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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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整心

整心

整心(せいしん)とは僕が作った造語です。その意味は「本来の心(真心)ですべては整う」ということです。

ところで、仏教でいう「悟り」ということの意味は、手元の広辞苑によると、「心の迷いを去って真理を体得する。煩悩(ぼんのう)を脱して涅槃(ねはん)を得ること」となっています。ちなみに、「涅槃」とは「煩悩を断じて絶対的な静寂に達した状態。仏教における理想の境地」となっています。

「本来の心(真心)ですべては整う」という意味は、「悟り」という言葉を使って言い換えれば、「私たちはみんなすでに“悟っている”」ということです。

「えっ!?」と思われたかもしれませんが、決して、詭弁やこじつけで言っているのではありません。僕は本気で「私たちはみんなすでに“悟っている”」と言っているのです。その真意を分かりやすく説明しましょう。

37億年前にこの地球に最初の生物が誕生して以来、私たちの先祖は数多くの想像を絶する困難と危機を乗り越えながら、天文学的な回数“いのち”を世代から次の世代へと1回も途切れることなく繋いで進化を重ね今日の私たちに至っています。

ということは、この進化の頂点にいる私たちひとり一人の人間はどんな困難や危機をも乗り越えることのできる最強の能力をすでに備えているということです。

たとえば、人間の体にはもともとそれ自身健康を保ち、自らを整える強力なハタラキ・自然治癒力が備わっています。現代では私たちの自然治癒力を過小評価する風潮が非常に強くなっていますが、37億年もの間、薬や何か外部の手助けに頼ることもなく、幾多の困難を乗り越えながら、たえず進化を繰り返した私たちの体はそんなヤワであるはずがありません。

その真実を豊富な実践をもって証明し説かれたのが野口整体の創始者である野口晴哉先生です。野口先生は「整体」ということを説かれました。整体とは「体は自ら整うようにできている」。すなわち、私たちの体にはもともと自らを整え健康に生きる充分な能力がすでに備わっている」ということです。ですから、私たちはそのハタラキに全部任せさえすれば、楽に健康に生きていくことができるのです。

体と同じように、”いのち”が顕現した一元絶対、不可分一体の世界においては、”いのち”である私たちの本来の心(真心)に全部任せれば自ずから自分も整い、周りも含めて、一切のことが整ってうまく行くようになっているのです。

ここで、「では、どうしたら真心で生きていけるのか?」と思う人もいるかもしれませんね。

それは、実に簡単です。もともと真心しかないのですから、「真心しかないのだ」だと決定(けつじょう)して、真心でいればよいだけです。

怒り、恐れ、嘆き、落ち込み感、優越感・劣等感、好き嫌い、対立観、所有観、ケチな根性・身びいきなど、二元相対的にしか思考できないアタマで後天的に身に付けてきたバラバラ観が出てきても相手にしないのです。

「そう言われても。それが難しいのだ」というような人は自観法をマメに実修することです。そうすれば、そのうちに、いつでも真心でいることができるようになります。




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けつじょうと真の自由

けつじょうと真の自由

前に『決定』というタイトルのブログに書きましたように、「決定(けってい)する」というのは広辞苑によれば「はっきり決めること」となっています。つまり、「“自分が“はっきり決める」ということです。

けれども、盤珪禅師が「親の産み付けたものは不生の仏心一つである」と“決定(けつじょう)して”と言われた“けつじょうして”ということの正確な意味は、“自分が”そのように決めて、というよりも、それ以前に「真実はもともとそのようになっている」ということであり、その真実を見定めて、心がそのようにはっきり決まり定まること」という意味なのです。

和田重正先生は禁煙しようとして、いろいろな方法でことごとく失敗したあげく、「タバコをやめるには方法はない。方法を以てしてはタバコはやめられない。タバコをやめるにはただやめればよいのだ」という真実に天啓のようにはっきりと気づき、そして、気がついたときには、タバコをきっぱりと苦もなくやめていたのです。

