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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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人類進化と文明の進歩 その1

人類進化と文明の進歩 その1

 現代の人類が直面している諸問題の根本原因を解明するためには、人類の歴史を概観し、人類がこれまでどのように生きてきたかということを知るということは大変重要な視点です。それと同じように、人類がここまでどのように進化してきたのか? 今後どのように進化していくのか? 人類はどこから来て、どこへ向かうのか?ということは、人類の諸問題の根本原因を解明し、世界の平和を実現するためにも、またさらに、人類が新たな文明を切り開いていくためにも非常に重要なテーマです。

 動物と人間との違いは、道具を使うかどうか? 言語を使えるかどうか? 二足歩行であるかどうか? などいろいろな観点から説明されているようです。それぞれの観点にはそれなりの意味があると思いますが、動物と人間の決定的な違いは、本能による全面的な支配を受けているかどうか? ということだと思います。つまり、動物はほとんどすべて本能にしたがって生きています。本能は、何十万年、何百万年、何千万年、さらに、何十億年の進化の歴史を通じて、無限回とも言える試行錯誤により、生き残りと繁栄のための成功体験を積み重ねて、遺伝的に獲得してきた最高の能力です。

したがって、本能にしたがって行動し生活すれば、すべての行動や生活が自然の法則に沿った調和したものになります。例えば、体の働きが異常になることもないのです。野生の動物には、生活習慣病と呼ばれるような病気はありません。それは野生の動物が自然の法則にしたがって生きているからです。

それに対して、人間は本能による全面的な支配を受けてはいません。もちろん、人間も生物的な身体を持った動物であることには間違いありません。ですから、身体的な機能そのものは自然の法則に従って働いています。ところが、人間の具体的な行動は、必ずしも本能によって規定されているわけではありません。人間は動物と違い、ほとんど大脳の働きによって、思考し判断して、行動を決定するからです。

 本能に従って行動し生きていくのが動物だとするならば、見方によっては、人間はその本能の仕組みが「狂って」しまっていると言うこともできるかもしれません。つまり、人間は「狂ったサル」であるというわけです。「狂った」という表現が適当であるかどうかは別として、もし、「自由」とは、物理的、あるいは動物的な規定から逃れているという意味であるとすれば、人間は「狂った」おかげで、「自由を得た」ということも可能でしょう。つまり、人間は大脳の働きによって、意思による選択を行う「自由」を持った存在だということもできます。しかしながら、その「自由な意思」により選択を行いながら生きていくことによって作られていく世界は「良くも悪くも」必ずしも自然の法則に沿わない、つまり調和していない世界として現れてくるのです。

 ダーウインは、進化の原理は生存価値の追求、つまり、「如何に安全な生存に役に立つ仕組みを作るか?を追求することにある」としています。その点、動物は無限回の成功体験の集積のエッセンスである本能だけに従って、自然の法則に沿い自然環境や仲間同士とも調和した生き方をしているのですから、最も安全な生き方をしているということになります。

一方、人間は、本能に頼らず、知能によって思考し行動を選択していくのですから、当然、しばしば自然の法則からはずれます。その結果、人と人が争ったり、自然を破壊したりというように、自らの生存自体をも脅かしかねない不安定な生き方をすることになります。ということは、本能に従って生きる動物の方が高い知能を持つ人間より高等であるということになります。人間は他の動物には見られない桁違いに高い知能に加え、豊かな意識や感情を持っていますが、それらは、場合によっては、生存価値の追求に寄与するどころか、生存そのものを脅かしかねない一面を持っています。こうなると、やはり、サルの方が人間よりよっぽど高等であり、人間は「狂ったサル」ということになるのでしょうか? 人間の作り上げてきた世界には、今日に至るまで、苦しみや争いが絶えず、その結果、今日私たち人類がその生存そのものが危ぶまれるような状況に至ったのはやはり人間が「狂ったサル」だからなのでしょうか? 

 もし、人間が本当に「狂ったサル」であれば、互いに争い、自他の苦しみを作り、いろいろな間違いを犯し、母なる自然を破壊して、ついには自ら滅びていくことこそ当然のことと言わなければなりません。自然の法則に外れれば、外れた結果になるのが「自然の法則」なのですから・・・。だとすれば、こういう状況に直面しても、何を考えても、何をしても無駄ということになります。しかしながら、私は、高い知能や豊かな意識や感情を持った人間を「狂ったサル」と見るのでなく、やはり、人間は「進化したサル」だと思うのです。その最も大きな根拠は、自分だけでなく、多くの人々が「何とかして、争い、苦しみ、間違いをなくしたい。自然と調和していきたい。人類が滅びるのを防ぎたい」と思っているからです。

ところで、人間が「進化したサル」であるとすると、ダーウインの進化の原理そのものを見直す必要が出てきます。大自然が指向している進化の目標が「生存」ということであれば、しばしば間違いを起こす人類よりも昆虫の方が優れているし、昆虫よりバクテリアの方がもっと優れているので、生命は、単細胞生物から多細胞生物になったり、さらに、複雑な組織や器官を備えた動物などになる必要はなかったということになります。ところが、実際には、生物は、単細胞生物から多細胞生物へ、単純な構造の動物から複雑な組織や器官を備えた動物へと変化してきたのです。この変化を生命が「狂った」結果だと言うことは理屈ではできるかもしれませんが、よりよく生きたいと心から願う生身の私たちとしては、やはり、進化の原理とは何か?とあらためて考え直さなければならないと思います。

 すなわち、人間を「進化したサル」だとすれば、何のために、自然の法則からそれた選択をし、争いを起こしたり、自他を苦しめたり、いろいろな間違いを犯すのでしょうか? そこには何か深い意味があるはずなのです。





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