教えない教育 その2
「エゴイズムを超えて」という考えだけではありません。私は先生のお話やご著書を通じて、「心配することはない」、「安心して、まごころを丸出しで」、「ケチな根性はよくない」、「イヤなことはさけないで」、「ヨイことはする」などなど、いろいろな考えに接することができました。
けれども、それらの言葉の意味はアタマではよく分かるのですが、ストンと腹に落ちないのです。つまり、「そうだ!」という生々しい実感がないのです。それでずっと悩んでいました。
ところが、ある時先生が、「人生の根本問題に関わる疑問は、アタマで、ああでもない、こうでもない、と捻くり回してもなかなか答えは出ない。そういう時にはその問いを宿題としてこころの片隅において置いておけば、そのうちに、ふとその答えに気づくことがある」と言われたのです。
それでも、どうしてもアレコレ捻くり回す癖が止まずに、とうとうアタマでは完全に行き詰ってしまい、気がついたら、すべての疑問を手放していました。そのとき、突然、その答えが“向こう側から”こちらにやってきたのです。それでやっとコツが分かりました。
私たちは何でもかんでもアタマで考えれば分かると思う傾向が非常に強いのですが、人生の根本問題に関する疑問を確認したら、それを“こころの宿題”としてこころの片隅にそっと置いて、あとは大いなる智慧のハタラキに任せて、安心してすべて忘れてしまえばよいのです。
おかげさまで、私の人生は、少なくとも自分にとっては、若い時には想像もできなかったほど豊かなものとなりました。
しかし、振り返ってみると、すべてその源が先生にあるような感じがしているのです。しかし、本当はその源は先生のものでもあり、私自身のものでもあるのでしょう。と言うか、先生のものでもなく、私のものでもなく、誰のものでもないというのが正解だと思います。
その源をまず先生が時間的に先に掘り当てられて、その在り処と掘り方を、私が気づかないうちに、私に教えていただいたのだと思うのです。いや、私だけではありません。おそらく、お話やご著書を通じて先生に接してこられる方すべてに先生はその源の在り処と掘り方を秘かに教えられていたのではないでしょうか。
今あらためて先生のお言葉を思い出し、ご著書を読み返して思うことは、先生は人生の根本問題については、いつも私たちが自分で答えを見つけるように工夫し配慮されていたということです。
これは教育の指導者にとっては本当に大切なことだと思うのです。ですから、先生は人に答えを訊かれても決して答えようとはされなかったのでしょう。そして、その人自身が答えを自分で見つけるように秘かに配慮しながら、辛抱強く待たれていたのではないでしょうか。
自分自身の体験から言っても、教えてもらって分かったということと、自分自身の力で分かったということは天と地の差があります。つまり、人生の根本問題については、誰も教えて分からせることはできないのであり、本人が自分で気がつくしかないのです。
私は今この文章を書きながら、私自身今日まで数十年の間「教えない教育」をやってこられたのは、まさに、先生のおかげなのだという思いを噛みしめています。
(なお、CLCAについては、ウェブサイト www.clca.jp/ よりご覧ください。)
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