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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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生と死と意識の関係 その5

生と死と意識の関係 その5
(その4からのつづき)

今回のブログの締めくくりに、イアン・スティーブンソン博士が彼の著書『前世を示唆する20の事例』(叢文社)の中で報告した一つの事例を、キャロル・ボーマンがその著書に要約して転載したものを、さらに整理して紹介します。

スワーンラ夕・ミシュラは、1948年、インドのプラデシュに生まれた。彼女が3歳のとき、父親と一緒に車で旅に出た帰途に、カトニというプラデッシュから百数十キロも離れた町を通りかかったとき、突然ある方向を指さし、「私の家に行って」と願った。

その後、彼女は家族にカトニで暮らしていたときのことを詳しく語った。彼女の元の名前はビーヤ・バタークで、二人の息子がいることや住んでいた家の内外の様子を説明した。その家の裏側には女の孑の学校があり、家の表側から鉄道の線路といくつかの石灰の炉が見えること。そして、ビーヤは「胸の痛み」で死に、ジャバルプルのパーブラト博士の治療を受けていたこと。彼女はまた、別の町で行なわれた結婚式に出た際に、トイレが見つからなくて、ある友達と一緒に右往左往したことなど50以上の項目について語った。父親はそれを紙に記録している。

1959年、スワーンラタが10歳のとき、彼女の噂がスティーブンソン博士の仲間のバーナジー博士のもとに届いた。彼はすぐにカトニに行ったが、スワーンラタが3歳のときに語ったことだけを手がかりに、彼女のかつての家を探し当ててしまった。

ビーヤ・バタークは1939年、二人の息子と夫、それから弟たちを残して亡くなっていた。バーナジー博士はビーヤの家族にインタビューし、スワーンラ夕が語っていたことのすべてが事実であることを確認した。パ夕―ク家の人たちは百数十キロも離れた場所に住むミシュラ家の人たちのことなど何も知らなかったし、ミシュラ家の人たちもパタ—ク家のことなど聞いたことさえなかった。

それから二、三ヶ月後、ビーヤのかつての夫と彼女の息子のー人と一番上の弟が,スワーンラタの記憶を確かめるために、自分たちの身分と目的を隠し、力卜ニに住む数名の男たちを伴い、スワーンラタの家を突然訪問した。

スワーンラタはすぐに弟を認識し、彼をバブと呼んだ。そして彼女は、男たちに:次々と視線を向けた。何人かはカ卜ニから来た男たちだと認識したが、初対面の男たちもいた。そして彼女は、ビーヤの夫、スリ・パンディーの前に来た。彼女は視線を下に落とし、はにかんだ様子を見せたが、それはヒンドゥー教の信者の妻が夫の前で見せる仕草だった。そして彼女は夫の名を口にした。
スワーンラタはまた、彼女が20年前に亡くなった時13歳だったビーヤの息子のムアリを正しく認識した。ムアリはスワーンラタにー緒に来ていた彼の友人を、ビーヤのもう一人の息子のナレシュだと思い込ませようとしたが、スワーンラタはその男は赤の他人だと主張した。

スワーンラタは,かつての夫スリ・パンディーに、彼が彼女の200ルピーをネコババして彼女に見つかった時のことを詳細に語った。スリ・パンディーは、自分とビーヤしか知らないはずの出来事をスワーンラタが知っていたことに騖き、彼女がビーヤの生まれ変わりであることを素直に認めた。

それから数遇間後、スワーンラタは父に連れられ、ビーヤが住んでいたカトニの町を訪れた。彼女は、かつて住んでいた家に着くなり、ビーヤが亡くなった後にその家に起こっていた様々な変化を一つ一つ指摘した。また、すぐに彼女はビーヤの部屋と彼女が最期を迎えた部屋を言い当てた。

スワーンラタは、ビーヤが知っていた20名以上の人たちを正確に識别し、彼らの一人一人と、まさに、ビーヤでなければできない素直な感情を表しながら挨拶を交わした。スワーンラダはまるでその家の女主人のように自信に満ちて振る舞った。また家族の人たちの愛称や家族内の秘密や様々な婚姻関係をよく知っていた。さらに彼女は古くからいる召使いや友人たちのことさえもハッキリと覚えていた。

