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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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不思議なメガネ 

不思議なメガネ 

不思議なガラス板 (『もう一つの人間観』和田重正著 地湧社 より抜粋・要約)

特殊なガラス板が立っている。右側には「意味」の詰まった“いのち“が充満している。左側の風景は右側の内容と無関係ではない。人は、右側の世界に充満している“意味”を五感という特殊ガラスを透して、左側の時間空間の枠に具象化して投影したものを大脳が捉えて、「これは我」「あれは彼」と認めている。
その右側からは左側の様子が最大も漏らさず透けて見えるが、左側からは右側の様子は全く見えない。従って、左側にいる人はガラスの向こう側には何もないと思っている。
従って、左側にあってどんなに精密に観察してみても物の存在の本質と真相、すなわち、実相を捉え得ることはできない。それでは、所詮分断孤立を更に再分化するだけで、どこまで行っても不可分一体の存在の真実の証明にはならない。
もしこの理を納得したならば、誰でも直ちに右側の大調和の世界を体験し、すべてのこだわりを脱して自由を得るにちがいない。その自由の中でこそ、何億年かけてわれわれが単細胞時代以来の進化の途上で蓄積してきた無量の智慧が、われわれの現実の生活に発動するのである。 (以下省略)

*****
僕は和田重正先生のこの文章を読むたびに、深い感動に包まれます。僕は先生の言われることにまったく賛同します。しかし、ここでは少しだけ異なった角度から思いついたことを書いてみたいと思います。

まず、この不思議なガラス板はどこにあるのでしょうか? ちょっと考えてみてください。

先生が言われるガラスの左側に見えている普段の景色が、僕の場合には、目の前に展開して見えています。これはほとんどの方と同じだと思います。でも、僕にはその他にも見えているものがあります。

先生の言われるガラス板の場合には右側にある景色が、普通の景色の奥に二重写しのように重なって、静寂そのもの、まったくの透明な空間として見えているのです。

見えているというよりも、感じられると言った方がよいのかもしれません。それはただ何も見えない、何もないという感覚ではなく、そこに根源的なあるものがびっちりと詰まって充満しているのを感じるのです。そして、視線を自分の内側の奥の方に向けても同じものを認めることができます。

普段でもちょっと意識すればその二つの景色が二重写しになってみることができますが、川の瞑想をすると、まるで不思議なメガネをかけているかのように、いっそうはっきりと見えます。

つまり、普段バラバラに見えている現象世界はその奥にある “いのち“の世界を五感とアタマを通して認識した影のような世界にすぎないのであり、実在するものは現象世界の奥にある不可分一体の“いのち“の世界だけであるということです。

ですから、例えば、死について言えば、現象世界で肉体が滅びても、それはただそれだけであり、本体である生命は死ないのです。人は誰も死なないのです!

病についても、病があるように見えているだけで、「この真実の世界には、本来、不調和なものは一つもない」ということに気がつけば、現象的に病が劇的に消えたり、軽減したりする事例が結構あるのです。





光と影 その2

光と影 その2
(その1からのつづき)

この世界はひとつの“いのち“が顕現したものであり、本来すべてが不可分一体で調和している。大宇宙や大自然などの”自然“と同様に、人間の体も自然であり、本来調和しています。つまり、病気は本来はないのです。これが存在の真実です。

では、本来はないはずのものがなぜあるのか?と問われるかもしれませんね。でも、本来ないはずのものは、やはり、ないのです。確かに症状は現れています。でも、体自身が病気になることはありえないのです。その症状は人間のアタマが存在の真実を誤解して、「本来病はある。本来病は起こるものだ」という妄念が作り出した影のようなものなのです。

これを例のタバコを使って説明しましょう。
人間は本来タバコを吸う必要もなければ吸いたくもない。つまり、本来タバコを吸いたいという心の“病気”はない。体自身はタバコを吸いたいという病気にはならないのである。

しかし、スモーカーはタバコを(何が何でも)吸いたいと思う。つまり、タバコを吸いたいという病気は「タバコを吸わなければホッとできない。タバコを(何が何でも)吸う必要がある」などというタバコの真実に反するスモーカーモードの妄念が作り出したものである。

これは妄念が「タバコを吸いたい」という心の病気を作り出しているということですが、「病はある。病は起こるものだ」という妄念は心だけでなく、体にも症状を引き起こすのです。

ここで、もし、体に生じた症状を”病気“と呼ぶとすれば、その病気を引き起こしたのは体自身ではなくて、「体は病気になる」という妄念が体に影響を与えて、病気を引き起こしたということです。

念、つまり、思いが体にそんな大きな影響を与え病気を引き起こすようなことがあるのだろうか?と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、心の力、とくに、潜在意識まで入った思い・念は想像を絶するほど強力であり、これは精神医学や心理学などで証明済の真実だと言えましょう。

ここでタバコに話を戻します。
禁煙はとても難しいというのが一般的な常識です。それはスモーカーは「タバコを吸う必要がある」というスモーカーモードの妄念のままで吸いたい気持ちを何とか抑えつけようとしているからです。けれども、「人間は本来はタバコを吸う必要がない」という当たり前のタバコの真実に気がつきさえすれば、一瞬にして、「吸いたい」という心の病気が消えてしまうのです。

それと同じに、体の真実は、本来病気はない。体自身が病気になるのではない。いや、体自身は病になりようがない。症状は「本来病はある。本来病は起こるものだ」という自分の妄念が作り出した影にすぎない、という当たり前の真実に気がつきさえすれば、心の向きが変わり、症状は急速に回復に向かうのです。

真実に気づくことによって、タバコを吸いたい気持ちが一瞬にして消えてしまったり、病気が急速に回復に向かうという事実を不思議に思うかもしれませんが、それは強力な電磁磁石が壁の鉄板にくっついていて、人力ではどうしてももぎ取れなかったのが、電流をオフにした瞬間にあっけなくポカンと自ら外れてしまうようなものです。

(おわり)





光と影 その1

光と影

まず、次のような情景を思い描いてください。
学校の校庭を太陽の光が明るく照らしています。ただ、校舎の近くには影ができています。そうです。このような光があり影があるという光景は室外室内を問わず、また、大なり小なりどこにでも普通に見られます。このように「光があり影がある」というのは現象的な事実です。

さて、光がもともと存在するのは事実です。つまり、光は“実在“であると言えます。では、影も光と同じような実在なのでしょうか?

答えは「ノー」です。というのは、光は光単独で存在することができるのに対して、影はもともと影単独では存在しません。影は、まず光という実在があって、それが何かに遮られることによって現れる現象だからです。

日常的認識では、「現象として、影はある」と言えなくはないのですが、影は光と異なり、もともとそれ単独で存在するもの、つまり、実在ではありません。つまり、光と影は根本的存在と派生的存在と表現することもできるでしょう。

ここで、この世界自体はと考えると、本来この世界は一つの“いのち“が顕現した一元絶対・不可分一体の世界です。その存在の真実は大宇宙や大自然においてはすべてが離散・集合・循環を繰り返しながら調和している様子を観察すれば明らかです。すなわち、大宇宙や大自然は実在です。

一方、二元相対的に、物事をバラバラにしか思考できない人間のアタマ(大脳)が描き出したもの、つまり、存在の真実に合致しない間違った観念や考え方は個人的にも社会的にも大きな苦しみと混乱を引き起こしています。これらは、私たち人間の誤った観念や考え方、すなわち、妄念の影のようなものであり、もともとこの世界に存在するもの、すなわち、実在ではないのです。

例えば、この世界には、本来、優劣や所有は存在しません。これらは人間が創り出した間違った観念、つまり、妄念です。優劣観が個人的にも社会的にもどれだけ人間関係を歪にしてきたか、また、所有観念がどれだけ人間のエゴイズムを助長してきたことでしょう。

さらに、病気について考えてみましょう。人の身体は小宇宙と称され、大宇宙や大自然と同じように、“いのち“が顕現したものであり、離散・集合・循環を繰り返しながら、本来、常に調和を保っています。つまり、本来、病気はないのです。ですから、病気という現象は「病気はある」という妄念の影だと言えるでしょう。

風邪や下痢などはもともと人間の体に備わっている大切な体の調整作用であり、そもそも病気ではありません。しかし、そのようなものを除く病気の多くは「本来病気はあるのだ。本来病気は起こりうるのだ」という妄念が作りだしているのです。調べてみると、過去において、実際に「本来、病気はない」という真実に気がついただけで、長年苦しんできた病気が、瞬間的に、あるいは、急速に治癒した例は実に多いのです。

このように、人間社会の個人的、社会的な苦しみや混乱の“すべて”は妄念の影に過ぎないことに気がつく人が増えていけば、この世界は急速に幸福で平和な世界になっていくでしょう。

そして、自覚のセミナーとネホサはそのための最強のツールだと言えるでしょう。

(つづく)




今こそ国に理想を その10

今こそ国に理想を その10
(その9からのつづき)

【Hさん】 青森ではテレビのPRを二十分に一回くらいやっています。「安全です、大丈夫です」とすごいです。だから、現地の人はよっぽどの意識のある人でなければ、そうだなと思ってしまうことになるでしょう。

【Gさん】 原発は本当は東京に作ればいいのです。東京が一番電力を使うのですから。もう一点は青森県はお金がない貧乏県です。沖縄、島根、鳥取などもそうです。ですから県知事も県民も所得増加が最大の願いです。そうすると、取りあえずは原発を誘致することになります。六ヶ所村の一人当たりの所得は県内で最高です。その次が青森市です。原発に関する交付金というのは、とても多額で魅力があるという状態です。

【Iさん】 今、実際には六ヶ所村に二兆円投入されて、今後十兆円投入されることになると言われています。そのことで反対することができない状況になっているのが実情です。
【Gさん】 今は「核融合の設備を誘致しましょう」と言っています。これは青森だけの問題ではなく、日本全体の問題ですから、もっと真剣に考えて欲しいです。

