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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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すべて“いのち”  その2

すべて“いのち”  その2
(その1からの続き)

この世界のすべてが唯一の実体である“いのち”の現れですから、そこには分離した個々の実体はありません。

したがって、“自分”も”他“もありません。

ただ、一つの“いのち”という“全体“があるだけです。

これは理屈の話ではなく、事実がそうだということです。

ほとんどの人が“自分”というものがあり、その外側に“自分”でないもの、つまり、“他“があると感じていますが、それは錯覚です。

とは言いながらも、「自他があるのは当りまえだ」というこの社会のなかでは、そうではないと言うほうが変な目で見られてしまうほど、自他の観念は絶対の真実であると信じ込まれています。

でも、なかには「いや、思い込みではない。静かに体や思いや感情の奥を見つめていると、そこに何かがあるという感覚、あるいは、意識のようなものがある。それが“自分”なのだと思う」という方もいるでしょう。

そうです。たしかに、体や思いや感情の奥に何かがあるという感覚、あるいは、意識のようなものがあります。

けれども、それは他から分離した“自分”を感じているのではないのです。

それこそまさに唯一の実体である大いなる“いのち”を感じているのです。

では、何が“いのち”を感じているのでしょうか?

それは“いのち”です。“いのち”が“いのち”を感じているのです。

“自分”が“いのち”を感じているのではありません。

理屈で考えると分かりにくいのですが、要するに、分離した“自分”というものはなく、ただ、大いなる“いのち”だけがあるのです。

分離した“自分”があり、”他“があり、“個”があるというのは錯覚であり間違っています。

でも、この世界のすべてのことは大いなる“いのち”の現れですから、そういう錯覚や間違いも“いのち”の、表現の一つなのです。

その錯覚や間違いに気づく人もいます。

それも“いのち”の表現の一つです。

唯一の実体である“いのち”の表現として現れた人間はアタマを持っているために、いつの間にか「自分は他から分離した存在である」と思い込み、そのために、顕在意識で感じているかどうかは別として、少なくとも心の奥底では大きな不安感や恐怖感や孤独感などを感じながら生きています。

でも、それも“いのち”の現れであり、私たちの「善い・悪い」、あるいは、「正しい・間違い」などという観念を超えて、あるいは、それらを含んで、すべて完璧であり絶対なのです。

「そんなこと理屈に合わないではないか」と思われるかもしれませんが、これが存在の真実です。

二元相対的にしか考えることのできないアタマでは一元絶対の存在の真実を理解することは不可能なのです。

また、そこには言葉による表現の限界もあります。

いずれにしても、この世界は一つの“いのち”の顕現ですから、どんなことがあっても、常に完璧で絶対です。

この真実に目覚めたときにこそ、そこには真の安らぎと自由があるのです。

(続く)





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