特に興味深いのは、スワーンラタが1939年以降にパターク家に起こったことに関しては何一つ知らなかったということである。彼女の前世の記憶はビーヤの死とともにパッタリと途絶えていた。
その後、スワーンラタは定期的にパターク家を訪問し続け、ビーヤの生まれ変わりとして、彼らとの親密な人間関係を再び築き上げるに至っている。
(参考:キャロル・ボーマン著『子どもはみな前世を語る』坂本貢一訳 PHP研究所)

最後に、
いわゆる、死は、永遠に続く人生のひとつの通過点にすぎません。
人生が1回かぎりであろうとなかろうと、“いまここ”を真心いっぱいで、みんなとともに仲良く生きることこそが真実の生き方です。
その生き方を抜きに、面白半分で生まれ変わり(輪廻転生)関係の本を読んでも害になるばかりです。

(このテーマに関しては、いい加減な本もたくさん出版されています。もし、何か関連のありそうなある本を読みたいというときには、その前に僕に相談してみてください。)

(おわり)




生と死と意識の関係 その4

生と死と意識の関係 その4
(その3からのつづき)

現世に生きている私たちは誰でもいずれ肉体の死を迎えるわけですが、その後も魂は決して死ぬことはなく、しばらくは霊として生き、やがて再びこの世界に別の肉体をまとって生まれ変わって来世を生きていきます。私たち(の魂)はこれからも何度となく生まれ変わりを繰り返しながらずっと生き続けていくのです。

詳しい調査によれば、生まれ変わりの様相には次のようにいろいろなケースがあるようです。
たとえば、再び同じ家族として生まれてくる。別の家族に生まれてくる。前世では夫婦だったのが現世では親子や兄弟になったり、その逆であったりする。
前世では男性であったのに、現世では女性として生まれてきたり、その逆であったりする。
現世では前世とはまったく異なった地域や国に生まれてくる、などなど。

けれども、概して言えば、現在、家族や非常に親しい友人や知り合いなどはいずれかの前世において何度も親しい関係にあったようです。

ということは、現在の家族や親しい友人などには、たとえ、自分も含めてそれぞれの肉体の死によって一時的に死別するように見えても、いずれ再会できるということです。このブログを読んでいるみなさんにもきっと僕も前世で何回も親しく出会っていたのでしょう。

また、生まれ変わりを体験した人はみんな、たとえ苦しみながら死んだとしても、肉体の死の後はすぐに肉体から魂が離れて一気に楽になって、死そのものは決して苦しいものではなく、安らぎそのものだと一致して証言しています。

私たちは大いなる“いのち“の川そのものであると同時に、その中に消滅を繰り返している一つ一つの渦でもあります。その中にあって、私たち一人一人の魂は消滅を繰り返すごとに異なった渦に宿りながら永遠に生き続けているのです。

それは何のためなのでしょうか? それは、すべての人間が、その魂そのものは純粋無垢であるのにもかかわらず、アタマによる間違った理解や判断によって心を曇らせ、他人を苦しめ、自分を苦しめる愚かさに気づき、人格を完成させ、この世界に地上天国を建設するためだと僕は思います。

この生まれ変わりの現象は人間だけでなく、イヌやネコなどの動物にも起こっているようです。昨夜たまたま気分転換に『僕のワンダフル・ライフ』という映画を観ました。その映画はまったく内容も知らずに、テレビの放映を予約録画していたものです。

なんと、その映画はまさにこのところ書いている「生まれ変わり」がテーマであり、僕が何冊もの本で知り得た生まれ変わりの実態(と言われるもの)をイヌを主人公にしてわかりやすく表現したものでした。

このような現象は世間では偶然の一致と言うのでしょう。でも、このような”偶然“がこれまで結構僕のまわりで起きているのも確かな事実なのです。

その映画で描かれた、生まれ変わりという、まさに、天動説から地動説への転換を促すメッセージは、感動そのものでした。

そう言えば、一番上の兄が亡くなる前に「必ず何らかの方法を使って、向こうにも世界があることを知らせるよ」と言っていました。

(『僕のワンダフル・ライフ』のDVDは960円(送料別)でアマゾンで手に入れることができます。)

(つづく)




生と死と意識の関係 その3

生と死と意識の関係 その3
(その2からのつづき)

生まれ変わりの研究のパイオニア、イアン・スティーブンソン博士には『前世を記録する20人の子供』(叢文社)他の著書があります。

それらの本によると、どの事例も一般に2歳から5歳の幼い子供が、誰にも促されることなく、直前の前世の記憶を語り始める。子供はまず家族内の誰も知らない人々や土地の名前を言ったりする。そして多くの場合自分の死の瞬間を詳しく描写する。中には、「自分は本当は他の町の人間で、別の両親がいる」とか、「配偶者と子供がいる」などと語り、「そこにつれていってほしい」とせがんだりする。

