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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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無事の人 その2

無事の人 その2

中やすみのあとでは、為さん(按摩さん)はあまりしゃべらなかった。宇多(主人公)も、もんでもらっているあいだに、うつらうつらして、口をきくのもものうくなってきた。そのうち、おなかの上に電気をかけられたような、気もちのいい振動が伝わってきた。それはヴァイブレーターをかけた時の感じと、よく似ているが、それよりも、もっと“しん”のほうに、しみ通るものだった。

「いい気もちだね、それ、なんというやり方?」
天国の温泉にでもつかっているような、甘い夢ごこちの中から、宇多はほのかにくちびるを動かした。
しかし、なんの答えもなかった。
彼は重ねて問い返さなかった。・・・・彼はそのいい気もちの中で、いつのまにか、すやすやと眠ってしまった。

翌日もまた、退屈しのぎに為さんを呼んだ。・・・・・
「きのう、療治の終わりのころ、おなかに電気をかけられたような、いい気もちがしてきたが、あれは、なんという療治なの?」

「あれですか。ありゃあ『シンセン法』とか、なんとか言いますんで。―――へえ? そいつは、わっちにゃわかりませんね、どんな字を書くのか。・・・・・なあに、ありゃあ、指のさきと手のひらでやりますんで。あんまのこってすから、別に種も、しかけもあるわけじゃあござんせん。よく、病気の時に、手あてをするって言いますね。つまり、その『手あて』なんで。今じゃあ『手あて』っていうと、薬を飲ませることとか、看護をすることのように言われてますが、もとの起こりは、病人のからだに手をあてて、病気を直したからだって話ですね。それで直りゃあ、手あてがよかったってわけでしょう。『シンセン法』だって、なあに、昔の『手あて』なんですよ。」

「しかし、手あてと言ったって、ただ手をあてていりゃ、いいというわけのもんでもないだろう。」

「へえ、そりゃそうですとも。ただ手をあてたって、指のさきをふるわせたって、そんなこって、きくもんじゃあござんせん。これにはやっぱり“こつ”がございます。・・・・・
あれをやっている時は、まあ、大げさに言やあ、無念無想とでも言うんでげしょうか。わっちもねえ、お客さんもねえ、そんなこたあ通り越しちゃって、いわば天地と一枚になるってところにいかなくっちゃあ、いけねえんでさあ。そこらで『シンセン法』って言ってるなあ、てえげえ指のさきをふるわせてるようですが、ふるわせるなんて、たくらみでがすよ。」

「そうすると、ふるわせるのじゃなくて、ひとりでに指さきがふるえてくる。そのふるえが、自然にお客のからだに伝わる。そういうわけだね。」

「そうですね。まあ、そういった寸法でげしょうが、こっちは、そんなこたあ、なんにも知らねえ。自分のからだのふるえるのも、指先のふるえるのも知らねえ。その知らねえあいだに、なんかがお客さんのからだに伝わる。――いや、そうじゃあねえ。そんなことも、何もかも、いっさいがっさい、わからねえ。わっちというものがなくなっちゃって、ただじねんのお計らいに任せる。それが手あての一番“かなめ”なとこでござんしょうね。・・・・・」
(『無事の人』山本有三著 新潮文庫 より抜粋)

“無事の人” いいですねえ。





具島先生の奥様

具島先生の奥様

これから書こうとしていることは僕の少年時代から青年時代にかけての実にささやかな思い出です。最近、あらためて思い出してみて、僕の人生にとっては実に大きなものであったことに思い至り、ここに書いてみようと思ったしだいです。

僕の家族は戦後熊本の田舎から福岡市の野間というところに引っ越してきました。商売の才などまったくない両親は月刊や週刊の雑誌だけを販売したり配達する小さな本屋を細々と営みながら子供たちを懸命に育ててくれていました。

