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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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ペイ・フォワード・ネホサ

ペイ・フォワード・ネホサ

アメリカ映画『ペイ・フォワード』は「ひとりの少年のアイディアが世界を変える」という映画です。

映画のストーリーの概要は以下の通りです。

11歳の少年トレバーは、社会科の授業中、担任のシモネット先生から「もし君たちが世界を変えたいと思ったら、何をする?」と問い掛けられる。

悩んだ末にトレバーはあるアイディアを思いつく。それは“ペイ・フォワード”。他人から受けた厚意をその人に返すのではなく、まわりにいる別の人へと贈っていく・・・・という奇想天外なアイディアだった。

やがて、少年の考えたユニークなアイディアが広がり、こころに傷を負った大人たちの心を癒していく・・・・。
(DVD『ペイ・フォワード』の説明書きより)

英語の“ペイ・バック”、pay backとは「厚意を受けた人にお礼をすること」という意味ですが、“ペイ・フォワード”、pay forward とは「ある人から受けた厚意をその人に返すのではなく、まわりにいる別の人に何らかの形で厚意を贈ること」という意味です。

ペイ・バックの場合には、二人の間だけで厚意のやり取りとお返しがあるだけでそれ以上の広がりはありませんが、ペイ・フォワードの場合には、一つの厚意は、AさんからBさん、BさんからCさん、CさんからDさん、・・・・とどこまでも伝わり広がっていきます。

この“ペイ・フォワード”というアイディアの斬新さに感動して、僕にも “ペイ・フォワード・ピース”、pay forward peaceというアイディアが閃きました。

その内容は「一人の人から受けた “平和のメッセージ”を確実にこのメッセージをまだ受け取っていない二人以上の人に伝えていく」ということです。

たとえば、一人の人が平和のメッセージを1週間で確実に重複しないように二人以上の人に伝えていけば、1,2,4,8,・・・と、計算上は、34週間以内に世界中の大人の大多数が“平和の人”となり、この世界に平和が実現できるのです。

もちろん、どうしても、戦争をしたいという人もいるでしょうが、世界中で平和の人が圧倒的な多数を占めるようになる可能性は充分にあります。そうなれば、もはや、戦争は起こらなくなるはずです。

“ペイ・フォワード・ピース”は1か月に二人以上であれば、34か月以内ということになります。いずれにしても、そんなに期間はかからないでしょう。

“ペイ・フォワード・ピース”のポイントは、どうすれば、その話を聞いた人が確実にその気になり、それを確実に二人以上の人に伝えるかということです。それは、ただ、ただ、“平和のメッセージ”の内容一つに掛かっています。

だから、単純に「世界平和を実現しましょう」「平和を祈りましょう」などと言ってもだめです。

それは、誰でも「なるほどなあ。この考え方とやり方だったら、簡単に、しかも、必ず世界平和が実現できるだろう。私もこの考え方を必ず二人以上の人に伝えよう」と思ってしまうものでなければなりません。

それに最もふさわしいのが「みんなで日本に脱エゴイズム国家という理想を掲げよう」というネホサの考え方だと思います。

そして、その願いをまず自分の心に確認し、それを次の人に伝えていこうというのが
“ペイ・フォワード・ネホサ”、Pay Forward NEHOSA、すなわち、PFN なのです。



再掲 真心丸出しの国へ

再掲 真心丸出しの国へ

世界平和の実現なんて、難しい?本当にそうでしょうか?

もし、次のメッセージを、一週間で確実に重複しないように、二人以上の人に伝えていければ・・・、計算上、早ければ、34週間以内で世界中の大人の大多数が平和を願い、行動する人となり、この世界に平和が実現するのです。

メッセージは次のとおりです。

国のエゴイズムを超えて、真心まるだしの国へ。
国に理想をかかげよう!

平和のことについて考えるとき、いろいろな議論や思うところがあります。
9条を守ろう。いや、そうでなくて、一応軍隊も必要でしょ。
いやよくわからないけど、毎日とりあえず楽しければいいよ。などなど?

