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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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生(ナマ)の世界

生(ナマ)の世界

僕は若い時に、ひょっとしたことから、どんなことがあっても、自分というものは絶対に変わるものではなく、何があっても大丈夫なのだということに気がつきました。

それから数日後の夕方のことです。その日は朝からずっと小雨が降り続いていましたが、僕は傘を差して近くの公園に散歩に出かけました。

数日前の思いもかけない体験によって、もはや何かについて悩むということもなく、僕のこころはとても軽くなって、ただ、公園の中をのんびりと歩いていました。

公園には、犬を散歩させている中年の男性、公園の中の池をぼんやり眺めている女の人、道路の水たまりをよけながら歩いている人、傘を持たずに急いで歩いている人などがいました。池の中にはカモが数羽泳ぎ、木々の葉っぱも道の脇の草もみんな雨に濡れて光っていました。

しばらく立ち止まって、周囲を“ただ”見ていた時、突然、気がつきました。すべてが静かで平和でした。すべては “ただ”起きて、 “ただ”そこに存在していました。すべてはひとつのものであり、一切の分離がなく、“自分”というものもありませんでした。

“ただ”というのは、すべては、僕がいろいろ思考する以前に、つまり、“そのままで”ということです。

アタマで思考するからすべてが分離しているように見えていただけなのです。思考以前に“ただ”起きて存在している生(ナマ)の世界は元々ひとつでした。

また、アタマで勝手に作り上げた優劣や差別や所有や善悪などというモノサシによって“そのもの”を“測ろうとするから、優劣や差別や所有や善悪などがあるかのように見えているだけです。存在そのものはすべての観念を超越して、”ただ“存在しています。

つまり、“そのもの”の上に本来ありもしないレッテルを貼って、レッテルに書いてあることを “そのもの”、つまり、生(ナマ)の真実だと勘違いしているのです。

つまり、“そのもの”はアタマの思いや判断などのレッテル以前に、すべてのものとぶっ続きで、すべての観念を超越して“完璧”なものとして“”ただ“存在しています。

以上はその夕方の気づきを、それこそ、理屈で説明したものです。本当に大切なのは、「本来、この世界にはバラバラなものはひとつもなく、“そのままで“すべて完璧であり、個としての”自分“というものもない」という真実を生(ナマ)のまま体験的に理解することです。

では、そのためにはどうしたらよいのでしょうか?
自分自身の体験からも、禅をはじめとして、思考を相手にしない瞑想を実践するのもよいでしょう。

それはそうなのですが、僕の本音を言えば、ここまで書いてきた「この世界はもともとひとつのものであり、すでに完璧である。個としての“自分“はいない」という存在の真実を一応アタマで理解できたら、後はそれをこころの宿題として時々思い出すだけでよいと思うのです。

そうしているうちに、日常生活のなかで機が熟して、何かのきっかけで、ふと「なるほどそうだ!」と実感できる時が自然に巡ってくるでしょう。

存在の真実はすでに目の前にあります。でも、それを掴もうとすれば、逃げていくのです。

“ただ”というのはそのようなものです。





不可分一体のいのちの世界とは 付録編

不可分一体のいのちの世界とは 付録編

以下は、かなり以前に『ある目覚めの体験』として『いのちの塾』に掲載したものですが、今回の特別編『不可分一体のいのちの世界とは』の締めくくりとして最適だと判断し再掲載する次第です。繰り返し読んでいただければ誠に幸いです。


これは僕の恩師和田重正先生が10代のある日突然、「自分とは何か」「自分はどう生きるべきか」という人生の一大命題に直面し、10年間その答えを求めて日々苦悶格闘した結果、ついにその答えを見つけることは不可能だと見極め、絶望のあまり、劇薬を飲んで自殺しようとしたまさにその瞬間に、存在の真実に目覚めた体験を記した貴重な記録です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

四月二日正午のことです。将に服もうとするとき、日頃口をきいたこともない女中が廊下伝いに急ぎ足で私の部屋にやってきて、障子を細く開けて言いました。

「ごらんなさいませ。もうこんなに咲き始めました」

その張りのある明るい声に誘われて、私は何気なく振り向きました。女中の差し出して示す桃の小枝にはポッとまさに開こうとする桃色の蕾がついています。

それを見たときの私の驚きようは、ただ目を見張るばかりでした。そして心中にはこんな叫びが渦巻いて起りました――、「みんな間違いだ。今まで見たり考えたりしたことは悉く夢だったのだ。コレが本当なのだ。真実なのはコレなのだ」