僕は熊本の田舎とはまったく環境も言葉も異なる町に引っ越してきてなかなか学校生活にもなじめず、成績も落ちこぼれで、今思い出しても、とても内気な少年でした。

小学校3年生ごろからは毎月月刊雑誌を定期購読してくださるお客さんの家を回って配達するのを手伝わされました。何冊もの雑誌を風呂敷に包み、それを自転車の後ろの荷台に積んで1軒1軒配達に回るのです。

その配達先の一つが具島先生のお宅でした。僕は当時は子供であり、どこかの大学の先生らしいなとしか認識していませんでした。しかし、後になって、具島兼三郎先生は九州大学で国際政治学を教えていらして、ファシズムの研究や平和論などの執筆活動や平和活動において著名な教授であったこと、家庭においては、実に、優しい夫であり、父であったことを知りました。

その具島先生のお宅には毎月の中旬に『婦人の友』という雑誌を届けるのですが、玄関のブザーを押すと、とても品のよい、やさしい笑顔の奥様が玄関を開けてくださいます。僕が恥ずかしそうに、もぞもぞと挨拶をし、おずおずと雑誌を差し出すと、「ちょっと待っててね」と言われて、いったん奥に行って、雑誌の代金と何か小さな包みを持って戻っていらっしゃいます。

僕が代金を受け取ると、奥様は「これを」と言って、その包みを手渡してくださるのです。恥ずかしそうに挨拶をして外に出て、包みを開けるといつもお菓子が入っていました。それが毎月1回、とうとう本屋をやめざるをえなくなる大学3年生の時まで約10年以上続いたのです。

僕は小学校の3年生の時にあることで、「自分自身も含めて、この社会はみんな間違っている」と天地がひっくり返えったかのように強く思いました。

でも、「みんな」と言っても、それは「大多数が」という意味であり、「そうでない方も」数は少なくとも、たしかにこの社会にいらっしゃるのです。

僕は、幸いにも、何かに導かれるように、そのような方々の数人に出会い、まさに救われました。その方々のおかげで、偉そうなことは言えませんが、今日多少でも人様のお役に立てるようにもなりました。

そのような方々との最初の出会いが具島先生の奥様との出会いです。人生を思い返してみて、もし、奥様に出会わなかったら、まったく違う人生になっていたような気がします。

最近、偶然にご主人の具島兼三郎先生の追悼集を見つけました。その中に家族写真があり、数十年ぶりに奥様の優しいお姿を見出し、思わず涙がにじみ出ました。

あらためて思うのは、真心を込めてやることは何一つ無駄なことはないということです。
この気持ちが僕を支えています。





無事の人

無事の人

作家山本有三氏には『路傍の石』や『真実一路』など有名な作品があり、僕も少年時代から青年時代に氏のいくつかの作品を読みました。

小説『無事の人』はごく最近ほとんど偶然に読んだ氏の作品です。内容は太平洋戦争の末期に主人公がどこかの海岸の旅館に宿泊した時に頼んだ盲目の按摩(あんま)さんとの会話が中心です。按摩さんのセリフが面白いので、その一部を抜粋して紹介します。

*****
「そうですか。ゆうべは、よくおやすみになりましたか。そいつぁあ、ようがしたね。眠るのが一番でござんすよ。よくれ眠れさえすりゃ、てえげえの病気は直っちめえます。」

「いいえ、ほんとでござんすよ。そりゃあ、なんの病気もってわけにゃ行きませんが、まあ、十の八、九はそう思ってまちげえござんせんね。・・・」

「・・・だんな。ここんところ、どうです。―――きくでしょう。」

「こいつは、ほんとに凝っているところです。」

「おっしゃる通り、もみほぐしてえんだが、情けねえことに、あんまなんかの力じゃあ、本当には直りませんや。」

「・・・・・さっき、わっちが言ったなあ。よく眠るこってすね。眠れさえすりゃあ、こんなものは、ひとりでに直っちめえますよ。そりゃあ療治すれば、ちったあらくになりますが、そんなもなあ、一時しのぎでさ。凝りがほんとにほぐれるってわけにゃいきません。」

