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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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ただやる それだけだ

ただやる それだけだ

今回は特別に長文の原稿を掲載します。この文章は12月の整体セミナーの最終日にあった出来事に対して僕の感想を述べたものです。

そのセミナーの2日目と3日目に参加した方々にはすでにこの文章をメールに添付して送っています。参加しなかった方々には状況がよくの呑み込めないところもあると思いますが、とても重要なテーマだと思うので、年の締めくくりの意味とともに、新しい年の新しい出発に向けての研鑽資料としてお読みいただければと思います。


ただやる それだけだ。「ただ」は「無心で」ということです。この場合の無心の「心」とは「アタマ・思い」ということです。「ただやる」とは、言い換えれば、「不生でやる」ということです。ただやる、それだけなのです。

僕は大学生の時まではケチな根性のかたまりでした。学校で何かの役を選ぶという時などにはいつもイヤなことはやりたくないと逃げてばかりいました。ある役に選ばれても、いつもイヤだなあと思いながらやっていました。家の仕事の手伝いも同じでした。いつもゴネてばかりいて、やらないで済ましていました。結局は、母や姉や兄が代わりにやっていました。まったくダメな自分でした。それでも、親も兄弟たちもそんな僕のことを仕方のない子と思いながらも、愛情深く可愛がってくれたのです。でも、それに僕は甘えてばかりいたのです。今思い出しても自分が情けなく、家族のみんなに本当に申し訳なく思います。そして同時に、そういう家族みんなの愛のおかげで、なんとか今の自分があるのだなあといつも思っています。

大学を卒業して、22歳でしたが、和田重正先生の本を読んだり、先生が主宰される集いや合宿に参加するようになりました。何がきっかけだったかは忘れてしまいましたが、僕は突然「こんな自分ではいけない」とこころから思いました。そして、一気に生き方を180度転換したのです。そのように決心した瞬間、それまでの重苦しい気持ちが消え、とても軽やかで爽やかな気持ちになりました。それからは、いろいろな役を積極的にやるようになりました。

例えば、大きな公開場で500人ぐらいの聴衆の前で講演をしたり、友人たちの結婚式の司会進行を自ら手を挙げてやらせてもらったり、和田先生のところに集まってくる若い人たちの集いでも司会を率先してやったりしました。また、「まみず」という人生雑誌にも何度も投稿して、それが掲載されました。でも、それらは決して「自分にはデキる」という自信があったわけではありません。実際、それらの講演や司会が上手にできたとも思いませんでした。でも、そんな気持ちが僕の積極性を妨げることはありませんでした。自分を成長させるためにやるという気持ちもまったくありませんでした。ただやったのです! それ以外の何ものでもありませんでした。

そうは言っても、僕の内面は依然としてあい変わらず、とても内気の恥ずかし屋だったのです。でも、当時僕に出会った人たちは僕のことを「とても爽やかで明るく積極的な青年だ」と思っていたようです。そのくらい僕の生き様が変わったのです。そして、そうして、いろんなことに積極的に関わっているうちに、体験を通して少しずつうまくできるようになってきました。それが今日まで続き、僕なりには成長してこられたのだと思います。

ただ、内面的には、真実の自己、真実の生き方という点では、どのように工夫しても解決がつかず、悩んでいました。このように言っても、二重人格的に生きていたということではありません。内面的な悩みが僕の外面的な生き様に影響を与えることはまったくなかったと思います。今考えると、むしろ、内面的に悩みがあっても、外面的に明るく積極的に生きる生き様は正しかったと思うと同時に、そういう生き様をしていたからこそ、内面的に決定的に行き詰ってしまった時に、人生最大の思いがけない気づきがあったのだと思います。そして、その気づきと相まって、それまでの生き様がさらに発揮されるようになったのだと思います。


さて、今回の整体のセミナーの最終日の午後のセッションには僕は参加できなかったのですが、後でそこで起こったことについて奈央先生とエリカさんから聞きました。以下、僕の感想を述べてみたいと思います。その中にとても重要なことがあるので、セミナーのまとめとして、また、ぜひ今後よい人生を歩んでいく糧・ポイントとしてほしいと思います。

状況は僕には正確には分かりませんが、大まかには、普段セミナーに参加していない奈央先生の甥の秋秀が会場に入って来た時に、奈央先生が「秋秀にクンバハカを指導して伝えられますか? 誰がやりますか?」というような問いかけをしたところ、その問いかけに対して、誰も手を挙げなかった、あるいは、答えなかった、それで奈央先生がみなさんをとても強く叱ったというようなことであると聞いています。

もしかしたら、その時、奈央先生は怒っていたのかもしれません。でも、たとえ、そうだとしても、それを責めるつもりは僕にはありません。問題としなければならないことは、奈央先生が何に対して怒ったかということです。自然農法の創始者である福岡正信先生はしょっちゅう「みんな一番大切なことがちっともわかっていない」と怒っていたそうです。

実は、この午後の出来事を聞いて、僕自身は怒ることはまったくありませんでしたが、正直「やれやれ」と思いました。何が「やれやれ」なのかというと、「まだ本当のことが分からないのか」という思いです。

このところ、ブログに何回も書き、また、今回のセミナーでも「自覚のセミナーの締め」ということで、和田先生や盤珪禅師の存在の真実の開悟の体験談を読んだりしながら、不生、あるいは、不生の仏心ということをこころを込めて説明してきたにも関わらず、皆さんがまだアタマの人であるということを認めざるをえなかったからです。

もし仮に、その場に大学生以前の僕が参加していたとすれば、やはり、皆さんと同じように手を挙げなかったと思います。それは、それまで僕の中に濃厚にあったケチな根性のためです。でも、180度生き様が転換した22歳以降の僕であれば、躊躇なく、すっと手を挙げていたと思います。

セミナーの最終日の午後には、皆さんの気持ちは僕のようなケチな根性はなかったのだと思います。でも、皆さんの気持ちを推測すると、おそらく、次のような思いのどれかがあったのだと思います。

うまくやれる自信がない。

自分なんかでいいのかなあ?

