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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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健康の自然法

健康の自然法

野口整体の創始者野口晴哉先生のご著書のなかに『健康の自然法』というタイトルの本があります。

「自然健康法」ではなく「健康の自然法」となっているところが健康というものの心髄を表しています。

「自然健康法」であれば、いくら「自然」という言葉が使われていても、結局は、人間がアタマで考え出した「自然」であり、真の自然、生(ナマ)の自然そのものではなくなります。

それに対して、「健康の自然法」というのは「心身の健康は心身そのものの中にもともと自然に備わっている。したがって、心身の自然なハタラキに任せれば健康を保つことができるのだ」という真実を表わしているのであり、数ある健康法の一つではないのです。

この世界は、本来、みんな一緒、みんなでひとつの世界です。ですから、本来、対立するものはありません。もともとすべてが調和し支え合うようにできているのです。もともと一つですから、それが分かれて形の上では複数のものが出来たように見えても、お互いがお互いを支え合い調和するようになっています。

たとえば、植物は空気中から二酸化炭素を吸収して酸素を空気中に吐き出します。植物が吐き出した酸素を動物が吸って、二酸化酸素を吐き出します。その二酸化酸素を植物が吸収するわけで、その循環・支え合いがどこまでも続きます。動物は植物なしには生きられません。そして、植物は動物なしには生きられません。それは私たち人間も同じです。

植物は太陽なしには生きられません。しかし、太陽は植物なしにも輝き続けることはできます。それは確かですが、太陽だけでなく、空気も、水、その他の養分などに関しても、植物も動物も、そして、人間もそれぞれがまったく単独で生きることはできません。みんなそれぞれ周りのすべてのものとの循環・調和・共生・持続の中でしか生きることはできないのです。

このように、私たちの社会も大宇宙や植物や動物を含めた大自然とともに、すべての人や集団や組織が自ずから循環・調和・共生・持続するのが本来の自然なあるべき姿なのです。
そこに、個人個人の真の幸福と平和があり、また、全体の真の幸福と平和があるのです。
それは大宇宙の星々の運行や大自然の循環・調和・共生・持続する姿に現れています。人間の心身ももともとひとつの小宇宙、小自然であり、周りのすべてのものと、そして、すべての細胞や器官、組織が自ずから循環・調和・共生・持続しています。つまり、もともと、そのままで健康・幸福・平和に生きられるようにできているのです。

この世界に多くの不幸な人が存在し、未だに、真の平和な世界が実現できていないのは、みんな一緒、みんなで一つ、つまり、不可分一体という当たり前の存在の真実が見失われているからなのです。

私たち人間は万物の霊長と自負しながら、自らの自然に反する生き方をしています。これでは、科学や技術が進歩・発展すればするほど、自らの自然から遠のいて、自分の首を絞め続けることになります。

私たちはあらためて「この世界とは何か? この自分とは何か? 何のために生きているのか?」と真剣に、そして、素直な感覚で問い直さなければなりません。

「健康の自然法」という言葉にすべてのカギがあります。





山は山 水は水

山は山 水は水

昔の中国の禅師、青原惟信(せいげんいしん)は次のような言葉を残しています。

「わしが30年前にまだ参禅しなかったときに、山を見たら山は山であり、水を見ると水は水であった。
  その後参禅し親しく禅の師匠に相見(しょうけん)して一つの見性体験があった。そのとき山を見ると山は山でなく、水を見れば水は水ではなかった。
 そして、今日一切解決の無事の境地を得てみると、依然として山はただ山であり、水はただ水であった。」

未だ参禅しないときには、AはAであり、BはBであったということは、すべての存在がバラバラの個として見えていたということです。だから、もちろん、AはBではないと見えたのです。

一つの見性体験があった時に、AはAではなかった、BはBではなかったというのは、AはAという個、BはBという個ではなかったということです。つまり、AもBも個を超えた“いのち“だったということです。AはBでありすべてだったとも言えるでしょう。