「だいたい、人間は生きものなんだから、生きものであるからにゃあ、自分が生きていくのに都合のいいように、からだのからくりもできてるってわけのもんじゃあござんせんかね。人間、人なみに食って、人なみに働いて、人なみに寝さえすりゃあ、そう病気にかかることはねえはずですよ。よしんば、病気になったところで、てげえは、からだのほうで、じねんに直してくれますよ。こいつは生き身のありがてえところなんで。そこへゆくと、もみ療治なんて、たかの知れたもんでさあ。」

「・・・・・なにも、こんなことを言って、てめえで、てめえのしょうべえにけちをつけるにゃああたりませんが、まあ、正直な話、いま言ったようなもんじゃござんせんかね。そりゃあ、わっちにしたって、これまで随分、いろんな病人を扱ってきました。それでつい四、五年めえまでは、あの病人も、この病人も、わっちの腕で直したんだと、こう思ってましたが、とんでもねえ、うぬぼれでさあ。なあに、てめえが直したんじゃあねえ、じねんに直ったんですよ。こっちの腕じゃあねえ。あちら様のお力なんでさ。ねえ、だんな、そうでござんしょう。だから、わっちは、まあ、せいぜいのところ、病気の直るお手つだいができりゃあ、結構だと思ってますんで、へえ。」
(『無事の人』山本有三著 新潮文庫より抜粋)

*****

ここまで読んだときに、僕は「もしかしたら?!」と思って、奈央さんに訊いてみました。

山本有三氏のご家族はかつて整体協会の会員であり、奈央さんは整体協会に行ったときには、ほとんどいつも氏の息子さんのお嫁さんに活元運動を誘導していただいていたとのことでした。それはまさに体の中心からワッと全身に広がっていくような素晴らしい誘導だったと懐かしそうに話してくれました。

”無事の人“いいですね。





天動説と地動説 その5

天動説と地動説 その5
(その4からのつづき)

ここにタバコやお酒について二つの説があります。
一つは「タバコやお酒は嗜好品である」という嗜好品説です。
もう一つは「タバコやお酒は強力な麻薬である」という麻薬説です。

これはまさに現代の天動説と地動説です。
では、そのどちらが正しいでしょうか? もうはっきりとわかりますね。

21世紀の社会に生きる私たちのほとんどは依然としてこの現代の天動説を信じ込んでいます。そのために、毎年世界中で600万人以上の人々が苦しみながら死んでいます。

現代の天動説と地動説は他にいくつもあります。最も重要なものが存在の真実についての二つの説です。
一つは「この世界のすべての存在はもともとバラバラなものである」というバラバラ説です。
もう一つは「この世界のすべての存在はもともと一つのものである」という不可分一体説です。

では、そのどちらが正しいでしょうか? もうはっきりとわかりますね。
でも、21世紀の社会に生きる私たちのほとんどは依然として現代の天動説(バラバラ説)を信じ込んでいます。

人々は農耕時代の始まり頃から現代にいたるまでこの天動説(バラバラ説)を信じ込み、「自分たちの集団が一番大切だ」という集団エゴイズムのために集団同士で戦いを繰り返してきました。その挙句、このままでは核兵器で人類はみんな滅びるかもしれないとさえ言われています。

また、集団エゴイズムはとくに先進国において、個人や企業などの在り方にも影響を与え、ほとんどの現代人は「何より自分と自分の家族が大切だ」という個人エゴイズムによって便利・快適・豊かな生活をどこまでも求め、また、企業は「自分たちの企業が一番大切だ」という企業エゴイズムを当然のこととして、企業は儲け主義に走り、お互いに熾烈な生存競争に明け暮れています。それらの結果、途上国の人々を苦しめ、地球環境を破壊し続けています。

このような状況がなぜ生じるのか? 現代社会においてもいろいろな点について、存在の真実や科学的な真実(地動説)でなく天動説を正しいと信じ込んで疑わないということが原因なのです。