自分より上手に教えることができる人がやるほうがよいのでは?

自分がやってもよいのだが、若い人たちに指導の機会を与えよう。

その他にもいろいろ思ったことがあるかもしれませんね。それらのどれかの思いが手を挙げるのをためらわせたのだと僕は推測しています。

でも、それではまるっきりダメなのです。

それはいつもアタマで生きているということです。アタマの人であるということであり、不生の人ではありません。

皆さんに僕のようなケチな根性があったとはまったく思いません。善意でそのように思ったということなのでしょう。でも、不生の人であれば、誰でも、何か思う前に、すっと手を挙げるのです。

自信がない、できるかな、もっと上手にできる人がやるのがよい、若い人たちに機会を与えたい、などなど、それは不生の仏心ではなくアタマの思いなのです。だから、そこで不生の気の流れがストップしてしまい、全体の気が何とも言えず沈んでしまうのです。沈んだ気は邪気です。

不生(の仏心)で生きるということは無心、無邪気、素直に生きるということです。できる、できない、うまくできるかなどという考えなどまったく関係ないのです。愉気で言えば、思わず手が必要なところに行って気が流れるのです。これが不生の仏心のハタラキの好例ですが、生きることのすべてが不生の仏心で自ずから整うのです。この世界は本来大安心の世界なのであり、アタマでいろいろ考えて生きるのでなく、不生の仏心でスイスイと生きていけばすべてがうまく行くのです。

和田先生は「ここが極楽というのではなく、極楽はここだ」と言っています。その意味は「極楽はどこかにあるというものではなく、極楽とはこの世界のことだ」ということでしょう。

つまり、世の中にはいろいろなことが起きているが、何が起きようと、それぐるみこの世界はそっくり極楽なのである、ということです。それは、この世界では何も心配することはないのであり、たとえ何かが起きて心配したとしても、その心配ぐるみ大安心の世界だということです。

不生でいれば、「誰がやりますか?」と問われた時には、できるかどうかなどと考える隙もなく、“思わず”手を挙げ、同時に、即「私がやります」という言葉が出てくるのです。後は、できるかどうか、自信がないなど考えもせずに、ただただ、相手のことを思い、実際にやりながら、できるように、できるようにやるだけです。気持ちとしてはそれだけです。余計な思いは微塵(みじん)も出てこないのです。

やってみて、思うようにできないこともあるでしょう。でも、そういうことばかりアタマで考えてから、やる・やらないの判断や決断をしているようでは、どこまでもアタマの人として,かすんだ妄想の世界の中で生きていくことになります。

ついでに言えば、みなさんが手を挙げて「やります」と言っても、実際に誰がやるかは、この場合には奈央先生が指名するのでしょう。あるいは、「では、誰がやるかみなさんで決めてください」と言われれば、ジャンケンするなり、話し合って決めればよいのです。ただし、「とても自分なんか」と最初から逃げ腰ではダメです。いつでも「自分がやる」という気持ちで、ジャンケンするなり、話し合うのです。アタマで考えるのは、必要であれば、それからでいいのです。

僕がこれまで赤城での整体のセミナーに参加して、毎回感じてきたことは、「ほとんどの皆さんが輝いていない。気が出ていない」ということでした。それはアタマの人だからです。アタマのいろいろな思いに振り回されて本来の自分を見失ってきたからなのです。だから、愉気をしている姿を見ていても、ほとんどの人から明るい爽やかな気が出ていないのです。そういうことで、これまで僕はセミナーに何回も参加していても、皆さんから愉気をしてほしいという気持ちが一度も出てこなかったのです。おそらく、奈央先生も同じだと思います。

だから、どんな時でも、不生の仏心一つで生きていればよいのです。何でもできる! 何でもやる! 何が起ころうとも「よしきた!」と受け止める。ひたすら、冷静に、そして、積極的に生きる。それで死ぬまで生き切るのです。

そのように不生の仏心で生きようと決定すれば、すべてが明るく爽やかな方向に転換します。それは今までの生き方から見れば、難しいことのように思えたかもしれませんが、真実はまったく難しいことではありません。「ただ、それしかない。それだけだ」ということを明らかにして、そう生きようと決めればよいだけなのです。

みなさんはこれまでセミナーやブログでいろいろと存在の真実について理解されていると思います。それで、雰囲気もずいぶんよくなり、精神的にも成長されてきたことを僕はとても喜んでいます。

でも、最後の一線というか、一番大切な一線を越えなければ、本当に生きていることは素晴らしいという人生にはなりません。その一線とはどこにあるのか? 実は、どこにもないのです。それが分かった時に、あなたは不安な世界から何があっても大安心という光り輝く世界に飛び出ている自分を見出すでしょう。そして、自分自身がどこまでも光り輝く存在だということを見出すでしょう。

繰り返しになりますが、それはどこかにあるのではありません。この世界、この自分こそが、すでにそうなのです。それをこれまでアタマを通して見ていたために、見失っていただけなのです。

だから、「ただ、そうだったのか」と認めればよいのです。その瞬間に、実際に、本当の世界、本当の自分はいまここにあるということに気づくでしょう。盤珪禅師も和田先生も同じことを言っています。だから、迷いに迷ったあげくに、この真実に気がついた人は、その途端、思わず大笑いしてしまうのです。「何だ! もともとそうだったのだ。これほど簡単なことにどうして気がつかなかったのだろう。何て見当違いの所に求めようとしてきたのか」というわけです。

ここまで読んできて、もうすでに皆さんは真実に気がつかれていると思います。ただその真実に決定して生きればよいのです。何も失うものはありません。得るものばかりです。ですから、何も恐れることはありません。

