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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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星の王子さまアレコレ その3

星の王子さまアレコレ その3
(その2のつづき)

王子さまは王様に「それで、僕の夕日はどうなるの?」と尋ねます。

王様は答えます。「もちろん夕日を見ることが出来る。わしがそのように命令するのだから。でも、ちょっと待ちなさい。何でも条件が整うまで待つというのがわしの統治のコツなのじゃ。」

王子さまが尋ねます。「条件が整うって、いつ?」

すると、王様は分厚い暦の本を調べて答えます。「う~んと、それは今日の夕方の7時40分じゃ。その時になれば、わしの命令がいかにちゃんと従われるかがお前にわかるであろう。」

王子さまは急に興味がなくなり、再び旅に出ようとします。

すると、王様が「待ちなさい。お前を法務大臣に任命しよう。」と言います。

王子さまは尋ねます。「でも、法務大臣って言ったって、一体誰を裁くの? この小さな星には他に誰もいないじゃないですか」

王様は答えます。「この星のどこかで時々ゴソゴソと音がする。きっと年取ったネズミがいるはずだから、それを裁けばよいだろう。」

それに対して、王子さまは答えます。「僕は他の者を裁くのなんかイヤです。」

すると王様が言います。「では、自分自身を裁けばよいだろう。それが一番難しいのだ。他の者を裁くよりもずっと難しい。自分自身をきちんと裁くことが出来たら、お前は本当の賢者になるであろう。」

*** この部分はまったく王様の言う通りです。私たちは他の人のことはしょっちゅうアレコレと厳しく批判する傾向があるのではないでしょうか。そのくせ、自分自身のこととなるとどこまでも甘いのです。

このような心境の根底に一体何があるのでしょうか? それは、結局、どこまでも身びいきで、自分さえよければというバラバラ観・ケチな根性の極致ではないでしょうか?

他人事ではないのです。このブログを書きながら、あらためて、僕自身大いに心しなければならないと感じています。

ところが、反対に、病的なほど自分のことばかり責めている人もいます。これも大きな問題なのです。実は、注意深くその深層心理を洞察してみると、何と!実は、それは自分自身を責めることによって、逆に、自分自身の心の安定を得ようとする、じつに、むなしい努力の姿なのです。

しかしながら、こういう心理もバラバラ観から生じていることが分かります。要するに、自分と他人の違いを意識しすぎて、それだからこそ、自分自身を大切にしようという過剰な思い、つまり、ケチな根性がそのような心理を生み出しているのだと推察されるのです。

でも、そこから脱却するには、自然全人みな一体という存在の真実に気がついて、そのままの不生でいればよいのです。


ついに、王子さまは、王様が「待ちなさい」と止めるのを振り切って旅に飛び立ちます。

その姿を見た王様が急いで大声で叫びます。「お前をわしの大使に任命する!」

星空の旅をつづけながら、王子さまは自分自身に何回も何回もつぶやきます。

「大人って、本当に奇妙だなあ!」

*** 大人も昔はみんな子どもだったのです。その時は、みんな素直で無邪気な子どもでした。もともと不生で生きていたのです。だから、大人になっても不生で生きることは簡単なのです。





星の王子さまアレコレ その2

星の王子さまアレコレ その2

星の王子さまの住んでいた星は小惑星がたくさん散らばっている宇宙空間の中にありました。大きさは小さな家くらいのほんとに小さな星です。その小さな星には、王子さまの家と、かまどとして使っている小さな2つの活火山と、テーブル代わりに使っている1つの休火山と、わずかな草と、目に見えない草の小さな種と、花びらが一重のちいさな数本の花と数匹の毛虫がいるだけでした。

ある時、どこからか種が飛んできたのでしょう、小さな芽が出てきました。その芽は見る見るうちに成長し小さな木になりました。そして、やがて美しい花をつけ始め、ある朝いくつもの花びらをつけた美しい花が開きました。