【野村】 私が読んだ本の一つには、六ヶ所に限らず再処理工場をあれだけの規模でやると、「もし全面稼動している時に爆 発が起こったら、地球の半分 くらいの全生命がやられる」と書いてありました。少し大げさではないか とも思うのですけれども、要するに想像を絶する被害がもたらされることだけは確かです。ですから、なぜそんなようなことをしなければならないのか、ということです。

【Oさん】 なぜ、再処理工場を稼動させなければいけないかというと、プルサーマルとかいろいろ言っていますけれども、最終的には核開発が目的ではないか、としか考えようがないわけです。ある人たちは、憲法を改正して、核を持たなければいけないと本気で考えていると思います。前回の衆議院の総選挙期間中におこなった毎日新聞社のアンケートでは、日本が核武装を検討すべきだと答えた議員が、なんと民主党も入れて三十六パーセントもいたのです。驚きですが、これが現実なのです。

【Yさん】 政治家などはテレビで気楽に核武装をするべきだと言っています。

【司会】 少し野村さんの言っていることから外れてしまったようですので、「私たちのすべきことはこういうことではないか」という話に戻したいと思います。

【野村】 結局、諸悪の根源がエゴイズムにあるとすれば、それを解きほぐすポイントは何かということです。もちろん個人やいろいろな集団レベルでやっていく作業も必要でしょう。

いろいろな形でやっていくことが大切です。様々な国際NGOの活動や国内の教育問題も大切です。ただ教育を変えようと思っても、なかなか思うようには変わりません。それは、国家という一番のポイントがエゴイズ ムの方向に向いているからです。その方向を、つまり新幹線でいえば、本当は大阪へ行くべきところがなぜか東京に向かっているということなのです。そしてその東京行きの中で、大阪に行こうといろいろと努力をしているというわけです、 それぞれができるところから努力をしなければいけないけれども、全体の方向性を変えること、そのためにはアタマの向きを変えることがポイントだと思います。

「すぐ国家の政策を変えよう」と言っても無理です。そこで「まず、日本という国の方向性を変えよう」ということなのです。単なる「それぞれ頑張りましょう」ということではなく、そのツボは「この日本という国の向きを変える」ことであり、さらに、発想として優れていると思うところは、まずはポンと「国に理想を掲げましょう」という機運を高めていくことだということです。 

現在まで、多くの心ある人々の努力によって、いろいろな活動が行われています。それぞれが貴重な成果を挙げています。それらの活動によって、一つの新しい流れができつつあるということはできるでしょう。しかしながら、破滅に向かう力の大きさに比べれば、まだまだ力不足であると言わざるを得ません。もし「日本に国際環境平和国家の理想を掲げよう」という思想が、それらの団体や組織のバックボーン的思想あるいは旗印となれば、それぞれの活動が活発化すると同時に、力強い一大ネットワークができ、人類の新しい歴史を創る大きな流れが形成されていくでしょう。

それは、組織や団体だけではありません。私たち一人一人が、それぞれの立場で志と夢を持って理想実現に向かって仕事や勉学、生活にいそしむようになるでしょう。そしてそれが、組織や団体の活動を支え、一大潮流となり、日本を先駆けとして、人類の危機回避のために、全世界で力強い協力体制が取られるようになると思います。 

今までの環境問題とか、いろいろ活動されている方の話を聞きますと、もちろん「希望を持ってやっている」という方もいます。けれども「大変だ、大変だ」と暗い気持ちに陥り「でも、頑張らなければ」と頑張っている方も多いようです。それに対して、この「国に理想を掲げましょう」という提案は、希望そのものです。

この提案について若い人に時間をかけてじっくりと話しますと、「日本がこんな国になれば、本当に素晴らしい、ワクワクして、 嬉しくなってくる。」と目を輝かしています。「そして、これなら自分たちにも できる。」と言うのです。そのような体験から、私は「国に理想を掲げましょう」という提案を、今こそ世に問う時機が到来したのだと考えているのです。

【司会】 時間がいっぱいになりました。それではこれで今回の講演会を終わります。 長時間どうもありがとうございました。

(おわり)





今こそ国に理想を その9

今こそ国に理想を その9
(その8からのつづき)

質疑応答

【司会】 ありがとうございました。では、引き続き質疑応答に入ります。

【Yさん】 質問ではないんですが、一つの方向性として化石燃料について訴えたいと思います。地球温暖化で百年後にはアマゾンは消えるというくらいになっています。百年経たたなくても、既にどこかの小国は石油が絶えてしまいます。ですから、日本は海に囲まれていますので、大々的に自然エネルギーを使えるようにすることが、国際的な福祉国家的な国家プロジェクトとしてできれば、世界的にもものすごく素晴らしい国になると思うんです。

【野村】 先ほど詳しく述べなかったのですが、そういうことも含めて、今度の本にもいくつかの提案させていただいています。デンマークや北欧の例もありますように、日本でもずいぶん研究されている方がいて、実は私たちの必要とするエネルギーの七割くらいが自然エネルギーでまかなえるという調査報告があります。その他に小型の水力発電機で、一メートルくらいの落差があれば、かなりの発電 能力があるマイクロ発電機もできてきています。そういうことを含めて、世界をリードできる技術が日本にはあるのです。やろうと思えばできると思うんです。それと今、原発に相当お金をつぎ込んでいますから、それを新しいエネルギーの開発費に回すだけで、もうすぐできてしまいます。日本は石油や石炭などの資源は少なくても、自然エネルギーを中心にした新エネルギーの開拓を国力を挙げて進め、世界をリードし貢献することが、日本にとっても世界にとっても大変望ましいと思います。

【Kさん】 今、憲法の精神を活かして、武力は一切製造しないということにして欲しいです。武力を持たないのだから、武器はいらない訳です。武器の元になるものを製造する会社があるので、それがもうかっていることを公にするべきでしょうね。

【野村】 大企業でそういうことに関わっているところがいくつもあります。それを調べて、なるべくそういうところの製品は買わないようにしよう、という不買運動を提案している人がいます。そういう企業の実態を公表した方がいいと思います。

【Yさん】 そういう企業が、もっと製品を売りたいために戦争を起こしたいのでしょうね。

【野村】 先ほど言わなかったことでもう一つ。日本には平和憲法があったから、六十年間戦争に巻き込まれなかったのだという考えと、日米安保があったから日本は戦争に巻き込まれなかったという二つ考え方があります。ところが日米安保があったからというのであったら、お隣の韓国などは、韓米安保というのがあります。にもかかわらず、ベトナムにも多く出兵して、一万人以上が亡くなっています。アフガニスタンにも出兵しています。イラクにも多数出兵しています。アメリカとイギリスについで、第三番目の勢力です。ですから日本が戦後、戦争に巻き込まれなかったのは、何といっても平和憲法があったお陰なのです。今度の本では、憲法問題だけでなく、環境問題や原発問題などについても、そういう事実をいろいろと上げて、それを知れば、自然に何が正しいか判断できような形で説明しました。

【Yさん】 「日米安保条約によって、アメリカが日本を守ってくれている」と思っているのは日本人だけであって、「アメリカは日本を奴隷にしている」と台湾や外国の人たちなどは皆そう思っています。

【野村】 日本が自民党案のように本当に憲法を改正してしまったら、アジアの人々の日本に対する雰囲気は非常に悪くなるでしょうね。そうなれば、日本がアジアの人たちに何を言っても通らなくなりますね。それを知っていながら、どうして改正をやろうとするのでしょうか。

【Yさん】 本来、平和憲法がアジアの人たちに対する一種の謝罪ですものね。

【Gさん】 終戦直後、昭和二十年代の本に割と関心があります。その時代の本というのは紙質が悪いですよね。紙質が悪くて、物のない時代に出版するというのは、相当のものしか出版されていないということですよね。南原繁の講演集の中に、新憲法の発表に関して書いてあって、「この憲法は人間が決めたのだから、変わらないということはないだろう。今までの過去、つまり昭和二十年までの歴史、そのマイナスの歴史だけはいつもアタマに置いてもらいたい」と書いてありました。そういう意味では、和田先生とは少し共通する面があるなと思いました。

【Oさん】 今日、甘蔗珠恵子さんがわざわざ九州の方からおいでくださっています。甘蔗さんは反原発の立場から、地湧社より「まだ まにあうなら‥‥私の書いた一番長い手紙」という本を出版されています。私も読ませていただいて、本当に感動しました。  野村さんの本の原稿を読ませて頂きました。原発についてただ感情的に「危険だ。必要ない」と言うのではなくて、経済的、その他のデータをあげて緻密に、しかも分かりやすく説明してあります。今の野村さんの話もそうだったのですが、データを出して、「あなたはどう思いますか」という感じです。すごく納得がいくな、と私は思っているんです。ですから一刻も早く出版して欲しいと願っております。  ところで、全く話は違うのですけれども、今、問題になっている共謀罪について詳しくご存じでしょうか? 今どのように審議され、どうなるかということも知っていますか?

