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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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不思議なメガネ 

不思議なメガネ 

不思議なガラス板 (『もう一つの人間観』和田重正著 地湧社 より抜粋・要約)

特殊なガラス板が立っている。右側には「意味」の詰まった“いのち“が充満している。左側の風景は右側の内容と無関係ではない。人は、右側の世界に充満している“意味”を五感という特殊ガラスを透して、左側の時間空間の枠に具象化して投影したものを大脳が捉えて、「これは我」「あれは彼」と認めている。
その右側からは左側の様子が最大も漏らさず透けて見えるが、左側からは右側の様子は全く見えない。従って、左側にいる人はガラスの向こう側には何もないと思っている。
従って、左側にあってどんなに精密に観察してみても物の存在の本質と真相、すなわち、実相を捉え得ることはできない。それでは、所詮分断孤立を更に再分化するだけで、どこまで行っても不可分一体の存在の真実の証明にはならない。
もしこの理を納得したならば、誰でも直ちに右側の大調和の世界を体験し、すべてのこだわりを脱して自由を得るにちがいない。その自由の中でこそ、何億年かけてわれわれが単細胞時代以来の進化の途上で蓄積してきた無量の智慧が、われわれの現実の生活に発動するのである。 (以下省略)

*****
僕は和田重正先生のこの文章を読むたびに、深い感動に包まれます。僕は先生の言われることにまったく賛同します。しかし、ここでは少しだけ異なった角度から思いついたことを書いてみたいと思います。

まず、この不思議なガラス板はどこにあるのでしょうか? ちょっと考えてみてください。

先生が言われるガラスの左側に見えている普段の景色が、僕の場合には、目の前に展開して見えています。これはほとんどの方と同じだと思います。でも、僕にはその他にも見えているものがあります。

先生の言われるガラス板の場合には右側にある景色が、普通の景色の奥に二重写しのように重なって、静寂そのもの、まったくの透明な空間として見えているのです。

見えているというよりも、感じられると言った方がよいのかもしれません。それはただ何も見えない、何もないという感覚ではなく、そこに根源的なあるものがびっちりと詰まって充満しているのを感じるのです。そして、視線を自分の内側の奥の方に向けても同じものを認めることができます。

普段でもちょっと意識すればその二つの景色が二重写しになってみることができますが、川の瞑想をすると、まるで不思議なメガネをかけているかのように、いっそうはっきりと見えます。

つまり、普段バラバラに見えている現象世界はその奥にある “いのち“の世界を五感とアタマを通して認識した影のような世界にすぎないのであり、実在するものは現象世界の奥にある不可分一体の“いのち“の世界だけであるということです。

ですから、例えば、死について言えば、現象世界で肉体が滅びても、それはただそれだけであり、本体である生命は死ないのです。人は誰も死なないのです!

病についても、病があるように見えているだけで、「この真実の世界には、本来、不調和なものは一つもない」ということに気がつけば、現象的に病が劇的に消えたり、軽減したりする事例が結構あるのです。





光と影 その2

光と影 その2
(その1からのつづき)

この世界はひとつの“いのち“が顕現したものであり、本来すべてが不可分一体で調和している。大宇宙や大自然などの”自然“と同様に、人間の体も自然であり、本来調和しています。つまり、病気は本来はないのです。これが存在の真実です。

では、本来はないはずのものがなぜあるのか?と問われるかもしれませんね。でも、本来ないはずのものは、やはり、ないのです。確かに症状は現れています。でも、体自身が病気になることはありえないのです。その症状は人間のアタマが存在の真実を誤解して、「本来病はある。本来病は起こるものだ」という妄念が作り出した影のようなものなのです。

これを例のタバコを使って説明しましょう。
人間は本来タバコを吸う必要もなければ吸いたくもない。つまり、本来タバコを吸いたいという心の“病気”はない。体自身はタバコを吸いたいという病気にはならないのである。

しかし、スモーカーはタバコを(何が何でも)吸いたいと思う。つまり、タバコを吸いたいという病気は「タバコを吸わなければホッとできない。タバコを(何が何でも)吸う必要がある」などというタバコの真実に反するスモーカーモードの妄念が作り出したものである。

これは妄念が「タバコを吸いたい」という心の病気を作り出しているということですが、「病はある。病は起こるものだ」という妄念は心だけでなく、体にも症状を引き起こすのです。

ここで、もし、体に生じた症状を”病気“と呼ぶとすれば、その病気を引き起こしたのは体自身ではなくて、「体は病気になる」という妄念が体に影響を与えて、病気を引き起こしたということです。

念、つまり、思いが体にそんな大きな影響を与え病気を引き起こすようなことがあるのだろうか?と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、心の力、とくに、潜在意識まで入った思い・念は想像を絶するほど強力であり、これは精神医学や心理学などで証明済の真実だと言えましょう。