でも、その花の虚栄心が強すぎたためか、王子さまは何となくその花と気まずくなってしまい、ついには星空の旅に出かけたのです。それはいろいろな星を訪問して、仕事を見つけて、自分自身を成長させたいと思ったからです。

王子さまが最初に尋ねたのは一人の王様が住んでいるだけの小さな小さな星でした。この王様にとっては王子さまも含めてすべての人間は家来でした。王様は王子さまに言います。

家来はあくび一つするにも勝手にやってはいけない。わしに質問するにもかならず。まずわしに許可を求め、それからわしが「質問せよ」と命令してはじめて質問できるのだ。要するに、家来はすべてわしの命令に従わなければならないのだ。なぜなら、わしはこの世界のすべてを支配しているからだ。この世界のすべてはわしの命令通りに動いている。わしは絶対の支配者なのだから。

王子さまは「すごい!」と感心しました。そして、「では、夕日を見せてください。できますか?」と王様に尋ねます。

王様は「もちろん、できるに決まっている。この世界のすべてはわしの命令通りに動いているのだから。ただ、今はちょっとまずい」と答えます。

星の王子さまは不思議に思って尋ねます。「どうしてですか? 王様は何でも命令通りにできるのでしょう?」

王様は「その通りだ」と答えます。そして、問いかけます。「もし、わしが人間にチョウチョウみたいに花から花へと飛び回れとか、海の鳥になれと命令したとする。その人間が命令通りにしなかったとしたら、その人間とわしのどちらが間違っているのだろうか?」

王子さまは「それは王様でしょう」ときっぱりと答えました。

王様は答えます。「その通り。人にはその人のできることを要求しなければならない。権力は道理の上になければならない。わしは道理にかなうことだけを命令する。だからこそ、わしはみんなを命令に服従させる権利があるのである。」

*** 王様の言うことは、ちょっと考えると変な感じもあるかもしれませんが、よくよく考えてみると、なかなか道理にかなっていると思いませんか?

この社会は、王様に限らず権力を握っている人たちが、道理に外れたことを人々に命令したり強要して、実に不安定な社会となっています。

王様は「権力者が道理に外れたことをすれば革命が起きてしまう」と言っています。その通りです。私たちは今こそ本当に道理・存在の真実に沿った社会を平和的に創造していかなければならないのです。

(つづく)





星の王子さまアレコレ その1

星の王子さまアレコレ その1

読まれた方も多いと思いますが、『星の王子さま』はフランスのサン・テクジュペリが書いた童話です。

彼は「子どもたちにはすまないが、私はこの童話を子どもだったころの私の一番の親友である一人の大人にささげたい。大人は誰でも初めは子どもだったのだ。」と言っています。

「大人は誰でも初めは子どもだった」。とても意味深い表現ではありませんか。僕は、彼はこの童話を子どもたちよりも大人の人にぜひ読んでほしかったのだと思います。

僕は若い頃からこの童話が大好きで折に触れては読み返してきましたが、昨年の12月にロマンス語系統の各国語を同時にブラッシュアップをしようと、まずこの童話のある章をフランス語で読み、続いて同じ章をスペイン語で読み、さらに同じ章をイタリア語で読むというやり方で、この童話を1章ずつ最後の章まで読み進めるということを試みました。

今回、この童話について何か書きたいと思ったのは、同じところを繰り返し読んでいるうちに、作者の言いたいことが以前に比べて格段に深く感得される体験をしたからです。そして、あらためて、みなさんにとっても存在の真実をより深く理解するためにこの童話を深く読み解いていくことがとても有効ではないかと思ったからです。

次回から何回かに分けて、僕がその時々に面白そうだと思う箇所を意味を損なわない範囲で大まかに訳した後で、思いついたことをアレコレ書いていくつもりです。もしこの童話を全部通して読んでみたいという方は、たとえば、岩波少年文庫の『星の王子さま』 サン・テクジュペリ作 内藤 濯訳 を購入されてはどうでしょうか。

