プロフィール

昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

最新記事

カテゴリ

最新コメント

月別アーカイブ

最新トラックバック

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

QRコード

QR

ブロとも申請フォーム

今滞在されている皆さんの数

現在の閲覧者数:

これまで訪問された皆さんの数

身心脱落

身心脱落

存在の真実とは、一言で言えば、“事実”ということです。

たしかに、私たちのアタマではどんなことでも考えることができます。

でも、アタマで考えたことは、どんなに素晴らしいとかつまらないなどと思ったとしても、結局は、どこまで行っても、“思い“でしかなく、実在するものではありません。

実在するものは事実しかないのですから、事実こそ存在の真実なのです。

また、アタマでどのように思ったとしても、私たちはいつも、“事実としての生の自分”として生きています。

ところが、多くの方はアタマの“思い“を“自分の主人公”だと思い込んでいたり、“事実”についてアタマで考えた“思い“を“事実”そのものだと錯覚しています。

つまり、私たちはいつでも“事実としての生の自分”を生きているにもかかわらず、アタマはそれを見失い、アタマの思いが作り出した自分についてのイメージを本当の自分であると思い込んでいるのです。

そこからいろいろな苦しみや混乱が生じてきます。

ですから、こころがけて“事実としての生の自分”を確認することが必要なのです。

そのためには、アタマの思いを手放せばよいのです。

それが僕の推奨するいくつかの瞑想であり、その一つが“瞑想の自然法”です。

どんなに雑念があったとしても、それを手放しにして、悟りをも求めずに、迷いをも厭わずに、ただ坐っているとき、アタマで覚知しようとしまいと、“事実としての生の自分”が現成(実現)しています。

それは、ただの事実として、“悟りや迷い“ということさえも超越しています。

そして、少なくともそのときは、自分の身体や心についての思い(執着)を手放しているわけですから、その状態は身心が脱落した状態、つまり、“身心脱落“と表現してもよいのかもしれません。

道元禅師が「坐禅は身心脱落なり。身心脱落は坐禅なり」と言われているのはそのような意味なのかもしれません。

でも、瞑想が深まって、「自分なんてない」とはっきり自覚するようになると、自分の(と思っていた)身体や心に対する執着がまったくなくなっていることに気がつきます。

その体験から言えば、道元禅師の言われる“身心脱落“とは、まさに、「自分はない」という意味ではないかと思われます。

もし、“身心脱落“を体験的に自覚することを“悟り“と呼ぶのだとしたら、”悟り“とは、すべての思いを手放しにして、ただひたすら坐っていると、機が熟せば、いずれ、向こう側からこちらにやってくるのだと言えるでしょう。

つまり、思いを手放しにして、ただ坐っている時には、覚知しようとしまいと、悟りや迷いを超越して、思いを超えた事実だけの生活、つまり、真実の生活が現成しています。

そうした真実の生活をしていると、柿の実が熟して自然にポトンと落ちるように、いつのまにか、気が熟して、すっかり“身心脱落”していることを自覚することができるでしょう。

ただ坐ること。それがすべてです。



<< 聖地はどこに? | ホーム | 自分なんてない >>


コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

 ホーム