ここで、またもやタバコを例に説明しますが、スモーカーが健康その他の理由でタバコをやめようとする場合には、ほとんどの場合に、吸いたい気持ちを精神力でガマンして抑えつける“ガマンの禁煙”をしようと“自分が“決めます。でも、その結果は、それでタバコをやめられる人は非常に少ないのです。

これは、そもそも何を決めるかが見当はずれだからです。しかし、今回のブログで書きたいことは、何を決めるかということを問題にしているのではありません。

タバコをやめるためには、タバコには何のメリットもなく、デメリットばかりだというタバコの正体、真実にはっきり気づけば、その瞬間に「もはやタバコは吸いたくない!」と気持ちが転換して、「タバコは吸わない」と心が自動的に決まるのです。つまり、自分が意識的に決める、決断することではないということです。

以上のように、「決める」と「決まる」、つまり、「けってい」と「けつじょう」の違いに気がつくことはとても大事なことなのです。

人間は本来完全に自由です。その完全な自由において、不生の仏心でいることもできれば、それを修羅に変えることもできます。たしかに、どちらでも自由に選択し決めることができることは事実です

しかしながら、その選択の基準でもっとも重要となることは、真実を明らかにすることです。まず、真実を明らかにすること、タバコで言えば、タバコの真実、すなわち、正体にはっきりと気づくことができれば、私たちは、どちらを選択しようかなど考えるよりも早く、すいすいと正しい行動をとるでしょう。それが「決定(けつじょう)」ということの意味であり、真の自由ということです。


補足:今回のブログを読んで、前に書いた『決定』というブログに述べたことと「けつじょう」ということの意味が違うと思われた方がいらっしゃると思います。

けれども、どちらも同じことを述べているのですが、書いている時の視点が前回と今回では少し異なるのです。

前回はアタマ以前にすでにある真実に気づいたにもかかわらず、それを再びアタマで考えてぼかしてしまい、結局は真実に沿った生き方・行動ができなくなってしまう傾向の人がかなりいるということを考慮して書いたのです。

そういう傾向のある人は一度確認したアタマ以前の真実を自分で改めて確認して、自分の意思のレベルにおいて「はっきり決める」ことが大切です。そのことを「けつじょう」という言葉を使って言おうとしたのです。

もちろん、盤珪禅師の言われる「けつじょう」という言葉の真の意味は今回説明したとおりです。





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怒りからの解放

怒りからの解放 

夜寝ている時に、喉の渇きを感じて目が覚めることがある。ほとんど同時に水を飲みたいと思う。この場合には、「喉が渇いたという体の感覚」はダイレクトにアタマの本能的生命維持プログラムを作動させ、瞬間的に「水が飲みたいという欲求」が出てくる。

ところが、スモーカーが夜寝て数時間後に、何かでふと目が覚めた場合には、最後にタバコを吸ってから数時間たっているので、ニコチン切れのストレスがかなりあるはずだが、すぐには「タバコを吸いたいという欲求」が出てこない。目は覚めたのだが、まだアタマが活発には働いていないので、タバコを吸うようになってから後天的に作られた脳内喫煙プログラムが作動していないからである。しかし、そのまま起き上がってしまえば、アタマが活発に働きはじめ脳内喫煙プログラムが作動して「タバコを吸いたい」と思うようになる。

ところが、ノンスモーカーにはそもそも脳内喫煙プログラムができていないので、日中でも、夜目が覚めて起きた時でも「タバコを吸いたい」とは思わない。

誰でも「喉が渇いたという体の感覚」は本能としてダイレクトにアタマと直結して、間髪を入れずに「水を飲みたい」という欲求が出てくる。

ところが、スモーカーの場合には、ニコチン切れのストレスという体の感覚は本能としてダイレクトにはアタマと直結してはいない。

スモーカーにはノンスモーカーの時にはなかった喫煙プログラムが、気がつかないうちに、喫煙行為によって脳内にインストールされている。その脳内喫煙プログラムが作動してはじめて、「ニコチン切れのストレスという体の感覚」が「タバコを吸いたいという欲求」に変換されて、意識に現れるのである。