この驚きや叫びと同時に明るい世界に生まれ出たような気がしました。予期しない、あまりに急激な世界の変貌のために、暫しは呆然としましたが、「まてまて、これも瞬間の夢ではないか」と思いましたので、驚いてなおそこに立ちつくしている女中を去らせ、独り正坐して静かに瞑目しました。

――生け垣の外を子どもが歌って通ります。庭の植込みで小鳥が啼いています。時々、遠くを走る省線電車の音が伝わってきます。五秒ぐらいだったか、それとも二、三十分も経ったかわかりません。「よし!」という気がするので、それでも恐る恐る目を開けてみました。後戻りしていません。急に腹の底から大きな笑いが押し上げて来ましたが、辛うじて爆発を抑えました。

久しぶりに障子をあけて庭を眺めました。桜も松も生きています。門の外へも出て見ました。森も小川も雲も大地も、春の麗かな光の中にいのちのよろこびに燃え上がっています。

このとき、私は生まれてはじめて天に向って合掌しました。思慮も分別もなしにただ合掌したのでした。

実にこの世界は生きた世界である。今までの世界は生きていない世界だった。あの世界はバラバラのものの寄り集まりの世界だった。この世界は一の世界である。あの世界の質は極度に粗い。この世界は精妙微妙を極めている。この世界の景色はあの世界の言葉では言い表わすことができない。

これが実物ならばあれは影絵にすぎない。要するにこの世界は光と、もえるいのちの活々とした行き詰りのない世界でありました。しかもそれこそ己れの本来の住居だったのです。

光とか知恵とか、ともかく生かす力として働く、あらゆるよきものに満たされた世界にいる自分を見て「愛されている」と思いました。そして更に、この世界の実質が「愛」というものであろうと思いました。

愛の世界においては、自分の小さな力によるもがきやはからいには拘りなく、すべての事物がありのままに、しかし必然性をもって存在し展開しているのだと知りました。
(以下省略)


昇平のコメント
「実にこの世界は生きた世界である。今までの世界は生きていない世界だった。あの世界はバラバラのものの寄り集まりの世界だった。この世界は一の世界である。」

この世界は無生物でできた舞台にバラバラなものが寄り集まって、はかないいのちを生きる世界ではありません。この世界自体が一大生命体、すなわち、すべて一つの永遠に生きている世界なのです。

「光とか知恵とか、ともかく生かす力として働く、あらゆるよきものに満たされた世界にいる自分を見て『愛されている』と思いました。そして更に、この世界の実質が『愛』というものであろうと思いました。」

この世界の本質は「愛」です。“いのち“は”愛“なのです。不可分一体の“いのち“の世界は不可分一体の”愛”の世界です。

「これが実物ならばあれは影絵にすぎない。要するにこの世界は光と、もえるいのちの活々とした行き詰りのない世界でありました。しかもそれこそ己れの本来の住居だったのです。」

それまでアタマで思っていた世界は無機質の死んだ世界だったのです。ところが、アタマを通さずに桃の花をそのまま見た時に、この世界の正体を見たのです。

この世界は、まさに、光と、もえるいのちの生き生きとした、どこまでも行き詰まりのない愛の世界です。





不可分一体のいのちの世界とは 

不可分一体のいのちの世界とは 特別編

ほとんどの人は存在ということについて、大雑把な説明ですが、次のように考えているようです。

「この世界、あるいは、この宇宙の中にいろいろな物質や生物が存在している。その中には、例えば、家族のように、あるいは、太陽のような恒星の周りの惑星達のように、互いに何らかの繋がりや関連性があるものもある。しかし、そうであっても、存在としてはみんなバラバラである。そして、ここに自分がいて、その周りに自分でないものや人、つまり、“他”が存在している。」(これを一応“バラバラ観”と呼ぶことにします。)