では、なぜ多くの人は天動説を真実であると信じ込むのでしょうか?
簡単に言えば、周りの人が、みんながそう言っているからといういい加減な根拠で、自分もそう思う、それが正しいと思うからです。
この傾向はとくに日本人に多いと言えるかもしれませんが、世界中の人が同じような傾向を持っています。

では、みんなそれが正しいと言っているからと言って、それは絶対に正しいと言えますか? 言えませんね。

では、それは自分の実感だから、それは絶対に正しいと言えますか? 言えませんね。
タバコやお酒のように騙されているかもしれないし、錯覚ということもあります。

いずれにしても、一人一人のこのようなあやふやな生きる態度が現代の深刻な個人的、社会的問題を引き起こし、その解決を不可能にしているのです。

だからこそ、まず、「自分とはなにか? この世界とはなにか?」という存在の真実を自覚することが何よりも大切なのです。

だからこそ、すべての人に自覚(いのち)とペイ・フォワード・ネホサが必須なのです。


(おわり)





天動説と地動説 その4

天動説と地動説 その4
(その3からのつづき)

ここまで述べてきたように、自分、そして、みんながそのように実感したり、思っているから、それは科学的に正しい、あるいは、真実であるとは必ずしも言えません。

ほとんどの人が、タバコは健康に悪いなどの副作用(デメリット)もあるけれども、タバコでしか得られないメリットのある“嗜好品”であり、お酒も飲みすぎには気をつけなければならないが、お酒でしか得られない素晴らしいメリットがある“嗜好品”であると思っています。

けれども、ニコチンもアルコールもその科学的真実は嗜好品ではなく強力な依存性薬物(麻薬)なのです。

そもそも、思いと事実は別物です。ですから、思いの内容は必ずしも事実と一致するとはかぎりません。

また、“実感”と言っても、それが錯覚という場合もあるのです。例えば、スモーカーやドリンカーは「タバコやお酒にはデメリットもあるが、素晴らしいメリットがある」と”実感“していると思っていますが、それは、たとえば、マジシャンに巧妙なトリックで鮮やかにイルージョン(幻想)を見せられて、それを真実だと”感じている“ようなものです。

要するに、みんなタバコやお酒に見事に騙されているのです。
タバコやお酒は嗜好品なんかではなく麻薬です。麻薬というものは、巧妙な手口を使って、人に悪いものを良いものだと騙して、死ぬまで依存させる邪悪な詐欺師のようなものなのです。

現在では、タバコに関しては、デメリットのほうがメリットよりもはるかに大きいと考えるノンスモーカーが増えてきました。しかし、4,50年前はまったく反対に、メリットがデメリットよりもはるかに大きいというのが世間の常識だったのです。

その点、お酒に関しては、4,50年前も現在も「お酒は楽しい、お酒は喜びだ、お酒はおいしい、お酒はリラックスできる」などという世間の常識はまったく変わってはいません。

また、スモーカーはタバコを吸い始めてある程度の期間は、自分で好きな時に自分の判断で吸って、自分でタバコをコントロールしていると思っています。しかし、依存が進むと、タバコを吸いたいのに吸えないような状況が続くと、「タバコを吸いたい! タバコを吸いたい!」というパニック状態になります。このように、人がタバコをコントロールしているのでなく、タバコが人をコントロールしているのです。

でも、初めのうち、スモーカーは本当にタバコをコントロールできていたのでしょうか? 
いいえ、タバコは麻薬ですから、人は初めからタバコをコントロールできていなかったのです。依存症の初期だからコントロールできているように思っているだけなのです。

どんな麻薬でも人に「自分はコントロールできている」と思わせながら、どんどん、麻薬の底へと引きずり込んでいくのです。それが麻薬です。

お酒も麻薬です。自分はお酒を好きな時に好きな量だけコントロールしながら飲んでいるという人もみんな、「自分はお酒をコントロールできている」という思いもろともに、すでに麻薬という同じ滑り台に乗って、否応なしに、下に向かって滑り落ちているのです。


(つづく)





天動説と地動説 その3

天動説と地動説 その3
(その2からのつづき)