つまり、「ニコチン切れのストレスという体の感覚」は、本来、ただ、「ニコチン切れのストレスという体の感覚」であるに過ぎない。そして、脳内喫煙プログラムによって生起された「タバコを吸いたいという欲求」は体本来の欲求ではなく、フェイク(偽の)欲求に過ぎない。だから、どんなにヘビーなスモーカーであっても、夜突然タバコを吸いたくなって目が覚めることはない。

以上の仕組みがしっかり理解出来たら、タバコを吸いたいという気持ちが出てきても相手にしなければ、吸いたい気持ちはすぐに消えてしまう。そして、それを繰り返しているうちに、脳内喫煙プログラムが非活性化し、吸いたい気持ち自体が出てこなくなる。でも、1本でも吸うと、再び脳内喫煙プログラムは活性化される。1本だけのタバコなどないのである。

このメカニズムはアルコールについても、そして怒りについても同じである。

怒りはまったく無益であること、怒るのは当然だとアタマが勝手に思い込んでいただけだということを納得していれば、自分の思うことに反するようなことをしたり言ったりしても、それに対して、腹が立つ人だけが持つ脳内の怒り発動プログラムはもはや作動しないので、怒りという感情は湧いてこない。仮に、怒りの感情が出てきてもそれを相手にしなければ、怒りの感情はエネルギーを失い、いつの間にか消えてしまうものである。





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軟膏と発疹

軟膏と発疹

皮膚に発疹が一粒できて痒い。
軟膏を塗るとその即効性作用で痒い発疹が消えホッとする。しかし、軟膏の遅発性作用で再び、しかも、発疹が二粒現れ痒い。
そこで、軟膏を塗るとその即効性作用で発疹が消えホッとする。しかし、軟膏の遅発性作用で再び、しかも、発疹が三粒現れる。
このサイクルが延々と繰り返される。たしかに軟膏を塗った時には発疹が消えてホッとするのであるが、そのたびにその後発疹が増えて痒い。

真実は、軟膏を塗るとそのたびに一時的に発疹は皮膚の下に隠れ痒みも消えるのであるが、発疹は軟膏を栄養として繁殖し再び皮膚の表面に現れてくるのである。
つまり、軟膏には発疹を消してしまう効果などまったくなく、軟膏はただ発疹の栄養源となって発疹を増殖させているのである。

発疹が増える原因は軟膏なのである。だから、痒い発疹を消してしまうためには、ただ軟膏の使用をやめればよい。軟膏を塗るのをやめれば、発疹は栄養源をなくし、短期間のうちに萎(しぼ)んで消えてしまう。

ただ、軟膏と発疹のカラクリを理解して、軟膏の使用をやめればよい。だから、軟膏の使用をやめるのに精神力(ガマン)はまったく必要ない。

痒みに関しては、小さな痒みでも、それを掻けないと思うと、痒みが心理的に増幅される。しかし、「この痒みは掻く必要がない。掻かなければすぐに消えてしまう」ということをはっきり納得したうえで掻かなければ、痒みは気がつかないうちに本当に消えてしまうものである。

以上のカラクリはタバコにもそっくり当てはまる。たとえば、タバコを吸うたびに、ニコチンの即効性作用によって、ニコチン切れのストレスとニコチン(タバコ)を求める渇望感が一時的に解消されてホッとするように思える。が、事実は、ニコチンの遅発性作用によって、ニコチン切れのストレスとニコチンを求める渇望感がより増幅されて現れる。すなわち、ニコチンはニコチン切れのストレスとニコチンに対する渇望感という不快感を引き起こすのである。

ニコチンに対する渇望感を満たすとホッと感じる。その感覚を求めニコチンを求める渇望感が生じる。しかしながら、喫煙のトリックを充分理解すればこのタバコを吸いたいという気持ちは完全になくなる。吸いたい気持ちがなくなれば、吸うのをやめるのには意志の強さなど関係がない。ただやめればよいのだ。