そして、一切解決の無事の境地を得てみると、やはりAはただAであり、BはただBであったというのです。でも、それは、もちろん、AもBもそれぞれバラバラな個ということではありません。AもBも“いのち“の顕れ、ハタラキであるという存在の真実を悟ったという意識さえも潜在意識のレベルに沈み込んで、AがA、BがBであることがそのまま“いのち“の顕れなのです。それが真のAであり、真のBということです。

真のAについて簡単に言えば、
AがAであるのは Aが “いのち“ だからである
Aは“いのち“であり、“いのち“がAとして顕れ、はたらいている
もはやAあるにあらず。“いのち“Aの内にてはたらくなり。(昇平語録より)

自分について言えば、本来の自己、真の自己とは個としての実体ではありません。“いのち“の顕れ、ハタラキとしての自己があるだけです。

また、すべての存在について言えば、真実は、すべての存在は個としての実体ではなく、 “いのち“の顕れ、ハタラキとして存在しているのです。

さらに、自分について言えば、“自分“というものの殻、いわゆる、自我の殻がはずれると、そこに塵(ちり)や埃(ほこり)さえも含めてこの世界のすべての存在と素通しの自己を見出すことができます。

アタマですべての存在をバラバラな個として捉えたときには、そこには生滅があります。けれども、すべての存在をひとつの“いのち“が顕れ、はたらいている姿と見るときには、そこには生滅を”超えた”不生不滅の世界がただ展開しているだけです。

それは自分についても同じです。真実は不可分一体のひとつの世界しかありません。けれども、アタマで相対的に表現すれば、私たちは不可分一体の中の個的存在という二重性を生きているのです。

和田重正先生は「わたしたちは死んだらどこに行くのでしょうか?」という問いに「死んでもどこにも行きませんよ」と笑顔で楽しそうに答えられました。

道元禅師は、「全宇宙はそのままで仏のあらわれである」という意味のことを言いながら、「しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり」と言われています。





自分ってなんだろう

自分ってなんだろう

自分はと何か?と自分自身問うて、名前を言ってみても、人間だ、男性だ、女性だ、日本人だなどと言っても、自分の周りのことをアレコレ述べているだけで、自分そのものを「コレだ」と表してはいません。

では「自分はこの大宇宙のすべてにずっとはたらいている大いなる“いのち“である」というのはどうでしょうか?
 
それはそれで間違ってはいません。しかし、それは自分についての概念的な“説明”にすぎず、「自分とは何か?」という問いに対する生(なま)の答えではありません。

仏教の第一の目的は、少なくとも過去においては、この生の真実の自己を悟ることであり、多くの出家者がその悟りを目指して血の出るような修行を続けました。しかし、悟りを得ることは決して容易なことではありませんでした。

というのは、上に述べたように、私たち人間はどうしてもアタマに頼り、観念的にいろいろな外的ラベルを貼ってそのラベルを自分だと思い込んだり、あるいは、概念的な説明を持って真実の自己が分かったつもりになる傾向が非常に強いからです。

で、結局、「自分とは何か?」という問いに対する生の答えは何でしょうか? 実は、自分は自分を知ることはできないのです!!

わたしたちは対象化したもの、つまり、自分でないものだけを「それはこういうもの、ああいうもの」と知ることができます。たとえば、Aは自分でないBを対象化して知ることができます。しかし、AはA自身を対象化することはできないので、AはA自身を知ることはできないのです。

たとえば、眼は周りのものを見ることはできても、眼自身を見ることはできません。それと同じように、自分は自分以外のものを知ることはできても、自分自身(生の自分)を知ることはできないのです。

また、「自分は何か?」と自分に問いかけるということ自体、自分をアタマでイメージで空想して、自分を対象化しています。でも、対象化されたイメージとしての自分は生の自分ではありません。何しろ「自分は何か?」と問いかけているもの自体がその答えなのですから。

