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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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自分は死なない

自分は死なない

パウロは生まれ素性も正しく、ユダヤ教の信者として非の打ちどころのないエリートでした。
「わたし(パウロ)は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人である。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者だった」(新約聖書 フィリピの信徒への手紙3・5~6)

しかし、ダマスコという場所で自分というものに対する見方が劇的に変わります。それまで”自分“と思っていたのは本来の自己ではなかったのです。これは「ダマスコの回心」と呼ばれています。
「もはや我生きるにあらず、キリスト我の内にて生きるなり」(新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙2・20)

そして、世界に対する自分のそれまでの見方や価値観が粉々に砕かれてしまいました。それまでの価値観は人間がこしらえた既製品にすぎず、真理に基づいた絶対的な真実の価値観ではなかったことに気がついたのです。
「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになった。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらを塵(ちり)あくたと見なしている。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためである。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく。キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があるのだ」(新約聖書 フィリピの信徒への手紙3・7~9)

それまでキリスト教に対する仮借のない迫害者であったパウロはこの回心の後に打って変わって熱心なキリスト教の使徒として、いつも人々に次のように話して廻ったのです。

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた精霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(新約聖書 コリントの信徒への手紙1・6・19)

僕は聖書のこの辺りの箇所を読むたびに深い感動を覚えます。「もはや我生きるにあらず、キリスト我の内にて生きるなり。」という部分の“キリスト”を“存在の真理”、あるいは、“いのち“と置き換えれば、それはまさに僕自身が体験した存在の真実そのものだからです。

「もはや我生きるにあらず、“いのち“我の内にて生きるなり。」

それまでは、この世界に他と切り離された個としての”自分“が一人っきりで生きていると思い込んでいました。そのために、いつも死を恐れていました。そして、それがすべてのことに対する見方や生き方を歪めていたのです。

でも、真実は、個としての自分なんていないのです。この世界のすべてを創造しそこにはたらき続けている“いのち“がこの”自分“を生きているのです。

不生不滅の“いのち“である真実の自分はこの肉体の生死を超えて生き通しです。つまり、なにがあろうと、決して死ぬことはありません。

この大安心に立ったときにはじめて本当の生きる力が腹の底から湧き上がってくるのです。





われわれはどこからきたのか

われわれはどこからきたのか

フランスのポスト印象派の画家ゴーギャンがタヒチで描いた一枚の絵のタイトルはつぎのようになっています。

「われわれはどこからきたのか? われわれはなにものか? われわれはどこにいくのか?」

もし、興味があればネットで検索すればこの絵を見ることができるでしょう。ざっと全体を眺めた後、右側から左側へとゆっくりみていくと、この絵のタイトルが何を意味しているのかを絵の奥に見ることができるかもしれません。

それはそれとして、あなたは「われわれはどこからきたのか? われわれはなにものか? われわれはどこにいくのか?」と問いかけられたときどのように答えますか?

実は、存在の真実を言葉で表すことは不可能です。というのは、私たちの二元相対的にしか思考できないアタマとそれに基づく言葉では一元絶対の存在の真実を見抜くことも、それを的確に表現することもできないからです。

二元相対的な思考というのは物事を分けて比較したり区別したりする思考方法のことで、仏教ではそれを「分別」と言います。ところが、存在の真実は無分別、つまり、分別がないのです。というか、分別を含みながらそれを超越しているのです。ですから、例えば、大・小、長・短、一つ・二つ・多、ここ・あそこ、こっち・あっち、自・他、生・死、有・無、部分・全体、過去・現在・未来、さらには、境目や個体などという観念によってバラバラに分れたものもないのです。

僕は存在の真実をとりあえず「不可分一体のひとつの“いのち“」と呼んでいますが、この「ひとつ」は「一つ」という意味を含みながらも、一つ・二つなどの数を超えているという意味です。

「いまここ」というのは、現在とこの場所しかないのではなく、過去も未来も、そして、あらゆる場所が現在とこの場所に存在しているという意味です。

存在の真実はアタマの分別を超えているので、それで昔から禅の世界では覚者が存在の真実を何とか言葉で伝えようとして苦心されています。そして、結局は言葉では表現できないので、親切なあまりに、指を1本立ててみたり、相手をぶん殴ったり、「喝!」とどなったりして、そのものを直に示して分からせようとしたのです。

趙州禅師は「存在の真実は何か?」と訊かれて「庭の柏の木」と答えています。僕だったら、問いかけたその人自身を指差すかもしれません。時には“いのち“と答えるかもしれません。

でも、これらの言葉や仕草に意味があるのではありません。それに引っ掛かるのではなく、結局は、答える人が本当に存在の真実を体得しているかどうかを心の眼で見抜けるかどうかということなのです。

ですから、たとえ問いかけている本人の機が熟していたとしても、答える方がアタマだけの理解で指を立ててみたり、「庭の柏の木」とか「“いのち“」などと言っても何も伝わりません。アタマを超えた存在の真実は阿吽(あうん)の呼吸の以心伝心によってのみ伝わるのです。

和田重正先生は「結局、何にも心配することはないんだよ」と言われました。

また、ある禅師は「すべてよし」と言われました。この“よし”は絶対の“よし”であり、存在の真実はこの言葉に尽きています。







本当にいいのか?

