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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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手段ではない瞑想

手段ではない瞑想

瞑想には様々なものがあります。

そのほとんどの瞑想が何らかの効用を得るためにするのだとされています。

つまり、それらの瞑想は効用を得るための手段であるということです。

それはそれで大変結構なことだと思います。

ただ、ここで僕がみなさんにはっきり理解していただきたいことは、僕が勧めている瞑想の自然法をはじめとするいくつかの瞑想法は悟りを含めて何かの効用を得るための“手段としての瞑想”ではないということです。

では、“手段としての瞑想”ではないとすれば、一体どういう瞑想なのかと思われることでしょう。

僕が勧めている瞑想はそれ自体がそのまま“目的”なのです。

瞑想することがそのまま“ゴール”であると言ってもよいでしょう。

私たち人間は発達した大脳を持っているために、多くの方々はありのままの存在の真実をそのまま捉えるのではなく、存在の真実についてアタマで捉えたと思いを存在の真実であると勘違いしています。

でも、それは絵に描いた餅が実物の餅ではないのと同様に、実物の存在の真実ではありません。

どんなに理性的にアタマが働いて捉えたものであっても、実物そのものではなく、単なる映像のようなものでしかありません。

しかも、アタマの能力は非常に限られているだけでなく、そのハタラキそのものが狂っている場合も多く、それを通して捉えた像自体が歪んでいたり曇っていたりします。

このように、アタマではありのままの存在の真実をそのまま捉えることはできないのです。

本当は、存在の真実、言い換えれば、真の自己は思い以前に、すでに“いまここ”に生き生きと現成しています。

では、思いを無くせばよいのでしょうか?

でも、それは不可能です。

なぜなら、私たちは石ころのような単なる無生物ではないからです。

私たち人間は発達した大脳を持っています。

ですから、思いは自然に湧いてくるので、それを止めようとしても止めることはできないのです。

では、どうしたらいいのでしょうか?

湧いてくる思いを捉えようとしないで、次々に湧いてくる思いを手放し手放しにしていることです。

思いを手放しにして、坐相をキチンと維持しながら、ただ坐っているのです。

その際、思いを手放しやすいように、数息観など何かに集中したりしながら坐っていてもよいでしょう。

いずれにしても、そのとき、存在の真実が思いに邪魔されずに素通しになっています。

道元禅師の只管打坐(ただひたすら坐る)もまったく同じです。

坐るのは何かを得るためでも、悟るための手段でもありません。

存在の真実は思い以前にすでに“いまここ”に現成しているのですから、思いを手放しにしてただ坐っていること自体が存在の真実に身も心も任せているということです。

ですから、「ただ坐る」それで完結です。

ですが、そうしてただ坐っていると、あるときふと、“自分“という意識が消え、存在の真実だけがまざまざと現成していることに気がつくでしょう。







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