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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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自分は完璧である その1

自分は完璧である その1

もし、「自分とは何か?」と問われたら、あなたはどう答えますか?

名前や性別や年齢を言ってみても、〇△国人、人間などと言ってみても、あるいは、 “いのち”、“エネルギー”、“大いなる存在”などと抽象的に答えてみても、それらはすべて“自分”という実物の上に貼ったラベルにすぎず、実物そのものではありません。

このラベルを貼ること、つまり、外的規定はアタマを通して抽象化した概念を言葉で表したものであって、どこまでいっても、実物そのものをそっくり捉えて「こうだ」と言うことはできないのです。結局は、自分という実物そのものを何か言葉で表現しようとすると、すべて外れてしまうということです。

ですから、たとえば、あの人は優れている、あるいは、劣っていると言っても、それはその価値を外から勝手に作ったモノサシを勝手に当てはめて測っている外的な比較・評価、すなわち、外的規定にすぎず、その中身、つまり、実物そのものはどんな規定をも超越しています。

それは人間だけに限りません。その他の動物や植物などの生物、そして、無生物も、すべての存在は如何なるモノサシ・外的規定・相対的評価・世俗的評価・個人的評価などをも超えた絶対的価値を備えた完璧な存在なのです。

この世界のすべての存在は不生の“いのち“が顕現したものであり、大宇宙の星々の運行や大自然の循環・調和に見られるとおりに霊明そのものです。ところが、例えば、ほとんどの大人はこの世界には優劣というものがあると思い込んでいます。そのために、いつも自分を他の人と比べて、劣っている、優れていると思いながら生きています。他よりも劣っていると感じれば、いつもオドオドしながら生きていくことになります。一方、他よりも優れていると思っていい気になっているかもしれませんが、その分だけ他の人を蔑んでいるわけですから、これも困ったものです。

でも、真実は、この世界のどこにも優劣というものはありません。優劣というものは人間が勝手に作った観念にすぎません。その証拠に、たとえば、大宇宙や大自然に優劣はありません。

人間は成長するにしたがって、周りとの兼ね合いでアタマのなかに作りあげたいろいろなモノサシによって規定したものを自分だと思い込むようになります。つまり、いろいろな外的規定を着物のように身にまとい、その着物を自分だと思い込んでしまうのです。

でも、着物は自分ではありません! どんなにきらびやかな着物を身にまとっても、自分の本体はどこまでも裸なのです。人間は誰でも裸で生まれ、裸で生き、裸で死んでいくのです。この裸であるからこそ、自分というものは優劣その他のすべての世俗的そして個人的な評価や比較を超越した絶対的な価値があり完璧であるということです。

その絶対的価値、あるいは、完璧さは何ものによっても絶対に侵されることはありません。
つまり、自分という存在は、世間の人がどう思おうとも、また、自分自身がどう思おうとも、心身の能力がどうであれ、どんな姿で生きていても、どんな死に方をするにしても、、それらをすべて超越した絶対的な価値を備えた完璧な存在なのです。

(つづく)





悟りの心境

悟りの心境

長い間、存在の真実を求めに求めて悩んでいる時は、ちょうどモグラのように、真っ暗なジメジメした地中で出口を見つけようと懸命に穴を掘り続けながら生きているようなものですから、心は陰鬱な状態がずっと続いています。ところが突然その答えがはっきりしたときには、モノクロの世界が突然オールカラーの世界に転じたような気持ちで、何を見てもすべてが明るく輝き、心はただただ喜びに満ちています。

それは、長年無実の罪で閉じ込められていた陰鬱で暗くジメジメした牢獄の扉が突然崩壊し、明るい外の世界に出られた人の気持ちとよく似ているのかもしれません。

しかし、その気持ちがいつまでも続くわけではありません。もちろん、記憶としてはずーっと鮮やかに残るのでしょうが、存在の真実を発見した感激はしだいに薄れていくのです。でも、それは何かムナシクなるというわけではありません。心はいつも静かで騒がないのです。でも、それはボーッとしているのではありません。また、心が騒ぐのをじっと抑制することでもありません。ましてや、何かがあった時に、無関心を装ったり、その事態を見ないように眼をつぶっていることでもありません。それが不生の仏心でいるということです。