スモーカーはタバコは健康にとても悪いなどの副作用(デメリット)はあるとしても、タバコを吸うとストレスを解消でき落ち着くとか、集中力や自信が出るとか、タバコは喜びであるなど、タバコにはタバコでしか得られないメリット(良さ)があると思い込んでいます。だからこそタバコを吸うのです。

では、ノンスモーカーはタバコについてどう思っているのでしょうか?
自分はタバコを吸いたいとは思わないし、タバコを吸うのは損だと思うばかりで、タバコなんて自分には関係ないと、それ以上タバコのことについて深く考えようともしない人が多いようです。

しかし、ノンスモーカーに「スモーカーはタバコにデメリットがあるのにもかかわらず、なぜタバコを吸うのだと思いますか」と重ねて訊くと、「タバコにデメリットはあっても、やはりタバコにはタバコならではのメリット(良さ)があるのだろう。そうでなきゃあ、タバコなんて吸わないもんね」という答えが返ってきます。

このように、スモーカーはもちろん、ノンスモーカーの多くもタバコのデメリットは認めながらも、タバコにはタバコならでは得られないメリット(良さ)があるのだと“実感“、あるいは、あるのだろうと思っています。

でも、タバコにはメリットは全くないことは科学的に実証されています。
スモーカーはタバコを吸うとリラックスできると感じていますが、それは1本前に吸ったタバコ自身が作り出したストレスや渇望感というイヤな気持ちがタバコを吸って一時的に解消されたというだけなのです。しかも、そのタバコによって新たにストレスや渇望感というイヤな気持ちが引き起こされるのです。

集中力や自信が出るとか、タバコは喜びであるというのも、そのイヤな気持ちで落ち込んでいたのが一時的に解消された感覚をそのように錯覚しているというだけのことです。つまり、タバコには大きなデメリットはあっても、メリットはまったくないのです。これが科学的な真実です。

これはお酒(アルコール)についてもまったく同じです。ドリンカーはもちろん、ノンドリンカーもお酒にはデメリットはあるけれども、お酒ならではのメリットがあると信じ込んだり、思っています。つまり、飲みすぎには気をつけなければいけないが、お酒はいいものだとほとんどの大人が思っているのです。

これは、現代においてもほとんどの人がいまだ天動説を真実だと信じ込んでいるようなものです。

タバコやお酒は氷山の一角にすぎません。火星に人間送り込む日も近いとさえ言われるほど科学技術が発達した現代社会においても、私たちは実に多くの錯覚の中で生きているのです。

人類は戦争を繰り返し、飽くことなく利益を求めて競争し、便利・快適・豊かさを求め、その結果、自分たちの生存に不可欠な空気や水や食物そして大自然を汚染するという愚行を繰り返し、多くの動植物を道連れに自滅にひたすら向かっています。

人間のあらゆる問題の元凶はバラバラ観を存在の真実だと錯覚していることにあります。

バラバラ観こそ現代の天動説です。

私たちは今こそ正気に戻らなくてはならないのです。


(つづく)






天動説と地動説 その2

天動説と地動説 その2
(その1からのつづき)

今あなたは砂漠の中を長い時間歩いているとします。持っていた水はもう全部飲んでしまって一滴も残っていません。何時間も歩きながら水のありそうなところを探しましたがどこにもありません。それで喉が渇いて渇いて仕方がありません。

その時、前方に泉のようなものが見えました。もしかしらと思って、気力を絞ってたどり着くと、そこにはきれいな水が湧いています。周りには誰もいません。飲んでも大丈夫かどうかちょっと手のひらにすくってなめてみましたが、まったく大丈夫です。