ただ、明るく楽しい気持ちでそう生きようと決めればよいのです。そうすれば何があっても、どんなことを言われても「よしきた。やるぞ」という不生の仏心で生きていくことが出来ます。それが腹の人です。簡単なことです。あなたが「そうしよう」と思いさえすればよいのですから、誰にでもすぐにできます。

ついでに言えば、不生の仏心とは感情的でなく、ただ冷静な心という静的なものではありません。不生の仏心とは、感情的でなく冷静ではあっても、それだけでなく、動的・ダイナミックな無限のエネルギーであり、愛そのものであり、すべてを整える麗明なハタラキなのです。だから、自分の小さなアタマであれこれ考えを巡らすのではなく、不生の仏心、本来の気の流れに素直に沿って生きればよいのです。愉気も大安心の中、不生の仏心でやってこそ、“よい”愉気となります。

奈央先生がみなさんを強く叱ったのは「これまでこれほど話をしてきたのに、まだ、そんなところで生きているのか。情けない!」というこころの叫びなのです。強く叱られれば、普通の人はイヤになるのでしょうが、奈央先生のこころの奥が読み取れる僕には、表現の仕方はともかく、奈央先生の気持ちはよく分かるのです。僕もまったく同感です。

みなさんが不生の仏心でいて、お互いに本当に透明でツーカーの爽やかで明るく爽やかな生き方に転じればそのように叱るはずもありません。

存在の真実に気づき、生き方が転換すれば、ひとりひとりが輝いた存在・真人類になり、その人がいるだけで周りが輝いてきます。そうすれば、気を出そうなどと思わなくても、よい気が互いに巡り合うようになるのです。

どうか、不生の仏心でさっと動ける人になってください。そうしていけば、まず自ずと放つ気が変わり、周りも変わります。すべてが自然によい方向に変わっていき、それがますます大きな流れになっていきます。それがネホサでもあります。


うまくやれる自信がない。: では、いつになったら自信が出るというのですか?

自分なんかでいいのかなあ?: この世界ではいつもあなたが主人公として生きていくのです。

自分より上手に教えることができる人がやるほうがよいのでは?: それではいつまでたってもできるようにはなりません。ずっと死ぬまで負け組として、亀の子として生きていくことになります。そんな人生でよいのですか?

自分がやってもよいのだが、若い人たちに指導の機会を与えよう。: いかにももっともらしく聞こえますが、それがダメなのです。そんな余計なことを考える前に、自分が率先して範を示せばよいのです。その気が周りに伝わり他の人を触発して真の生き方に目覚めさせるのです。それしかないのです。


最後に、勝手な、また、失礼な言い方ですが、次回のセミナーでは、僕が「あの人にぜひ愉気をしてもらいたい」と思うような人にみなさんなっていてほしいと思います。それが新年に懸ける僕の夢です。

もっとも、「アンタなんかに愉気はしたくない」ということであれば仕方がないのですが・・・。
僕はそんなことを思いながら、セミナーで話したり、ブログを書いているのです。

いまここで、みなさんが真の自己、真の人生に目覚めて、来年初めのセミナーには、明るく爽やかで積極的な不生の人として参加されることをこころから楽しみにしています。





2018年の師走に

2018年の師走に
(奈央さんのブログから)

クリスマスを迎え、今年もあと一週間ほどになりました。

104歳の母が今年の7月に亡くなりました。
母のケアでは本当に多くの方にお世話になりました。

喪中ですので、新年の年賀状は失礼させていただきます。

お手紙をお出しできなかった方に、
ここでご挨拶させていただきます。

・・・・・・

母 両角千鶴子が7月7日、104歳で旅立ちました
家族に見守られ自宅で笑みを浮かべ安らかな死でした

教え子を戦場に送りだした苦しい体験から
再び戦争の無い社会作りに生涯を貫いた人生でした

皆様のおかげで母の人生は幸せでした
ありがとうございました

皆様良いお年をお迎えください

平成30年12月 野村 昇平,  奈央

・・・・・・

母の葬儀の際には、何人もの方から心のこもった弔辞をいただきました。
その中から前橋キリスト教会、荒川雅夫牧師様の弔辞をご紹介させていただきます。


<別れの言葉 ~両角千鶴子先生を送る>

先生は15年以上前に、憲法9条を守る会を結成するために尽力し、ついに発足しました。

・ 戦争を反対する思いの人々を会員として集めること
・ 集会を毎月定期的に実施して会員相互の交わりと互いの研鑽をすること
・ 反対の意思を集めて全国的な運動とするために署名を集めること
・ 群馬県内において、日本国内においての各地の反戦平和運動のために協力すること

この大切な使命を推進するために、両角千鶴子先生は立ち上がります。すでにかなりのご高齢でしたが、常に先頭に立って、会員を集め、指導し、励まし、推進してきました。

晩年は会合に参加できなくても、両角先生の存在が9条を守る会のメンバーに大きな励ましとなり、影響を与え続けてきました。

この大きな使命に生きるようになるために生き、歩み、教え、導き、継続され続けたのかを思い返したいと思います。

先生の原点は小学校教師であったという事です。日本が15年戦争、ことに太平洋戦争は、国民に多大の犠牲を強いるというよりも、想像を超える苦難を強いました。

この戦時下の教師として生きた先生は、子供たちを戦場に送る困難な責任を果たさなければなりませんでした。好ましくないことにも児童生徒を訓練し、戦争へと駆り立てる時代に立たされ、平和を志向する教師としての苦悩は、想像を絶する苦難であったでしょう。

だから戦後になり、戦前・戦中の苦難を思い起こし、乗り越えるために平和のために生涯を捧げつくしました。数多くの平和運動に身を投じたのです。おりしも、国内では憲法を守るための運動が推進されてきましたが、憲法9条を守る会が発足し、全国に訴えられたのを契機に、先頭に立って行動してきました。