【Mさん】 この間は、審議は延期ということになりました。採決を止めましたが、でも、まだあることはあります。

【Oさん】 国会の会期が延びれば、また出てくるかもしれません。やはり強行採決をすると思います。こういうことを国民があまりにも知らなくて、私はあ然としているのですけれども、共謀罪法案はまさに治安維持法と内容は同じです。それを国民が知らないうちに決められようとしています。与党が圧倒的に多いので、あっという間に国会を通ってしまいます。そうしたら、もう逆戻りはほとんどできません。なぜかというと、国旗国歌法案が通った時も、「これは心の自由を奪うものではありません」とはっきり言ったけれども、今、東京都の教育委員会はひどいものです。卒業式に行って、先生と生徒一人ずつ観察して、誰が座っていたかをチェックして、座っていた教師に対しては即呼び出して処分します。非常勤講師などは全部首を切られています。実際に、そこまで政治が教育に介入しているわけです。なぜ教育委員会の者がいちいち学校現場に出向いて、チェックをするのかということ、これも全く不可解なことです。けれども現実にそのようなことが行われているんです。  それから、例えばあまりにもマスコミが偏りすぎてしまっていると思うのは、原発よりよっぽど怖い青森県六ヶ所村の再処理工場が試運転をスタートさせました。試運転といっても稼働させたのと同じです。そしてもうすでに事故を起こしているのですが、それはほとんど報道されていなくて、みんな知らないんです。ネット上などでないと分からないのです。 もう一つ言わせてください。あの再処理工場からは、原子力発電所が一年間に出す放射能を一日で出しています。つまり再処理工場は、一日で三百六十五基の原発から出す量の放射能を空中に出しているわけです。そして海も汚染しています。放射能を含んだ排水は、三陸沖まで引っ張って、そこから出しています。岩手県を通って千葉まで来ています。そうすると、あの海流に乗っている魚介類や海草はもう毎日汚染されているんです。知っていますか? 皆さん。あまりにも知らな過ぎると思うんです。海は広いから薄められる、と説明されています。そして魚が汚染されたら、三陸の魚は誰も買わなくなります。イギリスの再処理工場のある回りは白血病患者が異常に多いようです。それなのに、六ヶ所はへき地だから、人口が少ないから、補助金をもらいたいから、買収してやっているわけです。その事実に知らん顔している私たち一人ひとりは、本当におかしいです。

(つづく)





今こそ国に理想を その8

今こそ国に理想を その8
(その7からのつづき)

アメリカの世界戦略と日本 

このように、一方では北朝鮮や中国の脅威を盛んに喧伝しながら、もう一方では、日本だけの自衛、あるいは極東の軍事的不安ということだけでは、自衛隊やアメリカ軍の存在意義がなくなるので、今度はインド洋から中東まで伸ばしたアメリカの世界戦略に日本を組み入れていこうとしているのです。このように、日本の再軍備を願う人々は、日本を専守防衛から、日米同盟を基にした新しい世界戦略に組み込まれるように変えようと、いろいろ画策しているのです。それが新ガイドラインや有事法制、あるいは周辺事態法などです。このように、憲法の外堀から埋めていって、次に内堀を埋めて、憲法をなし崩しにしてきたのです。そして、最後の本丸を落とすべく、憲法を改悪して、軍隊を正式にもち、集団的自衛権を行使し、海外に出かけて、堂々とアメリカと一緒に戦争のできる国にしようとしているというわけです。   

平和憲法の能動的理解を 

今こそあらためて日本国憲法の世界史的な意義を認識し、それを訴えるときだと思います。日本国憲法はただ受け身で、単なる非武装の平和政策を唱えているのではありません。実際には、今の世界情勢では日本を攻めてくる国などありそうにもありませんが、それでも単なる「丸腰」では、万一ということを考えると少し心もとない。最低でも、戸締まりはしておいたほうがいいと考える人もいるかもしれません。

しかしながら、平和憲法の前文で宣言しているのは、日本が平和的手段によって、全面的に、国力を挙げて、世界の貧困や飢餓問題や疾病の支援・解決を図り、国際貢献をすることによって世界にとってなくてはならない存在になる。つまり「武力でなく平和的な手段で、世界に貢献することによって、国の存立を図っていく」ということです。だからこそ、九条において「一切の武力は放棄し、自衛の戦いも含めて一切の戦争はしません」ということを宣言したのです。 

もちろん、憲法改正に賛成する一般の多くの人々は「好んで戦争する国」にするために、改正に賛成しているのではなく、「日本を外国の脅威から守るために、軍隊を正式に持ったほうがよい」という考えだと思います。しかし、政府をはじめ積極的に憲法を変えようとしている人々の意図は、もっと別のところにあることを理解する必要があります。その人々の意図するように憲法が変えられてしまったならば、日本はもはや取り返しのつかない、大変危険な方向に向かうことは間違いありません。それは文字通り、人類の宝を、その真価も分からずにドブの中に捨ててしまおうとしていることなのです。日本にとっても世界にとっても、これ以上の損失はありません。 

和田先生は「国家エゴイズムを超えて、国際福祉国家への道」を提唱されるとともに、「平和憲法の精神をもっと能動的に理解し、実際に実行しよう」ということを提唱されました。この二つの提唱はまったく同じ意味でもあります。しかしながら、戦後「平和憲法を守ろう」という動きはあったと思うのですが、政府も日本国民も、平和憲法の精神に沿って、あるいはそれをもっと能動的に理解して、本当にエゴイズムから脱した国づくりを目指そう、という動きはほとんどしてきませんでした。 

人類社会がここまで行き詰まっており、日本社会自体が閉塞感に包まれ、停滞している今こそ、私たちはあらためて、日本国憲法の精神を深く、さらに能動的に理解して、日本が率先して国家エゴイズムを放棄して、「国際環境平和国家」の理想を掲げ、世界平和の道筋をつける先駆けとなり、世界をモラルの面でリードする国になるべきだと思います。 

憲法問題に関して、今が一番の正念場だと思います。 和田先生はいつも「一人から一人に」とおっしゃっていられました。「一人から一人に」伝えていく力は、最初は小さいようですけれど、結局それがもっとも大きな力になると思います。一緒に皆さんとやって行きたいと思います。   

(つづく)





今こそ国に理想を その7

今こそ国に理想を その7
(その6からのつづき)

史上初の脱国家エゴイズム憲法 

以上のように、日本国憲法の前文と九条に見られる平和に関する根本姿勢は、ただ単に平和声明を出したり、言葉だけで国際協調を唱えたりという類ではなく、「武力は放棄して、捨て身の決意で、平和的手段によって、世界の平和と繁栄に貢献する努力をしよう。それによって国の存立を図ろう」ということです。

憲法は国の内外に向かっての基本的政治姿勢の宣言であり、誓約です。このような国家エゴイズムを超えた立国の根本方針を堂々と成文法の形で言明した国が、それまで歴史上一つでもあったでしょうか。その意味で、日本国憲法は人類史上初の脱国家エゴイズム平和憲法なのです。  

しかしながら、その後アメリカの要請に従って、日本政府は九条の制約を「自衛」と「武力による自衛」とを巧みにすり替えることによって突破しました。そして、警察予備隊から保安隊、さらに自衛隊へと発展させてきました。歴代内閣は詭弁と憲法の拡大解釈を繰り返し、ついに自衛隊は世界第三位の軍事力を有し、さらには事実上海外に派兵するまでになったのです。

このように巧みに既成事実を積み上げることによって、外堀と内堀をほとんど埋め終わった今、いよいよ本丸を落とすべく、最後の仕上げとして、今まさに肝心要(かなめ)の憲法改正そのものを現実のものとしようとしているのです。しかしこれまでのことはこれまでのこととして、今このように憲法改正論議が盛んになることによって、もしこの憲法の持つ真意とその人類史的意味が私たち日本国民によって本当に理解されるならば、それは新しい日本の再出発のための絶好のチャンスとなるでしょう。 

今、まさに私たちは岐路に立っています。その意味で、今あらためてポイントとなる問題点は、この平和憲法が「現実的か、非現実的か」ということです。言い換えれば「平和的手段による平和への努力をするのか? それとも、戦力のバランスによる戦争抑止をねらって軍備の拡充を図るのか? そして、集団的自衛権を行使して、積極的に他国の戦争に参加するのか?」ということです。   

九条と前文はワンセット  

九条を解釈する場合に、重要なポイントがあります。それは、九条は前文によって支えられて、初めて本当の意味を持つということです。つまり九条だけであれば、ただ単に自衛の戦いを含めたすべての戦争を放棄するということと、そのために一切の戦力を保持しないということになります。つまり、九条は非武装と戦争放棄ということを言っています。

それだけであれば「これで果たして、国は守れるか? 少し心もとないのではないか? それこそ、どこかの国が攻めて来るかもしれない。もし、万一攻めてきたら、どうやって国や国民を守るのか? だから、万一に備えて、あるいは、攻めて来られないように、ちゃんと軍隊を持ったほうがいい」というような意見が出てくる可能性があります。 

それらの意見に対して、どのように答えても、納得してもらうことは難しいかもしれません。もちろん、逆に(抑止のためも含めて)戦争ができるような軍隊を持つことによって、かえって戦争に巻き込まれる可能性が大きくなるという意見もあります。それに対する反論もあるでしょうが、反論することによって相手を説得するのは難しいかもしれません。要するに、どっちの意見であっても結局は、見解の相違だということで平行線をたどる可能性が大です。  

九条は前文とセットになって初めて本当の意味と現実的効果を持っているということは、平和憲法を解釈する上で 非常に大切なポイントです。つまり前文と九条で言っているのは「私たちは、自分の国さえよければ、という国家エゴイズムを捨てて、世界の諸国民の飢餓や貧困疾病などの解決と途上国の繁栄のために、国家を挙げて全力で貢献し、世界の国々にとって『なくてはならない存在』となることによって、国の平和と存立を図ります。つまり、武力でなく、平和的な手段によって世界の平和と繁栄に国を挙げて貢献することによって、国の平和を守ります。したがって、一切の武力は必要ありません。また、自衛のための戦争を含めて一切戦争はしません」ということです。  

北朝鮮・中国脅威論 

北朝鮮や中国の脅威がよく言われます。アメリカとソ連の冷戦が終わった時に、日本の再軍備を望む人たちはパニック状態になりました。それまで日本は専守防衛、つまりもっぱら防衛ということでやってきたのです。ところが冷戦が終わって、仮想敵国であったソ連がなくなってしまったのです。それとともに、中国も共産主義国ではあっても、それほどの脅威ではなくなりました。 

ということは、自衛隊自体(そして日米安保条約自体)の存在意義がなくなったということです。自衛隊や日米安保条約がなくなると、関係する人々や組織や企業などは、それまでの既得の権利や利益を守ることができなくなります。そこで、何とかしなければならないと考えました。それで、自衛隊や日米安保条約を存続させるために、突然北朝鮮脅威論が盛んになってきました。  

それから、中国が経済的に力を付けてくるにつれて、また少しずつ中国の軍事力が伸びてくると、中国のミサイルが日本に向けられているというように、中国の軍事的脅威が非常に強調されるようになりました。仮想敵国がなくなれば、自衛隊など必要ないわけですから、そこで急きょ、阪神大震災に対する緊急救助活動や国連平和維持活動(PKO)などによって、自衛隊の存在意義を保とうとしてきたのです。 