喫煙生活はほんの一時的に不快感が中断するのを楽しみに(と言っても、これは本当の楽しみとは言えないが)、ずっとストレスと渇望感という不快感の中で生きていくということである。

この喫煙のカラクリをはっきり理解すれば、その瞬間からタバコを吸いたい気持ち・渇望感も消え、タバコはやめるときっぱり心が決まる。もともとニコチン切れのストレスそのものは小さなものなので、その瞬間からノンスモーカーとして快適にすっきりと生きていけるのである。この原理は飲酒にもまったく同様に当てはまる。

実は、タバコやアルコールだけではなく、私たち、あるいは、私たちの社会の苦しみの多くは喫煙や飲酒と同じようなカラクリによって引き起こされています。その事実に気がつくことができれば、私たちはもっともっと楽に自由に生きていくことができるでしょう。





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「天上天下唯我独尊

天上天下唯我独尊

「天上天下唯我独尊(てんじょう・てんが・ゆいが・どくそん)」とはお釈迦様が悟りを開かれた時に、思わず発せられたお言葉だと言われています。その文字通りの意味は「この世界においてただ自分一人が尊い」ということです。

この言葉を巡ってはいろいろな解釈があるようですが、今回は僕の存在の真実の体験を通して、この言葉の真の意味について書いていきたいと思います。

もちろん、この「天上天下唯我独尊」というのは「全世界で自分だけが尊く、他の者はみんな卑しい」というような、バラバラ観の中での優劣の話をしているわけではありません。
「尊い」という言葉はそのような浅薄な意味で言われているのではありません。

では、本当はどういう意味でしょうか?

それは、「この世界には自分しかいない。他には誰もいない」という真の事実を言っているのです。

では、他の人は? たとえば、家族や何々さんたちはいないの? とてもそんな風には考えられないと思われるでしょう。でも、本当に、自分以外は誰もいないのです。

それでも、他の人は? と聞きたくなるでしょうが、他の人はこの自分の中にいる。自分の中にすべての存在があり生きているのです。分かりやすく言えば、「自分の中にこの世界・大宇宙があり、すべてが存在している」ということです。

真の事実は、自分は、英語で言う、「ワン・オブ・ゼム(one of them)」、つまり、大勢の中の一人ではありません。この世界には自分しかいないのです。だから「我一人尊い」のです。

別の言い方をすれば、「自分がこの世界の主人公である」ということです。誤解を恐れずに言えば、「自分は自分という王国(全世界・全宇宙)の王様である」ということです。だから、自分の生き方はすべて自分で決めることができるのです。

と言っても、他の人の考えや意見を無視してもよいと言っているのではありません。自分は他の人の考えや意見を無視することもできますし、尊重することもできます。どちらでも自由にできるのです。その完璧な自由に立って自分がすべてを決めるのです。

もちろん、すでに起きてしまった状況・事実そのものを変えることは絶対にできませんが、自分がすべてを決めて生きていくことができるという自由がもともと具わっているということです。

実は、その真実を自覚しているかどうかにかかわらず、すでに誰でもそのように生きています。

つまらない、嫌だ、嬉しい、楽しい、などなど、どのように思っているかに関わらず、決めているのは自分なのです。

たとえば、すでに起きてしまったことを悔やみながら生きることもできます。人が自分の思うようなことに反するようなことを言ったりしたとき、腹を立てこともできます。「あっそう」とさらっと事実を受け止めることもできます。


このありのままの世界を真の意味で楽しく、積極的に生ききれるかどうかは、すべて自分次第なのです。

自分という存在は、無限の宇宙の歴史のなかで、ただ一人しかいません。その自分を、そして、すべての生きとし生けるものを幸せにできるかどうかは, な!なんと!まさに自分一人にかかっているのです。

だから、「天上天下唯我独尊」なのです。

自分を本当に大切にする人だけが周りの人を幸せにできるのです。





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