ここでタバコに話を戻します。
禁煙はとても難しいというのが一般的な常識です。それはスモーカーは「タバコを吸う必要がある」というスモーカーモードの妄念のままで吸いたい気持ちを何とか抑えつけようとしているからです。けれども、「人間は本来はタバコを吸う必要がない」という当たり前のタバコの真実に気がつきさえすれば、一瞬にして、「吸いたい」という心の病気が消えてしまうのです。

それと同じに、体の真実は、本来病気はない。体自身が病気になるのではない。いや、体自身は病になりようがない。症状は「本来病はある。本来病は起こるものだ」という自分の妄念が作り出した影にすぎない、という当たり前の真実に気がつきさえすれば、心の向きが変わり、症状は急速に回復に向かうのです。

真実に気づくことによって、タバコを吸いたい気持ちが一瞬にして消えてしまったり、病気が急速に回復に向かうという事実を不思議に思うかもしれませんが、それは強力な電磁磁石が壁の鉄板にくっついていて、人力ではどうしてももぎ取れなかったのが、電流をオフにした瞬間にあっけなくポカンと自ら外れてしまうようなものです。

(おわり)





光と影 その1

光と影

まず、次のような情景を思い描いてください。
学校の校庭を太陽の光が明るく照らしています。ただ、校舎の近くには影ができています。そうです。このような光があり影があるという光景は室外室内を問わず、また、大なり小なりどこにでも普通に見られます。このように「光があり影がある」というのは現象的な事実です。

さて、光がもともと存在するのは事実です。つまり、光は“実在“であると言えます。では、影も光と同じような実在なのでしょうか?

答えは「ノー」です。というのは、光は光単独で存在することができるのに対して、影はもともと影単独では存在しません。影は、まず光という実在があって、それが何かに遮られることによって現れる現象だからです。

日常的認識では、「現象として、影はある」と言えなくはないのですが、影は光と異なり、もともとそれ単独で存在するもの、つまり、実在ではありません。つまり、光と影は根本的存在と派生的存在と表現することもできるでしょう。

ここで、この世界自体はと考えると、本来この世界は一つの“いのち“が顕現した一元絶対・不可分一体の世界です。その存在の真実は大宇宙や大自然においてはすべてが離散・集合・循環を繰り返しながら調和している様子を観察すれば明らかです。すなわち、大宇宙や大自然は実在です。

一方、二元相対的に、物事をバラバラにしか思考できない人間のアタマ(大脳)が描き出したもの、つまり、存在の真実に合致しない間違った観念や考え方は個人的にも社会的にも大きな苦しみと混乱を引き起こしています。これらは、私たち人間の誤った観念や考え方、すなわち、妄念の影のようなものであり、もともとこの世界に存在するもの、すなわち、実在ではないのです。

例えば、この世界には、本来、優劣や所有は存在しません。これらは人間が創り出した間違った観念、つまり、妄念です。優劣観が個人的にも社会的にもどれだけ人間関係を歪にしてきたか、また、所有観念がどれだけ人間のエゴイズムを助長してきたことでしょう。

さらに、病気について考えてみましょう。人の身体は小宇宙と称され、大宇宙や大自然と同じように、“いのち“が顕現したものであり、離散・集合・循環を繰り返しながら、本来、常に調和を保っています。つまり、本来、病気はないのです。ですから、病気という現象は「病気はある」という妄念の影だと言えるでしょう。

風邪や下痢などはもともと人間の体に備わっている大切な体の調整作用であり、そもそも病気ではありません。しかし、そのようなものを除く病気の多くは「本来病気はあるのだ。本来病気は起こりうるのだ」という妄念が作りだしているのです。調べてみると、過去において、実際に「本来、病気はない」という真実に気がついただけで、長年苦しんできた病気が、瞬間的に、あるいは、急速に治癒した例は実に多いのです。

このように、人間社会の個人的、社会的な苦しみや混乱の“すべて”は妄念の影に過ぎないことに気がつく人が増えていけば、この世界は急速に幸福で平和な世界になっていくでしょう。

そして、自覚のセミナーとネホサはそのための最強のツールだと言えるでしょう。

(つづく)




いのちの世界について

いのちの世界について 

この世界は本来バラバラの物質が寄り集まってできた世界ではない。この世界は、本来、ひとつの “いのち“が顕現した、不可分一体の調和と平和の世界である。その真実は自然、すなわち、大宇宙の星々の運行や大自然や人体のハタラキ、人間の本能の現れである真心などを考えれば明らかである。

しかしながら、現実の世界では、我々人間のバラバラ観に基づく種々の妄念、すなわち、優劣、所有などの間違った観念による混乱と苦しみなどの歪みや曇りが本来不可分一体の調和と平和の世界を覆っている。

従って、我々は我々自身の妄念、すなわち、バラバラ観の過ちに気づくことが必要である。そうすれば、間違った観念や考え方や行為が正され、様々な混乱と苦しみは急速に解消されて真実の世界が全面的に顕現するのである。