心がいつも静かである、ということについて、野口晴哉先生は次のように言われています。

「悲しければ、悲しむ。
嬉しければ、喜ぶ。
困れば悩むもよし。
面白ければ笑うがよし。

“べし”も“べからず”も設けず、自ずから心がスラスラ働いて、何処にも引っかからず、留まらざるが、これ即ち静かなる也。」

このように、何があっても、心がすっきりしていて、穏やかで安らいでいるのです。何かの折にはふっと笑みがこぼれることもあるでしょう。

そう言われても、感覚的によく分からないという人もいると思いますが、私たちは日常生活の中で部分的にはしょっちゅう体験しているのです。

たとえば、スモーカーはタバコが吸えないとソワソワ、イライラし、時にはパニック状態にさえなります。これではとても悟りの中、すなわち、不生で生きているとは言えません。

ところが、ノンスモーカーはタバコが吸えなくても、タバコに対してはいつもすっきり穏やかで安らいでいます。(スモーカーでもヘロインの注射を打たない人はヘロインに対してはいつもすっきり穏やかで安らいでいます。)

ノンスモーカーはタバコに関しては悟っている人です。スモーカーはタバコに関しては迷っている人です。

悟りは探し求めるものではありません。タバコやヘロインでわかるように、人はもともと存在の真実の中に生きています。ところが、アタマのせいで、いつの間にかその真実を見失ってしまうのです。真実を見失っていたことに気づいて、その後、不生でいることが悟りです。

不生でいれば、心がいつも静かで騒がないので、まず自分自身がすっきりと安らいで整っています。そして、その不生で周りに接していくので、周りもすべて整っていきます。本来、この世界はそのようにできているのです。

以下は和田重正先生の言葉です。深く味わいたいものです。

「いのちの世界では たのしみの中にも 苦しみのなかにも 悦びがある。」





不生の証拠

不生の証拠

盤珪禅師は「親が産み付けたのは不生の仏心だけである」と言っています。今回はその真意について考えてみましょう。

自分というものは体と心からできていると言えるかもしれません。しかし、誰でも体はどんなものかということは分かると思いますが、心とは何かとなると、分かったようで分からないような感じがするのではないでしょうか。たとえば、思考、欲望、知識、感情などなどは心の一部なのでしょうか、それとも、心のハタラキ、さらには、アタマのハタラキと言った方がよいのでしょうか。専門的にはどうなっているのかよく知りませんが、本来、その区別にはっきりしたものがないような気もします。

盤珪禅師の前述の言葉の意味は「自分というものの本体は不生の仏心一つである」ということでしょう。ということは、体や心のハタラキやアタマのハタラキなどは自分の本体である先天的な不生の仏心が作り出した後天的なものであるということです。

盤珪禅師はさらに「不生は霊明であり、不生で一切が整う」と言っています。存在の真実は一元絶対・不可分一体であり、本来、すべての存在は互いに調和して循環すると同時に自ら整うようにできています。その好例は大宇宙の星々の運行であり、互いに調和し循環し自ら整っている大自然の姿です。さらには、私たちの体です。体はまさに霊明なる不生の仏心が作り出したものであり、一切を整える不生の仏心に沿って、もともと自ら整うようにできています。

しかしながら、私たちが後天的に身に付けたアタマは二元相対的にしか思考することができません。そのために、この世界をバラバラなものの寄せ集めと認識します。そのバラバラ観から身びいきが生まれ、優劣観、所有観、差別観などを持つようになります。

それらの考え方は心にまで影響を及ぼします。心自体が自分さえよければという自己中心的でケチな根性に支配され、同時に、対立感、好き嫌い、怒り、異常な悲しみ、心配、不安、落ち込み感などのマイナス感情、さらには、支配欲、金銭欲などが生まれます。

ですから、盤珪禅師は「いつも不生の仏心でいなさい。そうすればすべてが整うのです」と言うのです。不生の仏心そのものは無色透明清浄であり、”空“とも言えるのですが、それがそのまま心のハタラキとなって現れた真心に素直に沿って生きればよいということです。

たとえば、あなたは人と仲良くしたいですか? 喧嘩して楽しいですか? 腹を立てて嬉しいですか? いつも明るい気持ちで爽やかに生きたいですか? それとも、暗い気持ちで生きたいですか? 何かあったらずっと惨めな気持ちでいたいですか? 自分だけよかったら楽しいですか? 困っている人がいても何もしないで放っておきたいですか? 小さな子どもが転んで泣いていたら、すぐに抱き起こしてやりたいですか? 素直に生きたいですか? それとも、ひねくれていたいですか?