ところで、以前僕のセミナーを受講したNさんが、つい先日、次のような話をしてくれたのです。
「私はセミナーを受ける前まではヘビの写真を見るのさえ怖くなるほどヘビが怖くて怖くて仕方がありませんでした。でも、つい最近、家の廊下に赤マムシがいるのを見つけてびっくりはしたのですが、この赤マムシも自分も繋がっているのだと思ったら、そのヘビが愛(いと)おしくなったのです」と。

誤解がないように先に言っておきます。僕は「僕のセミナーはスゴイでしょう!」と自慢したいわけではありません。それどころか、僕はこの話を聞いて自分の力量不足を痛感したのです。

どういうことかと言えば、Nさんの言葉から僕が理解したことは「Nさんはまだバラバラ観で世界を見ているな」ということであり、また、「でも、Nさんはセミナーに参加して、バラバラ観ではなく、不可分一体の存在の真実が分かった、と思っていたのかもしれないな」とも思いました。

同時に思ったことは、「セミナーの受講者のうちのかなりの方々がNさんと同じような観方から抜け出ていないのではないか?」ということです。

どういうことか説明しましょう。おそらくNさんはその事例の中で次のように思ったのではないかと思うのです。
「ここに自分がいる。そして、あそこにヘビがいる。でも、この自分とあのヘビは繋がっている。」

僕に言わせれば、これはまだバラバラ観から抜け出ていないのです。なぜなら、たぶん、Nさんのアタマの中には、まだ自分とヘビとが別々の存在だという観念が残っており、「それぞれ別々の存在だけれども何らかの繋がりはあるのだ、だから、互いにバラバラではない」というように理解しているのではないかと思うのです。でも、それではまだ存在の真実をわかったとは言えません。

アタマは何事も分けて認識したり、思考することしかできません。ここでは、それを二元相対的思考、あるいは、分別(ぶんべつ・ふんべつ)と呼びましょう。

ですから、目で見たものをアタマを通して認識すると、人体で言えば、たとえば、「小指は手の一部であり、手は体の一部である」というように“全体と部分”というような見方が生まれます。

あるいは、今この部屋の中には、例えば、ストーブと机が見えますが、アタマは当然のように「ストーブと机は別々のもの」と認識します。

あるいは、アタマは「自分は人類の一人である、つまり、人類という全体に対して、自分は一人の個である」というように“全体と個”という観念を生じます。

あるいは、「自分は人類の一人としての個である。彼も彼女も人類の一人として個である」というように”個と個“という観念を生じます。

このように、真っ白な紙でも色眼鏡を懸けて見ると色がついているように見えるのと同じように、本来一つのものであっても、すべてを分別するアタマを通すと、別々のものがバラバラにあるように思えたり、全体と部分、全体と個、個と個などの違いがあるように思えるのです。

では、不可分一体の存在の真実とは、分かりやすく言うと、どういうことなのでしょうか?
それは、この世界(宇宙)はひとつの“いのち“が存在や現象として顕現したものであり、この世界(宇宙)がそっくり丸ごと一つの生命体である、ということです。

現代の科学によると、この宇宙(世界)はすべて何もないところからビッグバンによって始まり、分化、複合、発展、成長し続けているのだそうです。だとすれば、この宇宙(世界)が一つの活動体であることは科学的な常識だと言えるでしょう。

僕は、いわゆる、生物学による”生物“あるいは”生命“の定義ではなく、活動体としてのこの宇宙(世界)を一つの“生命体”と呼んでいるのです。その一つの生命体こそ本当の自分(真の自己)なのです。なぜなら、真実は、この世界自体が一つの生命体であり、その他には生命体は存在しないからです。

要するに、“自分”というコロッとした塊があるのではなく、これまで“自分”と思っていた“もの“は、単に、この一つの生命体自身を自ら認識する「自覚点」の一つにすぎません。

それは、たとえば、一つの人体を構成する細胞の一つ一つは独立した生命体とは言えないのと同じようなものです。たとえ、その細胞に超ミクロのコンピューターが付いていて、内蔵するプログラムによって、コンピューターが「この人体にはたくさん生命体があり、自分もその一つである」と意識したとしても、真実は、人体という一つの生命体しかないありません。これはその細胞のコンピューターのプログラム自体が狂っているのです。