子供たちは、思い出したことを何か月も語り続けることが多い。それらの前世の物語は次第に家族から地域へとひろがり、やがて、それらの子供たちが前世でともに暮らしていたという遠くの町の家族の耳に届く。その結果、その子供は本当に亡くなった家族の一員の生まれ変わりなのかを確かめたくなり、その子供が現在住んでいる家を訪ね、その子供と家族に出会ったり、両親が子供を連れて前に住んでいたという家族を訪ねて対面するというようなことが起きる。

その子供たちは前世で暮らしていたという家を訪ねる場合には、町や村に入ったとたん暮らしていたという家まで自分で道案内をする。目指す家に到着するとそこに集まっている人々の中にかつての家族や友人を見分けると、彼らを愛称で呼んだり、そこにいない家族のことを尋ねたり、家の中の変わった部分を指摘したり、家族でなければ絶対に知ることのできない事柄をなつかしそうに話したりする。

スティーブンソン博士はそのような子供がいると聞くと調査員とともに現場に出かけ、当の子供や双方の家族に面会し、「その子供の前世の記憶が“偽物”である」ことをあらゆる確立されたインタビューのテクニックを使って証明しようとする。彼は間接的な証言は一切受け入れない。当の子供、家族、親類、村や町の人たちに次々に質問を発しては、彼らの答えを一つ一つ照らし合わせて矛盾点を探し、彼らの証言が信ぴょう性があるかどうかを検証する。博士は調査の結果に誤りが混入しないようにあらゆる注意を払う。このようにして、彼自身と彼のグループが収集した信頼できる生まれ変わりの事例は2600以上にものぼる。

以上の説明でも触れましたが、幼児は何かのきっかけで前世の記憶を自然に思い出し口にすることがあるそうです。ただ、親が前世を自然想起することなどあるはずがないと思っているために、見逃してしまっているケースがほとんどだと思われます。

成長するにしたがって前世を自然に思い出すことはだんだんなくなります。しかし、大人に対しても、熟達した年齢退行催眠(被験者を催眠状態に導き、過去に退行させて心身の不調などの原因を探るテクニック)を使って、生まれる前まで無制限に退行するように暗示すると前世を思い出し、その内容が過去の事実と一致していると科学的に実証されたいくつもの事例がウォムバック博士(『Reliving Past Lives』)やエディス・フィオレ博士(『You have been here before』などによって報告されています。

このように、私たちは何回も前世を生きてきたのです。

(つづく)






生と死と意識の関係 その2

生と死と意識の関係 その2
(その1からの続き)

肉体の死の後も意識は存続する、あるいは、魂はずっと生き続けると思う人は何千年も前から現代まで少数であってもそれなりにいるようです。

しかし、その根拠は自分が信じている宗教でそのように言っているからとか、自分や家族がいなくなると考えると寂しいのでそのように思っていたいなどという人がほとんどのようです。つまり、事実としての確固たる根拠はないというのがほとんどだと言えるでしょう。

そういうことから、現代の発達した科学の時代では、肉体が死んでも魂は生き続けるとか、意識は存続するというのは迷信にすぎないと考える人が非常に多くなってきているようです。

では、僕自身はどうかと言えば、僕は肉体が死んでも意識は存続する、つまり、魂は霊としてずっと生き続け、そしてまた、この世界に戻って来るということを繰り返していると思っています。

こういう現象は仏教やヒンドゥー教などでは「輪廻転生」と呼ばれているようです。しかし、僕は輪廻転生を信仰しているのではなく、また、単にそう思っているということでもなく、「生まれ変わり」は科学的に証明された事実だと確信しているのです。

このように言うと、「ナニソレ~?!」と思われる方がほとんどでしょう。そして、でも、それだったら、多くの科学者をはじめ権威のある人たちが「生まれ変わりは真実だ」と言って、たとえば地動説のように、生まれ変わりはとっくの昔に私たちの常識になっているはずだと思われることでしょう。

でも、地動説も発表されてから、それが一般の人の常識になるまでに何百年もかかったのです。また、アレンカーがタバコの真実を発見して35年以上経ち、少なくとも数百万人から数千万の人々が苦も無く簡単にタバコをやめられたという事実にもかかわらず、いまだに世間ではガマンの禁煙を基本とする方法が主流となっています。その結果、タバコを止めることができずに苦しんでいる人がいまだに何十億人といるのです。