あなたは自分の本来の心をすでに本能的に知っています。長い年月厳しい修行をすることもなく、誰でもみんな不生の仏心がハタラキとして現れた真実の生き方をすでに本能として知っているのです。

つまり、あなたはすでに悟っています。それが不生の証拠です。





星の王子さまアレコレ 特別篇

星の王子さまアレコレ 特別篇

ここまで、サンテグジュペリが『星の王子さま』で私たちに伝えたかったと思われることを僕なりの解釈、というか、感想とともに書いてきました。今回は、”死“について、サンテグジュペリが書いている”抜け殻”という言葉を手掛かりにして、異論があることを充分承知のうえで、僕自身がどう思っているかということを書いてみたいと思います。


星の王子さまは自分の星に帰っていくために、明け方まだ暗い時に僕が気づかないうちに歩き出していました。私がやっと追いついた時、王子さまは僕の手を取って、困った様子で次のように言いました。

君は来なかったほうがよかったんだ。君は苦しむだろう。僕は死んでしまったように見えるだろう。でも、本当はそうじゃないんだ。
(僕は何も言えませんでした。)
僕の星はとても遠いんだ。この体を持っては行けない。重すぎるから。
(僕は何も言えませんでした。)
でも、体は古くなった”抜け殻”のようなものなんだ。だから悲しいことなんかないんだよ。
(僕は何も言えませんでした。)
・・・ このまま一人で行かせてよ。・・・ 僕はバラの花に責任があるんだ。・・・ じゃあね。

王子さまはしばらくぐずぐずしていましたが、立ち上がって一足歩きました。その瞬間、王子さまの足首のそばで黄色い光がキラッと光りました。王子さまは少しの間声一つ立てず、身動きひとつしませんでした。そして、1本の木が倒れるようにゆっくりと音もなく砂の上に倒れました。

夜がすっかり明けた後、その場所に戻ってみました。僕は王子さまが自分の星に戻ったことが分かりました。そこに王子さまの体はありませんでした。王子さまの体はそんなに重くはなかったのでしょう・・・。


*****
以下は僕が死について思っていることの一面です。

自分自身の本体はこの世界のすべてを在らしめている宇宙意識(“いのち“)と同質のものです。しかしながら、それが、自分という個としての意識(自意識)を保ったままの一つの魂(たましい)なのか、個としての自意識を持たない一つの魂なのか、あるいは、自意識のまったくない宇宙意識(“いのち“)そのものなのか、ということについては、多分、死んでみないと分からないことなのではないかと思っています。

いずれにしても、僕は、自分自身の本体は“いのち“そのものであり、この身体(からだ)ではない、この体は現象の世界で生きていくために身にまとう着物のようなものだと思っています。

つまり、僕は、死ぬということは、この着物を脱いで眼に見えない、心にしか見えない姿で生きていく、いわば、脱皮するということだと思っているのです。

人間は昆虫と同じように脱皮することによって成長し続けていくのです。その時この体は、もはや、ただの抜け殻にすぎません。でも、本体はいつまでもずっと生き続けていきます。

どんな死であっても、死は永遠である存在の一つの脱皮であり、一つの成長であり、一つの卒業なのです。

“卒業”というのは、どんな死であっても、たとえ、私たち凡人には悲惨なものとしか見えなくても、宇宙大の視点で見れば、その姿で生きる役目を充分に果たしたということです。





星の王子さまアレコレ  その15

星の王子さまアレコレ  その15

「あのね。僕の花に・・・僕は世話をする務めがあるんだよ。とてもひ弱なんだよ。とても無邪気なんだよ。この世界のすべてから自分を守るためにちっぽけな4つのトゲしか持たないんだ・・・ じゃあ僕は行くよ。」

王子さまはしばらくぐずぐずしていましたが、やがて、立ち上がって、一足歩きました。僕はうごけませんでした。
王子さまの足首のそばには、黄色い光がキラッと光っただけでした。王子さまは少しの間声一つ立てず、身動きひとつしませんでした。そして、まるで1本の木が倒れるように、静かに倒れました。一面が砂で音ひとつしませんでした。