ここで質問です。
あなたはこの水をガマンして飲まないでいることはできますか? できませんね。

どうしてできないのでしょうか? それは、水は生命を維持するのに不可欠なものだからですね。

水のほかに生命を維持するのに不可欠なものはありますか? 食べ物や空気(酸素)ですね。

では、タバコは、本来、生命を維持するのに不可欠なものですか? 違いますね。

たとえ、今はスモーカーであっても、タバコを吸うようになる前はタバコを吸わなくても生命の維持が脅かされることもなく、まったく問題はありませんでした。

ところが、スモーカーはタバコを吸いたいのに吸えない時間が続くと最初はソワソワ、そして、イライラ、ついには、吸いたくて吸いたくてパニック状態になるのです。それはどんな人であっても水のない砂漠で長時間水を飲めなければパニック状態になるのと同じような精神状態です。

このように、スモーカーはホンネ(潜在意識)の部分で、タバコを水や食べ物や空気のように自分の生命の維持に不可欠なもの、生きる支えだと認識しています。

それはノンスモーカーの目から見るとすぐにわかるように、明らかに誤りであり錯覚です。でも、それはスモーカーのせいではありません。どんな人でもタバコを吸い続けると、ニコチンの作用によって、そのように錯覚するようになります。つまり、どんな人でもタバコ(ニコチン)に騙されてしまうのです。

スモーカーはタバコは健康に良くないとか副作用があると思っていても、タバコは水や食べ物と同じように生きていくために必要なものだと感じています。

だから、タバコを吸いたいのに吸わないようにガマンするのは、喉が渇いて仕方がないのに水を飲むのをずーっとガマンするとか、お腹が空いて仕方がないのに食べ物をずーっとガマンして食べないでいるのと同じぐらいに苦しいことなのです。

ノンスモーカーであるあなたは、タバコを吸っている肉親や親しい友人をいつも「健康に悪いんだから、タバコなんかちょっとガマンさえすれば簡単にやめられるはずだ。それができないなんて、まったくだらしない人だ!」というような感覚で見ていませんでしたか?

お酒についてもまったく同じです。タバコ(ニコチン)もお酒(アルコール)も科学的あるいは医学的にはヘロインやコカインと同じような強力な依存性薬物(麻薬)に分類されています。嗜好品ではありません。

麻薬というのはそれを摂取する人を騙して、その麻薬を生命の維持にとって不可欠な水や食べ物や空気と同じように必要なものと実感的に錯覚させるのです。


(つづく)





天動説と地動説 その1

天動説と地動説 その1

あなたは天動説と地動説の違いはご存じのことでしょう。
そうです。簡単に言えば、次の通りです。
天動説は地球の周りを太陽(や月や星々)が回っているという説。
地動説は太陽の周りを地球が回っているという説。

あなたはどちらが正しいと思いますか?
もちろん、地動説ですね。地動説は多くの科学的観測により実証された科学的真実であることは学校でも習ったのではないでしょうか。

では、あなたの実感としてはどちらが真実であるように感じますか? 
もちろん、実感としては、地球の周りを太陽が回っているように感じますよね。
つまり、実感としては、天動説が正しいと感じています。
科学的真実に照らせば、私たちの実感は錯覚だということになります。
(もっとも、この地球上での日常生活には天動説のほうが適しているのは事実ですが・・・)

歴史的に見ると、今から600年ほど前まで長い間、天動説が正しいとされてきました。しかし、コペルニクスやガリレオなどが天体望遠鏡で太陽や星々の運行を詳細に観察した結果、天動説は間違いで地動説こそ正しいと主張し、キリスト教会などの強い圧力がありましたが、やがて地動説が正しいことが認めらました。今日では一応の教育を受けた人は地動説が科学的な真実であることを知っています。

このように、現代では天動説は間違いで地動説が正しいということは常識になっています。しかし、実は、現代でも、別の事柄については、天動説のように科学的な真実に反する考えを絶対間違いない真実だと妄信している例がいくつもあるのです。しかも、それが人々や社会に大きな弊害をもたらしていることにほとんどの人が気づいていまん。

それをまずタバコを例に説明しましょう。
このように言うと「また、タバコの話かよ。タバコについての話はもう何回も聞いたり読んだりしたからわかっているよ。それに、そもそも自分はタバコは吸わないんだから関係ないよ」と思う人が多いのではないでしょうか?