それはさておき、
国に理想をかかげるというのはどうでしょう。
どんな理想かというと、とても素敵なものです。
日本が本当に他の全ての国から尊敬されるような、国際平和国家になる、という理想です。
日本が真心まるだしでで、困っている国に人的援助やあらゆる援助を惜しみなく、する。災害があれば、率先して救助や援助に全力で出向く。

こんな国に本当になったら、本当に素敵です。
日本は世界的にも今でもとても影響力はありますから、もしこんな素敵な国になったら、「いいねぇ、私の国もそうなって欲しい!」「こういう国のあり方があるのか!」とどんどん広まって、個人個人の力を超えて、あっという間に世界平和は実現します。

日本は戦争により、広島長崎にも原爆が落ち、たくさんの方々が亡くなりました。東日本大震災を始め、たくさんの災害を体験し、それによってもたくさんの方々を亡くして来ました。
だからこそ、できます。

そんな国になったら、亡くなった方も天国で拍手して喜ぶのではないでしょうか。
そうすれば、どこの国が攻めてきますか?仮に万が一攻めて来ても、その他大勢の国は日本の味方です。味方がどうにか戦ってくれるということではなく、多くの国がそれを許さないことは目に見えて明らかなため、そもそも攻めることは考えられないです。なんの心配はいりません。日本の輝きは変わりません。

こんな国になったら、心から日本っていいなぁ、と思います。
どこからともなく、力が湧きおこる感じがします。

一人一人が理想に向かって輝いて、さらに日本人お得意の団結力も合わされば、なんでも乗り越えられてしまいそうな気さえしませんか。

さあ一緒に国に理想をかかげましょう!



今年の初めに「ペイ・フォワード・ピース」に向けて、「新春スぺシャルクイズ」に応募していただくようにみなさんに呼びかけましたところ、コメント欄にあるように様々な文章が寄せられました。

いずれも気持ちがこもったものでしたが、現時点までで僕がもっともよいと思ったのが上の文章です。

もちろん、さらに改良の余地があると思いますが、簡潔、素直な文章で、何よりメッセージの内容が明快であり、それが心ある人々の気持ちにストレートに訴えるものがあると思います。

どうか、みなさんもこのような感覚に沿って、もう一度挑戦していただきたいと思います。そうすればだけば、きっと「これだ!」という素晴らしいものが生まれるのではないかと思うのです。

平和は自分たちで創るものなのです。




バトンタッチ

バトンタッチ

毎年お盆を迎えるたびに、いつも、両親や兄弟をはじめご先祖様、そして、これまでお世話になった方々など、すでに亡くなった方々からバトンタッチされているという感覚が何回となく浮かんできます。そして、そのたびに「頑張るぞ」という思いが心から湧いてきます。

何をバトンタッチされたというのか?と思われるかもしれませんね。それを言うと誇大妄想狂だと思われるかもしれないので、これまで自分から人にそれを言うのは控えてきました。

でも、今年はなぜか分かってもらえそうな人には言ってもよいのではないかと思ったので、このブログに書くことにしました。読まれた人のなかには「独りよがりの思い付きを書いて、まったくいい気なものだ」と思う人もいるでしょうが、僕の正直な気持ちなので、そう思われても気にしないことにします。

さて、亡くなった方々から何をバトンタッチされていると感じるのかと言えば、「動植物を含め全人類が本当に幸福で平和になるように全力を尽くしてほしい」という願いです。

もちろん、亡くなった方々の多くは生存中にそんな意識を持ったことはないでしょう。でも、そうであったとしても、それはアタマのハタラキに支配された表面の意識がそうであったというだけで、その方々の内なる本心(真心)は間違いなく、動植物を含め全人類が本当に幸福で平和になることを切望していたに、いや、今でも切望していらっしゃるに違いない。その切なる願いを僕だけでなく、すべての人はバトンタッチされて託されているのだと僕は確信しています。

実は、この感覚はお盆にかぎらず、常時僕にはあるのです。ですから、誤解されるかもしれませんが、亡くなった身内や親しい方々の墓参りとか命日などには僕はあまり関心がありません。そんなことばかりやっても、その本人の生き方がいい加減であれば、それは単なる気休めや形式的で後ろ向きなものでしかなく、本当の供養にもならないでしょう。また、どんなに心がこもっていてもペイ・バックでは不充分なのです。

もっとも大切なことは、後に残った私たちが、本当の生き方をする、つまり、すべての存在が本当に幸せで平和に生きることができる世の中を創るために全力で生きていくことです。それが亡くなった方々の本当の願いであり、それをバトンタッチされ託された私たちがその願いに沿って生きることこそが本当の供養なのです。

そして、このように感じながら生きてきて思うことは、“亡くなった“方々は本当は亡くなってはいないという感覚がすることです。

それは、すべての存在は不生不滅の“いのち“の顕われであるという意味でもありますが、実感としては、それらの“亡くなった“方々が今でもしっかりとこの自分のなかに生きていらっしゃるという感じがいつもしているからです。

もちろん、それらの“亡くなった“方々はこの自分のなかだけに生きていらっしゃるということではないでしょう。でも、自分の中にその実在を感じられるのは何とも幸せな気持ちになります。