前橋市でも会を発足しました。
私は前橋キリスト教会牧師として先生と一緒にこの使命を共にして立ち、戦ってきました。国家が国家の命令によって人を殺し、他国を占領することは決して許されることでありません。日本の使命は、日本国憲法の崇高な責任を果たすことであり、憲法を学び、憲法に生き、憲法をしっかりと世界と日本に伝えていくことです。

聖書に「よくやった。良い忠実なしもべよ。貴女は小さなことに忠実だったから、わたしはさらに多くのものを与えよう」と言われています。

キリストの使徒パウロは「私は走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通した。今からは私に義の栄冠が待っているだけだ」と最後のことばを残しました。
 
先生の生涯の全てが、残された私たちへの偉大な遺言であり、ご命令でもあると思います。
「平和のために生涯を尽くしたことほど幸福はない」と語っております。
人生は出会いで決まる、と言われていますが、先生と出会えたことは最上の幸福の道でした。

遺されたご遺族の皆様の上に心からお慰めをお祈り致します。

2018年7月12日 
前橋四中憲法9条を守る会 会長  荒川 雅夫

・・・・・・・・・・・

母は、平和を心から願っていました。

2007年に「国の理想と憲法 『国際環境平和国家』への道」(野村昇平著)が出版された時には大変喜んで何度も読み返し、本には沢山の線が引かれていました。
 

平和憲法を活かすこと。
そして世界中にそういった国が出現してくることを、心の底から願っています。

今年はたくさんの自然災害も起こりました。
そんな中でも、いろいろなことがあっても、それぞれの方が前向きに取り組んでいった変化の年でした。

来年もさらに「不生の仏心」真心いっぱいの良い年になりますように。

今年も一年間、ありがとうございました。 




自覚のセミナー感想文 JJJさん

自覚のセミナー感想文 JJJさん

母の強い勧めもあって,初めて自覚のセミナーに参加した.セミナーを終えて最も強く感じるのは,自分の「腹(はら)」が「ここにない」という実感である.それは前から気付いていたことであるが,改めてありありと目前に現れて,情けなさが込み上げて来る.だがそれが,このセミナーでの成果でもあるのだ.今はじっくり,噛みしめたい.

 自覚のセミナーでは,来る日も来る日もこの上なく単純明快なテーマと向き合う.だが単純明快だからこそ,自分に突きつける問いは鋭い.いかに日々の生活の中で,自分で身の回りの色々なものを勝手に縫い合わせては複雑にしてきたのかと思う.全てのテーマが重なり引き寄せあって示してくれるのは,それ以上でもそれ以下でもない「シンプルさ」である.

危うく内容に触れそうなのでこれ以上は書けないが,その中でも私が一番汲み取りたいシンプルさは,人間はもっとシンプルに生きていける,ということである.まさに単純明快.自分もそうありたいと,思うのであるけれども・・・.

 私は子供のころから頭で考えることはある程度得意で,自分の身の回りの出来事に理屈をつけては自分を納得させて生きてきた.生来の理屈人間なのである.今回のセミナーでも,そのようであったと思う.テーマを頭で理解して,頭で考えて,理屈にして自分の頭の中に収めた五日間であった.

行き着く先で理解した「シンプルさ」を前に,はて今後どうやって生きていこうかと逡巡する.これこそが私の「腹がここにない」実感なのである.あとは決めるだけと,先生に怒られてしまいそうである.頭で理解したことが腹にないから,それが行動にならない.ましてや,生き方にはならない.これがまさに,自分という人間そのものであると痛感した.五日間の成果がこれとは,なんとも頼りない.しかし,私にとっては大きな意味がある.あとは決めるだけなのだ.

 セミナーの内容そのものとは直接的には関係ないようで,しかし私にとってのもう一つの喜びがある.それは,今回の参加者の皆さんに出会えたことである.それはまさに,「腹がここにある」人々である.この上なくあたたかいのに,この上なくカッコ良く生きている.皆さんの話を聞くのが,セミナー期間中の私の楽しみであった.若い故に優しくしてもらえてちょっと得したところもある.兎にも角にも,いい人たちであり,心からすごいなと思う.この人たちのようになれるのは,果たして何年後であろうか.それとも今この瞬間であろうか.おそらく,あとは決めるだけなのだ.

 後ろ向きなような見た目の感想文になってしまったが,そうではない.本人は意外と前向きである.いい人たちとともにいい五日間を過ごした.「シンプルさ」と,自分の課題を理解した.これが腹に収まるまで,もう少し時間を置きたい.若さという特権をここで使おう.

 最後に一つだけ,内容には触れていないと信じて,引用したい先生の言葉がある.「決定(けつじょう)するということ.それは,諦めるということでもあるのです.」四日目であったと思う.この言葉に涙をこらえた.もう少し噛みしめていたいのだ.





自覚のセミナー感想文 I I Iさん

自覚のセミナー感想文 I I Iさん

自覚のセミナーでは大変お世話になり、ありがとうございます。

5年半前のセミナーから、さらに進化し続ける内容でした。
大げさではなく、宇宙から地球や月を眺めて帰還したような5日間です。

「自覚のセミナー再受講者は、内臓をひっぱり出して投げ捨てるように本気を出すこと。生と死を覚悟して参加するように」、と事前に先生からご指導がありました。
覚悟を決めて初回の相方と参加したので、期待と多少の緊張がありました。

最初の質問に、自分の課題「子どもと戦争」が内側から湧き上がりました。通常取材の事実を「調べる」方法で答えて、ズレました。

先生から何度もギリギリと問いかけられました。ゼロからスタートし、さまざまな角度から「検べ」直し、はっと気づきました。

今の枠組み、歴史の流れと同じ次元で平和を捉えており、固定観念の中で何をやっていたのだろうか、と。宇宙へ身体が放り出され、根本が間違っていたことが明確になり、肚の底から本気で答え、嬉しさがこみ上げたのです。
真実に沿えば、簡単なことなんだ!