これが星の王子さまとの別れでした。王子さまが自分の星に帰って行ったことは確かです。なぜなら、夜が明けた時にはどこにもあの体がなかったからです。

僕は夜になると、空に光っている星に耳を澄ますのが好きです。それはまるで5億の鈴が鳴っているかのようです。

僕は夜空を見上げるたびに、王子さまの星の上ではどんなことが起こっているだろうか? ヒツジが花を食べてしまったかもしれない、などと考えるのです。

でも、次の時には、そんなことがあるものか。きっと王子さまが花に覆いを掛けて、ヒツジがこないように見張っているから大丈夫だ、などと考えます。そうするとホッと安心するのです。そして、空の星がみんな楽しそうに笑うのです。

でも、別の日には、王子さまだってうっかりすることもあるだろう。覆いのガラスをかけるのを忘れたか、あるいは、ヒツジが夜こっそり外に出て・・・そうしたらお終いだ。そうすると、鈴がみんな涙になってしまいます。

王子さまを愛している君たちにとっても、そして、僕にとっても、この宇宙のどこかで、僕らが知りもしない1頭のヒツジが1本のバラの花を食べたか、食べないかによって、この宇宙のすべてが変わってしまうのです。それはまさにミステリーです。

空を見てごらんなさい。そして、そのヒツジはその花を食べたのだろうか? それとも、食べなかったのだろうか? と問いかけてごらんなさい。そうすれば、この世界のすべてがどんなに変わって見えるかがわかるでしょう。

でも、大人の人は誰もそれがどんなに大切なことであるかが決して分からないのです。

*****

これで『星の王子さま』のお話は終わりです。ただし、本としては、です。
僕は今のこの瞬間からがこの物語の始まりだと思うのです。主人公はあなたです。

この最終回には僕の感想はありません。もう必要ないと思うからです。
僕がこのシリーズでいろいろ書いてきたことは忘れてください。そして、ぜひ、あなた自身が『星の王子さま』の本を(持っていない方は手に入れて)あなたのアタマでああだこうだと考えるのではなく、あなたの心とこの本を対話させながら読んでいただければと思います。

最後に、このシリーズでは、訳に関しては必ずしも原文に忠実というわけではありませんでした。また、取り上げた箇所もそれほど吟味して選んだわけでもないことをご承知いただければ大変幸いです。





星の王子さまアレコレ その14

星の王子さまアレコレ その14

「星があんなに美しいのも、その中に眼に見えない花があるからなんだよ」

「砂漠がこんなに美しいのも、どこかに井戸を秘めているからだよ」

これは砂漠で出会ったパイロットの”私“に、ふと、王子さまがつぶやいた言葉です。

とても美しい言葉です。

「心で見なくっちゃものごとはよく見えないということさ。一番大切なことは目に見えないんだよ」

私は王子さまを腕に抱えて砂漠を歩いていきました。そして、眠ってしまった王子さまの青白い顔を見ながら思うのです。
「今こうして目の前に見ているのは、人間の外側だけだ。一番大切なものは目に見えないのだ。この王子さまの寝ている顔を見ると、僕は涙が出るほど嬉しくなる。それは王子さまがいつまでも一輪の花を忘れないでいるからだ。眠っている間もバラの花が王子さまの心の中でランプの灯のように光っているからなのだ」

王子さまは私が苦労して井戸からくみ上げた水を美味しそうに飲んで、私に言います。
「君のところでは、人々が一つの庭に5000本のバラを育てている。でも、自分たちが本当に探しているものは見つからないんだ。探しているものは1本のバラの中にだって、ほんの少しの水の中にだってあるんだけどなあ。でも、眼には見えないんだ。心で探さなくっちゃダメなんだよ」

*****

サンテグジュペリはこの本の中で一貫して私たちに物事の本質を見るように促します。物事の本質というのはこの世界の本質のことであり、それは自己の本質のことでもあります。


王子さまはこの地球に来てちょうど1年目の夜、王子さまの星が頭の真上に来る時に、ヘビの不思議な力に助けてもらって、自分の星に帰ることにしていました。その前日のことです。王子さまは言います。
「大切なことは目に見えないんだよ。花だっておなじだよ。どこかの星に君が大好きな花があれば、夜空を見るのがとても楽しいよ。どの星も花でいっぱいだからね」

「夜になったら星を眺めてくれよ。僕の星はとても小さいから、君にどこにあるか教えてやれないけど、それがかえっていいんだ。だって、君は僕の星が夜空のたくさんの星のなかのどれかだと思って見るだろう。そうすれば夜空を見るのが好きになるよ。星がみんな君の友達になるんだからね」