このように、私たちは、いわゆる、“世間の常識“を鵜呑みにして、真実が目の前にあってもなかなか気づくことができないのです。

僕は小さい時からいつも、今この瞬間に自分がこの世界とその中で”自分“というものを意識している事実を不思議に思っていました。死んでこの世界から去って行った人は今は何も意識していないのだろうか、それとも、意識そのものがなくなってしまうのだろうか、自分も肉体が死んでしまえば、何も意識できなくなるのか、でも、どうもそんなことはありそうにない、意識はずっと続いていくのだろうなどと考えていました。

僕は若い時から「自分とは何か」ということを知るために、このテーマをずっと意識して生きてきました。そして、科学的検証に耐える信頼できる資料を求めて関連する本を何十冊も読んできました。その中には単なる面白半分でいい加減な思い込みで書いたような本もかなりありました。

しかし、「生まれ変わりの事実」を科学的方法でどうしても否定しようがないほど厳密に調査し検証し、実証した(と思われる)本をこれまでに少なくとも10冊以上見つけることができました。

(つづく)





生と死と意識の関係 その1

生と死と意識の関係 その1

「自分とは何か?」と問われれば、少し考えることができる人は、「いまここに意識をもって生きているこの個体」、あるいは「いまここに感じている意識」とでも答えるのではないでしょうか?
 
けれども、存在の真実を常識にとらわれずに、「本当はどうか?」と検べてみると、この五感を通せば、この世界は無数のいろいろな個が集まっているようでありながら、それらはバラバラでなく、すべての存在は不可分一体のひとつの“いのち“とでもいうべきものであることがわかります。

すなわち、存在の真実を言葉で表現すると「自分とはこの個体という部分であると同時に“いのち“という全体でもある」という矛盾した表現にならざるをえません。

しかし、それは、ひとえに二元相対的にしか思考・表現できないアタマの限られた性能に問題があるからです。すなわち、存在の真実はアタマの「部分と全体」という二者を矛盾なく超えたところに厳然として存在しているのです。

この個と全体の関係を矛盾なく超えた存在の真実をイメージを使っていくらかでもわかりやすく説明してみましょう。
この世界、すなわち、“いのち“は固定したものではなく、いわば、全体が刻々に変化しながら流れていくひとつの川の流れのようなものです。その川の中に、いろいろな形や大きさの渦が無数にできます。それらの渦も一つ一つ生まれては、刻々に大きさや形を変えながら、やがて消えていきます。そして、また、新たな渦が生まれ、変化していきます。このようにして、“いのち“の川は永遠に流れていくのです。

“いのち“の川の流れにおいては、存在の真実は二元相対的思考による「部分と全体」という関係を超えているのです。つまり、それぞれの渦は渦という個であると同時に川の全体でもあるのです。この存在の真実は個々の波と海との関係にも例えることができるでしょう。

人間の話に戻しましょう。
「自分」は、意識しているかどうかはともかく、真実は、個としてのこの一人の人間であると同時に、全体である“いのち“そのものであるという二重性を生きています。

けれども、バラバラ観を持ちながら生きている多くの人は、個としての自分だけしか意識して生きていません。

そして、いわゆる、死に直面した時の動物的本能により生存を全うしようとして思わず感じる死の恐怖は別として、多くの人はやがて肉体が滅びる、つまり、常識的な“死”によって、脳も死滅し、「自分という意識」は消えてしまうと考え、それをとても怖いと感じています。

ところが、それは、自分の肉体が滅ぶと意識がなくなることを想像して、怖いような気がしているだけなのです。真実は、夜熟睡している時に何も意識していない状態を想像してみればわかるように、意識が消えてしまうことは、「怖い」という思いも消えてしまうので少しも怖くはないのです。

もちろん、肉体が滅びた後も自分という意識はなくならないと考えている人もかなりいます。でも、そのほとんどの人には必ずしもはっきりした根拠はないようです。

(つづく)





ユキ

ユキ

ある冬の朝早くのことです。前の晩から雪が降り続き、外は一面、地面も木々も駐車してある自動車もみんなそれこそ真っ白でした。

僕は「すごいなあ」と思いながら、しばらくその真っ白な雪景色を眺めていました。すると、その全面真っ白な景色の中で何かが動いたような気がしました。でも、よくわかりません。

