを知り、そして、奇跡的に不可分一体の存在の真実に目覚めえた体験により、この社会の間違いの根本原因を見つけることができました。そこから、僕にはタバコ図のように、右のアタマによるバラバラ観の世界、左の本質の不可分一体の世界という構図が生まれてきました。

そこが、どうしたらこの社会を変えていけるのかという点について、多くの方々と僕の考え方の違いに繋がってきたのではないかと思います。

僕は小3の時に「この社会はすべてが根本的に間違っている!」と直感しました。大人になって存在の真実を自覚することによって、その直感がはっきり確信に変わった時点から、右の世界で何をやってもどうにもならないと思って生きてきました。ですから、必然的な結果として、国家エゴイズムの解消を図ることによって人類の破滅を回避するだけでなく、困難な社会的諸問題を解決するためには、ネホサこそ唯一の方策だと思ったのです。

この社会は狂っているのですから、部分的でなく根本的に変えなければどうしようもないのです。もちろん、右側の左として、選挙やその他の手段で、現政権のやり方を何とかしようという努力は捨ててよいはずはありません。また、安保法制や日米地位協定、憲法、原発など社会の重大な問題について、事実を調べ真実を世に広く知らせ、議論を深めていくことも重要です。

でも、そんなことではこの社会は根本的には変わらないということは、それこそ、これまでの戦後の日本の歴史が証明しています。はっきり言えば、変わるはずがないのです。

(つづく)





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平和な世界は簡単にできる  その3

平和な世界は簡単にできる  その3
(その2からのつづき)

これまで、社会的に深刻な諸問題に関するいくつかのメーリングリストのメンバーの方々の様々な意見を読まさせていただきましたが、主に自民党や安倍政権に対する悲憤慷慨的な意見やこれまで自分のアタマで練ってこられた意見、というか、理屈や理論のような意見がほとんどで、みなさんが真面目に考えられているとは思いますが、正直、魂の叫びとして、僕自身の魂に直に触れてくるものはありませんでした。

ではどこにその違いがあるかと言うと、社会的な諸問題に関心がある皆さんが主張していることは、概ね、例のタバコ図で言えば、右側、つまり、バラバラ観によって現実化された世界(社会)の中で、たとえば、安倍政権のいろいろな横暴な考え方ややり方に見られるような「右の右」の考え方ややり方に対する「右の左」あるいは「右の中央」と位置付けられると思います。

それに対して、ネホサは左側、つまり、不可分一体観に基づいた考え方であり、やり方だと言えるでしょう。

ですから、右側の世界であれこれと意見を交換している場(それ自体が間違っているというわけではありません)において、ネホサの考えを主張しても、メンバーの方々にはネホサの考えが右側の論理で解釈されてしまい、ネホサの真意が全くと言ってよいほど伝わらないのです。

和田重正先生は『国家エゴイズムを超えて』の中で次のように書かれています。

「では、人類の破滅は避けられないのでしょうか。むろんこの方向に行ったのでは、いつか、何かの機会に人類は吹き飛ばされるでしょう。しかしもし避ける道があるとすれば、それは全く異なった原理によって、今までの行きがかりの外に出るのでなければなりません。過去の因果の働く平面を他の平面で截ることによってのみ人類は救われるのです。そんな道があるのでしょうか。幸いにして唯一つあります。しかも最も手近かに、私の手とあなたの手に、日本人各々の手の中に。」

これは、直接的には、「人類の破滅の危機を回避するための方策」を意図して述べられています。けれども、この考え方は、日本社会の諸問題を根本的に解決するための最も適切で有効な考え方がここに書かれていると僕は思うのです。

このような困難な社会の諸問題の解決の方策について、和田先生の上の文章を私流に書き直せば次のようになります。

「もしこのような困難な社会の諸問題を根本的に解決する道があるとすれば、それは全く異なった原理によって、今までの行きがかりの外に出るのでなければなりません。過去の因果の働く平面を他の平面で截ることによってのみ私たちは救われるのです。そんな道があるのでしょうか。幸いにして唯一つあります。しかも最も手近かに、私の手とあなたの手に、日本人の各々の手の中に。」

つまり、和田先生は、バラバラ観に基づいた右の世界で「ああだこうだ」といくら意見を戦わせても、諸問題を根本的に解決することはできないと喝破されているのです。そう言えば、先生ご自身の生き方自体が左側の不可分一体観に基づいたものだったとあらためて思います。ネホサの考えはそこから生まれたのです。

(つづく)





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平和な世界は簡単にできる  その2

平和な世界は簡単にできる  その2
(その1からのつづき)

僕は小学3年生の時に、何の社会的な知識もなかったのですが、ある出来事に直面した時に、直感的に「この社会は全部根本的に間違っている!」という悲痛な魂の叫びを感じました。