その後、もはや専守防衛だけではだめだということになりました。北朝鮮も国力があそこまで疲弊した状態では、日本を攻める力もありません。仮に攻めてきたとしたら、二、三日の内に、いろいろな国から、北朝鮮自体が経済制裁どころではなく、軍事的制裁を受けて、今の体制そのものが崩れてなくなってしまいます。 

中国にしても、今、日中間の貿易額は日米間の貿易額とほとんど同じか、それ以上になってきています。ですから日本と中国は、国の政治的体制はお互いに異なっていて、政治的には多少ギクシャクしていますが、経済的には、お互いがなくてはならないパートナーになっているのです。日本と韓国もそうです。北朝鮮は、特に日本からの経済援助を当てにしています。こういう状態の中で、日本を攻めてくる国があれば、それは即その国の自滅につながります。本当は経済の方から見れば、そういうことは明らかなのです。  

したがって、北朝鮮や中国の脅威が言われますが、それはありえないと言ってよいのです。それでも、もしかしたら「北朝鮮が暴走することがあるかもしれない」と言う人もいます。もし万一起こったとすれば、それはまさに「個人的な狂気」によるものであり、「日本に軍隊があるかどうか」にはまったく関係のないことです。   

(つづく)





今こそ国に理想を その6

今こそ国に理想を その6
(その5からのつづき)

日本国憲法の意味 

以上述べてきた提案の趣旨から、「今、私たちが何をすべきか」と考えた時に、現実的には、今も最も緊急な課題は「改憲か護憲か」という問題に正しい判断をすることです。それがまさに日本の未来を決定するからです。そのためには「日本国憲法というのが何を言っているのか」ということを正しく理解することからはじめなければなりません。そしてさらに、日本国憲法の歴史的な意義を深く理解することが肝要です。   

前文をよく読むと まず日本国憲法の前文を読んでみましょう。最初の部分は省略します。  

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。    

われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ平和のうちに生存する権利を有することを確認する。  われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。 

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。 


この前文は、多くの人にとって、ちょっと読んだだけでは分かったようで分からないところがあるようです。その結果、私たちはこの前文を漠然と文字の羅列だと受け取り、その活気みなぎる能動性と積極性を見落とし勝ちになるのではないかと思うのです。そこで、少し言葉を補ったりしながら、その意味をよく考えてみましょう。カッコでいくつかのことばを挿入し、同時に文の順序を少し入れ換えたりまとめたりすると、この前文の意味は非常に明快になります。それは次のようになります。 

日本国民は、(一時的な仮の平和ではなく)恒久の平和(つまり、ずっと永続する本当の平和)を念願します。  私たちは、人間相互の関係を支配する崇高な理想(つまり、人間は皆兄弟のような存在であり、お互いに自由であり、平等であるという人間相互の本来のあり方)を深く自覚しています。  私たちは、平和を愛する諸国民の正義と誠意(つまり、こちらが正義と誠意を持って接すれば、相手も、正義と誠意で答えてくれるということ)を信頼します。 

そして、(武力で私たちの安全や生存を守ろうとするのでなく)平和を愛する諸国民の正義と誠意を信頼することによって、私たちの安全と生存を守ろうと決意しました。 私たちは、平和を維持し、圧制と隷従、抑圧と不寛容を地上から永遠になくし、また、全世界のすべての国民が、恐怖と貧乏からまぬがれ、平和に生きることができるように(自分たち自らが、先頭に立って、そのために全力で努力し、貢献することによって)国際社会において、名誉ある地位を占めたい(つまり、尊敬される存在になりたい)と思います。 

いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視しては ならないのであつて(つまり、どんな国家でも、「自分の国さえよければ」というエゴイズム国家であってはならないのであって)、(以上のような)政治道徳の法則は、(本来すべての国が守るべき)普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信じます。  

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげて、これらの崇高な理想と目的を達成することを誓います。 (自分たち自らが先頭に立って、そのために全力で努力し、貢献することによって)名誉ある地位を占めたい‥‥という部分に関しては、カッコ内に挿入した(自分たち自らが‥‥)という文が恣意的だと思われるかもしれません。しかし、「平和が維持され、圧制と隷従、抑圧と不寛容が地上から永遠になくなること」をただ単に、心の中で願っているだけでは、とうてい「国際社会において名誉ある地位を占める」ことはできないはずです。そのためには、どうしても国家レベルでの積極的な実行による大きな国際貢献がなされなければならないはずです。また全体の文脈から言っても、カッコ内に挿入した文章を補って読む方が前文の意味がはっきりすると思います。 

このように丁寧に前文を読んでみると、この前文全体から見えてくることは、日本国憲法の活気みなぎる能動性と積極性です。   

九条をよく読むと 

次に、第九条を見てみましょう。  

日本国憲法第九条一 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求 し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は 武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。二 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 


ここで、第一項の「国際紛争」には、前文の意味から当然「相手国からの自国への侵略」も含まれます。つまり「自衛のための戦い」も「国際紛争を解決する手段」に含まれるのです。したがって、第二項の「前項の目的を達成するために」という中には「自衛のための戦い」も含まれるということになります。 

さらに、第二項の「交戦権」については、そもそも国際法上では、「戦争」といえば「自衛のための戦争」しか認められていません。つまり、そもそも「他国を侵略する権利」は認められていないのです。ということは第二項の「交戦権」というのは「自衛のために戦争する権利」ということです。したがって、第二項の「国の交戦権を認めない」というのは「国の自衛のための戦争を認めない」ということなのです。 このように解釈してこそ、第一項と第二項がぴったりと整合し、さらに第九条と前文もぴったりと整合するのです。この部分は何回も繰り返して読むと、よく意味が分かってきます。  

自衛権について  

もちろん、国際法では「自衛権」が認められています。しかし「自衛権」はそのままイコール「武力により自衛する権利」ではありません。というのは、「自衛権」には「武力によって自衛する権利」も「武力以外の手段で自衛する権利」も含まれるからです。 

九条で言っているのは、本来は(国際法から言っても)「自衛権」も、そしてその中の「武力により自衛する権利」もあるけれども、日本はあえて「武力により自衛する権利」は放棄するということです。つまり九条は、本来「自衛権」はあるけれども、「自衛のための戦争」を含むすべての戦争を放棄しているのです。 

逆に言えば、九条は「武力によらないで自衛する権利、すなわち平和的手段によって自衛する権利」は放棄していないのです。ちなみに社会の中には、権利はあってもそれを放棄するという例はいくつもあります。たとえば財産の相続権などの場合を考えると、分かりやすいのではないでしょうか。 

このように、固定観念を持たずに、素直に九条を読めば、九条が「例え、自衛のためであっても、武力は持たない」という決意の表明であることは疑う余地はありません。「不幸にして外国から侵略を受けることがあっても、武力をもって立ち向かうことはせず、武力以外の手段で自衛しよう」という捨て身の構えを表明したものと受け取るべきです。

九条には「国の交戦権は認めない」と書いてあるだけで、「自衛の必要がある場合は、この限りにあら ず」というような例外規定は何もついていないことが、何よりもこの解釈を裏付けています。 

要するに一口で言えば、「これからはもう戦争はしません。戦争はしないということを保障するために、陸海空軍という武力は持ちません」と言っているのです。そこには何の条件も付けてはいません。「こういう場合はやります」とか「こういう場合はやりません」とか一切条件を付けてはいません。俗な言い方をすれば「売られてもケンカは買いません」ということです。   

(つづく)





今こそ国に理想を その5

今こそ国に理想を その5
(その4からのつづき)

国際環境平和国家 

ですから、環境面でも、日本が高度の技術を生かして、世界の環境先進国、環境モデル国家を国家目標として、そこで培われた技術や知識をもって、世界の環境問題に全面的に協力・支援することが大変望ましいと思います。一方では、今後ますます飢餓や食糧問題が大きな問題となっていきます。その面でも現在日本は食料自給率が四〇パーセントくらいですから、非常に弱いのです。食料の自給自足にもっと本腰を入れて、これからの世界のあるべき姿、モデルになる方向を目指すべきです。 

エネルギーについても同じです。このように平和的な手段によって、国力を挙げて世界に貢献する国に生まれ変わり、世界になくてはならない国、尊敬される国になることによって、国の存立を図ること、平和を守ることこそ日本の唯一の進むべき道であると思います。 そういう意味で、私自身は今の段階として「今こそ国家エゴイズムを超えて」を本のタイトルとして、副タイトルを「国際環境平和国家への道」としたいと思っています。   

事実を知ることが大切「国際環境平和国家」という表現で、「環境」を入れましたのは、環境問題が現代で最も深刻な問題であるからで、その面で世界に貢献する国になるということです。原発や食糧問題、エネルギー問題なども含めて、広い意味で「環境」と言っております。原発については、いろいろなことが言われています。とにかく危険だということは皆さん何となく思いながら、「それほど危険ではない」と説明されると、そうなのかな、と思ったりして「本当はどうなんだろう?」というのが多くの人の実感ではないかと思います。しかしここではっきり申し上げておきたいことは、調べれば調べるほど、「原発は超危険だ」ということが事実だということです。 

また「経済的なメリットは全くない」ということがはっきりとしています。そして、実は原発がなくてもちゃんとやっていけるのです。例えば、クーラーを沢山つける夏の電力使用ピーク時に電力が不足しているということが口実 とされて、原発が必要だと言われたりしていますが、法的な整備をきちんとすれば原発なしでも充分やっていけるのです。例えば、夏の電力ピーク時には電気代を高くしておけば、みんな意識的に使用時間をずらして調整するので、ピーク時の電力不足はなくなってしまうのです。「石油が不足してきたらどうするのか? やはり原発は必要ではないか」と言われるかもしれませんが、これもよく調べると「原発は大量に石油を消費する」という事実が浮かび上がってくるのです。このようにいろいろな面から調べてみても、本当は原発はなくて済むのです。 