この世界(宇宙)も同じです。たとえ、ある人が「この世界(宇宙)にはいろいろな物質や生命体などがある自分はその中の一つの生命体である」と思ったとしても、それはその人のコンピューター(大脳・アタマ)の分別思考しかできないプログラム自体が狂っているからそう思うのです。

ですから、日常的、あるいは、通俗的なレベルで思考する場合ではなく、「存在の真実、あるいは、真の自己は何か?」とその本質を検べる場合には、アタマで間違って認識したものを相手にしないことが肝要です。

そのうえで、もともとこの世界(宇宙)は一つの生命体であり、それ以外には生命体はないという当たり前の真実を理解し、そのひとつの生命体であるこの世界、この宇宙こそが本当の自分、真の自己であるとバンとハラに収めることがポイントです。そうすると不思議なことに、それが時の経過とともに、思い込みなどのあやふやなものではなく、確かな真実であることを体全体で実感できるようになってくるのです。

一つのものは一つのもので、もともと、どのようにも分けることはできないのです。ですから、この世界(宇宙)においては、そこに存在しているものは“ただ一つの生命体である不可分一体の世界だけであり、全体と部分、全体と個、個と個などに分かれてはいません。アタマを通して認識しようとするために、いろいろに分かれているように思ってしまうのです。

例を使って分かりやすく説明しましょう。
いまここに、一抱えほどの柔らかい粘土の塊が一つあるとしましょう。そして、その粘土を使って小さなイヌとネコとニワトリの3つ像を作ったとしましょう。そこで質問です。
そのイヌとネコとニワトリの像は別々のものでしょうか?
答えは、日常的、あるいは、通俗的に、アタマで捉えれば、見た目どおりに、一応、それぞれ別々ということになります。

では、それぞれの本質はどうでしょうか?
答えは、みんな同じ一つのもの(粘土)です。

その証拠に、3つの像を潰して最初にあった粘土に混ぜてしまえば、3つの像も像でなかったものも、もはや区別することはできません。それは、たとえ、それぞれが今現在ある形をしていても、もともと、一つの同じものだからです。

同じことがこの世界についても言えます。世界はもともと分けることができない一つの(不可分一体)の存在なのですから、たとえ、今現在、形や色や性質や機能などが異なるものがいろいろとあったとしても、それぞれの本質である“いのち“が変わったわけではありません。つまり、みんな同じ一つのものです。

例えば、胃と腸がそれぞれ「オレが」「オレが」と言い合っていたらどうでしょうか? もし、そうだったら滑稽そのものだということは誰にも分かるのではないでしょうか。事実、胃も腸も何も言わずにそれぞれの仕事をただやっているだけです。私たちはいのちの顕れである大自然、そして小自然と言われる人体にもっともっと学ばなければならないのです。

さらに、「全体」と「個(部分)」という言葉を使ってこの“いのち“の世界を表現するとすれば、「個(部分)の中に全体がそっくり含まれている。一つの個(部分)を全体が支え成り立たせている。また、一つの個(部分)が全体を支え成り立たせている。そして、一つの個(部分)が他の個(部分)を支え成り立たせている」とも言えるでしょう。

では、前述のNさんと同じ場面で、不可分一体の存在の真実がはっきり分かっている方だったらどの認識するのでしょうか?
それは、強いて言えば、「あそこに赤マムシの姿をした自分がいる」という感じでしょうか。もちろん、絶対に素手で触ったりはしないでしょう。さっさと逃げるか、咬まれないように注意しながら追い出すでしょう。

でも、本当に体得していれば、「あそこに赤マムシがいる」と、アタマの人と同じ表現をするでしょう。でも、その中身は、一方は一元絶対の世界をそのままに生き、他方は二元相対的思考に捉われて生きているというように雲泥の差があるはずです。

アタマは分別が仕事です。何でも見たものを二元相対的に分けて認識することしかできません。それは表面的には便利で能率的なところがあります。でも、それではこの世界の存在の真実を見抜くことはできないのです。

ですから、僕のセミナーでは、最初はアタマを活用して「本当はどうか?」と一つ一つ検べて行くのですが、あるところ以上で、アタマを超えて、「もともと一つのものしかないのだ。分けることはできないのだ」と直感するしかないのです。