作者のサン・テクジュペリは作家であると同時にパイロットでもあったようです。物語は一人のパイロットが操縦する飛行機が人里から何千キロも離れたサハラ砂漠の真ん中に不時着するところから始まっています。

パイロットはケガもなく無事だったのですが、飛行機は故障して、そのままでは再び飛び立つことはできません。しかし、乗員は他には誰もいなかったので、たった一人で壊れた飛行機を修理しなければなりませんでした。

パイロットは途方にくれていましたが、やるしかないのです。それはまさに命に関わることでした。

その時、突然「ヒツジの絵を描いてよ」という声が聞こえたのです。「エッ!?」と思わず振り返るとそこに小さな子どもが立っていたのです。人里から何千キロも離れた砂漠のど真ん中です。まさに驚きとともに、不思議で幻想的な雰囲気がゾクゾクと伝わってきますね。

それがパイロットが星の王子さまと初めての出会った瞬間でした。

このように、『星の王子さま』はその全編がいい意味で実に巧みに構成されて、存在の真実を深く追求せざるをえないような仕組みになっています。

実は、この童話を書き終わった数か月後に、サン・テクジュペリ自身が操縦する飛行機が地中海上空で行方不明になってしまいました。一体何があったというのでしょうか。彼の人生はすべて何か不思議さに満ちていたようです。

いずれにしても、『星の王子さま』は私たち大人すべてへ残したサン・テクジュペリの遺言であると僕には思われるのです。





自己と世界

自己と世界

突然ですが、宇宙の中心はどこにあるのでしょうか?

現在の宇宙物理学では、宇宙の中心はどこにあるかは言えないというのが大体の考えのようです。

でも、それは、いわゆる、“客観的な”考え方です。つまり、自分を含めていろいろなものが存在している宇宙という一つの世界、というか、舞台のようなものを想定して、その舞台の中心はどこであるかと考えているのです。ついでに言えば、自分を含めていろいろなものがそれぞれその舞台のどこに位置しているかを考えるというわけです。

一方、“主観的な”考え方は、要するに、自分がどう思うかということです。ですから、自分が舞台の中心は、たとえば、舞台の中にあるあの松の木の幹の中心だと思えば、そこが舞台の中心であるということであり、舞台の中にあるイスが中心だと思えば、そこが舞台の中心であるということです。

こう考えてみると、主観的な考え方は客観的な考え方に比べると普遍性がないような感じがするのは事実です。実際に、日常的にも、「それは君の主観的な考え方であり、客観性がないよ」などという場面に出会うことが結構あるのではないでしょうか?要するに、主観的な考え方は、単なる“思い“にすぎなく、事実そのものではないということなのでしょう。

では、客観的な考え方は事実そのものに立脚していると言えるのでしょうか? つまり、客観的な考え方だからと言って、その考え方が果たして事実そのものを正しく述べていると言えるのでしょうか? 

たとえば、昔の人は太陽が地球の周りの廻っていると考えていました。昔はそれが、いわば、客観的な考えだと思われていたのです。でも、現代ではその考えは間違っていることが分かっています。バラバラ観も間違った考え方の一つです。けれども、現代でもほとんどの人がその考え方を客観的な事実だと勘違いしています。

このように考えてくると、主観的考え方でも客観的考え方でも必ずしも事実を正しく表すことはできるとは言えないようです。

実は、ここまでが今回のブログの前置きです。僕はこの自分というものと自分が生きる世界とを二つに分けてはいません。ひとつしかないのです。どういうことかと言うと、ここに確かに自分がいるのですが、その自分が、すべての存在を含んで、ずっと世界中、宇宙の果てまで(宇宙に果てがあるのかわかりませんが)繋がっているのです。