「人間はみんなそれぞれ違った眼で星を見ている。旅行者には星はガイドだ。ある人はちっぽけな光と思っている。学者の中には何か難しい問題にしている人もいる。実業家には金貨に見える。でも、相手の星はみんな黙っている」

*****

「でも、相手の星はみんな黙っている」 それは誰も心で星々を見ていないからなのです。


さらに王子さまが言います。
「僕はあの星々の中の一つの星に住む。そして、笑うんだ。だから、君が夜空を眺めたら、星がみんな笑っているように見えるだろう。誰か君の友達が君が夜空を見て笑っているのを見たら、きっと君が気が狂ったと思ってびっくりするだろう。そうしたら、僕は星を見ると笑いたくなるんだっていうのさ」

*****

外見的には、星はただ星です。でも、心で夜空を見れば、星がみんな笑っているのが見えるのです。あなたにはどう見えますか?





星の王子さまアレコレ その13

星の王子さまアレコレ その13

星の王子さまが歩いていると、一人の商人に出会いました。この商人はノドの渇きが直ぐ治るという丸薬を売っていました。その丸薬は1週に1粒飲むと、もはや水を飲む必要がなくなるというものです。

「どうしてそんなものを売っているの?」と王子さまが尋ねました。
「時間がうんと節約できるからだよ。専門家が計算したところ、1週間に53分節約できるそうだ」と商人が答えました。
「それで、その節約した53分で何をするの?」
「やりたいことを何でもやるのさ」
「53分節約出来たら、僕だったら泉までゆっくり歩いてゆくんだけどなあ」 王子さまは心の中で思うのでした。

*****

私たち人類の大部分は今日に至るまで便利・快適・高能率を求めて文明を発展させてきました。それが私たち全体の幸せに直結していると思い込んできたのです。
なるほど、確かに、便利・快適・高能率であることは、一面から言えば、利点であることもあるように見えます。しかしながら、必ずしもそうではないという事例もたくさんあるのではないでしょうか。サンテグジュペリはそれを鋭く見抜いていたように思います。

たとえば、水がない砂漠でどうしても長期間過ごさなければならない場合には、この丸薬は役に立つかもしれません。でも、いつでも水を飲めるようなところに住んでいれば、この丸薬は何にも役に立ちません。もしこの丸薬を飲めば、美味しい水を飲んで喉を潤す快感を味わう機会を自ら失ってしまいます。

また、水を飲む時間を節約することができたとしても、美味しい水を求めて、ゆっくりと泉まで歩いていく楽しみがなくなってしまいます。

サンテグジュペリはこの本のあちこちで私たちに何が人生の真の喜びかを問いかけています。以下、文脈を抜きにして、大雑把にいくつか書き出してみましょう。

好きな人とあるところで会うとすれば、前もって日にちと時間が決まっていたほうが楽しい。いつと前もって分かっていれば、もうその前日の朝から翌日のことを思うたびに楽しくなる。約束の時間が近づくにつれて喜びがどんどん大きくなってゆく。

人と仲良しになる場合にも、いきなり「仲良しになろう」と言葉で言うのではなく、まずは、離れたところに座り、相手を何気なくちらっと見る。そして、毎日少しずつより近くに座って、相手を見る時間を少しづつ長くしていく・・・。このように、時間を掛けて、態度で相手がこちらの気持ちを少しずつより深く感じていくようにする。

もし、自分が星の王子さまと仲良くなって、王子さまがもはやただの人ではなく、自分にとってなくてはならない人になったら、王子さまがどこかに行ってしまったとしても、麦畑を見たら、その色が王子さまの髪の毛を思いださせてくれて嬉しくなる。

夜空の星を見るにしても、今この瞬間にこのたくさんの星の中の一つに自分にとってかけがえのないバラの花が咲いているんだと思えば、どの星も美しく輝いて見える。

汽車が人間たちを乗せて行ったり来たりしている。人間は誰も自分のいるところが気に入らないんだ。何かを追っかけているのでもない。

子供だけが自分が何が欲しいか知っているんだよ。





星の王子さまアレコレ その12

星の王子さまアレコレ その12

星の王子さまはバラの花たちのところからキツネのところに戻ってきた後、キツネに別れを告げました。その時に、キツネがお土産に大切な秘密の話を贈ってくれました。

「それはなんでもない。心で見なくっちゃものごとはよく見えないということサ。一番大切なことは目に見えないんだよ」
「一番大切なことは目に見えない」 王子さまは忘れないように繰り返しました。