でも、その態度こそが問題なのです。はっきり言いましょう。あなたはタバコの真実についてまだはっきりとはわかってはいません。

あなたはノンスモーカーだからタバコの話は自分には関係ないと思って適当に聞き流しているのでしょうが、実は、このタバコの話はあなただけでなく、この社会の構造を本当に理解するのにはとても分かりやすい絶好の材料なのです。僕はそれをぜひわかってほしいという思いから、何度も何度も角度を変えてタバコの真実について説明しているのです。

よく自分を振り返って見てください。人と話し合う場合に、相手が「そうじゃない。そうじゃない」と繰り返しいっているのは、多くの場合、自分の言っていることがまだきちんとこちらに伝わっていないからなのです。

にも関わらず、先入観や思い込みで相手を一方的に非難したり、批判者の態度で話を聞いたり、相手の本当に言いたいことを聞こうとしていないことが案外多いのではないでしょうか?

キチンと聞く態度で聞き、キチンと読む態度で読む。これはコミニケーションでもっとももっとも重要な態度です。お互いに心したいものです。

(つづく)





生物としてのエゴイズム

生物としてのエゴイズム

すべての生物には自己の生を全うしようというハタラキが備わっています。

自己という言葉を使いましたが、本来、それは個体そのものだけでなく、同時に個体の属する集団、あるいは、種全体を意味していると思われます。

それはそうなのですが、種あるいは集団全体の生を全うしようとするハタラキは直接的には個体の生を全うするハタラキとして表現されているようです。

それは夜人通りの少ない暗いところを歩いていて、突然ガサッと異様な音がすれば、誰でも本能的にドキッとして警戒するハタラキともなって現われます。しかし、そのこと自体はエゴイズムそのものではありません。

エゴイズムとは個体の生を全うしようというハタラキが他の個体が生を全うしようとすることと関わっている時に自分の生を全うすることを優先しようという意識的な思いが出てくることです。つまり、エゴイズムとは他の個体よりも自分という個体を大切に思うということです。

では、それは本能的なものか?と言えば、そうとは言えません。たとえば、子どもの命が大変な時に、自分の命を危険にさらしても自分の子どもの命を助けたいと思う母親は多いのではないでしょうか。父親にしても同じでしょう。また、思わず自分の命をかけて他人の命を助けたというような話も結構あります。

それは感覚的に自分の子どもを自己の生の延長と無意識に捉えているためや自己の属する集団の生を全うしようという集団本能の発露でもあるのでしょう。そして、そのような思いがはっきりと意識されるときにはノン・エゴイズムと呼ばれます。

自分の生を全うしようというハタラキは個人本能と集団本能としてもともとは人間に備わっています。しかし、アタマのハタラキによってバラバラ観が顕著になってくると、他の個体をさしおいて何よりもこの個体の生を全うしようという個人エゴイズムが生じます。その個人エゴイズムがその延長として自己の属する集団の繁栄と生き残りこそ何よりも大切だという集団エゴイズムに繋がり、それがまた個人エゴイズムを内的に支えているという関係になっています。

幼児が「これは自分の! 自分の!」というのは、”見方によっては“エゴと言えなくないのですが、幼児には自分と周りのことがよく認識できていないだけで、まずは自分の身を守ろうとするのは幼児にとってはとうぜんのことで、それは必ずしもエゴイズムという言葉で捉えなくてもよいでしょう。

それは、その幼児なりの必要性や状況に応じて、単にそういう行動をとるというだけでのことです。そういう学び?の過程で、だんだんと周りとの関係がより広く見えてくると少しずつ行動も意識も変わっていくのだと思います。

そうは言っても、中には、変に意固地になってしまい、幼児の時のエゴ的な振る舞いや意識が本物のエゴになっていく人も多いことは事実でしょう。

このように、エゴイズムという言葉は一応「自分、あるいは、自分の属する集団がなによりも大切」という考え方ですが、その起源は本能にあるとも言えるのですが、アタマのバラバラ観によって自他の区別がはっきりと意識されるようになって現れるということでしょう。





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