それからエネルギー効率というのでしょうか、エネルギー収支バランス、投入したエネルギーと取り出せるエネルギーの割合を厳密に計算してみますと、原発は他の発電方式に比べても特にメリットはありません。むしろ、廃棄物の処理まで含めた長期的な目で見れば、エネルギー収支は一以下、つまり投入したエネルギーより取り出せるエネルギーの方がずっと少なくなってしまうことが、本当ははっきりしているのです。にもかかわらず一部の関係企業とか政治家の人たちが、今の豊かさをある程度維持していくためには原発は必要だ、あるいは今後石油がなくなってきたらやっぱり原発がなくてはならないなどと、言葉巧みに世論を誘導しようとしています。多くの人が「原発は危なそうだから、止めたほうがいいのではないか」と思いながらも、そう言われると「それでも、もしかしたら必要なのかな?」と心が揺らいでしまうようです。それだけに、事実 をお互いにきちんと調べること、知らせ合っていくことが大切だと思います。   

提案の要点 

もう一点、和田先生は日本の目指す国は「国際福祉国家」とされていますが、私は「福祉」を含めたもっと広範囲の平和活動という意味で、「平和」という言葉を使っています。それと、特に現代の最大の問題である環境保全活動に国力を捧げるという意味で、日本が目指すべき国は「国際環境平和国家」だとしています。 

あらためて、この提案の趣旨を要約してみましょう。 

世界の行き詰まりと日本の深刻な諸問題を解決するためには、その根本の要因であり、ポイントとも言うべき、国家エゴイズムによる各国の対立関係を緩和し、これまでの歴史の流れを変えることが必要です。そのためにはまず、日本が率先して国家エゴイズムを放棄して、自ら、平和的手段によって世界に貢献する国「国際環境平和国家」に生まれ変わることです。しかしそれを直ぐ実現しようというのではなく、その前段階としてまず日本という国に「国際環境平和国家を目指すという理想を掲げよう」というのです。そして、その機運を活発にすることによって国家間の対立を緩和し、国の内外に変革をもたらし、世界平和と日本新生の道筋をつけようというものです。

(つづく)




今こそ国に理想を その4

今こそ国に理想を その4
(その3からのつづき)

人類の歴史 

人類社会は、最初の狩猟採集時代から、個人個人でバラバラに生活するのではなく、集団として生きてきました。最初の集団というのは数家族からなる小集団だったと思われます。その方が動物の攻撃などから身を守りやすいということと、生活の中でいろいろな協力体制が取りやすいところから、集団を作っていったと思うのです。狩猟採集時代というのは、比較的食べ物が豊かな地方では、それぞれのグループが食べ物を求めて移動を繰り返していました。他の集団と出会っても、ちょっとあいさつをする程度で、ほとんど摩擦もなかったと思われます。 

けれども、より安定した食料を確保するために、定住して農耕を始めるようになった農耕時代から、富の蓄積が進み、分業体制が進み、また、集団の規模が大きくなっていき、その中で権力者とそうでない人など、身分や階級ができてきます。あるいは食料が乏しくなったら、他の集団を襲って食料を奪うというようことが頻繁に起こるようになります。こうしてグループ同士の対立が強くなっていったのです。  

このように人間は集団を作って、集団を一つの単位として生きてきました。その集団の根本方針は、一言で言えばエゴイズムでした。つまり「他の集団は生存上のライバルである」として、「自分の集団の繁栄と生き残り」のために生きてきました、そして、それは、しばしば他の集団との命がけの戦いとなったのです。 

そういう歴史を何千年と繰り返してきて、集団の規模が大きいほうが他の集団による攻撃から守りやすい、また、より安定した生活を維持することができるということから、最初は小部族から、部族になって、部族から小国家、小国家から国家というように集団の規模がだんだん大きくなっていきました。 その集団の一貫した基本方針は「自分の属する集団の繁栄と生き残り」ということです。これが集団自体、そして、集団の権力者と構成員にとっての至上価値となっていたのです。   

国家エゴイズム 

そして今現在、その集団の単位というのは国家ということです。この国際社会では主権を持つ国家を単位としています。そして全ての国家の憲法以前の基本政策が「自国の繁栄と危急存亡の時の生き残りを最優先とする」という国家エゴイズムなのです。もちろん、民族とか宗教とか企業とか個人も国際社会を構成する要素です。けれども、その 中で一番影響力を持っているのが主権を持つ国家という単位だと言えます。 

国際社会において最も影響力を持つ単位であるそれぞれの国家はエゴイズムを基本方針にしており、基本的には互いに対立関係にあります。それが国際社会、そして実は国内においても最大の問題であるのです。この世界には企業の活動、個人の生活、あるいは、民族や宗教もあります。前にも述べましたように、エゴイズムから民族の対立、宗教の対立、企業同士の激しい競争、あるいは個人同士のいさかいなど、いろいろな問題が出てきます。けれども国家エゴイズムは、国際社会における国家間の対立の原因になっているだけでなく、実は国内社会の枠として、政治やいろいろな制度、経済、教育など、私たちの生活全般を規定しているのです。 個人やいろいろな集団でのエゴイズムは、絡み合って複雑なものになっています。そして、国家そのものの基本政策が強力なエゴイズムであるために、それらのエゴイズムが何十倍何百倍に増幅され、地球環境問題、途上国の貧困、飢餓問題、あるいは国内の原発、福祉、教育問題など種々の深刻な社会問題を生み出しているのです。そういうことから、和田先生は、この現代社会の危機を乗り越えていくポイントは、「国家エゴイズムを超える」ことであると喝破されたのです。  

行き詰まりを越える道  

エゴイズムの克服はおそらくお釈迦様の時代以前からの人間の根源的な問題だと思います。しかし、人類がこの歴史上かつてない危機を乗り越え、新たな未来を切り開いていくためには、どうしてもいろいろなエゴイズムを解消することが必要だと思うのです。エゴイズムを解消するために、個人、あるいは集団レベルでそれぞれ心がけることはもちろん大切です。けれども私が和田先生の提唱で最も感銘したのは、次の三点です。 

第一点は、いろいろなレベルのエゴイズムを解消するポイントは「国家エゴイズムを越えることである」ということです。 

第二点は、「国家エゴイズムが世界の戦争の原因・対立の原因になっているので、国家を廃止して世界連邦にしましょう」と言っても、現実には直ぐにはできません。国家エゴイズムによる国家の対立を解消する唯一の道は、先ず自らが率先して自国の国家エゴイズムを放棄すること、具体的に言えば、日本が「国際福祉国家」に生まれ変わることであるということです。 

第三点は、「国際福祉国家」を直ぐに実現するということではなく、その実現は少し遠い将来の目標として、当面の目標として、まず日本という国に「国際福祉国家を目指そう」という理想を掲げようということです。 

その機運が大きくなるにつれて、国の内外に徐々に新しい流れが生じ、それがだんだん大きくなっていく。国内的には新しい機運の下で、種々の活動が活発になるに連れて 人々が夢と生きがいのある生き方にかわっていく。国際的には国家間の対立・緊張関係が緩み、国際社会はこのかつてない人類の危機打開に向かって大きく協調体制が取られるようになるだろうということです。   

人類の危機 

私はこのダイナミックで立体的な思考体系に大きな感銘を受けたのです。その考え方の骨格について、今日までずっとその通りだなと思ってきました。とはいっても、四十年前と現代とでは社会状況がかなり違ってきています。和田先生があの本で提唱された時は、米ソが大量の核兵器を擁して対峙し、まかり間違えば全面核戦争の危機が現実にあったのです。けれども冷戦が終わって、全面核戦争の危機は現実的には少し遠のいています。ただそれに変わって確率的にはもっと確実に、人類の多くが大変な被害を受ける可能性のある様々な深刻な地球的規模の問題が生じてきました。 

その代表的なものが、地球環境問題と原発問題、途上国の貧困と食糧問題、感染症を代表とする疾病などです。地球環境問題についてはいろいろな報告がありますが、調べれば調べるほど想像以上に深刻な状態となっています。数十年以内には何十億という人が大変苦しむことになるかもしれない、と国連関係のいろいろな組織からも報告されています。

日本自身については、確かに企業の省エネという面では大変優れており、世界のトップクラスですけれども、一方では京都議定書への対応の仕方などを見ても、環境問題に対する法的な整備など、政府の取り組み方がまったく及び腰と言ってよいでしょう。また一般の人々の環境問題に対する認識も、ヨーロッパの人々に比べると相当遅れていると言われています。多分、多くの人々が日本人特有の「お上信仰」によって、そういう問題は自分たち庶民の関わる問題ではないと思っているのかもしれません。これはとんでもない間違いです。ヨーロッパの環境先進国のように、市民がリードして国家を動かすぐらいに市民意識が高まり、成熟することが大切なのです。   

(つづく)





今こそ国に理想を その3

今こそ国に理想を その3
(その2からのつづき)

エゴイズムから生じるもの 

そういうものを見失ったところから、エゴイズムが出てきていると、私は体験的に思っております。エゴイズムの出てくるところは、「自分と他人は利害を異にする存在である」つまり、「すべての存在はバラバラである」という観方ですから、結局は、自分さえよければ、まず自分が大切だ、というふうになります。他との関わりにおいては対立・競争・優劣というようなことが出てきます。さらに、他の人よりも、あるいは他の集団よりもより多くのモノを所有する、あるいは相手をやっつけるそれによってより大きな安心感を得られると思うのです(本当は錯覚ですが…)。また当然、物質的欲望、豊かさを「もっともっと」と求める気持ちにもつながっていきます。 

企業としては他との競争に打ち勝とうとしますので、競争社会がますます激化していきますし、大量生産、大量消費になっていきます。また他はどうなってもいいわけですから、大量廃棄をします。人々の飽くなき物質的欲望と企業の競争と対立、自然と自分とは別物という観方が環境問題の原因ですが、結局環境破壊の一番の元にあるのはエゴイズムということになります。 

