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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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絶対の世界の中で相対的に生きる  その4

絶対の世界の中で相対的に生きる  その4

昔から今日に至るまで人類の歴史は「争いの歴史」であったと言っても過言ではありません。

また、長い人類社会において、ごく最近までは多くの人々が厳しい階級制度のために、過酷な生活を強いられてきました。

多くの人々にとっては、過酷な労働、飢餓、貧困、病気、老化など、生きることそのものが苦しみでした。

それは「生きながらえるよりも死んだ方がよほどましだ」と思えるほどの苦しみだったのでしょう。

でも、実際には、「生前の行い次第では、死んでから地獄に行かなければならない」というようなことが信じ込まれていたために、死ぬことは人々には想像を絶するほどの苦しみであり恐怖だったのです。

もちろん、当時社会的に虐げられていた人々にとっては、かりに「こんな社会はいやだ」と思ったとしても、社会を改革するというようなことは思いもよらないことだったのであり、事実上、不可能なことだったのです。

ですから、人々にもっとも関心があったのは「個人としていかに救われるか」ということでした。

そういう時代的、社会的状況のなかで、古来、仏教やキリスト教などに代表される本格的な宗教は「個人としての救い」をメインテーマとしてきました。

本格的な宗教は人々に、“いのち”という代わりに神や仏という名前を用いて、存在の真実を次のように説きました。

「この世で生きていくこと自体は苦しみであるように感じられるかもしれない。けれども。自分の本質は絶対一元、不生不滅の“いのち”なのである。したがって、どんな状況にあっても、自分の本質は傷つくものではなく、自分はすでに救われているのである。したがって、死んでも地獄に落ちることはないのだ。」

あるいは、「この世で生きることは苦しみそのものである。しかし、自分の本質、そして、この世界の本質は絶対一元の“いのち”であるのだから、この世界を創造し司る神様(あるいは、仏様」の御名を称え、すべてをおまかせすれば、たちどころに(あるいは、来世において)必ず救われるのだ。」と説いたのです。

もちろん、本格的な宗教は存在の真実を説いただけでなく、個人としてどのように生きなければいけないかということも人々に説きました。

それが、たとえば、「隣人を愛せよ」とか「殺生をしてはいけない」などの戒律です。

そして、「それらの戒律をきちんと守らなければ、来世では地獄に落ちるぞ」と人々の生き方を戒(いまし)めたのです。

この「戒律を守らなければ地獄に落ちるぞ」という教えは最初は純粋な動機から説かれたのでしょうが、後に宗教が組織として大きくなるにしたがって、組織の権力を強めるための道具として大いに利用されるようにもなりました。

それはともかく、自己の本質が一元絶対の“いのち”であることに気がつくだけではダメなのです。

それを存在の基盤としながら、二元相対的世界において、どう生きていくのか、つまり、真実の生き方とは何かが問われなければならないのです。

(つづく)






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