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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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事実の人となる  その3

事実の人となる  その3

それから、今までは愛されたい、理解されたいとそれのみ求めていました。ところが物質を貪るのが間違いであるのと同じく、愛や理解を他に求めることは心を貪ることで、それも、間違いであることを知りました。物でも心でも欲張ることはどんなに愚かしいことであるかをこのときはじめて知りました。

また、それまでは淋しい淋しいと自分の淋しさばかりみつめて、他から愛されることばかり求めていましたが、眼を放ってみれば淋しいのは自分ばかりではない。すべての人は皆同じように淋しいのである。

だから人間は誰も彼も自分のように愛と理解に飢えているに違いない。お互い限りなく淋しい人間同志が、もし少しでも慰め合えたならどんなに幸せだろう。飢え渇く砂漠の旅行者のために自分がもし一滴の水となり得るならば、どんなに幸せなことだろうと思いました。

そう思うと、淋しさは忽ち変じて明るい希望となり喜びとなりました。淋しさの故に、人を愛することができる。なんという有難いことでしょう。

淋しいといえば父も淋しい人である。気の毒な人である。神や仏ではない、弱い欠点だらけの当り前の人にすぎない。それを、自分は神に求むる如くに父に完全を求め、これを責めてきた。

父ばかりではなく、先生やその他一般の大人に対しても同じであった。しかもその求むるところは自分の我儘な欲望の満足である。我欲に厩理屈をつけて正しいものとして強要したのである。

他を責める資格が自分のどこにあるか。己れの愚痴と食欲によって自らを餓鬼畜生道に堕としていたのではないか。

父をはじめすべての人は、皆一個の人間としてそれぞれどうにもならぬ欠点を持ちながら淋しい人生を精いっぱい生きているのだ。それらの人々をどうして心から愛さずにいられようか、と強く強く胸に迫って思いました。

このとき私は、はじめて独立の一個の人間“大人”になったのだと思います。

この他、無数のことをこの三日間に思ったのですが後で考えてみると、このときに私の心の向きが真反対に変ったようです。有無、確不確、損得。いろいろの感じ方や考え方が完全に反対になってしまいました。

このことがあったのは昭和九年四月二日でしたが、この日を境にして、私の日常生活もすっかり変りました。勿論変ったといっても急に神の如くに立派な生活になったというのではありません。

ただ方向が逆転したというだけです。自分のために、自分の力で、すべて自分を中心として生きてきたのが、こんどは自分の力やはからいでなく、すべてこの世界に満ち満ちている愛と知恵に生かされて生きることになってしまいました。

そしてこの変化は実際生活の上では世のため、人のためという意識となって表われることになりました。丁度東行きの汽車から西行きの汽車に乗り換えたようなものです。東行きの汽車に乗っていれば、汽車の中でいくら西に向って歩いても東へ行ってしまいますが、西行きに乗り換えたらその中でどちらに向いて歩いても結局西へ行ってしまうようなものです。

(後略)
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