次に、いわゆる、死について考えてみよう。

この世界では我々の肉体は刻々に変化しながら、やがて、その活動を完全に止めて、その構成物質は分解し散らばっていく。人は我々の体の活動が止まることを「死」と呼ぶ。確かに、この体はいずれ“死ぬ“という言うことはできるかもしれないが、その体を造り、その体に働き、その体を使っている生命自身は死ぬわけではない。
体はたんなる物質であり、時がくれば変化し分解したりするが、生命は物質ではないので死なない。つまり、生命は生き通しなのである。

この世界においては、現象として、個々の生滅が繰り返されて、この肉体に働いている生命は個としての“いのち“であるように見えながら、同時に、この生命はこの世界のすべてを生かしている生き通しの大いなるひとつの“いのち“そのものである。つまり、この世界にはもともとバラバラな個というものはない。真実は、この世界においては、“いのち“という同質のものがべったりと一様にこの世界を満たしていながら、同時に、その表現形式としては、いろいろなものが個別的存在しているように見えるのである。

我々一人ひとり、この自分はこの生き通しのひとつの大いなる“いのち“であり、何があったとしても決してなくなること、つまり、死ぬことはないのである。

次に、病について考えてみよう。
不可分一体、調和と平和の“いのち“が顕現した世界には大宇宙や大自然が調和しているように、本来、すべては調和しているので病はない。ほとんどの人がこの世界では病があると思い込んでいるが、真実は、病は人間の「病はあるものだ」という妄念によって、その影がこの現象世界に発現しているのである。

であるから、「本来、病はない。本来、病は生じるものではない」ということに気がつきさえすれば、直ちに「病がある」という妄念が消えて、その妄念が凝り固まって作っていた病が消えるのである。病を治すのではない。病を取り除くのでもない。もともと、病はないのだということに気がつけばよいのである。

このように、すべての苦しみや混乱は人間の間違った妄念が引き起こしたものである。本来、調和と平和の“いのち“の世界しかないのだ。この真実に気がつきさえすれば、すべての苦しみや混乱は急速に解消されていくのである。





自分は完璧である その2

自分は完璧である その2
(その1からのつづき)

この社会においてはほとんどの人が五感とアタマによって、この世界をバラバラのものの寄せ集めの世界だと思い、世間的あるいは個人的な価値基準やモノサシを真実であると思い込んでいます。その結果、人はちっぽけで、はかない存在であると思い、そこで潜在的にいつも世間的な評価を気にし、他を恐れ、死の影におびえながら生きています。

でも、実物の世界は自分を含めてすべて一つの“いのち”の世界であり、萌える“いのち”の活々とした行き詰りのない世界なのです。

つまり、この世界のすべての存在は、本来、人間がアタマによって作りあげたあらゆる分類や比較や評価などの規定以前に、あるがままで完結して厳然と存在しています。

もちろん、現実の生活においては、事実に沿った正しい規定も沿わない間違った規定もあり、それらによっていろいろと外的に規定されているように見えるかもしれません。でも自分の本来の存在価値とはそれらの規定とはまったく無関係で、厳然として輝いているのです。

もちろん、自分には、本来、無条件の絶対的存在価値があるのだから、どんなに間違ったことをしてもよいということではありません。また、私たちのこの社会における現実の考え方や行為は、真理に照らしてそれが正しいか、間違っているかが判定され、適切に対処されなければならないことは当然のことです。

タバコ図を応用した“社会図“の右側はバラバラ観に立脚した社会ですが、その中に生きていると思っている人にとっては、自分は善人、悪人、その中間の人、色で分ければ、真っ白、真っ黒、灰色のどれになるかと問われれば、正直に答えれば、善悪の中間、灰色の人と答える人がほとんどだと思います。

確かに、右側の社会の一般的なモノサシで測ればそのような答えが出てくるかもしれません。でも、真実の世界では、すなわち、本来は、人の心はそのままで誰でも真っ白、純白なのです。絶対の透明、絶対の静寂と言ってもよいでしょう。

もともと純白なのですから、灰色の黒を苦労して洗い流す必要もありません。もともと純白であることを認め、純白のままでいるほうがずっと容易で楽です。

盤珪禅師が言われるように、迷いをなくそうとするよりも、迷わないでいるほうが簡単で楽なのです。灰色を純白にするには超天才のミロク菩薩でも懸命に修行して56億7千万年も掛かると言われているのですから、灰色から純白になろうと懸命に努力するより、最初から純白でいたほうが楽です。不生でいればみんな純白なのですから・・・。

白隠禅師が「衆生本来仏なり。悟りたい! 悟りたい!と悟りをどこかに求めようとするのは、水の中の魚が喉が渇いた! 喉が渇いた!と叫んでいるようなものだ」と言われたのもまったく同じことを言われているのです。

このように、真の自分をはっきりと確認すれば、自分というものは何があっても変わることがない生死を超えた存在であるということがわかります・

自分だけではありません。この世界の全ての存在が何があっても、そのままで絶対的存在価値を持って純白であり、絶対安心、“すべてよし”なのです。




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