「君がバラの花を大切に思っているのはその花の世話をするために時間をさいたからなんだよ」
「僕がバラの花を大切に思っているのは・・・」 王子さまは忘れないように繰り返しました。

「人間はその真実を忘れているんだ。だけど君はこのことを忘れちゃダメだよ。君が仲良くなったものに対しては、いつまでも責任があるんだ。君はそのバラの花に対して責任があるんだよ」
「僕はあのバラの花に責任がある」 王子さまは忘れないように繰り返しました。

*****

この文章はとても心に響いてきます。「心で見なくてはものごとはよく見えない。一番大切なことは目に見えない」この言葉はこの本全体でもっとも大切な言葉だと僕は思います。私たちは日頃からいつも自分に「心で見ているか?」と確認する必要があると思うのです。

では、「心で見る」とはどういうことでしょうか? 
まず、心と思いはどのように違うのでしょうか?
その前に、どんな思いがあろうとなかろうと、事実は事実でしかありません。だから、一つの事実は誰にとっても同じ事実です。事実が異なるわけではないのです。

ただ、その同じ事実が人によってそれぞれ違って受け止められるということです。それはどうしてかと言えば、一人ひとりが持っている思いが違うからです。

たとえば、晴れ渡った夏の日に、海に出かける子どもは大喜びするであろうし、野外で一日中筋肉労働をしなければならない人は嫌だなと思うかもしれません。

このように思いによって同じ事実が異なって受け止められるわけですが、「心で見る」という時の「心」とは「アタマの思い」のことではありません。もし、そのように理解したら、この本を書いた作者の気持ちがまったく曲解されてしまいます。

ここで言う「心」は不可分一体の存在の真実に根差した真心という意味であり、「心で見る」とは「不生の仏心で真理に照らして見る」という意味です。


なお、「仲良くなったものに対しては、いつまでも責任があるんだ」の“責任がある”はフランス語の原文の”responsable”を訳したものです。ただ、“責任がある”というと、法律用語のような硬さを感じるかもしれません。でも、「仲良くなったものに対しては、当然、心のつながりを感じて、自ずとその世話をする気持ちが生じてくるものだ」というような意味を“責任がある”と著者は言い表したのだと僕は思います。

ところで、エスペラント語を含めて各国語による訳には、「これでは原文とかなり意味が違ってしまうのでは?」というような箇所がところどころ見受けられます。これは訳がダメということではなく、それだけ訳者が苦心しているということなのです。でも、全体としては、各国語の訳者は見事に著者のメーッセージを伝えてくれています。





星の王子さまアレコレ その11

星の王子さまアレコレ その11

星の王子さまはとうとう地球にやってきました。そこは人の住むところから何千キロも離れた荒涼とした砂漠の真ん中でした。王子さまは人に会いたいと思いどこともなく歩いて行きました。でも、そこで出会ったのは一匹のヘビと花びらが三つ付いた一輪の花だけでした。

王子さまは高い山に登りました。その山の上からはこの星の全体と住んでいるすべての人が見えるだろうと思ったのです。でも、そこから見えるのはただ尖った刃のような岩だけでした。

「こんにちは」 王子さまは当てもなく言いました。
「こんにちは・・・こんにちは・・・こんにちは・・・」と、こだまが答えました。
「君は誰?」 王子さまが言いました。
「君は誰?・・・君は誰?・・・君は誰?・・・」と、こだまが答えました。
「僕の友達になってよ・・・僕はひとりなんだ」 王子さまが言いました。
「僕はひとりなんだ・・・僕はひとりなんだ・・・僕はひとりなんだ・・・」と、こだまが答えました。

*****

この箇所を読むたびにその情景が目に浮かび涙が出ます。その時王子さまは何てさびしかったのでしょう。

僕も小学校の低学年のころ何度も同じように深いさびしさを感じていました。その後ははっきりと感じるということはなくなりましたが、僕は今でも自分の心の奥にこのさびしさがひっそりと潜んでいるような気がしています。これまでも、そのさびしさがどういうことなのか、その根源はと自分に問うてみたこともあるのですが、わかるようで、わかりません。

もしかしたら、自覚しているかどうかは別として、本当は、人はみんな同じように心の奥に深いさびしさを抱いているのではないかと思ったりもするのです。だからこそ、人はみんな人を、犬を、ネコを、花を、自然を、星空を愛さずにいられないのではないかと・・・。