僕は何だろうと思ってしばらく見つめていました。そして、突然気が付いたのです。真っ白な雪景色の中に一匹のそれこそ真っ白な猫が僕の方を見てじっと座っていたのです。その時、僕はその白猫の名前を思いつきました。

そうです。それが「ユキ」です。

その日からユキは我が家の中に入って餌を食べるようになりました。ユキはオスのノラ猫ですが、前にどこかで飼われていたらしく、すぐに私たちに馴れました。ただ、我が家のオスの黒猫の「ジジ」が縄張り意識のせいか、ユキを威嚇したり噛みついたりするようになったので、ユキをずっと家の中で飼い、ジジを家の中に入れないで納屋で寝かせるようにしました。

ユキはしばらくは我が家で、たらふく餌を食べ、のんびり寝ているのですが、それが何日も続くと、もともとノラ暮らしが身についているためか、どうしても外に出たがります。

それで、仕方なく、ジジに見つからないようにユキを外に出してやります。すると、ユキはコソコソと木々や藪の中に姿を消し数日間は帰ってきません。

数日後にジジに見つからないように帰って来る時には、時々、顔や体に傷跡ができています。ユキは体は大きいのですが、気が弱く、怖がりで、他のオス猫に遭遇すると逃げてばかりいます。それでも時々、メチャメチャにやられて帰ってきます。

ユキはなんとか我が家に帰ってきては、餌をたらふく食べ、ゆっくり寝て、傷が癒えると、再び外に出たがります。どうかなと思いながら仕方なく出してやると、数日間は戻ってきません。前回は、結局10日ぶりにやっと帰ってきました。

ユキが何日も帰って来ないと、「もしかしたら、イヌや他のネコに襲われてケガをして動けなくなっているのではないか」と心配になります。

その度に「そうなったら、結果を受け入れるしかない」と思ったり、「でも、もっと他によい飼い方あるのではないか」など、いろいろ考えてしまいます。やっと帰ってくると心からホッとして嬉しくなります。

世の中はペットブームだそうですが、僕は自分が飼っているイヌやネコだけを「自分の家族」などと言って可愛がっているのではありません。

私たちは、自分たちが生きていくために、他の人や動物や植物など、他から奪ったり、他を押しのけたりして生きていかせざるをえません。これは実に悲しい現実です。

僕はそれを少しでも償いたいのです。そのために、自分よりも弱いもの、困っているものを少しでも手助けしたいのです。

ユキだけでなく、我が家にはこのような猫が何匹も住み着いています。どこかの家で飼われている猫も捨て猫やノラ猫もやってきます。

彼らは僕にとってはペットでも家族でもありません。僕の分身です。いつも彼らの生きている姿が自分自身の生きている姿と重なるのです。





二度とブレないために

二度とブレないために

かつて盤珪禅師は「親が生みつけたものは不生の仏心一つである。不生にて一切が整う。これをよく決定(けつじょう)して、二度と迷わぬように、平生仏心でいるようにしなさい」と言われました。

広辞苑によると、「決定(けってい)」とは次のようになっています。
A:「はっきり決めること」
B:「はっきり決まること」

けれども、盤珪禅師の「決定(けつじょう)」という言葉には辞書が定義している意味よりもずっと深い意味があるのです。

盤珪禅師の「決定」にもAとBの意味があるわけですが、Bの「はっきり決まること」というのは、「たまたま状況的にそうなっている」という意味ではなく、「存在の真実はそうなっている」ということであり、「それは動かしようがない普遍の真実である」という意味です。

ですから、盤珪禅師の「決定」というのは、「そうしたほうがよいと思うから、自分でそのように決める」という自分のアタマによる「判断と決定」ではなく、(B)「動かしようがない普遍の真実」をはっきりと認識したうえで、(A)あらためて自分の意思で「はっきりとそのように決める」ということです。

つまり、盤珪禅師の決定は、状況や条件やアタマの思いや気分や感覚などによって変わることのない存在の真実に立脚した、「行き着くところに行き着いた完全な生き方」であり、どんなことがあっても動かしようもなく、また、絶対にブレようもないのです。