その他に、宗派宗教などは、一番人々に正しい人生観と世界観を指し示して、人々に安心と世の中に平和をもたらすべきであるものなのに、なぜか本家本元争いをしているところが多いようです。自分の正当性を主張して、他を圧倒しなければならないというような動きが、ほとんど必然的に出てくるというのも、根源的にエゴイズムがあるのだと思います。つまり、自他一体の真実というものが、確かなものになっていないところから出てくるのだと思います。一つの宗教であっても、必ずその中に派が分かれてくる。そして分裂していくというのは、どうしたことでしょうか。もちろん、正しい宗教というものはあるとは思いますが‥‥。   

限界あるアタマの働き  

統合していく姿が本来であるはずなのに、なぜか人間どうしはバラバラになっていく傾向があるようです。しかし、私はそれを本能だとは思わないのです。ただ人間の大脳という判断・処理能力を持った一種のコンピューターは、物事を相対的にしか判断・処理できないと思うのです。ところがこの世界の存在は、大脳の相対的な思考方法あるいは言葉ではもともと捕らえ、表現することができないのだと思います。これは仏教などを深く研究されている方でしたら、おそらく同じようなことを言われると思うのです。 

大脳は、白といえば黒、せいぜい真ん中の灰色と、その程度しか表現できないのです。個と全体、あるいは、その中間という表現はできても、たとえば、存在の事実の一面である「個の中の全体」あるいは「全体イコール個」「個イコール全体」という事実を、人間のアタマは的確に表すことができません。 

そういう限界のある大脳によって物ごとを判断・処理しようとしていますので、そのために本来すべての存在は不可分で一体のものが、バラバラに見えてしまうのだと思います。そして、バラバラであるという錯覚からエゴイズムが生まれてくるのです。 このような人間のアタマの処理能力の限界ということについて、みなさんにも具体的に考えて頂きたいのです。どういう限界を持っているのか。 

例えば、「優劣」という言葉があります。これは私たちが日常に使っている言葉です。技能が優れているとか劣っているとか、いろいろな面で優劣という言葉を使います。優越感・劣等感、そういう使い方もあります。 けれども本当に、この世の中に「優劣」というのはあるのでしょうか? 道徳的に「優劣」をつけてはいけない、というような意味ではなく、本当に「優劣」は存在の真実なのかどうかということです。いかがでしょうか? よくよく検討してみますと、「優劣」というのは人間が考え出したもので、この世界の中、あるいは、存在の事実の中には「優劣」というものはないということが分かります。 

例えば、百メートルを十秒で走る人と十四秒かかる人がいるとします。オリンピックなどの徒競走の場合であれば、十秒の方が十四秒よりも「優れている」、十四秒の方が十秒より「劣っている」というように「優劣」という言葉が使われます。けれども、よくよく検討してみますと、ある人(たち)がある目的を設定して、その目的に適したものを「優れている」、そうでないものを「劣っている」と言っているだけです。仮に人間がある都合によって、勝手に速いものを「優れている」とすれば、速いものが「優れた」ものとされるということです。事実としては「速い遅い」があるだけです。場合によっては、遅い方が目的に適するという場合もあるのです。その場合には、「遅い」ほうが「優れている」とされることになります。このように「速い、遅い」というもともとの事実そのものの中には、どちらが「優れている、劣っている」というものがあるというわけではありません。

「所有」ということについても同じです。この世界の中のすべてのものは、もともとは、太陽や、空気、水のように、「誰のものでもない」のです。そもそも大自然の中に「誰々のもの」というものはあるでしょうか?「誰々のもの」というのも、結局は人間が勝手に作り出した観念、あるいは仮の約束事でしかありません。ですから同じものが、時代や社会体制、あるいは状況によって「私のもの」になったり、「他の人のもの」になったり、「社会のもの」になったり、「国家のもの」になったり、というふうに変わるのです。真理は一つであり、時代や社会体制や状況によって変わるものではありません。ということは、本当は、すべてのものは「誰のものでもない」ということなのです。 

このように、「優劣」にしても「所有」にしても、人間が考え出した便宜的な観念にしかすぎません。そして、もともと事実の中には存在しないという意味では、間違った観念だということになります。   

優劣観念と所有観念「優劣」という間違った観念や言葉によって、どれだけ人間は他人を苦しめ、そしてまた自分を苦しめているでしょうか?「優劣」という間違った観念を持たなければ、優越感も劣等感も持ちようがありません。また差別も起きるはずもないのです。「誰々のもの」という間違った所有観念 がなければ、「富める者と富まざる者」という差別や格差も、本来あるはずもないのです。前に述べたイヌイットやアボリジニ、あるいはアマゾンの奥地の部族の人たちには、優越感、劣等感、差別、「富める者と富まざる者」などはないようです。 

これらの観念は、限界のある大脳の働きによって作り出されています。例えば大自然の中には「所有」というものは、もともと一切ないのに、所有観念を持っているために、「自分のもの」、「他人のもの」、「他人のものであるから、自分は使えない」、「自分のものだから、他人には使わせない」、あるいは、「他の人が使うには、私の許可が必要だ」とこだわっています。これがエゴイズムであり、「ケチな根性」です。ようするに、モノは、そのモノの持ち味を活かして、必要な人が、必要な時に使えるのが本当ではないでしょうか? 

このようにエゴイズムというのは、一つはバラバラ観、もう一つは、根源的に何か大いなる存在から切り離されているという不安感、そして限界ある大脳の判断・処理、この三つが絡み合って出てきているのだと思います。 

いろいろな個人的な人間関係や社会的対立関係、例えば、いじめや争い、世の中自体が競争社会であるといった、もろもろの問題はエゴイズムから出てきているのです。では、それをどう解決していくかということが問題で す。個人あるいは人間集団のエゴイズムによって、人類社会はここまで行き詰まってきています。「それを超えるにはどうしたらよいのか」と和田先生が提案されたのが、「みんなで国に理想を」つまり「国家エゴイズムを超えて」ということなのです。

(つづく)





今こそ国に理想を その2

今こそ国に理想を その2
(その1からのつづき)

今こそ「みんなで国に理想を」 

あらためて私自身で本を書こうと思ったのは、二〇〇一年の九月十一日のニューヨークのテロ事件の後です。というのは、そのあたりから日本の人たちも「平和ぼけ」というところからようやく少し目が覚めて、世界ではとんでもないことが起こりうるんだということを感じるようになり、危機感を持つようになってきたからです。世界で一番強い国であるアメリカの中枢部が、テロ攻撃を受けているあの衝撃的な映像というのは、やはり新しく歴史が動いた瞬間だと思います。それで、私たち一般の日本人もこういうことが現実にあり得るんだ、ということを実感的に受け取れるようになったということです。

もう一つは、その後のいろんな国の動きを見て、国家というものが、その国家の利益、国益、あるいは国家のエゴイズムで動いているということが非常に認識されやすくなったということです。 

戦後の日本人は、国家というものをあまり意識して生きてこなかったのです。というか戦後は、国家を意識しなくてもやってこられた大変幸せな時代であったと思うのです。前回純子先生が講演されたのは、第二次世界大戦のときの弟さんのお話でしたけれども、つねに国家というものを意識して生きていかなくてはいけないというのは、大変な時代だったんだなということを改めて思いました。 

戦後、国家を意識してこなかった日本人というのは、もしかしたら世界で一番幸せな国民かもしれないと思うぐらい、ただひたすら経済的な繁栄を求めて生きてきました。 中には、経済的に豊かになれば心も豊かにすると思いながら生きてきた人もいるかもしれません。しかしながら結果としては、その経済的繁栄、物質的な繁栄を追い求めることによってずいぶん失ったものが大きかったと思います。それが9・11以来、国際社会というものは国家を単位として動いているんだということを、普通の人に話しても簡単に理解して頂けるようになったんです。 

もう一方では、いよいよ憲法改正への勢いが、あるいは企みと申しますか、非常に露骨になってきました。 また地球環境問題が深刻化しているという事実が、大分人々に認識されるようになり、このままではどうなっていくのだろうと、社会的な危機感や不安感が増大してきたこともあり、今こそ日本や世界の今までの歴史、どういう経過をたどってここまで来たのか、ということも踏まえた上で、「日本人が何を世界に向かってやるべきか」ということを書いておくべきである。そういうことをやらずにこのまま憲法改悪の方向に向かわせてしまうこと、そして、人類の多くの人々が苦しむのはあまりにも残念だという思いで本を書き始めました。   

諸問題の原因はエゴイズム 

もう一度最初に戻りますけれども、世界、そして日本の社会的な諸問題の根本原因は何でしょうか。今度の本を書くに際して、改めて何回も自分に問い直してきました。和 田重正先生は諸問題の根本原因は、一言でいえば国家エゴイズムにあるのだと言っておられるように思います。でもよくよく先生の本を読み直してみると、結局人間の個人、あるいは集団のエゴイズムが問題なのだと言っておられたことがだんだん判ってきました。 

和田重正先生は、エゴイズムという言葉を個人についてはあまり使われなかったのですけれども、別の言葉で、つまり「ケチな根性はいけない」ということを、先ず何につけても言っておられました。考えてみますと、この「ケチな根性」ということがエゴイズムということだったのです。   

エゴイズムはどこから? 