このように、ペイ・フォワード・ピースは必ずしも、現在生きている姿が見える人たちだけの間で行われるものではないと僕はいつも感じています。




カユナールとネホサ

カユナールとネホサ

ある時ふと気がつくといつの間にか右腕にポツンと赤い斑点ができて痒いのに気がついた。
友達にその話をしたら、「これを塗るとすぐに斑点も痒みも消えるよ。よかったら君が持っていていいよ」と言って、「カユナール」と書かれた小瓶をくれた。

早速斑点にカユナールを塗ると、友達の言うとおりに、あっという間に斑点も痒みも消えてしまった。
それから1週間ほど経って、ふと右腕が痒いなと思って見ると、小さな発疹ができていた。でも、カユナールのことを思い出し、それを一塗するとすぐに発疹も痒みも消えた。

それから5日ぐらい経って、右腕が痒いなと思ったら、前より少し大きな発疹ができていた。でも、カユナールを一塗すると、やはりすぐに発疹も痒みも消えて気持ちよかった。
それから、3日後に再び右腕により少し大きな発疹が2つできていて、かなり痒かったが、カユナールを塗ると一発で発疹も痒みも消え、とても気持ちよかった。

それからは、必要になったらすぐ塗れるように、どこに行くのにもカユナールを持ち歩くようにした。
その後も発疹と痒みが現れたが、カユナールの効き目はすごく、一塗で発疹も痒みは消えた。

でも、困ったことに、発疹の数と痒みは現れる度により大きくなっていった。また、カユナールを塗った後に発疹が現れる間隔はどんどん短くなっていき、気がつくと、発疹と痒みは毎日現れるようになった。

友人にもらった小瓶は使い切ってしまったので、薬局で小瓶を1ダース買って、それを順次使うようにした。旅行に行くときも必ず小瓶を持っていることを確認してから出かけるようになった。

こうして、たしかに、カユナールを塗った後はちょっとの間ホッとできるのだけど、そのうちに、発疹と痒みは2時間おきに現れるようになった。僕は内心とても不安だった。

そんなある日、新聞にカユナールに関する新しい研究結果についての記事が出ていた。
記事によると、意外なことに、カユナールは発疹や痒みにはまったく効いていないということだ。それどころか、初めに赤い斑点を痒い発疹に変えたのも、その後、発疹の大きさと痒みをどんどん大きくしたのはカユナールだというのである。

記事の続きには、カユナールの作用のメカニズムについて簡単で明瞭な説明が載っていた。
「そもそも、初めにカユナールを塗らなかったら赤い斑点は自然に消えて何の問題もなかったのだ。でも、カユナールを塗って斑点が発疹になると、カユナールを塗る度に発疹はしばらく皮膚の下に隠れ痒みも感じなくなる。発疹は皮膚の下でカユナールを養分にして活性化し大きく成長する。成長した発疹は再び皮膚の表面に現れ、痒みもより大きくなる。だから、発疹と痒みが現れないようにするには、ただカユナールを塗るのを止めればよいのだ。そうすれば、痒い発疹は養分を絶たれ、短期間のうちに自然に萎んで消えてしまい、二度と再び現れることはない。」

もし、あなたもかつての僕のようにほとんど絶え間のない発疹と痒みの発現に苦しめられていたとします。そして、このカユナールと発疹についての真実を知ったとしましょう。

あなたは、それでもカユナールを塗り続けますか?
カユナールを塗らないでいるのに精神力が必要ですか?
カユナールを塗らないでいるのはみじめですか?

もうお気づきだと思いますが、この文章はタバコの正体を分かりやすいように比喩的に説明したものです。

タバコの正体がはっきりと分かれば、タバコは何の苦労もなく、実に、簡単に止めることができます。
でも、タバコを止めるということについては、ほとんどの人の常識は「タバコを止めるのは実に難しい、あるいは、難しいということだ」というものです。

しかし、それはタバコを止めようとしても、タバコを吸いたくなる根本原因(タバコの正体)をはっきり見抜いていないために、止めるための方法が間違っているからなのです。タバコを吸いたくなる根本原因を見抜いてそれを取り除くために、正しい方法でやれば、タバコを止めるのは超簡単なのです。

同様に、これまでほとんどの人は世界の恒久平和を実現するのはとても難しいと思ってきました。でも、何が平和を妨げているのか?と根本原因を見抜いて、正しい方法で根本原因を取り除けば、世界の恒久平和を実現することは超簡単なのです。

