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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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事実の人となる  その2

事実の人となる  その2

光とか知恵とか、ともかく生かす力として働く、あらゆるよきものに満たされた世界にいる自分を見て「愛されている」と思いました。そして更に、この世界の実質が「愛」というものであろうと思いました。

愛の世界においては、自分の小さな力によるもがきやはからいには拘りなく、すべての事物がありのままに、しかし必然性をもって存在し展開しているのだと知りました。

自分はありのままを求めて彼岸に到ろうとして濁流を泳いでいたのでした。そして力尽き果てて濁流の底に巻き込まれたと観念したとき、濁流と思ったのは実は自分を支え生かしてくれるいのちの流れ、光の大河であったことに気づいたのでした。

それと同時に何か大きな意志のようなものを感ぜずにいられませんでした。すべてを生かさずにおかない意力とでもいうようなものでした。その量り知れない大きなカに生かされている自分を見たとき、今まで求めていた人生の意義など、もしそんなものがあるとしても、それはわれわれの理解を遙かに超えたものであることが分りました。

もしわれわれがたとえ自分の頭で納得できる人生観を描き得たとしても、それはただ自己満足をかち得たにすぎず、真実の自分の人生に何のプラスにもなり得るものではないことを知りました。

私はただただ、この量り知れない大きないのちの流れの中で、大きな意力にはからわれて生きるだけである。それがすべてである。その他に自らはからって加えるべき何物があるだろうか。

生きようとする一切の努力ともがきを停止しても、まだ生きている自分。一切の理解を抛棄してもなお明らかに認め得る活々としたこの世界のすがた。

ともかく、自分を含めたすべてのものが、無限の愛と知恵に護られ導かれていることを知ったとき、今まで押し潰されそうな重圧を感じていた「人生」という重荷が消えてなくなって、自分の体さえ春風に溶け去ってしまったように軽やかに爽やかになっていました。

今までは、自分でどうかしなければよくなれないと思って力んでいたのでした。自分の判断と意志のカで悪い生活をやめようとしていたのです。それはとても望なきことであると思いながらも、それより他に仕様がないので努力をやめることはできなかったのです。

これほど努力しようと心がけてさえこの有様なのだから、ほっておいたらどんなことになるか知れたものではない、などと思っていました。しかし、この努力は丁度自分が坐っている坐蒲団を自分で持ち上げようとするのと同じで、どんなに頑張っても一寸も上がらず、そのうちに精根尽き果てて倒れてしまうようなものでした。

また、小さいときから私は「感謝せよ」とうるさく教えられました。(中略)が、私はどうしてもその気になれなかったのです。

ところが三日問も泣いているうちに一切のものに対していくら感謝してもしきれない、詫びても詫びきれない気持になっているのには驚きました。(中略)

自分がこのようないのちの世界に、このようにある、という事実に対するありがたさと、それを知らずに勝手に目茶苦茶なことをしてきたことに対する悔恨の念だというのが事実に近いかもしれません。
(つづく)




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