そして、僕はその時の叫びの根源を26歳と31歳の時にそれぞれある体験を通してはっきりと捉えることができました。そして、22歳の時にネホサの考え方に出会って、なぜあそこまで感動し、すべてを捨て、すべてを懸けて、ネホサを広めることを一生の仕事としようと思ったのかということをあらためて確認することができました。

それはこの狂った社会のすべてをひっくり返すためにこそネホサが必要だということです。これまでの僕の人生はすべてネホサを広く世に伝えていこうというものであったと思います。

僕がこれまで関わった社会的な諸問題をテーマにしたメーリングリストのみなさんもきっとこの社会を少しでもよくしたい、あるいは、本当の平和を実現したいという気持を持っていられるものと推察します。ただ、あえて言えば、方法論において僕の考え方とは根本的に異なっているように思います。

それは、物事に対する日本人特有の曖昧さのようなものを考えると、深刻な社会問題のテーマ、たとえば、昭和天皇の戦争責任問題をテーマとして、それをどこまでも追求し、問題点を明らかにしようとすることは、それはそれで大切なことではあると思いますが、いろいろな意見が飛び交うだけで、結果的には、それによって社会が根本的に良い方向に向かうかと言えば、かえって非現実的な考え方でありやり方だと思います。

現実論として、いかにこの社会を根本的によい方向に変えていくためには、そういうテーマをどこまでも追求していこうという姿勢よりも、まず、日本人、あるいは、世界中の人々がこのままの方向、つまり、バラバラ観に基づいて、ますます国家エゴイズムを強めていくのではいずれ近いうちにみんな共倒れで行き詰ってしまうという巨視的な歴史観と現実に対する認識をはっきりと打ち出しそれを共有していくことがより有効だと考えます。

そして、人類社会の行き詰まりを打ち破るためには、まず日本が率先して、お上をどうこうしようというのでなく、一人一人が自分たちで国に対する意識を変えて、自分たちで新しい脱エゴイズム国家を作っていこうという考え方の方が、ずっと現実的ではないかと思うのです。もちろん、それが実現するかどうかは、まさにやり方次第なのですが、だからこそ、それをどう実現するかという点についての議論こそがもっとも重要だと僕は考えています。

そういう意味では、これまで僕が覗いた社会的な諸問題に関するメーリングリストおける議論は本当に歯がゆいばかりです。ほとんどのみなさんが真剣なことは感服しますが、それだけに貴重な心身のエネルギーが消耗されているのがもったいない感じがしてしかたがありません。

はっきり言えば、それぞれの人がそれぞれ異なった価値観とルールに基づいて、ああだ、こうだ、と言っているところが問題なのです。だから、どこまで議論しても、不毛な結果になってしまうのだと思います。

(つづく)





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平和な世界は簡単にできる  その1

平和な世界は簡単にできる  その1

平和な世界の実現は
  簡単に容易にできる
  誰にでもできる
  主役は自分
  ワクワクしながらできる

この考え方・やり方は
  自動的にどんどん広まる。

この考え方・やり方には
  対立するものがない
  何も犠牲にするものはない
  生活のスタイルを変える必要がない

この考え方・やり方で
  人づきあいがもっと楽しくなる
  友達がたくさんできる
  生きていくのが楽しくなる
  仕事や勉強が楽しくなる
  幸せな人がどんどん増えていく
  
もし、こんな魔法のような世界平和実現方法が本当にあったら、どう思いますか。おそらく、このブログを読んでいるあなたは、“もし本当にあったら“ぜひやってみたいと思うのではないでしょうか。あなただけでなく、よほどのひねくれものでなければ、“やってみたい“と思わない人はいないでしょう。

でも、その前に、「平和な世界は簡単に容易にできる」などと言うと、ほとんどの人が、まずは、「何を夢のようなことを言っているのか」と思うのではないでしょう。そう思うのは当然と言えば、まことに当然です。

中学校や高校で習ったように、少なくとも何千年にわたる人類社会の歴史を振り返っても、多くの心ある人々が多くの努力をしてきたにもかかわらず、今日に至るまで、戦争のなかった日は一日としてなかったと言われるほど、私たち人類はあちこちで闘争と戦争に明け暮れてきたのですから。

もちろん、平和な世界は簡単にできると言っても、どうしても人に納得してもらわなければ、それこそ机上の空論になってしまいます。実際にこれまでに運動を起こして得られた成果や実績があるわけではないので、それをもって人を納得させることはできません。

にもかかわらず、人に納得してもらうためには、まずは、これまでの考え方ややり方ではなぜ平和な世界が実現できなかったのかということを明らかにすることがもっとも近道で分かりやすいのではないかと思います。かと言って、これまでの様々な考え方ややり方の一つ一つについてすべて分析して、実現できなかった原因を一つ一つ洗い出すというやり方では、かえって思考が混乱してしまいます。ですから、個々について検討するのではなく、結局、巨視的に、また、直感的にこれまでの考え方ややり方がなぜうまく行かなかったのかということを指摘するのがもっとも納得がゆくと思うのです。

では、ほとんどの人が、真剣さの度合いは別として、「平和な世界になったらいいな」と思いながら、事実としては、平和な世界の実現などまったく視野に入ってくるどころではなく、真剣に考えれば考えるほど、それこそ絶対に不可能としか思われないのはどうしてなのでしょうか?