これは、ネホサを理解するためにとても重要なポイントです。





佛様でいる

佛様でいる

私たちは何かのきっかけで、“自分“を真剣に見つめざるをえなくなることがあります。でも、自分を見つめれば見つめるほど自分のケチな根性(エゴ)の根深さに気づき、どうしようもなくやるせない気持ちになります。

そのエゴを何とかしたいと、いろんな本を読んで考えたり、工夫をしたりするのですが、なかなか思うようにはなりません。結局は、もうこれ以上考えるのはやめようと思っているうちに、いつの間にか日常生活に埋没していく人が大部分です。でも、いつも心のどこかで引っかかっているので心から晴れ晴れすることはありません。

中には、それがどうにも気になり、その解決を宗教的信仰や修行に求める人もいます。でも、心からの安心に至る人はとても少ないようです。

このことについて、江戸時代に生きた盤珪禅師は次のように言われています。
「厳しい修行をして悟りを開いて佛になろうとするより、佛でいるほうが簡単で近道ですよ。」

この言葉を聞いて「ああ、そうなのか!」とスッキリ納得された方は本当に幸せです。でも、現代人は中々「そうか」とはなりにくいのではないでしょうか。僕なりに説明してみましょう。

 
ケチな根性(エゴ)は人間の生まれつきのものではありません。二元相対的に思考するアタマ(大脳)によって、この世界をバラバラな存在が集まってできた世界だと認識するバラバラ観による“身びいき”から生じるのです。

多くの人はアタマ、あるいは、アタマで考えることが自分だと思い込んでいるために、ケチな根性を何とかなくしたり、出てこないようにいろいろ工夫したり努力をします。でも、アタマを頼りにしているために、思うようにはならないのです。それは自分の坐っている座布団を持ち上げようとするようなものです。

でも、自分の本体はアタマでも体でもありません。その奥にあるハタラキ・真心です。“いのち“が創り出したこの世界は、本来、調和の世界です。それは大宇宙の星々や大自然の循環・調和の有様を観察すれば、誰にもすぐに分かる真実だと思います。

真心は“いのち“が創り出したこの世界の本質であり、この宇宙に充満しているハタラキです。しかし、ハタラキの結果は五感で捉えることはできても、そのハタラキの本体は五感では捉えることはできません。

そこで、それを仏教では”空“とか、”仏性“などと呼び、盤珪禅師は”不生の佛心“と呼ばれ、僕はそれを阿弥陀如来の心、あるいは、真心と呼んでいます。

その真心こそが自分の本体なのであり、僕はいつもそれを意識して生きるようにしています。

それを趙州禅師流に言えば、
平常心が道である。

盤珪禅師流に言えば、
短気や迷い(エゴ)は生まれつきのものではない。
我が身の身びいきが迷い(エゴ)を生み出す。
佛心の尊さを知れば、迷いたくとも迷われない。
迷いが無いのが悟りであり、佛でいるということ。
不生の仏心が本当の自分であることに決定する。

僕流に言えば、
アタマの錯覚による“自分“がなければ、人に何を言われても傷つかない。
怒りは道徳の問題ではない。怒りが出てこないのが本来の姿だ。


佛様でいる。これが “エゴフリー”で生きる秘訣です。




佛様になる

佛様になる


(以下は、和田重正に学ぶ会機関誌『ここに帰る』第62号 令和元年7月15日発行に掲載された和田重正先生の文章です。)

少しかけ離れた話で、みんなには分からないかもしれませんが、私にはとても面白かったので話しておきます。
 鎌倉の円覚寺の管長さんは朝比奈宗源さんという偉い坊さんです。二、三年前このお坊さんに来ていただいてお話を聞いたことがあるのですが、その時こんなことを言われました。
 「人間は死んだら誰でも佛になる。一生修行を積んだ人も、積まない人も、宗教を信じた人も信じない人も、みんな同じ佛様になるのだ。少しも変わらない。悪いことをしたから地獄に行くとか迷って死んだら行くところへ行けないで人に祟(たた)るとかいうのはみんなウソで、どんな人でも全部立派な佛になるのです。」
 そのとき質疑に立った女の人に、宗源さんは声を励まして言われました。
 「死んで無差別の涅槃に入るというのでは、この世で善根を施したり(善いことをしたり)、修行をしたりして苦労することが無意味ではないかとあなたは考えるのだろうが、そんなケチなことではだめだ。」