わかりやすくタバコを例に説明しましょう。
あるスモーカーが喫煙はデメリットばかりでメリットはひとつもないというタバコの正体に気づきました。
その結果、もはやタバコを吸う必要はないと思い、また、吸いたい気持ちもなくなったので、タバコをやめました。(でも、ガマンの禁煙ではありません。)
こうして、しばらくは快適に過ごしていたのですが、ある時ふとタバコを吸いたいような感じがしてきたので、迷った挙句1本だけと思って吸ったら、次々に吸いたくなり、いつの間にかもとの本数に戻ってしまいました。(アレンカーの本にはこんな事例がかなり出てきます。)

再喫煙をなくすためには、(A)タバコの正体(真実)にはっきり気づいて、(B)タバコをきっぱりやめれば、その時点で「タバコ問題はすでに最終的かつ完全に解決し、再び本来のタバコのない生き方が始まっている」という事実をはっきりと認識することです。

ですから、タバコの正体に気づいてタバコをやめた後は、どんな思いや気分などが現れても、「タバコにメリットがあると思って吸っていた時の思い出がまだ残っているんだなあ」と思うだけで、それ以上一切相手にしなければよいのです。そうすれば、そんな実態のない思いや気分はいつの間にか消えてしまいます。

このように、存在の真実がわかったつもりなのにブレてしまうことの根本原因は、タバコ図で言えば、左側の存在の真実と右側のアタマの思いや気分をアタマで同列にごっちゃにして考えるところにあるのです。

決定(けつじょう)とはアタマで強く思い込むことではありません。存在の真実を確かめて、そのうえで、存在の真実をそのまま生きるしかないのだとはっきり認識して生きていくということです。





本音か建前か

本音か建前か

「自分さえよければいい」、「助け合った方がいい」、みなさんはどちらが本音で、どちらが建前だと思いますか? 

この問いを数十人の中学生にすると、「自分さえよければいい」が本音で、「助け合った方がいい」が建前だと思うという意見がいつも多数です。

なぜ、そう思うかと尋ねると、次のような意見が出てきます。
教室の掃除なんかでも「みんな助け合わなければならない」と言われるから、仕方なくやっているけど、本心では、「嫌だなあ、面倒くさい」と思っている。家でもそんなことがしょっちゅうだから。

普通一般の大人でも、この中学生たちと同じような結果が出ているそうです。
もちろん「助け合った方がいい」とは思うけれども、この社会にはいろいろ難しいことがあって、生きていくのは結構厳しい。だから、何と言ってもまず、自分を、あるいは、自分の家族を何とかしなければ生きてはいけない。だから、「自分さえよければいい」が本音で、「助け合った方がいい」は建前だというわけです。

このように言われると、「なるほどなあ」とか、「その通りだ」と思う人も多いのではないでしょうか?

けれども、子供の時はともかく、大人になると体験を通して、いろいろなことをやっていくのには、お互いに協力し合わなければできないということをだんだん理解するようになっていきます。

たとえば、住んでいる地域の清掃作業などを共同で行わなければならない時や職場で何かみんなで協力して作業をしなければならない時、自分はできればやりたくはないと思いながらも、協力してやらなければと、みんなと一緒に協力して作業をする場合に、「自分さえよければいい」と「助け合った方がいい」のどちらが本音で、どちらが建前だと思いますか?

「みんな助け合わなければならない」と言われるから、仕方なくやっているけれども、本心では、「嫌だなあ、面倒くさい」と思っているのか? 
それとも、「嫌だなあ、面倒くさい」と思う気持ちはあるけれども、「やはり、みんな助け合わなければならない」という思いのほうが本音だと思うのか?

このように、いろいろと気持ちを分析してみると、何だか分からなくなってくるかもしれませんね。

これから先は時間をじっくりかけて、自分で答えを出すほうがよいでしょう。
そのためのヒントになりそうなことをいくつか以下に書いてみましょう。

1 「掃除はしたくないなあ」という気持ちは“本音”というより、その時の”気分“と言った方が当たっているのではないでしょうか?

2 「みんなで助け合って掃除をしなければならない」と言われて、結局、「掃除をしよう」と思って掃除をする場合には、「みんなで助け合わなければならない」ということが本音ではないでしょうか?

3 「助け合った方がいい」が建前、「自分さえよければ」が本音だと思っているとしても、心の奥底では「助け合ったほうがよい」と思っていて、それが本音ではないでしょうか?

4 どうせ掃除するのならイヤイヤやるのではなく、「イヤだ」という思いを切って、「よっし、やろう」とすっきりやった方がよいと思いませんか? ということは何が本音なのでしょうか?




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