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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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事実丸出しの世界

事実丸出しの世界

前回のブログで正法眼蔵随聞記のなかの道元禅師の言葉を紹介しました。

僕は坐禅についてはその言葉ですべて言い尽くされていると思います。

けれども、ここに僭越ながら僕なりの説明を加えてみたいと思うのです。

まず「坐は佛行なり。坐は不為なり」の「坐」は道元禅師がいつも言われている「只管打坐」、つまり、「ただ坐る」という意味だと思います。

つぎに「不為」は文字通りの意味では「何もしないこと」ですが、同時に「何も求めないこと」、さらには、「アタマの思いを追わないこと」という意味で言われているように思います。

つまり、「坐」は「何も求めないで、アタマの思いを手放しにして、ただ坐る」ということです。

これまでも言ってきましたが、“いまここ”は事実丸出しの世界であり、それが自己の正体です。

私たちはいつも事実丸出しの世界に生きているのですが、アタマの思いに引きずられて、自己の正体を見失いがちです。

「坐」は、何も求めず、アタマの思いを手放しにして、ただ坐ることであり、それは“いまここ”において、自己の正体である事実の丸出しです。

真実の生き方は真実の自己、つまり、“いまここ”の事実をそのまま生きるということです。

そのためには、毎日たとえ15分、20分であっても、「アタマの思いを手放して、ただ坐る」時間を持ち、本来の自分自身に戻ることがとても重要です。

その際にもっとも大切なことは「坐」は手段であると同時にゴールであるということです。

「坐」がそのままソレ、つまり、自己の正体そのものなのです。

思いを手放して坐るためには、とくに何もしないで思いを相手にしなければよいのです。それが只管打坐です。

ただ、それが意外に難しいという方も多いようです。

その場合には、只管打坐の便法として、つぎのようなものでもよいでしょう。

1 数息観:静かに息を吸って、息を吐きながら「ひとーつ」とこころのなかで数える。10(とう)まで行ったら、「ひとーつ」に戻る。
途中で、思いが出て、意識がそれたときは最初に戻って数え直す。

2 随息観:静かに息を吸い、静かに息を吐く。いまの吸う息、いまの吐く息だけを意識する。それを繰り返す。

3 無字の拈提(ねんてい):静かに息を吸って、息を吐きながら「ムー」とこころのなかで唱える。いまの「ムー」だけを意識し、それになり切る。

いずれのやり方でも、思いが出てきても相手にしない。思いで気がそれたことに気づいたらすぐに元に戻ることです。

もう一つは、いまの一息しかないということ。いまの一息ですべて完結しているということです。前後の呼吸は際断しているのです。

また、何か結果を求めようと気張ると、かえって「自分」という思いが邪魔になることがあります。

とにかく、安心してただ静かにやっていれば、いつのまにか自分を忘れてしまいます。

そして、そのうちに、ふと気がつくでしょう。

結果は自分が出すのでなく、向こうからやって来るのです。


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コメント

わかりました

4月9日の{いまここに坐る」を読んで正直なところ「なんとなく分かるようだが、う~ん…」と感じていたところ、懇切丁寧な解説を頂きました。ありがとうございます、はっきりと理解できました。
 思いを手放しただ坐る。結果は向こうからやって来る。大安心の世界です。瞑想を続けることがとても楽です。

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