 まことに、ケチな根性のために人間は、道理にあったものの考え方が出来ないのです。


以上の朝比奈宗源老師の言葉とそれに対する和田先生のコメントはまさに私たちすべてにとっての福音です。折に触れて何度でも読み返したいものです。

私たちは無垢の“いのち”の現れにより人として生まれ、その後人の特性として本能だけでなくアタマを使って生きていくために、正しいことだけでなく間違いを犯しながら生きて行きます。でも、いずれ肉体の生が尽きて、再び無垢の“いのち”そのものに戻って行きます。この存在の真実を朝比奈宗源老師はわかりやすく説いていられます。

このように、自分自身が間違いをしばしば犯しながら生きているだけでなく、人間の社会ではある人の間違った考え方や行いのために他の多くの人が被害や迷惑を被るということが頻繁に起こっています。

では、自分自身を含めて、間違いを犯し、他の人々を苦しめている人は“悪い人”なのでしょうか? これが今回のテーマでもあります。時間をとってよく考えてください。


結論から行きましょう。
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。この言葉はまさに真理であり、福音です。その人の考え方や行いが真理に照らして間違っているのであって、その人の本体は無垢の“いのち”そのものです。ですから、ある人の考え方や行いを憎んでも、その人自身を憎まないのです。

朝比奈宗源老師の話を僕なりに言えば、本当は、死んでから佛様になるのではありません。その人の本体は生きている時からずっと佛様なのです。

だから、誰かが自分がそうすべきでないと思うことをした時にその人に対して腹を立てるということは、佛様に対して腹を立てていることであり、それこそ“罰当たり”なのです。

また、腹を立てるということは、相手の考えや行いではなく、相手そのものを憎むということです。相手がどんな意図で間違いを犯そうとも、その人を憎むということは天に向かってツバすることであり、ひいては、自分にツバすることなのです。




僕の死生観

僕の死生観

普通の人は大体次のような死生観を持っているようです。

大昔からずっと世界という舞台があり、人は一人ひとり、たとえば、舞台の左側の袖から舞台に登場し、しばらく「人生」というテーマで演技をしながら舞台の右側の方へ移動していく。そのスピードは人によって早い遅いがある。体はだんだん思うように動かなくなりやがて舞台の右端で完全に動かなくなってしまう。心については、心も働かなくなってしまうと考える人もいれば、魂となって舞台の袖より退場し、次の舞台まで別の場所に待機しているなどと考える人もいる。(この例の場合、舞台は自分にとっては他のものであり、舞台上では自分だけでなく他のいろいろな存在が演技している。)

このような一般的な死生観に対して、僕は次のような死生観を持っています。

まず、太古のむかしより不生不滅のこの世界がある。この世界が真実の自己である。一つの大いなる生命体であるこの世界は一つの人体のそれぞれの細胞や組織や器官のように、たえず古くなったものは新しいものに変わり新陳代謝をしている。

この大いなる自己であるこの世界自身の新陳代謝により無数の自己という自覚点がそれぞれのタイミングで生まれては消える。それは、たとえば、一つの人体のように、一つ一つの細胞や組織や器官が人体を構成し、そのどの一つも人体と別物ではないのと同じように、大いなる自己であるこの世界とそこに生じたそれぞれの自己は同通している。

この自己を生み出したこの世界こそが自分の根源、すなわち、真実の自己なのである。だから、自覚点としての個としての自分はいずれ新陳代謝の結果消えてしまうとしても、その根源である真実の自己は絶対に消えてしまうわけではない。


けれども、アタマのバラバラ観で自覚点としての個としての“自分”を単なるバラバラな個としての自分と考えてしまえば、誤解と錯覚に陥ってしまうでしょう。

ですから、自覚点としての個としての自分は新陳代謝の結果消えてしまうとしても、その根源である真実の自己は絶対に消えてしまうわけではないということがはっきりすれば、自覚点としての個としての自分が消えようがどうしようが、それこそ、どうでもよいのです。

和田重正先生は「死んだらどこに行くんでしょうか?」と問われた時に、ニコニコしながら「死んでもどこにもいきませんよ」と答えられました。

この「ニコニコしながら答えられた」ということ自体が先生の存在の真実についての理屈抜きの透脱した悟りを表しています。

また、「死んだ後も”自分“という意識はあるのでしょうか?」という意味の問いに対しては、「死んだあとは”自分“という意識はないと答えておいて、実際に死んだ後に、”自分“という意識があった時には困るから、”ある“ということにしておきましょう」とユーモラスかつ微妙な答えをされています。

(和田先生も超かっこいいですね!)

僕自身は、死んだ後も”自分“という意識(”魂“)は残ると考えたほうがいろいろなことが辻褄があうように思っています。でも、そんなことはどちらでもよいのです。不生不滅の大いなる自己、それが真実の自己なのですから・・・。





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