14人の答えは、徐々に先生の研究尽くされたテーマや言葉により視点が変わり、セッションが深まるのを感じました。ある方のストレートな問いかけは、化学変化を起こしそれが根源への問いかけになり、自然な経過をたどりました。参加の皆さんのひと言ひと言にも触発されるセミナー。

先生のあらゆるアプローチにより、あっ!が重なり、ありのままに観えるようになりました。
相方はセッションごとに真実にふれ、変化して行きました。それを目の当たりにし、面白くて仕方ありませんでした。
世界最先端の創造的なセミナーだと、再度確信しています。

不可分一体のいのちの皆さんと、まだ見ぬ平和創造する仲間をこのセミナーへ誘います。この時代にはどんな方法がよいのかを出し合います。七世代先のもっと先の幸福とともに。

昇平先生、奈央先生、外山恵理佳先生、本当にありがとうございました。

お世話係の山田さん、サポートをしてくださった方々、差し入れをしてくださった方々、参加されたすべての方々に心から感謝いたします。

帰宅すると、猫のそら・まるが今までにないほどじっと私を観ていました。




                                                                      

自覚のセミナー感想文 HHHさん

自覚のセミナー感想文 HHHさん

今回のセミナーでは大変お世話になりました。ありがとうございます。
参加前は期待と少しの不安がありましたが、結果的に参加して大変よかった、と感じています。

私が60年近く生きて来た中で初めて自分の意識の中にとても大きな変化が起きました。
その変化をはっきりと自覚できたのです。

自分は働き出してから今年で35年になります。仕事で成果を上げてキャリアを積むことにより、自分が目指す目標に1つずつ階段を登るように近づいていたように思えていました。その過程には競争が伴い、負けて悔しい思いをしたり、勝って気分を良く過ごしたり、と揺れ動きがあり、この勝ち負けという単純な構図にずっと振り回されて生きてきたのです。

周りの家族にもそれは伝わり、妻にも負担をかけて迷惑をかけてしまう事がありました。妻は自覚のセミナーに私より前に参加して、とても素晴らしかった、と変化し、数年前から私に参加を進めてくれましたが、仕事の都合がつかず参加出来ずにいました。

今回の受講で、自分の気持ちが仕事の出来や競争により、揺らぐことはもうないと確信出来たのです。そして今まで仕事で社会に貢献して来たつもりでいた自分の考え方がとても小さな利己的な考えであることに気づかせてくれたのです。

私以外の受講者の方々もセミナーの最初と最後の表情が大きく変化して、豊かで安心した幸せな笑顔に変わりました。そこにあるのはお互いを思いやる優しさであり争いはありません。また考え方も自分の仕事、という枠から大きな思考に変化させていただきました。

人はどうやって生きて行けば本当に幸福か、漠然としていたものから明確に理解出来た事は大きな変化であり、人生で二度体感出来ない経験です。

このような機会を与えてくださった先生方に心から感謝しています。

またセミナーに参加した受講の方々、サポートの方々、妻にも感謝します。

ありがとうございました。





                                    

自覚のセミナーの感想文 GGGさん

自覚のセミナーの感想文 GGGさん                     

 この度は6年ぶり、2度目の自覚のセミナーに参加させて頂き本当にありがとうございました。またお忙しい中、陰で支えて下さった整体セミナーの皆様の真心に心より感謝申し上げます。お陰で清流の流れのような素晴らしいセミナーとなりました。
本当にありがとうございました。

 今回のセミナーでは1回目の時に未消化だった部分を更に深めると共に、自分勝手に理解し、思い込んでいた事を軌道修正することができました。今は5日間のセッションを終え日常生活にもどり、明るい夜明けのような、本当の自分を取り戻したような清々しい気持ちでいます。

 今回、私は怒りのカラクリを見破ることができ、心がすっきりとしています。自分でも気付いていなかったのですが、私は怒りはコミュニケーションの一つであると信じていたようです。怒ることは本音で語り合っている証拠で、それは良い事であるとすら思っていました。

でもそうではない方法はいくらでもあるのです。本音をぶつけ合って喧嘩することでお互い仲良くなれる。本音を語り合うのにそれが一番有効な手段なのか。そんなことはありませんでした。

怒りを使うのは幼稚な手段であることがはっきりとわかりました。意見の違いがあったり、誤解を解くために攻撃的にならず、穏やかにコミュニケーションすることは出来るのです。怒りには何のメリットもありませんでした。

その他の場面でも同様のカラクリによって、いかにもそれが真実のように思い込み、また思わされ、錯覚していることが多々あることに気づきました。事実はひとつ。その事実に目覚めたならば、ただそれに自分を合わせていけばよい。それだけでした。

一度、事実に気が付いたら後戻りしない。ひとつのカラクリが暴かれると次から次へと真実の光が心と体に差し込んできました。それは本当ですか?なぜそう思うのですか?ひとつひとつのテーマは難しいことではなく、ごく身近なテーマばかりです。これらをよく検べてゆくと、単純なことでも複雑にし、いかにも意味のある、または価値のあるように思い込んだ事例のなんと多いことか・・。

私たちはこの人間社会に何の疑問も持たず生きることもできます。そうして自分勝手な思い込みで、不安や恐怖を真実だと錯覚し、他を責め自分の心の中に自ら壁を作ってゆくのだと思います。バラバラ観のはじまりです。

目に見えない国境をはじめ、本当は壁などどこにもないのに、自分と他人、善と悪等々、いつの間にか世界はバラバラなのだと思い込んでしまったようです。そのようなアタマの中の妄想世界に気が付くと、真のいのちの世界が厳然とそこにあることに目覚めます。生きとし生けるもの全てが不可分一体に生きている。みんないっしょでした。

自覚のセミナーはわかったような気持ちになってニッコリ笑って終わりではなく、しっかりと真実を見出し、本当にそうなんだと心から納得することができます。それが清々しさの源泉です。

 縁あって集いあった受講生たちは生涯の友となりました。これからは自分だけの幸せでなく、世界中の人々の真の幸福に具体的に貢献できるような自分を生きていこうと思います。

まずは友人たちに自覚のセミナーの素晴らしさを語り、一人でも多く参加できるように工夫してゆきます。昇平先生にも相談に乗って頂き、受講生皆で智慧を出し合いたいと思っています。

本当にありがとうございました!





