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Author:昇平
「いのちの塾」へようこそ!

僕は普段は標高650メートルの山の中に家族と仲間そしてネコ10匹と一緒に生活しています。

そして、その合間に日本やヨーロッパの各地で「本当の自分は?」「本当の平和を実現するには?」などをテーマに講演をしたりセミナーを主宰しています。

このブログでは、僕が体験的に捉えた人生やこの世界の真実について書いていきます。

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1本の花  その2

1本の花  その2

フランスの作家サン・テクジュペリが書いた『星の王子さま』のなかに、次のような一節があります。

「いま、こうして目の前に見ているのは、人間の外がわだけだ、一ばんたいせつなものは、目に見えないのだ・・・」

そうなのです。例えば、氷山は、実は、海の上に見えているのは全体の1割にすぎず、残りの9割は海面下にあって、海の上からは見えていません。海の上に見えている姿をもって、氷山全体の在り方を捉えているとは言えないのです。

多くの人はこの世界のいろいろな事物を認識しようとするときに、視覚などの五感で捉えたものだけが真実であると思っています。けれども、そうして捉えたものは存在の真実の一部、より正確に言えば、極小の断片でしかありません。

例えば、一輪の花は目に見える範囲では葉や茎や根と共に他と分離したただ1本の花であるように見えているのですが、それはあくまで目に見える範囲でのことです。よくよく検べてみると、事実は、その花は、目には見えませんが、この世界のすべてと繋がり、天地一杯のいのちを生きていることがわかります。

ところで、「群盲象を撫(な)でる」ということわざがあります。その意味は、多くの盲人が象をなでて、自分の手に触れた部分だけの認識を持って、「象というものはこういうものだ」と意見を言う、という意味です。そういうことから、このことわざは「凡人は大きなもの、あるいは、ものごとの一部しか理解できない。そして、その一部を持って全体を認識した気になっている」というたとえとして使われます。

このことわざは、自分では「ちゃんと見ている」と思っているが、本当に見ているのか?と私たちに警告してくれています。

というのは、1本のバラの花を見るにしても、その花を直(じか)に見ているのではなく、たとえば、「バラというのは豪華で美しい花である」というような分類や比較や評価などの規定で作った「思いのメガネ」を通して見て、「この花は豪華で美しい」などと言っている人がとても多いからです。

けれども、その花は人間がアタマによって作りあげたあらゆる分類や比較や評価などの規定以前に、あるがままで完結して厳然と存在しています。

多くの人はある実物について思いによって規定したもの、つまり、「ラベル」を貼って、それを実物そのものであると錯覚しているのです。これは大きな間違いです。

ラベルは実物ではありません!

すべての存在(生命の実物)は、“自分がどう思っても、思わなくても”、天地一杯のいのちを生きており、本来あるがままで完結して厳然として存在しています。

「そう言われても、アタマでは分かるのだけれども、どうも実感が湧かない」という人もいるでしょう。それは当然です。存在の真実は五感を超えているのですから。

でも、心配することはありません。

まずは知的にこの存在の真実をはっきりと理解して、その真実に決定(けつじょう)して日々生きていくことです。

そして、できるだけ、自然に接するように心がけていれば、必ずや、その内にこの真実を五感を超えたところではっきりと実感できる時がくるでしょう。





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