王子さまは歩き続け、やっと1本の道を見つけ、そこを歩いていくと、たくさんのバラの花が咲いている庭がありました。それらの花は王子さまの星に少し前に咲いた花とそっくりでした。王子さまは自分が特別の花を持っていると思っていたのに、その花はどこにでもある花の一つにすぎなかったと思って悲しくて泣きました。

ふたたび歩いていくと、キツネに出会いました。キツネは王子さまに飼いならしてほしいと言います。
「飼いならすって?」と、王子さまが尋ねると、キツネが答えます。
「仲良くなることだよ。そうなるまでは、僕は君にとってただのキツネだ。君も僕にはただの人間だ。でも仲良くなれば、僕は君にとってかけがえのない存在になる。君も僕にとってこの世でたったひとりの人になるんだよ」

こうして、王子さまはキツネと仲良くなりました。そして、もう一度バラの花の庭に行きました。そして、バラの花に言うのでした。
「君たちは僕の花とはまるっきり違う。僕は君たちと仲良くしなかったし、君たちも僕と仲良くしなかった。君たちは美しいけど、ただ咲いているだけだ。僕の花も他の人は君たちと同じ花だと思うだけだ。でも、あの一輪の花は僕にとって誰よりも大切なんだ。だって、僕が水をかけてやったんだから」


*****

この世界ではすべてが一期一会です。




星の王子さまアレコレ その10

星の王子さまアレコレ その10

星の王子さまが訪ねた6番目の星は10倍も大きな星で、そこには年取った人が何冊も大きな本を書いていました。

王子さまが「その大きな本は何? 何をしているの?」と尋ねると、彼は「わしは地理学者だ」と答えました。

「地理学者って?」
「海や川や砂漠がどこにあるか知っている学者だよ」
「あなたの星はとても綺麗ですね。ここには海があるの?」
「知らないよ」
「じゃあ、山は?」
「知らないよ」
「じゃあ、町や川や砂漠は?」
「それも知らないよ」
「でも、あなたは地理学者でしょ?」
「地理学者は探検家じゃないんだよ。地理学者は大切な仕事をしているんだから、あちこち出かけている暇なんかない。いつも仕事部屋に閉じこもっているんだ。探検家がやってきたら、相手の報告を聞いて面白いと思ったら、それをノートに書き留める。それから相手がしっかりした人間かどうかを調べる。たとえば、嘘をついていれば、地理の本がとんでもないものになる。飲んだくれだったら、一つのものが二つに見えるから、山が一つしかないのに、山が二つあると本に書いてしまうことになる。探検家の素性がよさそうだったら、調査をする」
「見に行くの?」
「見にはいかないよ。何か証拠になるものを持ってきてもらうというわけだ」

*****

以上の問答はサンテグジュペリが現代の専門化が進みすぎた学者の世界と、それに加えて、実物をよく見もしないのに、単なる表面的な知識だけで本当に分かった気になりがちな現代人の有様をユーモラスな表現で辛らつに風刺しているように僕には思えます。


地理学者が続けて言います。「そう言えば、君も遠くからやってきた探検家だ。君の星のことを話してくれ」
「僕の所は小さな星で大したものはありません。火山が三つあって、二つが活火山で、一つが休火山です。花も一つありますよ」
「地理学者は花のことなんか書かないよ」
「どうして? とてもきれいなんですよ」
「花は はかないものだ。地理学の本にはいろいろな本の中で一番大切なことが書かれているんだ。流行遅れになることがない。山や大きな海はなくなったりすることがない。わしらはいつまでも変わらないことを書くのだよ」
「はかないってどういうこと?」
「それはそのうちに消えてしまうという意味だ」
「僕の花はいつか消えてしまうの?」
「そうだよ」

王子さまは考えました。「僕の花ははかない花なんだ。自分の身を守るのにたった4本のトゲしか持っていない。そんな花を僕は一人ぼっちにしてきたんだ」そして、王子さまはその花を初めてなつかしく思ったのです。

*****

真実はこの世界で出会うものは(そして、出会わなくても)すべてはかないものなのです。だからこそ、みんな宇宙一杯に輝いているのであり、たった一つの出会いでさえもいとしいのです。


王子さまは地理学者に尋ねます。「僕は次はどの星を訪ねたらよいでしょうか?」
地理学者が答えました。「地球がよいと思うよ。なかなか評判がいいから」

王子さまは遠くに残してきた花を思いながら地球に向けてその星を出発しました。





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