自覚のセミナー感想文 FFFさん

自覚のセミナー感想文 FFFさん

自覚のセミナーの1週間後に行われた総合コースの整体セミナーを終えて、この感想文を書いています。自覚のセミナーでの気づきが、整体セミナーを受講することによって、肚まで落ちた感じがします。

このタイミングで自覚のセミナーを再々受講することできて、本当に有難かったです。いつの間にか目の前のことに追われて、情けないことに真の望み(願望)まであやふやになっていました。それをはっきり呼びさましてくれたのが「自覚のセミナー」でした。

自覚のセミナーでは「本当はどうなんだ」と験べながら、参加者各々の発言の相乗作用も加わって、一つ一つのテーマがさらに深まっていきました。そうしているうちに「このように時間をとって験べていくことを、忘れていたな」と気づきました。整体のセミナーでも同様で、自観法にしても、クンバハカを意識しながら歩くことにしても、“宝物”のように大切なことを教えていただいたのに、生活の中で習慣になっていませんでした。これはなんともったいないことか……これからは日々心がけてやっていこうと思います。

また、願望を持ち、信念を持ち、行動していく上で、その「やり方」がとても大事だということが明確になりました。無意識のうちに従前のやり方に囚われえて、思考停止になってしまう癖があることに、正直、愕然としました。

どんなに「私は自由なんだ!」と気づいても、やっていることが変わらなければ、不自由なままで、自由になったとは到底言えません。心も頭も柔らかくして、関係する人々の意見を聞きながら、何事についても最も有効な方法ですすめていきたいと思います。

世界中の誰もが幸せで平和な社会を実現する最も効果的な方法は、より多くの人に「自覚のセミナー」を受講してもらうことだと、今は素直に思えます。

最終日に自覚のセミナーがこれからも続くことを知り、縁ある人に受講してもらえるように全力を尽くしたいです。特に夫には「今は受講したいと思わない。もし、あなたが本当に変わったら、その時は考えてみるよ」と、自覚のセミナー直後にも言われたので、生き方で示していこうと思います。

昇平先生、奈央先生、恵理佳先生、いつもご指導いただき、本当にありがとうございます。

厳しい状況の中でお世話係を担当してくれた山ちゃん、一緒に自覚のセミナーを受講した“同級生”のみなさん、自覚のセミナーにずっと気をかけてくださっている整体ライフスクールの皆さん、ありがとうございました。これから一緒に世界の平和を創っていきましょう!






自覚のセミナー感想文 EEEさん

自覚のセミナー感想文 EEEさん

今回、自覚のセミナーを開いていただいた昇平先生、恵里佳先生に深くお礼を申し上げます。またセミナーを支えていただいた皆様に感謝を申し上げます。

ますます社会的問題が複雑かつ深刻化している二元相対の世界に生きていると、つい、不可分一体のいのちの現れである自己を見失い、二元相対の頭を持つ自分の世界に足を踏み入れそうになっていることに、ハッと気が付くことがあります。

今回のセミナーでは、なぜ、妄想の世界に足を踏み込みそうになったのかを明らかにしていくことが課題の一つである考えていました。

セミナーの中で、これまで生きてきた妄想の世界から目覚め、真実の存在の世界を知ることができたとしても、自分がどう生きていくかとなると、現実の二元相対の世界に戻る人を多く見かけ、それはなぜなのかを問うています。

そのためにも、昇平先生の一つ一つの質問に対し、自らの生き方が真実に基づいた
生き方に、本当に出来ていたのか、これからも、まごころ丸出しで生きていけるのかを検べ直し、自問自答が続きました。

セッションの中で、「腹が立つ」ことに関してあらためて向き合いました。
その中で、腹が立つと言うことは、ある対象があり、自分の思い通りに行かないと頭が判断した時に湧いてくる感情であることは理解していました。しかし、腹が立つ感情でも人間の心の奥深く刻まれた怒り、憎しみとは、少し異なるものと思っていました。

原発廃止の運動をしている友人の口から、よく「怒りを力にし、運動を進めよう」という言葉が出ていたのを思い出しました。原発事故で家族の命が失しなわれ、家を失い、家族が分断された人達の怒りや憎しみは、言葉では言い表せない心の中から湧き出た感情で、反対運動を進める上で大きな力となるものだという思いもあり、こうした心の底から出てくる感情は、生の人間として当然のこととしていました。

しかし、心の中で、本当にこれで良いのだろうか、もしかしたら、妄想の世界に足を踏み入れているのではと思うようになり検べていきました。

怒り、憎しみの感情も、根本的に腹が立つことと同じで、起きている事実を受け入れることができず、怒り、憎しみが起きている状況の言い訳をしているのに過ぎないのです。

怒り、憎しみの感情は、もともと、人間にはなく、ないものを力にとは、ないものに心を動かされていたのか。自分自身の感情に左右され、事実を見失っている自己があることに改めて深く気が付かされました。

最後に、真の平和の実現のため、あなたは何をしてきましたかの質問に対しては、これまで単に、身近にできることとして、平和に繫がることに関わって、行動し続けることを考えていました。