俺の世界は俺の周囲を廻る
俺は此処にいる
動かない

これは野口整体の創始者である野口晴哉先生の言葉です。“俺”と“世界”の二つに分かれているのではありません。“俺”と“俺の世界”、つまり、すべて“俺”なのです。

尽十方世界は是れ沙門の全身
(全宇宙が道を修める自己の全身である)

これは昔の中国の長沙景岑禅師の言葉です。何だか大きな悟りを開かなければ分からないような深遠な境地と思われるかもしれませんが、これこそ主観・客観を超えた僕の実感とまったく同じです。

でも、この存在の真実に気がつくのは決して難しいことではありません。誰でも先入観なしに静かに自分とその周りを見回してみれば、自分がこの世界の果てまで広がっているのを容易に感じることができるのです。

本当に誰でも天上天下唯我独尊の存在なのです。





不生で生きる

不生で生きる

盤珪禅師は「親が産み付けたものは、不生の仏心だけである。その不生で一切が整う。だから、とにかく不生でいなさい」と言っています。

「不生」とは “いのち“と同じ意味であり、この世界を顕現し、この世界のすべてを調和し整えるように働いている根源的な力のことです。

では、実際に、不生で生きるということはどういうことでしょうか? タバコ図に似た“世界図”を使って分かりやすく説明してみましょう。

世界図の右側の世界は二元相対的にしか思考することのできないアタマによって認識したバラバラ観に基づいて構築された対立・競争の(タバコ図で言えば、タバコは必要だ。本音でタバコを吸いたいという)世界です。この右側の世界では大まかに3つの道に分かれています。

右側の右は“自分(たち)さえよければ”という思いで生きる道(タバコ図で言えば、“タバコを吸いたいから吸う”という喫煙の道)です。そして、右側の左は“自分(たち)さえよければ”という思いを精神力で抑えながら生きる、言わば、道徳的に生きる道(タバコ図で言えば、“タバコを吸いたいのだがガマンしよう”という禁煙の道)です。そして、その中間で生きる道(タバコ図で言えば、節煙の道)があります。

これに対して、世界図の左側の世界は本来の一元絶対の不可分一体の真実に基づいた非対立・調和の(タバコ図で言えば、“タバコは必要ない。本音でタバコは吸いたくない。だから吸わない”という)世界です。これが“いのち“(不生)が顕現し展開するあるがままの世界です。

「不生(の仏心)で生きる」ということは、世界図の左側の不可分一体、非対立・調和の世界で生きるということです。より具体的に言えば、どんな状況にあっても、本来のありのまま心のままに、不可分一体、非対立・調和の心で生きるということです。

「難しそうだな」と思う人もいるでしょうが、真実は不生の仏心こそが私たちの本来の心なのですから、誰にでもできるもっとも簡単で楽な生き方なのです。

つい身びいきで右側の対立感情(迷い)が出てきても、これではダメだと思ったり、何とかしようなどと相手にしなければよいのです。対立感情が出ても放っておけば、そのうちに消えてしまいます。決して、意志の力で抑えつけようとしたり、コントロールしようとは思わないことです。それでは、いつの間にか世界図の右側の左、つまり、ガマンの禁煙と同じく心と心が格闘することになってしまいます。その結果、自分の本体である不生の仏心を見失ってしまいます。だから、そんな思いは放っておいて、ただ不生の仏心でいればよいのです。

不生の仏心が真実の自己なのです。それは全宇宙とぶっ続きです。だから、自分が不生の仏心でいることで一切が整うようになっているのです。

不生の仏心が発動したものが生きとし生けるものに対する親愛の情・真心です。ですから、真心丸出しで生きていくことこそが自分自身にも周りの人にも全世界の生きとし生けるものにも真の幸福をもたらすのです。

ノンスモーカーは、タバコに関するかぎり、努力することもなく不生で生きています。このように、不生で生きるには、ただ不生でいればよいのです。




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