けれども、いつまでも、アタマのレベルに留まっている方は、結局、「バラバラなものの間に繋がりがある」としか理解できずに、それが僕の言っている「不可分一体の存在の真実」だと勘違いしてしまうのでしょう。

僕は毎回セミナー参加者全員にいろいろなテーマについて検べて行くときに、テーマごとにどこかの時点で自然にポンと飛躍が起きることを期待しながら進めています。けれども、全員に期待通りの結果が出ているとは言えません。でも、「現代人はアタマで考えることを真実そのものであると思い込む傾向が非常に強いので困る」などと言うつもりはまったくありません。なぜなら、それを言っちゃあ、お終いだからです。

なぜなら、セミナーの中で全員が自らの思い込みに自ら気づいて、その思い込みが自然に脱落することこそがセミナーの目的なのですから、全員がそのような結果に達しないのはひとえにファシリテイターである僕の力量不足だと言わざるをえません。とにかく目標に向かって工夫し続けるしかないと思っています。今回のブログは取りあえずの埋め合わせのようなものです。

さて、最後に、このテーマの結論です。

この世界を五感とアタマを通して認識すると、確かにみんなバラバラのように見えますが、それは一元絶対の世界が、一見、二元相対の世界として見えているだけです。

この世界はひとつの“いのち“の花園です。ひとつの“いのち“がスミレやバラなどなど、として咲いているのです。

他に対する自分という個はありません。
自分とは、 “いのち“、この世界、この宇宙そのものです。
“いのち“、この世界、この宇宙こそが自分です。

我を排列して尽界(全世界)とし、我これを見るなり。(道元)
(前の我=真の自己=“いのち“ 後の我=自覚点としての自己)

全世界が私の全身である。 (長沙大師)
出会うところすべて我が生命 (内山興正老師)


その存在の真実の中に、なぜか「この個体が自分だ」という意識がある。
それは錯覚にすぎない。

けれども、その錯覚にこそこの世界の妙味があるのです。
いくら“いのち“の顕れと言っても、それが均一のノッペリとした糊のようなものばかりだったらツマラナイでしょう!




いのちのつぶやき

いのちのつぶやき 

悟ってみれば、みんなそのままで悟っている。
見ている風景は同じ。そうでありながら、まったく違って見える。
そのままでみんな光り輝いている。
バラバラに見えるが、みんな一つの"いのち"を生きている。
一つの"いのち"しかないのだ。自分はない、他人もない。
いまここを心を込めて生きるそれがすべてである。

もともと求めるものは何もなかった。
もともと何も求める必要はなかった。
もともとノンスモーカーだったのと同じことだ。
すべて洗脳と思い込みのせいだ。
もともと欠けているものは何もない。
心の底からわかることが必要。
でも、騙し絵と同じで、視点が切り替われば誰にも簡単にわかることだ。 
タバコにはメリットが一つもない。デメリットばかりだ。 
原発も同じだ。国家エゴイズムの対立も同じだ。

タバコを吸わずにはいられないのはタバコを吸うからだ。
タバコを吸うから不安・恐怖・ストレスが出てくる。
それをタバコが解消してくれると錯覚しているからタバコを吸うのだ。
もともとノンスモーカーはタバコを吸う必要もなかった。
もともとノンスモーカーはタバコを吸いたいとは思わない。
もともとノンスモーカーはタバコに起因する不安・恐怖・ストレスはない。
心の底からノンスモーカーに戻ろうと思い、タバコをやめると決断すればそれで終り。
禁断症状も出ない。タバコを吸いたい気持ちも出ない。

一瞬でノンスモーカーになれる方法。もともとノンスモーカーだったことに気づけばよい。
一瞬で幸福になれる方法。もともと幸福だったことに気づけばよい。
一瞬で仏になれる方法。もともと仏だったことに気づけばよい。
一瞬で悟れる方法。もともと悟っていたことに気づけばよい。

人間の体はもともと整うようになっている。
それを自ら乱しておいて、それを治そうとしてよけいに乱してしまう。
無為自然の道。これに尽きる。これしかないのだ。

エゴは人間の本質ではない。バラバラ観による身びいきだ。 
間違った観念が邪魔している。自覚のセミナーはそれを脱落させる。
もともとノンスモーカーだったこと、タバコを吸う必要はなかったことを思い出す。
悟りも同じ。もともと悟っているのだ。
アタマで考えることを自分だと思っている
人間にはもともと智慧が備わっている。こころも自ずから整うようになっている。
人間は何が良いか悪いか本能的に知っている。 
喧嘩するとイヤな気持ちがする。腹を立てると気分が悪い。孤独はイヤだ。
タバコ。イヤな臭い、イヤな味。
それが毒であることを自然界の動物はみんな知っている。
本当は人間も同じだ。

