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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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左と右の世界  その4

左と右の世界  その4

これまで述べてきた左側の世界と右側の世界は様々な言葉で表現することができます。

左側の世界は本来の事実の世界、五感を超えて直感的に捉えた世界。一元絶対の世界。不可分一体の世界、一つの“いのち”の世界、などなど。

右側の世界はアタマで妄想した世界。見かけ上の世界。二元相対の世界。バラバラの“個”の集合した世界、などなど。

さらに、左側の世界と右側の世界のそれぞれの特性のようなものを列記してみましょう。

左側の世界では自分という“個”はない。すなわち、実体を持った“個”は存在しない。みんな一つ(これはいくつもある中の一つではない)。“いのち”という“全体“だけがある。実体を持つのは“いのち”だけである。

一つしかないので比較するものがない。したがって、たとえば、大小、長短、寒暑、明暗、生死、考えや行いの正誤、幸福と不幸、戦争と平和、効率的―非効率的、分かりやすいー分かりにくい、などもない。

また、当然、それぞれの人間がアタマの妄想で勝手に作り出した物差しで規定した優劣、所有、差別、考えや行いの善悪、美醜、などもない。

右側の世界では自分という“個”がある。実体を持った“個”がたくさん存在する。(部分的な繋がりがある場合もあるが)基本的には、別の実体としてみんなバラバラで切り離されている。自他の区別がある。

そして、実体を持った“個”が数多く存在するという前提の下に、いわば、“物理的に”捉えた事実に即して複数の“個”の間に比較が生まれる。したがって、たとえば、大小、長短、寒暑、明暗、生死、考えや行いの正誤、幸福と不幸、戦争と平和、効率的―非効率的、分かりやすいー分かりにくい、などは“一応存在すると言うことができる”。

けれども、複数間の“物理的な”比較によるのではなく、それぞれの人間がアタマの妄想で勝手に作り出したモノサシによって規定する優劣、所有、差別、考えや行いの善悪、美醜、などは右側の世界にももともと存在しない。

このように、私たちの本来の世界である左側の世界には生死はもちろん、右側の世界の物理的な比較も、アタマの妄想で勝手に作り出したモノサシによる比較も一切ないので、いかなる比較をも超越した、絶対安心の世界なのです。

ここで、「本来の世界」と書きましたが、この世界こそが本来の“自分”なのですから、「本来の自分はすべての比較を超越した絶対安心の存在である」ということです。

このように、左側の世界と右側の世界について説明してきたのですが、本当は一つの世界しかないのであり、左右の二つの世界があるわけではありません。

ただ、人間はアタマを持っているために二重構造的に生きざるを得ないので、このような説明の仕方になってしまうのです。

そういう意味で、本来の世界(あるいは、自分)を基盤として、その上にアタマによる見かけ上の世界(あるいは、自分)が上下にオーバーラップしている重層構造的イメージがより事実に近い感じがします。

あるいは、本来の世界(自己)の中に見かけ上の世界(自己)が包まれているイメージでもよいかもしれません。

(つづく)





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