本当にいいのか?

「つまずいたって いいじゃないか にんげんだもの」 

これは相田みつおさんの言葉です。なんかホッとしますね。

では、次の言葉はどうでしょうか? 
「失敗したっていいじゃないか にんげんだもの」

これは事によりけりではないでしょうか。例えば、外科の手術室の壁にそんな色紙が額縁に入って掛かっていたら、何かドキッとしてしまいますよね。さすがにこれはまずいでしょう。 

では、次の言葉はどうでしょうか? (これは僕が創った言葉です。誰かが同じことを言っているかもしれませんが・・・)

「まあ、いいじゃないか にんげんだもの」

この言葉はそれが使われる場面によって随分意味合いが違ってくるように思います。

例えば、誰かが何か失敗した時などでは、この言葉を掛けられたことによって、その人はホッとするかもしれませんね。事によりけりではありますが、多くの場合に、他の人の失敗を責めるのでなく、寛大に許すことは大切なことだと思います。

また、この言葉は相手にもよるのではないでしょうか。

例えば、何かうまくいかない時などに自分を責めすぎる傾向の方は結構いるのではないかと思います。そのような方にとっては、この言葉はとても有効だと思います。一生懸命やって失敗したのであれば、自分を責めすぎるのは決してよいことではありません。それよりも、何とかできないかとか、次はうまくできるようにするにはどうしたらよいかと冷静にアタマを巡らすほうが賢明です。

ところが、本当は絶対にやりとげなければいけない場合に、それに挑戦しながら、それが出来なかった時にこの言葉を自分自身につぶやくとすれば、それは単なる言い訳になってしまいます。今回のブログはこの問題が主題です。

まだ随分若かった時の自分自身の体験を思いだしてみると、「まあ、いいじゃないか」という言葉を内心自分自身に言った時の気持ちは、慰めでも寛容さでも大らかさでもありませんでした。そして、単なる言い訳でもないのです。そこにあったのは「どうせ自分なんてこんなものだ。どうせ自分なんかダメなんだ」という、まさに、自堕落そのものの気持ちだったのです。

この気持ちに気がついた時のどうしようもないほどの“やるせなさ”は今でもはっきりと思い出すことができます。でも、そのどうしようもないほどのやるせない気持ちが「こんな気持ちは二度と味わいたくない」と僕の眼を覚ましてくれたのです。

そのおかげで、その後今日まで二度とそのような気持ちを味わうことなく、いつも前向きに生きてくることができました。そして、その体験から、今では、人間というものは自分を変えてどこまでも向上してゆけるのだと言い切れるようにもなりました。

例えば、いつまでも劣等感を引きずりながら生きているような方でも、自分自身の決意、決断一つでそれから完全に解放されるのです。

他のことでも同じです。これが真実だとわかったら、きちんと決断することです。きちんと決断しないと、いつまでも苦しむことになります。そして、はっきり決断したことを二度と疑わないことです。





観念のメガネを外して見る

観念のメガネを外して見る

この世界は本来不可分一体の世界、ひとつの“いのち“の生き通しの世界です。

ところが、人間のアタマで勝手に作ったバラバラ観、自他、生死、優劣、差別、所有の観念のメガネを通してこの世界を見ると、いかにもすべての存在はバラバラであり、自他、生死、優劣、差別、所有が事実としてあるように見えてしまいます。

ですから、そのようなアタマが勝手につくった観念のメガネを外して、つまり、そのような観念をちょっと横に置いて、世界をそのまま見れば、この世界は不可分一体のひとつの“いのち“の世界であり、自他も、生死も、優劣も、差別も、所有もないことがはっきりと分かるのです。

しかしながら、「そのような観念をちょっと横に置いて」と言っても、最初はほとんどの方がそのような観念を絶対的な真実だと思い込んでいるので、それを横に置こうとしても、「横に置く」ということ自体いったい何の話かとも思うのかもしれません。

つまり、ほとんどの方は自分が裸眼でなく、“観念のメガネ”、いわば、色メガネを掛けてこの世界を見ていることに気がついていないのです。

それは、言い換えれば、間違った先入観を持ちながらこの世界を見ているということです。

ですから、存在の真実はどうか? 本当はどうか?と検べるとしても、最初から間違った先入観を「間違いなし」と思い込んで検べようとしても、それでは真実に到達することはできないのです。