しかし、妄想と同じことであり、自覚のセミナーを、多くの人が受講し、存在の真実を自覚した人が生まれることこそ、真の平和の実現に繫がる具体的方法であることを深く認識しました。

自覚のセミナーを受講した一人として、多くの人に自覚のセミナーを受講するよう働き掛けるとともに、この行き詰まった世界を乗り越え、真の平和の実現のために具体的方法をセミナーを受講し自覚した人達と伴に考え行動していくことを改めて心に決めました。





自覚セミナーの感想文 DDDさん

自覚セミナーの感想文 DDDさん

この真実、つまり「不可分一体」ということを自分は前から知っていたと、最後の感想の際に述べました。そしてセミナーを受けることで、この真実についてよりはっきりと確信することができた、と。

お茶を頂きながら恵里佳先生に、そのことを聞かれました。どこかで聞いたことのある言葉でしたか?と。そのときはすっきりとした答えが出来なかったので、それについて書きます。

子どものころから知っていました。言葉ではなく体感として、です。セミナーの途中あたりから、そして特に4日目、ある一つのものがそこにあるという事実に関わった人を数えあげるテーマあたりから、強い感動を覚えていました。世界の見え方ががらりと変わって見えてきたのですが、それは強烈な「懐かしさ」でした。かつて私が見ていた景色、すべてが愛おしく感じられる世界でした。

保育園時代、私は自分の使命を泣いている子をにっこりと笑わせることだと発見しました。(後から聞いた話ですが、あるとき保育士の先生は、私が泣いている子をからかっているのかと思ったそうです。しかし泣いている子がだんだん泣き止んで最後に笑ったそうです。いま思うとすぐに介入しないで観察し続けた保育士の判断も素晴らしいと思います。よい保育園だったのだと思います。)

困って苦しんでいる子の苦しみは自分の苦しみそのものでした。どうすればだれもが楽しく誰もが一緒に笑いあえるのかを考えていました。

しかし、それが椅子に座らされて頭だけで考えさせられ、比較され、競わされる世界に放り込まれた時代、つまり小学校あたりから様子が変わってきました。そのころの自分の苦しさは今でもよく覚えています。3年生くらいまで勉強は落ちこぼれで、毎日何か忘れ物、泣き虫のグズでした。グズであることを理由に自分が否定される世界でした。

不可分一体の世界観は誰もの体内に生まれたときから本来備わっているものだと思います。それを忘失していた私が、身に付けてしまった頭でっかちな思考を削ぎ落とされて、本来の感覚に再会して、はたと思った「ああ、懐かしい!」という感想だったのだと思います。そして、私は自分の使命を、これからの私の生きる指針を、再び得ました。より強靭な確信をもって、腹に落とし込んだのです。もう失うことはありません。

昇平先生、恵里佳先生、私の知らないところで準備をしてくださった方たち、そして一緒に受講したみなさん全員に、感謝しています(などという言葉では言い尽くせません)。

そしてこの5日間を私に与えてくれた、妻の存在、そして谷口夫妻に、深く感謝しています(・・・やっぱり、同上です)。

昇平先生が最後、終了時間の迫る中で出された課題「この不可分一体観を広めること」と「そのためにこの自覚セミナーを広めること」、この課題に具体的に取り組むことが、この、言葉で言い尽くせないような感謝の表現になります。





自覚のセミナーの感想文 CCCさん

自覚のセミナーの感想文 CCCさん

シンプルな問いかけに、大きな視点を持って細やかに調べる作業を繰り返し、思い込みを取り払い、宇宙の彼方と内面の奥深くを繋げる体験だったと思います。昇平先生が、長年の経験から築き上げてこられたプログラムに感銘を受けました。

これまで生きてきた中で、自分なりに幾つかの山を超えて、そこから学んできたこともあったはずなのですが、時が経ち、感性が鈍りかけてきた所に、再び生気を与えて頂いた気がします。実は、そのような自分の感性の衰えに、薄々気づいていたからこそ、今回セミナーに参加しようと決めたのだと思います。

例えば、「世界は繋がっている」あるいは「全てのものが私自身」という思いは、これまでもなかったわけではありません。ですが、その思いは、頭の中で空回りするばかりで、肚に落ちていなく、慌ただしい日常生活においては、結局小間切れにされた世界のなかで、物事を判断し行動していたと思います。

昇平先生の問いかけによって、ゲーム感覚で、人や物とのつながりを探って行く場面では、みんなで大笑いしながら、人や物を慈しむ気持ちに導かれていきました。図解してくださった右側と左側の世界の考え方も、明快で分かりやすかったです。

また、受講前に、整体を経験することでこのセミナーの理解度もより深まると聞いておりましたが、身体的感性ももっと鍛えて行きたいという思いも強くなりました。

最後になりましたが、再受講の方や私と同様初めて受講される方、様々なバックグラウンドを持つ方々と、あの場を共有させて頂いたご縁にも、心から感謝いたします。






自覚のセミナーの感想文 BBBさん

自覚のセミナーの感想文 BBBさん

心血を注ぎ、命をかけてくださった自覚のセミナーに参加できましたこと、“感謝”のひと言に尽きます。

目覚めた人になりたいと願いながら、なかなか出来ずにいた私が、再受講の機会を得て、目覚めることができました。
いのちの世界 不可分一体の世界しかない、私は真実にそって真心で生きるのみ!ということが、やっとわかりました。

今まで バラバラ観から脱せず、アタマでやりくりしていた私。
先生から与えられたテーマを、先生の言葉通りに丁寧に検べていきました。1つ目のテーマ、そして2つ目、産みの苦しみではないですが、そのくらい検べました。ハッ!と真実がわかった途端、腹の底からひっくり返ったようでした。