生の自分とは対象化することのできないものであり、これだと言って対象化したら、それはもはや生の自分ではありません。仮にこれだと摑まえたと思っても、それは観念の自分にすぎません。生の自分(自己)とは見たり聞いたり、「自分とは何か?」という問いかけるハタラキそのものであり、そのようにハタラク実体はないのです。

昔、中国で、懐譲は六祖慧能禅師にはじめて相見したとき「お前は何者か?」という意味の問いに答えられませんでした。しかし、それをテーマに厳しい修行を8年間続けます。

そんなある日忽然として悟ったのです。早速慧能禅師に相見して答えます。

懐譲:「説示一物即不中:これがそうだと、どのように言ってみても真実に的中させることはできません。」

慧能禅師:「汝(なんじ)徹せり。」

この世界の中に自分というカタマリがあるという分別で勝手に構築した世界像と自己像が突然脱落して、すべてが素通しの世界にただ自分という意識とハタラキだけがあることに懐譲は気がついたのです。

二人とも超かっこいいですね。





意識点から自覚点へ

意識点から自覚点へ

私たちは生後成長する過程でいつのころからか、自分というものを意識するようになります。それは、この世界における自分というものの意識点となったということです。

植物も人間以外の動物も自分というものを意識しません。人間は進化の過程でアタマが非常に発達しました。そのおかげで? 五感とアタマを通して他と切り離された自分がここにいると意識するようになったのです。そして、ほとんどの人は死ぬまでそのように意識しながら生きていきます。

このように、多くの人は 「“自分”というものは他と切り離された個としての存在」であると意識してそれを疑おうともしません。それは、前に述べたように、五感と通して捉えたものを相対二元的にしか思考できないアタマで認識するからです。でも、そのおかげで、人間は生物の進化の過程ではじめて”自分“という意識を持つ最初の生物となったのです。
そういう意味で、人間は生物進化の頂点に立つ存在だと言えるでしょう。

ところが、奇妙なことに、進化の頂点に立っているはずの人間が「自分というものは他と切り離された存在である」という認識するゆえに、他と争ったり、孤独や不安に陥ったりするようになり、そのために悩んだり苦しんだりするようになったのです。

そして、その中には悩みや苦しみを乗り越えようとして、「本当の自分とは何だろう?」と疑問を抱き、真剣に本当の自分を探求し始める人も出てきました。そして、真実に気がつく人が出てきたのです。

たしかに、自分というものを他と切り離された存在であると意識しているからといって、本当にそれが真実だと言えるでしょうか? つまり、「AがBである」と意識すれば(思えば)、「真実は、AはBである」と言えるでしょうか?

探究の結果、ついに本当の自分というものに気がつくということは、存在の真実を悟るということですが、別の言葉で言えば、存在の真実、あるいは、真実の自己を自覚するということです。

それは、具体的には、自己とは「他、あるいは、他人と切り離されたこの人間」ではなく、この世界の万物がことごとくそうであるように、自己もまた大宇宙、大自然の理法、すなわち、大いなる自己である“いのち“によってこの自己があり得ているという自覚です。

したがって、もはやこの自分はバラバラな存在のなかの一つの個としての存在の意識点(自分)ではなく、大いなる自己である“いのち“が顕現した大宇宙、大自然とぶっ続きの存在であるという個としての自覚点(自己)となるのです。それこそが真実の自己を自覚した新しい人類、ネオ・ホモ・サピエンス(ネホサ)への進化です。


道元の『正法眼蔵有時の巻』における「われを排列してわれこれをみるなり」という言葉は、この存在の真実を明快に言い切ったものです。

初めの「われ」は大いなる自己、つぎの「われ」は個としての自己です。両方とも同じ「われ」を使っているのは、ともに「自己」であるからです。

文章の意味は次のとおりです。

「大いなる自己である“いのち“が顕現した大宇宙、大自然における万物の整然とした有様を、それらとぶっ続きのこの自己が見て(自覚して)いるのだ」





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