エゴイズムはどこから出てくるのか。二つあると思うんです。一つは、全ての存在は、本来不可分一体である。にもかかわらず、アタマの大脳を通してみると、それがバラバラに見える。そのバラバラ観に基づいて、自己保存の欲求から出てくるものがエゴイズムである。和田先生はそういう内容のことを言われております。つまりバラバラ観からエゴイズムが出てくるということです。 

もう一点は、自分の実感から言わせていただければ、エゴイズムは何か自分の母なるもの、あるいは本来自分を包みこんでくれている大きな存在から切り離されているという、これは実際は錯覚なのですが、この錯覚から生まれる不安感から出てくるのだと思います。その不安感が元にな って、「自分自身とか自分のモノ」その中には自分の財産、自分の体、自分の考え価値観、身分や階級、あるいは神様も入るかもしれない、これは自分の作り出した神様なんでしょうけれども、あるいは自分の属する集団、そういう「自分自身、あるいは自分のモノ(と錯覚して思っているもの)」に固執することがエゴイズムだと思います。エゴイズムを成り立たせる要素としては、まずこの二つがあると思います。 

バラバラ観というのは、簡単に言えば、本来一体のものがバラバラに見える。自分と他人。自と他は違う。ただ違うということだけでなくて、「他というのは自分(たち)、あるいは自分の家族以外は、利害を異にする別の存在である」という観方です。根底に不安感とかさいぎ心があるのです。それがエゴイズムの根源であり、そこからエゴイズムが出て来るのです。 別の角度からいえば、本来、大いなる存在、大自然、大宇宙といってもいいし、神といってもよいと思いますけれども、大いなる存在と日々一体感を抱きながら生きている人々には大きな安らぎがあります。現代人のようなエゴイズムは、ほとんどないのではないかと思います。 

アボリジニとかイヌイットという人たち、あるいは、ネイティブアメリカンの長老の言葉などを聞いていると、本当に何か大きなものと一体であることを感じながら生きているということが分かります。それらの人たちには根源的 な不安というものがないのです。これは単なる原始的なアニミズムという意味ではありません。 

ところが現代の私たちはいつも根底に不安があります。いつも「こうしたらどうなるのか?」という不安があります。常に不安を感じながら、こっちの方がいいか? あっちがいいか?とキョロキョロしながら、不安な生き方をしています。 

昔、内山興正先生は「どっちに転んでも、天地一杯の我がいのち」と言われましたが、「どっちに転んでも、天地一杯の我がいのち」このように実感しながら生きていれば、そこから不安感は出るはずもないし、自分自身の生命や自分のモノに執着する心もなくなるのです。   

(つづく)





今こそ国に理想を その1

今こそ国に理想を その1

(これから10回に渡って掲載するのは、私がかつて拙著『国の理想と憲法 国際環境平和国家への道』の原稿を書いている最中に「宏南会」(「和田重正に学ぶ会」の前身)に依頼され講演した記録です。その講演の一括記録は「和田重正に学ぶ会」のホームページにPDF資料『個人のエゴイズムと国家のエゴイズム』として掲載されていますが、『いのちの塾』でも読めるように、分割して掲載します。これを読まれることによって、人類社会がひたすら破滅へと向かっていること、今日その深刻さを一層増していること、そして、その流れを変えるために私たちに何が必要なのかを理解されるでしょう。)

今こそ国に理想を

深刻化する地球規模の問題

 今回のテーマは「個人のエゴイズムと国家エゴイズムの関係について」という、大変堅苦しいタイトルになっておりますけれども、現在、世界、そして日本はいろいろな意味で行き詰まっています。行き詰まりの最も大きいものは、地球環境問題、原発、戦争や紛争やテロの問題、そういう地球規模の問題が大変深刻になっています。

 一方日本においては、それらの問題の他に、憲法改正に関する問題があります。これは日本の将来を左右する本当に一大問題です。それと共に、教育基本法、共謀罪の問題など、戦前の日本を思わせるような、後ろ向きの動きが大変顕著になってきております。

 そういう中で、今日皆さんと一緒に考えてみたいのは、なぜそういう問題が起こってきたのか、その根源的な原因は何か、ということです。そして、それが自分たち一人一人の個人とどういう関係があるのか、具体的に私たちに何 ができるのか、ということを、社会評論としてではなく、お話しできればいいなと思っております。

 今回私が講師を引き受けた理由には、今私自身がある本を執筆しているということがあります。タイトルはまだ仮ですが「今こそ国家エゴイズムを超えて」という本です。和田重正先生は今から四十数年前に「みんなで国に理想を」という小冊子を書かれました。その小冊子は後にあらためて「国家エゴイズムを超えて」というタイトルで出版されました。和田先生がその本で提唱されたことを、今の時代にこそ、もう一度世の中の人々に問い直してみたいという意図で、私なりに構想を練り直して、書き進めて参りました。そういうことをO君に話しましたら、是非、今度の宏南会で話しをして欲しいと言われたのです。私の方もそういうチャンスがあればということで、お引き受けしたというしだいです。

自覚について 考えてみますと、私が和田重正先生に初めてお会いしたのがちょうど四十年前です。今日も会場においでくださっていますが、はじめ塾の玄関をサッと開けて、最初に拝見したのが純子先生のお顔です。世の中に「こんな方がいらっしゃるんだな」と驚きました。本当に輝いたお顔でした。そのお顔が私の一生を変えてしまいました。それで四十年後の今ここで、こんなお話をさせて頂いているということなのです。

 和田重正先生にお会いしまして、何より感銘を受けましたのが人格的なことです。先生のお言葉もそうなんですけれども、その人格・人柄に本当に感銘を受けました。それ以後、先生にいろいろ教えて頂いたわけなんですが、先生がお書きになった本の中で、特に影響を受けた本が二冊あります。一冊目は皆さんもご承知だと思いますけれども『葦かびの萌えいずるごとく』という本です、これは「心の自覚」ということがテーマだと思います。

もう一冊が『国家エゴイズムを超えて』という本です。これは「世界の平和」ということをテーマにされた本です。今考えて見ますと、この二冊の本が私に最も影響を与えています。「自覚と平和」がちょうど車の両輪みたいに、あるいは二本の柱みたいに自分の一生を支え、貫いてきたんだなということを、今感じています。

この自覚ということなんですけれども、これが一番表現しづらいことでもあります。自覚については、私は先生のお話を何回も聞きました。そして「葦かびの萌えいずるごとく」という本も繰り返し、繰り返し、それこそ一字一句を何度も繰り返し読んで考えに考えました。それでも分からなかったんです。それで七転八倒しまして、結局もうどうにもならないとなったぎりぎりの時に、ひょっとしたことから、アタマの働きがちょっとどこかに跳んでしまったような状況になりました。

そこで「あ、そうか」と、何か安心感というか、そのことについて説明しようとすると言葉に詰まってしまうんですけれども、「今まで考えていたこととは全然違うんだ」ということがはっきり分かったのです。その時に心から安心できて、その日以来、浮き立つような気持ちで、見違えるほど自分自身が行動的になっていきました。 

その時の実感としては、自分がこれからどういう生き方をするかも分からないし、どういう運命が待っているとしても、それはそれで自分にとっては一〇〇パーセントの充実した、「完ぺき」というと語弊があるかもしれませんが、少なくとも自分にとっては完ぺきな人生であるという安心感を得ることができました。 

もちろん、それで全て解決したわけではないんですが、自分の生き方については、そこで方向性がしっかりと決まりました。それまでどっちに行ったらいいか分からない、いくら考えても分からなかったのが、「これでいいんだ」とはっきり思えるようになりました。自分自身のアタマであれこれ考えて、どうこうするという生き方ではなくて、「自分の中からすっと出てくるものに沿っていけば、それでいいんだ」と、そういう一歩を二十六歳のときに踏み出すことができました。   

平和について  

一方、世の中の平和ということに関しては、その当時はアメリカとソ連が何万発という核兵器を擁して互いににらみ合っていて、全面核戦争の危機は単なる物語ではなく、現実にありうるという時代でした。ただ、日常の実感としては、人々がそんなことをいちいち考えて生きているということではありませんでした。多分、多くの人々はその後NHKテレビの特集などによって、その時代がもし核戦争が起きれば、人類が滅びても決して不思議でもないそういう状況だったんだな、ということをあらためて確認したのではないでしょうか。 

その当時「みんなで国に理想を」という本を読みました。一晩であっという間に読んで、大変興奮しました。これは大変な状況だ。そして、ここに提唱されている「国家エゴイズムを放棄して、国際福祉国家の理想を掲げること」誰も今まで言ったことがないけれども、これこそ私たちの進んでいく道であり、やるべきことではないかと、本当に感動しました。こうして、それが自分の人生を左右してしまう本になりました。 

それ以来、何とかこの考え方を世の中に伝えていきたいものだなと思ってきました。ただ、人に話してみるのですけれども、一時間や二時間ぐらいでは「考え方としては非常によいけれども……」と言われるだけで思うようには人々に伝わっていきませんでした。それでも「自覚と平和のセミナー」という形で、二泊三日という時間をかけて話し合うことをずっと続けてきました。それで少しずつ理解者ができてきました。

(つづく)






いのちの世界について

いのちの世界について 

この世界は本来バラバラの物質が寄り集まってできた世界ではない。この世界は、本来、ひとつの “いのち“が顕現した、不可分一体の調和と平和の世界である。その真実は自然、すなわち、大宇宙の星々の運行や大自然や人体のハタラキ、人間の本能の現れである真心などを考えれば明らかである。

しかしながら、現実の世界では、我々人間のバラバラ観に基づく種々の妄念、すなわち、優劣、所有などの間違った観念による混乱と苦しみなどの歪みや曇りが本来不可分一体の調和と平和の世界を覆っている。

従って、我々は我々自身の妄念、すなわち、バラバラ観の過ちに気づくことが必要である。そうすれば、間違った観念や考え方や行為が正され、様々な混乱と苦しみは急速に解消されて真実の世界が全面的に顕現するのである。

次に、いわゆる、死について考えてみよう。

この世界では我々の肉体は刻々に変化しながら、やがて、その活動を完全に止めて、その構成物質は分解し散らばっていく。人は我々の体の活動が止まることを「死」と呼ぶ。確かに、この体はいずれ“死ぬ“という言うことはできるかもしれないが、その体を造り、その体に働き、その体を使っている生命自身は死ぬわけではない。
体はたんなる物質であり、時がくれば変化し分解したりするが、生命は物質ではないので死なない。つまり、生命は生き通しなのである。

この世界においては、現象として、個々の生滅が繰り返されて、この肉体に働いている生命は個としての“いのち“であるように見えながら、同時に、この生命はこの世界のすべてを生かしている生き通しの大いなるひとつの“いのち“そのものである。つまり、この世界にはもともとバラバラな個というものはない。真実は、この世界においては、“いのち“という同質のものがべったりと一様にこの世界を満たしていながら、同時に、その表現形式としては、いろいろなものが個別的存在しているように見えるのである。