それは、これまでのほとんどすべての考え方ややり方には、私たちの存在の真実と私たちが生きているこの世界についての認識、あるいは、捉え方において、いくつかの決定的な見落としがあったのだと僕は思います。

次回から、あらためて、それらについてわかりやすく説明していきましょう。

(つづく)






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お知らせとお願い

お知らせとお願い

明後日からしばらく旅に出ますので、その前に明日、「国の理想・NEHOSA」についての10回分のブログを一度にアップします。

この10回のブログを読んでいただければ、NEHOSAについての理解と共感が一気に深まるものと自負しています。

どうか、旅から帰ってその次のブログをアップするまで、それらを何回も繰り返し読むとともに、併せて、あらためて拙著『国の理想と憲法』の後半、とくに、NEHOSAの考え方に関する部分を丁寧に読み直していただきたいと思います。

おそらく、これまでのNEHOSAについての思い込みに気がつかれて、目からうろこの感を抱かれるとともに、「これなら自分にもすぐできる! そして、みんなにもすぐできる! 平和な世界の実現は簡単にできるのだ!」と嬉しくなってしまうでしょう。

旅先でもブログはチェックできますので、どんどんコメントをお寄せください。




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死についての勘違い

死についての勘違い

人は誰でもいつかは必ず死にます。

その死について次のように言う方がいます。
「人生というものは市民マラソンのようなものだ。選手は途中見える風景をそれぞれに楽しみながら走っていく。所々には給水ポイントがあり、冷たい水やジュースなどを飲んだり、何かを口にいれたりして一息入れることもできる。そしてゴールに向かって走り続ける。人生マラソンには落伍者がいない。必ず全員がそれぞれのタイムで完走してゴールに飛び込むのである。しかし、そのゴールにはテープは張ってない。ただ、みんな崖の上から深い真っ暗闇の谷底に落ちていくのである。」

読み終わった後、なんかゾーッとしませんか。とくに最後のところが。

だから、ほとんどの人は普段「自分の死」というものからなるべく眼を逸らそうとしているのではないでしょうか。そして、「どんなに嫌でも、どうせ死ななければならないのだから、生きているうちにできるだけ楽しく生きられればと思っているのではないでしょうか。

たしかに、人間は「生き続けたい」という本能を具えた動物ですから、たとえば、路地を歩いているときに、横の小道から突然自転車が飛び出して来た時などには冷やっとします。これは危険を察知して、瞬間的に「身を守れ!」というアラームシステムが働いているのです。ですから、人間にとってはごく自然の反応と言えるでしょう。

でも、僕は上の死についての説明の最後の「みんな崖の上から深い谷底に落ちていく」という箇所の表現の仕方にちょっと異論があるのです。

もし、肉体が死んだ後でも魂は生き続ける、すなわち、自我がずーっと存続するとすれば、それは使っている体が動かなくなっただけで、それを使っている魂である“自分“は生きているのですから、本当の意味では、自分は死んでいないということになります。

次に、もし、「魂などというものはなく、肉体ともに”自分“というものも無くなってしまうのであれば、完全に熟睡している状態を想像すればわかるように、「自分が死んでいる」という意識さえもないのです。「怖い」などという感情が湧いてくることもありません。それは「完全な安らぎ」であるとさえ言えるでしょう。

ほとんどの人は、身近な人が亡くなった後に、その固く動かなくなった状態を見て、「それが自分の身に起きたら」と、生きている自分がアタマで自分の死に重ね合わせて「怖い」とか「イヤだ」と思ってしまいます。

僕が「死に対する勘違い」と言っているのは、アタマで人の死の様子を自分の死の様子であると想像することです。

人の死と自分の死はまったくの別物です。人が死んだ時にはその様子について、いろいろな思いや感情が出てきます。でも、自分が死んでしまえば、自分自身の死について「怖い」とか「イヤだ」とか、あるいは、「これで楽になれた」とさえ、まったく思うことも感じることもないのです。

生きている限り、できるだけ精一杯生きようとするのは当然ですが、それでも、自分がいよいよ死ぬんだなという時には、どんな気持であっても、その気持ちぐるみ死んでいくのですから、何の心配も不安も必要はないのです。

すでに亡くなった方々も同じです。





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