バラバラ観は幻想。真の事実はひとつの"いのち"しかない。
それを不可分一体という。 
“いのち“は不生だ。生まれもしない。死にもしない。
肉体の死は怖くない。
この世界には本来悲しみはない。 
すべてが光り輝いている。本来の世界は美しい。

思考そのものが悪いわけではない。間違った観念が問題なのだ。
事実。それだけ。間違った観念モードで受け取れば、ゆがんで見える。
悟りは当たり前のこと。素晴らしいことでもなんでもない。
間違った観念で迷い苦しんでいたから、悟りが素晴らしいことのように思うだけ。

真実の世界は円満具足。求めるものなし。満ち足りている。 
そのままで完全。
足りないものがない。 
真の幸福は条件によらない。

26歳のときの気づき。
何があったとしても自分は変わらない。変わりようがない。
たとえ目が見えないとしても、それはひとつの絶対的な事実である。 
絶対的な事実はそれで完結しているということだ。
それは取替えが効かない。比較を超えている。
すべての事実は、一見、二元相対的に見えるが、真実は一元絶対である
絶対的な事実であるとは、それしかないということだ。

悟りはそれほど簡単なことだ。ムーはムーだ。それがすべてだ。
すべてが変わった。でも何も変わってはいない。 
変わらないものをみつけたのだ。
やっとアタマが本来の家にもどったのだ。
「ただいま帰りました」というわけ。
何も求める気持ちがなくなった。
何も求める必要はなかったのだ
一元絶対の世界はそのまま二元相対の世界でもあった。
自分は世界。世界が自分。