「本当はどうか?」と存在の真実を検べるためには、これは社会で言われていることだから間違いないはずだ、自分でもこれまで何回も考えたことだから間違いがあるはずがないなどということでも、一応横に置いて「真実はどうか?」と検べる態度がもっとも重要なのです。

存在の真実については、今日までこの世界に生きてきたほとんどの人が間違った理解をしています。そのために、私たちの人類社会は今日に至るまで何千年もの間争いと混乱を繰り返してきたのです。このままの方向で進んで行けば、やがて私たち人間は他の多くの生物を道連れに破滅してしまうかもしれないとさえ懸念されています。

「そんなことを言われたって、この自分にどうしろと言うんだ」と思う方も多いでしょうが、その原因は、煎じ詰めれば、たった一つなのです。すなわち、不可分一体の存在の真実に対する根本的な思い違い、すなわち、バラバラ観がすべての問題の根本原因です。

実は、その間違いに気がつくことは実に簡単にできます。上に述べたように、これまで当然のことと思い込んできた観念をちょっと横に置いて、本当はどうか?とこの世界をありのままに見ればよいのです。そうすれば、誰でも、この世界が不可分一体の“いのち“の世界だということをはっきりと感得できるでしょう。

このようにして、不可分一体の存在の真実に気づく人がどんどん増えていけば、私たちはやがて、この人類の危機を回避して、そして、一体共生の世界を実現することができるのです。

ただ「ああそうか」と思ってやってみれば、世界平和なんて簡単にできるのです。

あとは、みなさんの問題です。




宇宙即我 我即宇宙

宇宙即我 我即宇宙

「我は宇宙なり」なんて言うと何かすごいことを言っているように思うかもしれませんね。また、仏教に詳しい方であれば、それこそお釈迦様の悟りであって、とても凡人の我々の生半可な修行などでは到達できるような境地ではない、などと言われそうです。

たしかに、原始仏教の経典などによれば、お釈迦さまは明けの明星を見た時に「天上天下唯我独尊」と大悟されたそうです。

でも、悟りの深浅はともかく、「宇宙即我」の存在の真実を悟ることはそんなに難しいことではない、いや、本当は簡単なことだと僕は言いたいのです。

そこで、次の事柄について、真実はどうか考えてほしいのです。「考える」というより「検べる」と言ったほうが正確です。

1 この世界に他のものとは一切関係なく単独で存在しているものがあるか?

2 この世界に存在しているものは、そもそもバラバラなものが寄り集まったのか、それとも、もともと一つのものから生まれたものか?

3 この世界存在しているいろいろなものに境目はあるか?

4 そもそも自分というもの、つまり、他と完全に切り離された存在はあるか?

以上のことを検べるために、以下のことを先に検べてください。やりやすいものから検べて結構です。

5 肩と腕に境目はあるか?

6 富士山と麓の平野に境目はあるか?

7 富士山とエベレスト山に境目はあるか?

8 陸と海に境目はあるか?

9 地球のどこかに境目はあるか?

10 大地と空に境目はあるか?

11 海と空に境目はあるか?

12 空と宇宙に境目はあるか?

13 大宇宙のどこかに境目はあるか?

14 兄弟姉妹はみんなバラバラか?

15 自分と親はバラバラか?

13 人間同士はみんなバラバラか?

16 動物はみんなバラバラか?

17 生物はみんなバラバラか?

18 岩や土や空気や水などはみんなバラバラか?

19 自分と昨日食べた野菜はバラバラか?

20 畑の野菜は岩や土や空気や水などはバラバラか?

21 畑の野菜は海や川に住む魚とはバラバラか?

22 自分は他の人間や動物や植物や岩や土や空気や水などとバラバラか?


このように検べていくと、この世界にはバラバラなものなど一つもないということが分かります。

また、この世界にはどこにも境目はありません。
「境目」というのはそもそも人間が五感と相対的にしか思考できない大脳(アタマ)による錯覚であり、人間が勝手に作り上げた一つの観念にすぎません。

それは大宇宙や大自然、そして、小宇宙と言われる人体の仕組みを観察してみればすぐに分かることです。

また、「人間は宇宙の一部、あるいは、部分である」と言う方がいます。しかし、「全体と部分」というのも、何でも相対的に分けて理解しようとするアタマに依存する人間が作り出した観念にすぎません。
部分がなければ全体は存在しないのであり、存在の真実は、部分=全体なのです。

また、「自分」というのも人間が作った観念であり、「自分」と意識する仕組みがあるだけで、本来、「自分」という他と切り離されたものは存在しないのです。

自分とか境目とか部分などという観念を横に置いて、この世界を見れば、「宇宙即我」を容易に体感することができるでしょう。

自分? 生死?

ただ、“いのち“が、“いのち“を、“いのち“しているだけだ。




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