テーマが進むごとに、私の生き方はこれだ!これしかない!と、腹の奥から噴火のように 決意が湧き上がってきました。
私は自由だ!どの道でも進んでいくことができる!そして、全ての人、生きとし生けるものたちを愛しながら生きていこう!その愛する人、もの達のこれからの幸せのために、全力で生きていこうと決めました。

自覚セミナーの再受講ができましたことを、とてもありがたく思います。
1回目の自覚セミナーで、(アタマだけの理解でしたが)先生の目指す世界を 共に目指したいという思いだけは芽生えたのです。

その後、アタマだけで生きている私を、整体セミナーでのお話、瞑想法の指導、ブログを通して、辛抱強く導いてくださった先生のお陰です。
奈央先生の整体セミナーに出ることで、どんどん身体が変わっていき、それと共に心のあり方もどんどん良い方に向かっていくことができました。根気強く導いてくださった奈央先生のお陰です。整体セミナー無しでは、今の私はなかったでしょう。

帰宅してもなお、このセミナーが実に楽しかったなあと、思い返しています。
様々な方たちが、それぞれの人生を持って参加されているので、色々な考えを出し合って深め合えて、まるで白熱教室だ!と感動しました。

皆さんの一つひとつの意見によって、私は気付くことができたり、更に深く検べ直すことができたり、また全く異なる角度から検べられたりできました。時がたつのも忘れる程、おもしろかったです。もっとこのセミナーが続けばいいなあと思っていました。

是非、この仲間、こういう仲間と、ネホサ運動を広めるために、一緒に歩んでいきたいです。
皆さん、歩んでいきましょう!


昇平先生、奈央先生、恵理佳先生、本当にありがとうございました。

お世話役の山田さん、博さん、準備や片付け等支えてくださった皆さん、差し入れなど陰から応援してくださった皆さん、ありがとうございました。

最後に、このセミナーに参加できるようにしてくれた わがおっとに感謝します。





自覚のセミナー感想文 AAAさん

 自覚のセミナー感想文 AAAさん

自覚のセミナーに参加させていただきありがとうございました。

腐っている自分から、ネズミ取りに囚われている自分から、素直になれない自分から、中途半端な自分から、脱却しなきゃと参加させてもらいました。

自覚のセミナーを終えてなんでこんなことができないのか! 申し訳ないという気持ちでいっぱいです。

でも、世界は、変わっていける。

真の幸福を実現するため自覚のセミナーをより多くの人に受けてもらわなければならないと感じました。

この一歩が、平和な世界に繋がっていくんだという思いです。

ずっと自分が嫌いで出来ない自分と思い込んでいました。

何をするのか、なにができるのか、やっていかないとダメなのです。





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自覚のセミナーの感想文について

自覚のセミナーの感想文について

次回から順次11月に開いた自覚のセミナーの感想文を掲載します。

なお、名前はすべて匿名にしてあります。

また、セミナーの具体的なテーマ について具体的な感想を記述した箇所があれば、今後自覚のセミナーに参加する可能性がある方々に先入観を与えないように、削除または意味を損なわない範囲で書き換えてあることをご了解ください。




不生

不生

盤珪禅師は「親が産み付けたのは不生の仏心ひとつである。仏心は不生にして麗明なものである。だから、不生の仏心で一切の事が整うのである。一切の迷いは身のひいきから生じる。迷わないのが悟りである。だから、常に不生の仏心ひとつでいなさい」と説いています。

盤珪禅師の言う「不生」とはどういう意味か、僕は本人ではないので、これと断定はできないのですが、以下、僕なりに推測したものです。

「不生」と言うと、まず、「不生不滅」という言葉が思い浮かびます。盤珪禅師は「不生」、つまり、「生まれないもの」は滅することはないのだから、わざわざ、「不滅」と付け加える必要はないと言っています。

ということは、「不生」とは「不生不滅」を略して言っているのだということになりますが、僕にはそれだけが盤珪禅師が使った「不生」の意味ではないように思えるのです。

盤珪禅師は「この世界は不生が顕現したものである。つまり、この世界の本質は不生である。すなわち、この世界は現象界(生まれたもの)である。それに対して、この世界の本質は不生(生まれないもの)である」と言っているのでしょう。

さらに、付け加えれば、「この世界(現象界)においては、一見、それぞれのものが生滅(生まれたり滅したり)しているように見えます。それに対して、この世界の本質は不生不滅である」ということなのでしょう。

ただ、「不生不滅」と言うと、生滅する世界が顕現した後で、生滅を否定しているような感覚として捉えられかねないので、「この世界が顕現する“以前”の何もないもの」という意味をはっきり伝えるために「不生不滅」ではなく、あえて、「不生」という端的な言葉を使ったのだと僕には思われます。

盤珪禅師の言うように、存在の真実を本当に悟りもしないで、“不生不滅”という言葉だけを覚えて、分かった風に「不生不滅、不生不滅」と言ったり、理解されることを避けたかったということも確かにあるのでしょう。

この現象界においてはすべての存在は私たちの五感と大脳(アタマ)を通して認識すると、一見、すべてのものがバラバラに存在し、生滅しているように見えます。しかしながら、この世界の本質は不生であり、その働きによってこの世界が存在しているのです。つまり、この世界はバラバラなものが寄り集まってできたのではなく、不生不滅の不可分一体の世界なのです。

ですから、この不可分一体の世界は、人間のアタマの錯覚や妄想で作りだしたものを除いて、麗明な不生のハタラキによってすべてが互いに調和して自ずから整っているといます。

「不生の仏心」についてもまったく同じです。私たちひとり一人の本質は不生の仏心だけなのです。体、知識や知恵、マイナス感情などその他のものはすべて後天的に身に付けたものでしかありません。ですから、不生の仏心で自分も、周りも、一切のことが自ずと整うようになっているのです。

本当の自分はこの世界を在らしめている不生ですから、何が起こっても決して変わることはありません。だから、何も心配することはないのです。





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