ウーム、大丈夫。 
安心して真心丸出しで生きるのみ。

地球、自然、生きとし生けるもの、そして人間は宇宙の最高傑作だ。
このまま指をくわえて滅んでいくのを見ているわけにはいかない。





僕の夢

僕の夢
(誕生日にあたり、重複するものがいくつもありますが、思いつくまま、順不同で)」


僕には夢があります。
それは、みんなが幸せで、恒久の平和世界を一刻も早く実現することです。

僕には夢があります。
それは、戦争のない世界を一刻も早く実現することです。

僕には夢があります。
それは、人と人が争わない世界を一刻も早く実現することです。

僕には夢があります。
それは、「世界に先駆けて、まず日本に脱エゴイズム国家の理想を掲げよう」という考え方が日本中に広がることです。

僕には夢があります。
それは、世界に先駆けて、まず日本に脱エゴイズム国家の理想が掲げられることです。

僕には夢があります。
それは、日本に続いて、脱エゴイズム国家の理想を掲げようという機運が世界中に高まることです。

僕には夢があります。
それは、この地球の環境が本来の調和と美しさを取り戻すようにすることです。

僕には夢があります。
それは、一人一人が夢と呼ぶに相応しい夢を抱いて生きる社会を実現することです。

僕には夢があります。
それは、すべての人が「自分とは何か。この世界とは何か。本当の幸福は何か」という存在の真実を自覚して生きるようにすることです。

僕には夢があります。
それは、この世界のすべての人が存在の真実を体得できるようにすることです。

僕には夢があります。
それは、バラバラ観をはじめ優劣や差別や所有観念など間違った観念ではなく、存在の真実に立脚した平等でみんなが助け合う社会を実現することです。

僕には夢があります。
それは、世界中で体制や組織のための教育ではなく、一人一人の人間のための教育が実践されるようにすることです。

僕には夢があります。
それは、一人一人が互いに思いやり、本当の生き甲斐を持って生きられる社会を実現することです。

僕には夢があります。
それは、大人でも子どもでも誰でも笑顔で安心して生きられる社会を実現することです。

僕には夢があります。
それは、誰一人として不自然な病気に罹らないようにすることです。

僕には夢があります。
それは、すべての赤ちゃんが健やかに生まれ、育っていくことです。

僕には夢があります。
それは、タバコが強い毒性を持つ強力な麻薬であることが世界中の人々の常識となり、スモーカーが一人もいない世界が一刻も早く実現することです。

僕には夢があります。
それは、すべての動物が幸せに生きられる世界をつくることです。

僕には夢があります。
それは、動物の肉を一切食べないことが当たり前の世界をつくることです。

僕には夢があります。
それは、上に書いたすべてのことが誰にとっても当たり前と言われる社会を一刻も早く実現することです。

僕には夢があります。
それは、どこまでも真心丸出しで生きてゆくことです。

僕には夢があります。
それは、どんな時でも相手の身になれることです。

僕には夢があります。
それは、世界中の人と仲良くなることです。

僕には夢があります。
それは、死ぬまでこころから納得のいく生き方を貫くことです。

僕には夢があります。
それは、いつ死んだとしても悔いのない生き方をすることです。

僕には夢があります。
それは、こころから満足して、思わずニッコリ笑って死んでゆけることです。


ここまで僕の夢について思いついたままに書いてみましたが、自分自身についての夢は頑張れば実現できる可能性があります。けれども、みんなの夢は自分ひとりだけでは実現できません。なぜなら、それはみんなの協力があってはじめて実現できるからです。僕はどうしたらよいのかということをいつも考えています。





祈れる人になる

祈れる人になる

祈れる人になってください。

これは僕の青年時代に、和田重正先生がある人に言われた言葉です。僕はこの言葉を間接的に聞いて以来、今日まで折に触れてこの言葉を暖めてきました。

まずは、この場合、和田先生が言われる「祈る」というのは、何を意味しているのかといろいろと思いを巡らしてみました。

まず、思ったのは、自分を対象にして、「病気が治りますように」とか、「入学試験に合格できますように」とか、「仕事がうまくいきますように」など、何かがうまくいくように祈るということではないだろうということです。

また、家族円満とか家族の健康を祈願するというようなことでもないだろうと思いました。

そして、祈る対象は自分自身のことではなく、相手、あるいは、他の人が対象なのだろうと思いました。

つぎに、相手、あるいは、他の人の何を祈るのかと考えました。それで思いついたのは、対象となる人の“幸せ”を祈るのだろうということです。でも、この答ではまだ何かずれているように感じました。

それで思い至ったのは、相手がどんな人であっても、例え、その人が自分の思いに沿わないことをしたとしても、相手をただ非難するのではなく、その人の幸せを祈る、あるいは、その人を思いやるということではないかということです。これは、実際にはなかなか難しいことですが、それだけに僕には答えとしてはかなりしっくりきました。

これがなぜ難しいかと言うと、結局は、その根底にバラバラ観があるからです。何かが自分の思いに沿わないことを相手が言ったり、したりすると、それが気に食わなくて、相手を負かしたり、抑え込んで自分の意志を貫こうという気持ちが生じるからです。

それだけに、あるいは、だからこそ、相手の幸せを祈れる人になることが大切だということなのでしょう。

また、そのように何があってもその人の幸せを祈れる人となってはじめて、相手が本当は何を言おうとしているのか、どうしてそんな無茶なことを言ったり、したりするのだろうかということを理解しようという気持ちが生まれるのだと思います。そして、そのような姿勢で生きることによって、バラバラ観から徐々に脱却していくこともできるのだと思います。

僕は和田先生の言われる「祈れる人になってください」という言葉を一応このように納得して、そのように生きることを日々心掛けて生きてきました。

でも、ずっと先生のその言葉にはさらに深い意味があるようにも感じていました。そして、その答えが僕のこころのなかで徐々にはっきりしてきました。

それは、この世界の根底に流れている大いなる慈悲に導かれて自分が生きていることにはっきりと気づいたことです。

そして、日々この真実に気づかされるたびに、自分は何と幸せなことかと思うのです。

それだけに、この世界において多くの人や動物たちが苦しみの中で生きている、あるいは、死んでいく現実にあって、たとえ相手に何を言われようと、何をされようと、すべての人々、そして、生きとし生けるものすべての幸せをこころから祈らずにはいられません。

どうか、みなさんも祈れる人になってください。

新しい年がよいお年になりますように!







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