我々一人ひとり、この自分はこの生き通しのひとつの大いなる“いのち“であり、何があったとしても決してなくなること、つまり、死ぬことはないのである。

次に、病について考えてみよう。
不可分一体、調和と平和の“いのち“が顕現した世界には大宇宙や大自然が調和しているように、本来、すべては調和しているので病はない。ほとんどの人がこの世界では病があると思い込んでいるが、真実は、病は人間の「病はあるものだ」という妄念によって、その影がこの現象世界に発現しているのである。

であるから、「本来、病はない。本来、病は生じるものではない」ということに気がつきさえすれば、直ちに「病がある」という妄念が消えて、その妄念が凝り固まって作っていた病が消えるのである。病を治すのではない。病を取り除くのでもない。もともと、病はないのだということに気がつけばよいのである。

このように、すべての苦しみや混乱は人間の間違った妄念が引き起こしたものである。本来、調和と平和の“いのち“の世界しかないのだ。この真実に気がつきさえすれば、すべての苦しみや混乱は急速に解消されていくのである。





世界平和の実現は易しい その2

世界平和の実現は易しい その2
(その1からの続き)

ぺイ・フォワード・ピースは僕が創案したものですが、2018年の1月7日に書いたブログをもう一度読んでいただければわかると思います。

ぺイ・フォワード・ピースとは簡単に言えば、「一人の人から受けたある“平和のメッセージ”を確実にこのメッセージをまだ受け取っていない二人以上の人に伝えていく」ということです。

たとえば、一人の人が平和のメッセージを1週間で確実に重複しないように二人以上の人に伝えていけば、1,2,4,8,・・・と、計算上は、34週間以内に世界中の大人の大多数が“平和の人”となることになります。

いずれにしても、もし、この方式がうまく作動すれば、短期間のうちに世界中で平和の人が圧倒的な多数を占めるようになる可能性は充分にあります。そうなれば、もはや、戦争は起こらなくなるはずです。

この方式がうまく作動するための条件としては、まず第一にメーッセージがごく普通の庶民に感動をもって強く響き、このやり方であれば必ず平和な世界が実現できるに違いないと思わせ、読んだ人自身が自分が直接に知る限りの人、あるいは、直接には知らなくても、可能な限りの人々に知らせたい、知らせようと思わせるような内容であるということです。

そんなことは難しい、あるいは、できないと思いますか? 

もし、そうだと言うのであれば、それこそ思い込みです。従来の考え方や思いを棚上げして、方法しだいで必ずできるはずだという視点に立って考えれば必ずよいアイデアが出てくるはずです。

僕は、そのメッセージの内容の骨格にはネホサの考え方がもっともふさわしいのではないかと考えています。後は、それをどれだけわかりやすく要約できるかということと、それをいかに感動的に伝えることができるかということです。

そこまでできれば、さらには、当然のことながら、どうして、今この考えを広める必要があるのかということ、そして、この考えを広げるために、ぺイ・フォワード・ピース方式がもっとも易しく、確実性があるだけでなく、やること自体が楽しいかというようなことです。

ただ、文章や内容が独りよがりになっては、通じるものも通じなくなります。このようなテーマについて、自分自身の思いを伝えるためのもっとも基本的な態度は客観的な態度・姿勢をくずしてはならないということです。

このブログを読んでいる人の多くは僕のセミナーに何回も参加し、拙著『国の理想と憲法 国際環境平和国家への道』も読まれていると思いますが、メッセージは、ごく普通一般の方々に向けられているということを強く意識していかなければならないと思います。

それは自分の思いや考えは尊重するにしてもメタ認識(客観的に認識すること)を常に意識しているということです。

これはある意味ではかなり難しいことです。自覚のセミナーに参加された方々は、それまでいかに自分の思い込みに捉われていたかということに気がつかれたと思いますが、うっかりしていれば、気がつかないうちに自己流の思い込みに陥ってしまいます。それはせっかく苦労して手に入れた宝物を自ら捨ててしまっているのと同じです。





世界平和の実現は易しい その1

世界平和の実現は易しい その1

あなたは「世界平和の実現は易しい」という言葉を聞いて、正直どのように思いますか?

多くの方の正直な思いは、概ね、「そんなことはない。もしそうだったら、とっくの昔に世界平和は実現しているはずだ。平和な世界の実現が非常に困難なことはこれまでの人類の歴史が証明しているではないか」というようなものではないでしょうか。

僕もこれまで多くの心ある人々の懸命な努力と祈りにもかかわらず今日までこの世界に平和が実現していないという事実を否定するつもりではありません。また、多くの人々が「だから、平和な世界を実現するのは非常に困難なことなのだ」と考えるのも無理はないと一応は思うのです。

しかしながら、ここであらためて「本当に平和な世界を実現するのは難しいことなのだろうか?」と考えてみたいのです。というのは、これまで平和を実現することができなかったという事実をもって「平和を実現することは難しいことだ」とは必ずしも言えないのではないでしょうか?

「平和な世界を実現することは難しいことだ」と決め詰めつけないで、ここであらためて「平和な世界を実現することは難しいことなのか? 本当はどうか?」と問い直す姿勢が今こそ必要だと僕は思うのです。

そういう姿勢でこのテーマを見直してみると、これまでに見えなかったことが見えてくるのです。それは、これまで多くの人々の懸命な努力にもかかわらず平和な世界が今日まで実現していないという事実は、もしかしたら、平和を実現するその“方法”が間違っていたのではないかということです。

たとえば、ここでまた例によってタバコを引き合いに出しますが、一般にタバコを止めることはとても困難だと言われます。事実、多くの人が精神力でタバコをガマンして禁煙に挑戦するのですが、その大部分は禁断症状の辛さに負けてしまい、禁煙に成功する人は非常に少ないという事実があります。一応禁煙に成功したという人でも、心の奥にはいつもタバコを吸いたい気持ちを抑えており、完全にタバコから解放されているとは言えないという人も多いのです。その証拠に、禁煙に成功したという人でも、何かの折に「1本ぐらいいいだろう」と吸ったために、また、元のように喫煙生活に戻ってしまう人が後を絶ちません。

ところが、一方で、「もうタバコを吸うのはやめた」と言って、それっきり何のガマンも努力もなしにタバコを吸いたいとも思わず完全にハッピーなノンスモーカーに戻る人もいるのです。

なぜ、このような違いが生じるのか? それは方法が違うからです。この方法を最初に一般に提案した人はアレン・カーという人です。彼はその方法を「EasyWay(イージー・ウェイ・易しい方法)」と名付けましたが、名前の通りに、その方法によれば、タバコを止めるのは本当に易しく、世界中で何千万人という人たちが彼の“易しい方法”でタバコを止めているのです。

同様に、私は「平和な世界は方法によって必ず実現できるはずだ」という信念に基づいて、平和な世界を実現する一つの易しい方法(EasyWay)として、ネホサの考えをPay Forward Peace(ペイ・フォワード・ピース)方式で広めることを提案しています。

(続く)






自分は完璧である その2

自分は完璧である その2
(その1からのつづき)

この社会においてはほとんどの人が五感とアタマによって、この世界をバラバラのものの寄せ集めの世界だと思い、世間的あるいは個人的な価値基準やモノサシを真実であると思い込んでいます。その結果、人はちっぽけで、はかない存在であると思い、そこで潜在的にいつも世間的な評価を気にし、他を恐れ、死の影におびえながら生きています。

でも、実物の世界は自分を含めてすべて一つの“いのち”の世界であり、萌える“いのち”の活々とした行き詰りのない世界なのです。

つまり、この世界のすべての存在は、本来、人間がアタマによって作りあげたあらゆる分類や比較や評価などの規定以前に、あるがままで完結して厳然と存在しています。

もちろん、現実の生活においては、事実に沿った正しい規定も沿わない間違った規定もあり、それらによっていろいろと外的に規定されているように見えるかもしれません。でも自分の本来の存在価値とはそれらの規定とはまったく無関係で、厳然として輝いているのです。

もちろん、自分には、本来、無条件の絶対的存在価値があるのだから、どんなに間違ったことをしてもよいということではありません。また、私たちのこの社会における現実の考え方や行為は、真理に照らしてそれが正しいか、間違っているかが判定され、適切に対処されなければならないことは当然のことです。

タバコ図を応用した“社会図“の右側はバラバラ観に立脚した社会ですが、その中に生きていると思っている人にとっては、自分は善人、悪人、その中間の人、色で分ければ、真っ白、真っ黒、灰色のどれになるかと問われれば、正直に答えれば、善悪の中間、灰色の人と答える人がほとんどだと思います。

確かに、右側の社会の一般的なモノサシで測ればそのような答えが出てくるかもしれません。でも、真実の世界では、すなわち、本来は、人の心はそのままで誰でも真っ白、純白なのです。絶対の透明、絶対の静寂と言ってもよいでしょう。

もともと純白なのですから、灰色の黒を苦労して洗い流す必要もありません。もともと純白であることを認め、純白のままでいるほうがずっと容易で楽です。

盤珪禅師が言われるように、迷いをなくそうとするよりも、迷わないでいるほうが簡単で楽なのです。灰色を純白にするには超天才のミロク菩薩でも懸命に修行して56億7千万年も掛かると言われているのですから、灰色から純白になろうと懸命に努力するより、最初から純白でいたほうが楽です。不生でいればみんな純白なのですから・・・。

白隠禅師が「衆生本来仏なり。悟りたい! 悟りたい!と悟りをどこかに求めようとするのは、水の中の魚が喉が渇いた! 喉が渇いた!と叫んでいるようなものだ」と言われたのもまったく同じことを言われているのです。

このように、真の自分をはっきりと確認すれば、自分というものは何があっても変わることがない生死を超えた存在であるということがわかります・

自分だけではありません。この世界の全ての存在が何があっても、そのままで絶対的存在価値を持って純白であり、絶対安心、“すべてよし”なのです。




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