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昇平

Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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“自分”を付けない

“自分”を付けない

この世界は唯一絶対の実体である“いのち”が現象として現れたものです。

ですから、この世界のあらゆるものは、いわば、“いのち”が刻々に描いている模様であり、それぞれのも個としての実体があるわけではありません。

もう少し詳しく言えば、この世界のあらゆるものは、それぞれ、いわば、“いのち”が刻々に描いている切り分けることのできない模様の一部をアタマで切り分けて取り出したようなものであり、それぞれのものは別々のものではなく、また、それぞれの実体があるわけではありません。

さらに言えば、この刻々に変化しながら切り分けられない模様はそれぞれの部分が常に互いに集合・離散・交流・循環しているので、そもそも固定した意味での部分もないのです。

本来、ただ、一つの全体があるだけで、部分もありません。見かけ上部分があるように見えるものも、一つの全体の刻々に変化する模様にすぎません。

この存在の真実を僕は“不可分一体“と表現しているのです。

人体がまさにその典型的な見本です。

例えば、本来、心臓、肺、胃、腸、骨、血管、血液、細胞などなど、それぞれ、もともと一つの受精卵が細胞分裂して見かけ上分化したものです。それぞれ別々のものが寄り集まって共同作業しているわけではありません。

しかも、それぞれの器官、組織、細胞は常に集合・離散・交流・循環しており、それぞれ一瞬も固定した別々の存在であるということはありません。それらは一つの人体の刻々に描いている模様のようなものです。

人体は小宇宙と呼ばれていますが、大宇宙も全く同じです。大宇宙という一つの全体があるだけで、その中にそれぞれのものは刻々に描かれている模様のようなもので、個としての実体ではなく、また、別々のものでもありません。

ほとんどの人は、例えば立つときに、「自分が立つ」というように、”他“と分離した“個”としての“自分”というレベルを付けて意識しています。

けれども、立つときは“立つ”という事実があるだけです。

立つときは“立つっきり”で、“ただ立つこと“が起きているだけです。

座るときは“座るっきり“で、ただ”座ること“が起きているだけです。

考えるときは”考えるっきり“で、ただ”考えること“が起きているだけです。

他と分離した“個”としての“自分”がないのです。

他と分離した“個”としての“誰々が”がないのです。

すべては一つの実体である“いのち”のハタラキですから、いちいち“自分”とか“誰々“というラベルが付かないのです。

それを僕は「すべてはただ起きている」と表現しています。それは個としての“自分”や”誰々“がないからです。

ただ一つの全体である“いのち”のハタラキがあるだけです。

一台の自動車がこちらに走ってくる場合は、“いのち”が(一台の自動車となって)こちらに走ってくるのです。

木の葉が落ちる場合には“いのち”が(木の葉となって)落ちるのです。

“いのち”は目に見えず、“個”を超越しているので、「“いのち”のハタラキだけがある」ということを僕は「ただ事実だけがある」と表現しています。






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